マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と箱庭

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 ……からん、という氷の溶ける音が、自分と相手の間で居場所なく鳴った。手が付けられてもいない水の入ったグラスからだった。
 心中でこっそりと溜め息を吐く。無駄な時間だったとは言えない。けれど、どう有効活用していいのか分からない時間ではあった。余計な問題は発覚するし。
「……少し話が変わりますけど、ニノ コウの容態は……」
「相変わらず、変化はありません。呼びかけにも反応しないで、意識は戻っていません」
「……そうですか。……あの、当主って今、どうなってるんですか?」
「え……」
 ぱちくりと眼鏡の奥の目が瞬いた。意外だとでもいうように。
「興味が、おありで?」
「いやあ、流石にここまで巻き込まれると」
「……それもそうですね」
 それで納得するの? と思ったが、フルミ ナオミはううん、とひとつ考えて見せ、「どこまでご存知ですか?」と逆に訊いて来た。
「高校の時の噂だと、あの当時のニノ コウは次期当主の立場で、お母さんが代理の当主を中継ぎでやられているって話でしたね。お家が大きいから……資産家で、病院経営もされているから。当主という立場自体がとても大事なものらしい、ということくらいですかね」
「それで合っています。当主の子供の、特別事情がなければ一番最初の子供が代々当主になります。……なっていました、今までは」
「子供が出来ない場合は?」
「……当主に近しいニノの誰かか、フルミの誰かを養子にしていたようですよ。本家も分家も同じ敷地内に住んでいるので、そもそも子供が出来なければその時点で養子の目安は立てられます」
 ということはあれか。何年後とか期限を決めて、その間に当主の下に子供が出来なければ目を着けていた身内の誰かの子供を養子にしていたということか。……あまりいい話に聞こえないのは、時代の変化なのか自分の価値観なのか。
「近代の正式な当主は、コウさんのお父さまでした」
「……亡くなったあとは、お母さまが?」
「亡くなっているのはご存知だったんですね」
「噂で」
「……当主代理とは言っても、当主の血を継いでいるわけでも養子であるわけでもありません。あくまでも奥方で、あくまでも代理で中継ぎです。ですから、コウさんが当主を引き継ぐことが決まっています」
「ニノ コウは今二十三、四ですよね。それでもまだ次期当主だったんですか?」
 何となく、そういうのは成人したら継ぐもののような気がした。いやでも現代、二十歳とは言っても大学生だ。学生に当主をやらせたりはしない、か?
「コウさんは医大に行かれたので、大学生活が六年あります。お仕事もひとの命に関わることなので、お医者様になられて少し落ち着いたら、ということになっていました」
「比較的融通が利いていたんですね」
 まあ、健康な男性が既に当主になることを吞んでいて、きちんとした婚約者もいて、手につけようとしている仕事も家の仕事にそぐった立派なもので───となったら、そう焦る必要もなかったのかもしれない。いずれはフルミ ナオミと結婚して、子供が産まれて。そしたらその子供が次の当主になるのか。それは分かった。けれど質問の答えには未だ辿り着かない。
「今の当主というのが、はっきりしていないんです」
「……ニノ コウのお母さまが代理当主をしているんじゃないんですか?」
「二ヶ月ほど前から臥せられていて、まだ正式に引き継がれてはいませんでしたが、コウさんと兄がとりあえずの対処をしていた、のですよ。……私も次期当主の婚約者として少し関わっていました」
 当主の仕事を、二ヶ月間三人で請け負っていた───のか。しかし今、ニノ コウは意識不明。三人の内のひとりが今執行不可能で、そうしたら───
「ある意味で、当主は私なのかもしれませんね」
 思わずゆっくりと瞬きをすると、フルミ ナオミがそれを汲み取ったように言った。
「警察の方にもそれで疑われているのだと思います」
「当主というのは、そんなに魅力的な立場なんですか?」
 訝しげな顔をされた。彼女の世界観にとっては愚問だったのかと少し焦る。
「当主というのはその家の在り方、姿というものです」
 静かに浸すように、紡がれる。
「何人にも侵されない、すべてを決めて統治する立場ということです。それ以上に言葉が必要だとは思いません」
「……」
 そうか。
 そういうところに、ニノ コウは立とうとしていたのか。
「……ニノ コウのお母さんが臥せっていらっしゃることは、今回のことと関係はないですよね? 時期的に」
「ないですね。もう大分前から、体調を悪くされていたのです」
 病気、か。抗えない時だってある。
「……いろいろ教えていただいて、ありがとうございます」
 一応礼を言うべきだろうと思い、頭を下げる。いいえ、と少し慌てたようにフルミ ナオミも頭を下げた。
「こちらがお呼び立てしたので」
 答えてくださらないことも多くありましたね、とは、心の中だけで付け加える。
「……随分、時間をかけてしまいましたね。そろそろ失礼させて頂きます」
「いえ、ありがとうございました」
「成果はありました?」
 純粋な興味だった。呼び出して、会話して、それで彼女に、何か得たものはあったのか。
「……ええ、まあ」
 フルミ ナオミが小さくうなずく。
「たぶん、あなたが犯人じゃないのかなって、思いました」
「……」
 挑発でも嫌味でもない、恐らく、この女性がただ思ったから言ったというだけの言葉。
「どういう経緯にしろ、この緊急時に兄が敢えて会った方ですし───コウさんともまた、不可解な因縁がある方です。……あなたはニノ家とは無関係かもしれないけれど、コウさんに個人的に恨みを持っている可能性が高い」
「……私は落としてませんよ」
 一応、小さく否定して───立ち上がる。
 フルミ ナオミも立ち上がった。お互いにぺこりと頭を下げ、レジに向かおうと───した。どん、と前から来た人物に体が当たる。
「わっ、」
 バランスを崩し、うしろに続いていたフルミ ナオミにもろにぶつかる。小さく悲鳴が上がって、どさっと何かが落ちる音がした。それを追うように自分の手からも鞄が落ちる。
「ご、ごめんなさい」
「い、いえ」
 咄嗟にフルミ ナオミが体を受け止めてくれたので倒れ込まずに済んだが、自分もフルミ ナオミもそれぞれ鞄を落としてしまっていた。中身がばらばらと散らばっている。
「Sorry!」
 流暢な謝罪が振って来てフルミ ナオミと同時に顔を上げた。先ほど来店した異国の男が焦ったような顔をしてぺらぺらと英語で何か捲くし立て、何の結論に至ったのか分からないがフルミ ナオミの両手を包むように握ってソーリーソーリーと繰り返す。よくやるなあ、と思いながら散らばった荷物を集めて鞄に仕舞った。手を握られたままうろたえているフルミ ナオミの分も彼女の鞄に仕舞って立ち上がる。おろおろとしている彼女の肩に手をかけ、もう大丈夫、失礼するという旨のこと英語で言い、大げさな謝罪を遮って、軽く彼女の手を引き今度こそレジに向かった。二人分の料金を払い外に出る。
「あの、お金、」
「いや、いいです」
「私から呼び立てましたし」
「まあそうですけど。面倒なんで」
 ざっくりと言うと流石に空気を呼んだのかフルミ ナオミは唇を噛んだ。それを見たけれど特に何か言葉は浮かばず、じゃあ失礼します、と頭を下げる。
「あの」
「? はい」
「ナオミ、でいいです」
「え?」
「名前」
 睨むような、その上でうろうろと視線をたまに逃がすような。そんなよく分からない目で彼女は言った。
「兄と被るでしょう。名字じゃ」
「……そうですけど」
 また会うんですか? 訊ねようとして、あまりに彼女が必死な貌をしていることに気付き、やめた。
「次は私が払いますから」
「……はい」
「だから次はミカゲさんがどこかお店に連れて行ってください」
「え?」
「これが連絡先です。失礼します」
 何やら書かれた紙片を無理矢理押し付け、言いたいことだけ言って、彼女はくるっと踵を返して歩き出した。呆然とそれを見送る。……なんだ、最後の最後に少しだけ懐かれた気がする。どういうことだ。
「……へんなひと」
 呟く。風に乗ってもフルミ ナオミに届くような大きさではなかったが……むしろ届いてもいい気がした。
 おかしな女だった───あれだけ警戒しておいて、ひとを不愉快にさせず向き合おうという姿勢もあまり見せず、けれども最後、まるであなたは友達だとでも言うように勝手に決めて。
 深く深く溜め息を吐いた。疲れた。疲れた……本当に。しかも疲れることはまだ終わってない。まだ終わらせられない。
 ゆっくりと、遠ざかってちらちらとしか見えなくなったフルミ ナオミを───ナオミのあとを追って、歩き出す。
 真っ直ぐに目線だけ前に向けたまま、脳裏ではあの喫茶店でのナオミの言葉が細々と響いていた。すきもきらいも関係ありませんよ。という彼女の言葉が。
 少しだけ歩調を早める。
 好き、とか嫌い、とか。
 頭が痛くなる。だって、そんなに難しい話か。難しくなったり厳しくなったりするのはむしろ、好きになったあとや嫌いになったあとや、そうなる最中のことなんじゃないか。
 今は大学にいるはずの在宅ストーカーのことを思った。
 あんたなんか大嫌いだ。かつて吐き棄てられた言葉を疑ったことはない。けれど。
 みーさん、大好き。何度も向けられるやわらかい言葉。幸せそうな笑顔。
 その言葉を疑ったこともないと───もう、伝わっていると思うけれど。
 きちんと言葉にした方がいい気がした。私がまだここにいる内に。
「……さて」
 ちゃり、と手の中の鍵を弄ぶ。
 先ほど荷物をかき集めた時に鞄からくすねたものだったが、どう使おう。というか使えってことだ、恐らく。
(ナオミは馬鹿なのか……それとも、計算ずくなのか)
 周りにあまりいないタイプなので分からない。少し抜けたところのあるひとだとは思ったが、それでも、家に対する発言ははきはきとして重々しい言葉の羅列だったように思う。
 人ごみに紛れてしまいそうなうしろ姿を追い続ける───後をつけることははじめてではなかった。仕事場に行く上司と鉢合わせしたくない時、相手からは見付からないような絶妙な速度で歩くことには慣れていたし───いやどうして慣れてしまったのだ、おかしいだろ。
 胃が重くなるのを感じながら歩き続けること十分ちょっと、ナオミがあるマンションに入っていった。ニノの家ではない。昔ニノの家の近くを通ったことがあったが、あそこは確かニノもフルミも同じ敷地内に住んでいるはずで、それはどこまでも塀が続く古くからの日本家屋という感じだった。こんな近代的なマンションではない。
 比較的真新しいそのマンションの入り口が見える位置でじっと身を潜めていると、少し時間を置いてからナオミが出て来た。鍵を見付けられず、オートロックを越えられなかったのだろう。この手のマンションは最初に自動ドアがあるはずだ。暗証番号があれば中にまでは入れるはずだが、その先の自分の部屋に入るには結局鍵がなければ入れない。あのお店に引き返したのだろう。ということは、私に与えられた時間は二十分ちょっと。
 きゅ、と皮手袋をはめる。照明で使う無骨な作業用皮手袋だったが、使えなくはない。指紋はこれで残らないだろう。
 ナオミが十分遠ざかったのを確認してからマンションに入った。郵便ポストをざっと見たがナオミの名前はどこにも見当たらない。どの部屋だろうか。
 郵便受けの中身から部屋番号を探れないだろうかと思ったが、完璧に中身が見えないような作りのポストだったのであきらめた。各階に二部屋ずつ、七階まである。十四部屋、流石に当てずっぽうでは確立が低すぎる。
 とりあえず上に上がってみよう、家の表札になら名前があるかもしれない。そう思いエレベーターに乗ろうとしてボタンがないことに気付いた。え、なにこれどうやって中に入るんだ?
 階段を目で探したが見当たらない。大きな鉄の扉があって、恐らくその先に階段があるのだろうということは分かったが、扉には鍵がかかっていた。鍵穴はない。内側からしか開かないようになっているのか。
あきらめてエレベーターに対峙する。本気で困惑したが、よくよく見ると普通は〈開〉のボタンがあるところに何かを翳すようなセンサーパネルがあることに気付いた。手の中の鍵を見やる。鍵の部分はごく普通の金属の鍵だったが、その持ち手のところは黒く何かで覆われている。試しにその部分をパネルに翳してみると扉が開いた。ハイテクだ……最近のマンションは全部こうなのだろうか?
 思わぬ罠だったと薄っすら汗をかきながら中に入った。さて何階だろうかと思ったが勝手に5の表示が灯り、ぐんぐんと上昇し出した。鍵が指定してくれるのか。ということは他の階には止まれないのか。他の階の人に用事がある時はどうするのだろう。階段を使うしかないのか。
 扉が開く。廊下は短い。頭上に設置されている監視カメラになるべく顔が映らないようにして立った。
 部屋は2つだ。二分の一。
「……このくらいは神のご加護があってもいいよね」
 呟いて。直感で選んだ、左側の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。
 すっと、違和感なく根元までささった鍵。
「……」
 今のところ異常はない。息を吸って、
 一気に回した。かしゃん。シリンダーが回る音。
 ゆっくりと鍵を抜き、かさかさに乾いた唇を舐めた。ドアノブに手をかける。
 覚悟くらい、もうとっくに決まってる。───その扉を少しだけ押し開いた。
 ほんの少しだけ開けたままで停止し、辺りを窺う。───何かを待った。警報が鳴ったり、誰かが駆け付けるような足音がするのを。だがしかしそれは全て杞憂だったようで、ただ階下の街並みから車の走る音や信号機の鳥の声が聞こえるだけだった。
 息を吐く。唇を舐めて、そして、
 部屋の中に入った。



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