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詐欺師と箱庭
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しおりを挟む錆が浮き出た手摺の感触がリアルで、撫でた手のひらに薄っすらと黒い滓が付いた。
どろりと何かが溶け出したような空気───自分の肌もそれに侵食されている気がして手をやるが、頰は乾いたままだった。手のひらから鉄に似た血の匂いが、した。
ふと、気配を感じて振り向くと───どうして気付かなかったんだろう、自分のニ、三段上の踊り場に人影があった。二つの黒い人影。ひとがいるというのは分かるのに、こんなに近くにいるはずなのに、その輪郭はどこか曖昧で、見えているはずのものが上手く脳まで伝わらない。男なのか女なのかも分からない。
ちらりと、一人の横顔が見えた───こちらにほとんど背中を向けている人影。記憶に残る制服と、幼さをまだ残した少年。ようやく、それが誰なのかを知る。
ニノ コウ
ああ、これは夢なのだとその時漸く理解した。私は夢を見ている。あの日あの時自分は家で眠っていて───彼もまた、幼さを残した少年のままであるわけがなくて───だからこれは、夢なのだと。
向かい合う相手の顔は、ニノ コウの陰になって窺えない。私がわたしの中で仕立て上げた犯人は、果たして誰だ?
(待って───これって)
もしこの夢が本当にあの日あの時なら。
このあとに起こることは。
ニノ コウがスマートフォンを取り出す。操作し、耳に当てて、
(やめっ───)
声は、出なかった。
ニノ コウの背後にいる人物が、ゆっくりと手をのばし、そして、
「───っ」
思い切り突き飛ばされて───私に向かって、落下してくる少年。
言葉にならない。声が出ない。咄嗟に腕を広げて受け止めようとして、彼の体が私の体をすり抜けた。まるで私の体が幽体であるかのように素通りし、何度も何度も段差に頭を身体を打ち付け、未完成な手足は柵を掴むことすら叶わず、
がっ……鈍い音を立てて、階下の踊り場で、その体が力なく止まる。
静止は、一瞬。
全ての呼吸を奪われたまま、私もほとんど落下するように階段を駆け下り、彼の頭を抱き上げた───抱き上げ、ようとした。
何度も何度もすり抜ける自分の指先を八つ当たりするように金板に叩きつけ、違う、違うと必死に声にならない言葉で叫びながら彼に触れようともがく。
違う。違う。違う。こんなこと望んでなかった。こんなことを望んだことはなかった。違う。お願い、やめて───
くすっ、と、笑い声が聞こえた。───上から。
愕然としながら見上げると───突き落とした踊り場から一歩も動かず、こちらを見下ろす人影が、
笑っていた。くすくすくすくす───笑っていた。
顔が見える。遮るものはなにもなく、今度こそ、顔が見える。
「じゃあ、助けてあげればよかったのに」
そう言って、血まみれの手でこちらを指差す彼女の顔は自分と瓜二つで、
見下ろした自分の手もまた酷く、真っ赤に染まっていた。
「───ッ!」
ほとんど悲鳴のように大きく呼吸をして、そしてようやく、自分が息を止めていたことに気付いた。
じんわりとした暗闇に沈む、見慣れた天井───自分の部屋。じっとりと嫌な汗が滲んだ寝間着の下は慣れた感触のベッドで、自分はそれに横たわって荒く息を吐いていて───落ち着け、落ち着け。
夢だ。
「……」
少しずつ呼吸が落ち着いていき、それを確かめるように首筋に恐る恐る手をやると、汗が滲んだ肌が冷たい手のひらにぴっとりとくっついた。自分の手なのに、まるでそれは人肌を乞うようだった。
ふーっと、深く息を吐く。ようやく少し落ち着いた。手探りでスマートフォンを手繰りホームボタンを押すと午前二時二十分過ぎ。奇しくもニノ コウの着信があった時間とほぼ同時刻だった。何の因果なのか、これは。
酷く汗をかいていることに気付いた。このままだと体を冷やす。適当な部屋着を見繕い、それを手に下には降りた。洗面器に熱いお湯をはり、タオルを絞る。脱衣所で一度全て服を脱いで体を拭いた。手早く済ませ乾いた衣服を纏い、ほっと息を吐く。脱いだ服を洗濯機の中に入れた。
ぺたぺたと裸足でリビングに戻るとぱっと明かりが付いた。少し驚いて顔を上げると、ちょうどともりが階段から降りてくるところだった。
「あ、ごめん、起こしちゃった」
「ううん。なんとなく寝付けなかっただけだから。熱は?」
答える前に歩み寄られ、先ほどとと同じように額を付けられた。違和感なく寄り添ってくれる存在に酷く安堵する。ふっと、力が抜けた。
「みーさん?」
「え?」
「どうしたの」
「え……ううん、別に」
「そう。……熱は下がったみたいだね。だるさは?」
「ほとんどない。ちょっと疲れてるけど」
「そっか。……お茶飲まない? のど乾いた」
「ありがたいな」
真夜中のティータイム。お茶菓子は流石にないけれど。
手際よく淹れてくれたお茶のやわらかい匂いに誘われて、まだ熱くて飲めないマグカップを両手で包む。熱い。熱さを通り越して、手のひらが痛い。
そこにはもちろん、鉄屑は付いていない。血のような錆の匂いも、赤く本物の血のにおいも。それでも手のひらはなかなかあたたまらず、ただ冷たい手で熱いマグカップを握っているだけだった。
ソファーの上に足を上げ、抱え込むようにして座る。マグカップの縁をじっと見つめ、しばらくそのままじっとしていた。
思考回路が沈んでゆく。
「みーさん」
「え?」
「眺めるもんじゃないよ。飲まなきゃ」
「あ……うん、ごめん」
そうだね、と小さく呟いて一口紅茶を含む。あたたかさがゆっくりと胃の中に落ちていくのが分かった。ともりが横に座り、彼もまた同じようにして紅茶を飲む。カップと手のひらが擦れる小さな音しかしない。───こういう時間がいつかかけがえのないものになることは、よく分かっていた。
「……おいしい」
ぽつりと落とすと、ありがと、とともりが笑った。
「みーさんのために淹れたから」
「そっか。そりゃおいしいに決まってるね。……ありがとう」
「いーえ。ねえみーさん」
「ん?」
「落ち着いた?」
「うん」
「体調もあらかた大丈夫なんだよね?」
「ん? うん」
「そっか。じゃあ」
す、と、まだ多く中身の残ったマグカップを手から抜かれる。え? と思う間もなくともりはそれをローテーブルに置くと、こちらに向かってにっこりと笑って、
「じゃあ遠慮なく」
軽く私の両手を掴むと、ぱたん、と、ソファーに押し倒した。……私を。そのまま馬乗りになり、私を見下ろす形で、それはそれはきれいな笑顔で、
「はい捕まえた」
……楽しそうだな、とどこかうらやましく思った。
「って、えぇ……と?」
あっさりと押し倒されてしまったけれど、これはあれだ、一応抵抗した方がいいのかと思いばったばったと無様に動こうとした。
「あ、じっとしててね。前と違って何もしないから。ただみーさん、最近どうも逃げ気味でしょう。きちんとお話してください。これは逃げ出さないための手段です」
「ああそう……」
「……みーさんそうやって、ああそう、じゃあなんかもう仕方ないな……てあきらめるの、やめてね。俺以外には。全力で抵抗してね」
「いや、ともり以外のひとはこんなことしませんからねえ……」
「どうかな。油断も隙もあったもんじゃないからこっちも大変なんだけど、まあそれはおいおいきっちりと教え込むとして、」
さらりと恐ろしいことを言って、こきりと小首を傾げた。
「今日誰と会ってきたの?」
……ばれている。横になっているはずなのにくらりと眩暈がした。
「いや、別に───」
「誤魔化すのやめてねー。みーさん。ちゃんと、答えて」
言葉に詰まった。ともりの黒曜の眸が、なんの混ざり気もない視線が、真っ直ぐに落とされていた。
この恐ろしく美しく、畏怖を覚えるほど真っ直ぐなかつての少年を昔糾弾した彼らに敬服する。いくら無知であろうと、いくら愚かであろうと───真実をそのまま飲み込む彼の眼を前にして、よくも恐れずに断罪出来たものだ。わたしには出来ない。
「みーさん」
ゆっくりと降りてきた唇が、耳元で囁いた。
「───答えて」
一度目を閉じて頭を整理する───あきらめた。
「フルミ ナオミさん。───フルミ ナオキの妹だよ」
「フルミ ナオミ? ナオキ?」
そう、ともりはまだフルミのことも知らない───一から説明すると、身を引いてまたこちらを見下ろす体勢になったともりは口を挟まずそれを聞いた。居酒屋での話、そのあとの視線はナオミがつけていた見張りのものであること、朝のゴスロリの襲来、喫茶店での会話。マンションの部屋に入り、そして、
そこで一度言葉を止める。無意識のうちにまた止めていた息をふっと吐くと、違和感を感じたのかともりが再び顔を寄せた。至近距離でまた目が合う。
「……みーさん?」
「……ともり、手を放してくれる? 片方だけでいいから」
「ん、」
軽く押さえ付けられていた左手が開放される。そのまま、ともりの手のひらと合わせた。力をもらうようにきゅ、と握る。するとともりが右手も放し、今度はともりから左手と同じように手を握られた。
「……箱庭が、あった。……事故現場の再現の」
生々しく思い出したのは、あの箱庭ではなく先ほどと自分が見た夢だった。自分で勝手に見て、自分で勝手に怯えている。生産性のある馬鹿のようだ。
「……それで体調崩したんだね。でも、今は?」
あやすようにともりが笑いかけた。
「今は、どうして?」
言ってごらん。やさしく促されて、誰かに掴まれていた心臓が少しずつやわらかくなっていく。繋いだ手の指先が少しずつあたたかさを取り戻していく。
「夢を見た。犯行現場の……ニノ コウはまだ高校生で」
大人になった彼を見たことがない。高校生だった彼のことも、きちんと真正面から見たのは数える程だ。
「突き飛ばされて落ちていったニノ コウを受け止めようとしたんだけど体が擦り抜けていって」
落下していくニノ コウ。ぶるりと震えると宥めるようにともりが手を握る。
「抱き上げようとしても触れられなくて、突き飛ばした犯人がそれを見て笑ってて、その顔を見たら、」
その顔は、
嘲笑うように笑っていたのは───
「───わたし、だった。助けてあげればよかったのにって、そう言ってた」
沈黙。ただ、居心地が悪いわけではない。
言い終えたことに安堵を覚えながら息を吐くと、こつん、と額と額が触れる。
「加害者を積極的に止めなかった奴とサシで飲みとかゴスロリ襲来の時になんで俺を呼ばない起こさないのとか乗り込む時は俺も呼んでとか色々思うところはあるけど」
「危険だったらどうするの」
「俺にだって言えるよ、その言葉は」
「……それでも。巻き込むわけにはいかないんだよ。特に今回みたいなケースは」
「嫌だ」
「っ、……巻き込む、ために。一緒に住んでるんじゃないの。分かるよね?」
……落ち着け。必死で自分に言い聞かす。
ともりの手を握る手が小さく震え、どんどん温度を失っていくのが自分でも分かった。きっとともりも分かっているはずだ。
冷静になれ。言いたいことを言ってもしょうがない……伝えたいことを分かってもらえなければ、意味がない。
「分かってるけど。悪いとは思ってるけど。……でも」
ともりが視線を落とす。ともりの眼が、十月の雨の日のような透き通った色になる。
「みーさんがこれ以上、少しでも損なわれるのなら、俺はみーさんの心を無視してでもそれを回避したい。分かってると思うけど、みーさんが本当の意味でいなくなるのなら、俺は生きていけない」
ふっと、息が止まった。
指先が少しずつあたたかさを思い出してゆく。凍った水面を、水底から見上げてその上にある日差しのあたたかさを掠め感じて行くように、ゆっくりと飲み込んでゆく。
「……ごめ……」
そうだ。
まず最初に───やるべきことが、あったのに。
最初に警察が来た時に、ともりに連絡すべきだった。帰って来てから伝えようと───伝えようと、していたか? もし隠せるのならば隠したままでいたいと、そう思っていなかったか? 襲われた時、たまたまともりが来てくれなければ、ばれるまで黙っていなかったか? 隠し通すために嘘を重ねる努力をきっと、したんじゃないか?
それは───自分のことを本当に大切にしてくれる、心を全部くれる、好きでいてくれるひとに対して───どういう、行為になる?
まず最初にすべきことは、全てを伝えることで、
そして次にすることは───
「……ありがとう、ともり」
触れるほど近くにある黒曜の瞳を見つめた。
「心配してくれて、本当、ほんとうに、うれしい。こんなこと言ってる場合じゃないんだろうけど……でも、うれしいよ。ありがとう。それから、すぐに言わなくてごめんなさい」
ともりが少しだけ泣き出しそうな顔で微笑った。うん、と呟くように言葉を落とし、眼を閉じて握った手にすり、と頬を寄せる。甘えるようにそのまま額をこちらの首筋につけた彼の頭をもう片方の手でそっと抱きしめる。
───彼を失いたくなかった。
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