マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と箱庭

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 ディアム・スコット。
 ディー。
 滅茶苦茶な愛称。普通はそうは呼ばれない、らしい。
 だけど彼がそう呼んでいたから。元々ディーは、わたしではなく彼の友達だったから。
 彼がいたから、わたしもディーとも知り合えたから。
 ディー。国際弁護士。兄のような人。ともりの件でやんわりと一悶着あった時、助けになってくれたひと。
 自分自身の辛さを推して、やって来たひと。
 ───彼はもういないんだと伝えに来た、わたしと同じ、遺されたひと。



「ものすごくいろいろあったみたいだね。今は聞かないけど……ともりはもう家にいる?」
「この時間なら、たぶん……というよりいつから日本に……ああ、違うな」
 のろのろと頭が回転して答えを導き出す。支えられたままゆっくりと歩きながら、ディーの横顔を見上げた。
「ともりが連絡したんでしょう? それで来てくれたの?」
「他ならぬ弟分のお願いだからね。しかも大事な君の危機だ」
 変わらない笑顔を向けられて、何だか胸が苦しくなった。───何も変わらない癖に、
彼だけがいない。彼の不在に、これだけ時間が経っても、まだ慣れない。
タクシーを拾おうと立ち止まったディーの横顔を見上げて黙っていると、視線に気付い
たのかディーがにこりと更に笑った。
「心配しないで。君を護る立場をあいつは俺には譲らないだろうけど、手助けくらいは
出来るから」
「……そういう、意味じゃないよ」
 居心地悪く視線を逸らした。タクシーを拾う前、ともりと会う前に話しておかないとい
けないことは、
「ぶつかったでしょ? 喫茶店で。……助かったよ、ありがとう」
「……僕は手帳を見るくらいかな、と思ったんだけどね」
 困った顔をしながら国際弁護士は答えた。
「仕事柄犯罪行為の手助けは出来ない」
「たまたまぶつかったんだから、仕方ないよ。その先は私の判断」
「……何を見たの? あの部屋で」
 静かな問いに胃の奥から苦く喉を焼き付ける酸味が競り上がって来た。必死で堪えて、
まぶたに焼き付いたそれをいがらっぽくなった言葉に乗せる。
「……ジオラマの箱庭。中に、ひとがひとり倒れてて……」
 生々しく付けられた赤の跡。階段に頭を打ち付けながら転げ落ちたのだろうと、見るも
のに自然とその光景を彷彿とさせる。
「……事件現場を再現しているみたいだった。あれは、普通じゃない」
 ディーが言葉を飲み込んだのが分かった。それからゆっくりと、彼が言葉を選ぶ。
「……彼女が犯人だと?」
「分からない。けど……」
「けど?」
「……分かんないや」
 深く深く、ディーは溜め息を吐いた。
「……君の判断が形振り構わない手段だったことが僕の想像を超えていたよ。重要参考
人になったとは聞いていたけれど、君がその人を落としたんじゃないのなら黙って何もし
なければいいんじゃなかったの? 君には無関係な家の騒動の可能性が高い。しかも、君
を虐めていた相手だ」
 ごもっともな指摘にどう答えようか迷う。後部座席を空にしたタクシーがウィンカーを出しながら滑るように近付いて来て、タイムアップへの残りを刻む。
「……死んでほしいなんて思ったことは一度もなかったんだよ」
 呟く。しっかりと聞こえただろうけれど、ディーはこちらを見ただけで何も言わなかった。



 玄関先にディーと並んで現れると、ともりは流石に少し驚いたのか目を丸くした。
「え、師匠もう来てくれたんだ」
「他ならぬ弟分の願いで、大事なこの子の危機だ。僕が躊躇すると?」
「それもそうか」
「そこで納得しないで……あれ、ディー、仕事は? 大丈夫なの?」
「俺が電話で事情説明したらこのひと何て答えたと思う?」
「なんて答えたの?」
「『よし任せろすぐ行く』」
「力強いし心強いけど、仕事は? 本当に大丈夫?」
 違った意味で少し疲れながら靴を脱ぐ。来客とはいえディーにはスリッパは出さない。以前「日本のこの靴下で家の中を歩き回れる開放感が好きなんだ!」と輝く笑顔で言い切られ使用してもらえなかったからだ。
「俺お茶淹れるよ。師匠リクエストある?」
「ほうじ茶を頼むよ」
「りょーかい。みーさんもそれでいい?」
「うん、ありがと」
 口をゆすごうと洗面所に向かう。胃の中は空っぽだったし、今は砂糖やミルクの入った何かを口に入れたくはなかった。
 明かりの消えている仄暗い洗面所、外の外光をすりガラス越しに鈍く取り入れ、白い光がモノクロ映画のように自分を照らす。鏡にそう写る。
 酷く疲れて見えた。あれだけ嘔吐したのだ、体力的にも精神的にも削られた。仕方がない。解決すればいい。問題をひとつひとつ、挙げていって───
(考えが甘かった。……ニノ コウが今目を醒ましても、きっと何も解決しない)
 警察はそれを望んでいるかもしれないけれど、根本的には何も。だってこれは心の問題だ。
「あー、そうだ警察……」
 忘れていた。ともりになんて言い訳をしよう? 渋面を作りながら歯を磨いて、顔を洗った。
 上手い言い訳の見つからないままリビングに戻ると、隣接した畳の部屋で満足そうに正座をするディーと、机越しに座る不機嫌そうなともりがいた。私が畳に足を乗せるとその顔のままこちらを見やる。
「警察行かなかったの? みーさん」
「あー、うん」
「そんなこともあろうかと権力者の師匠を召喚したのに……」
「権力者て……」
 ともりはディーのことを師匠と呼ぶ。それはかつて、ともりがともりの家族との問題を解決する時にディーの力を借りたから。ともりの中で最大級の恩と感謝を込めて、師匠と呼ぶ。ディーはそれを笑って受け入れて、弟分だと国を超えてかわいがる。傍から見ていると信頼し合っている兄弟そのもので、そんな二人の近くにいるのはとても気分が良かった。
「途中で具合が悪くなってね、ディーに助けてもらったんだ」
 近からずも遠からずな答えを返すと、ともりがずいと近付いて額を合わせた。至近距離で黒曜石のような眸と向き合っていると、時間の流れが酷くゆるやかになった気がした。
「……少し熱がある。朝は微熱だったのに。病院に行く?」
「ううん、大丈夫。薬まだあるし。……それより疲れたから、家にいる」
「そっか」
 すっと、ともりの熱が離れる。ふう、と小さく息を吐いた。
「通常営業中悪いけど、君たち」
 ディーが満面の笑みで言った。
「対策を練ろうか」
「……そうね」
 熱に侵略されかけていた脳が段々と冷たさを思い出して来る。通常営業? これが? どうにもおかしいというか絶対におかしい。
「……しっかりしよう」
「みーさん?」
「いやなんでも……」
 対策。対策。
 何をどうしたら、一番解答に近付ける?
「……犯人を確定させる」
「それは危険だよ?」
 さらりとディーが笑うように流した。それでもはいそうですよねとは引き下がれない。
「さっきも言ったけど、ニノ コウに死ねばいいとまで思ったことはない。誰がやったか明らかにさせるし、それに」
 身体中に出来た痣を思い出す。まだ青黒く残る、暴力の明確な足跡。
「たぶん、犯人は私のことも邪魔に思ってる。……そう来るなら、私だって犯人のことが邪魔だよ」






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