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第2章 待夢殻 タイムカプセル

其ノ壱~六 「魔法ビン」

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○其ノ壱「魔法ビン」

 今では、アルミ製の軽量で堅牢な魔法ビンが主流だけれど、昭和40年代は、ガラス製の重たい物しか存在しなかった。そして、とても高価だったのだ! 

 まだ、基礎体力の無い小学生低学年は、遠足の水筒も軽量なプラスチック製が好まれた。ほとんどの者が当時流行ったキャラクターをデザインした物を所持しており、自分はディズニーの「ダンボ」だったのをおぼろげながら記憶している。 

 水筒の中身は、当時、スポーツ飲料なんて洒落た物はなく、ジュースなんかは手の届かない高級品で飲み過ぎると身体に悪いと信じられていた。必然的に緑茶ではない番茶か麦茶が選ばれる。ウーロン茶なんて、誰も知らない時代だった。 

 親の怠慢か?あら熱をとらずに水筒に注いだお茶は、プラスチックの可塑剤が溶け出し、ちょっと嫌な味がした。 

 夏は、冷たい氷入り、冬はあったかい湯気の出るお茶を自慢気に飲む同級生が一人いた。重たく繊細な魔法ビンを後生大事に持って歩く遠足は、きっとみんなの倍は疲れただろう? 
 しかし、外気温に反する飲み物を頂けるのは、小休止ごとの恩恵であり至福の時である。 

 遠足の目的地である公園に着き、真骨頂であるお昼の時間がやって来た。弁当箱を開き、玉子焼きと赤いタコのウインナーを尻目に肩に食い込んだ魔法ビンを地面に下ろす。長い行軍で彼の足元がふらついた。 

「ガシャーン」 

 全ては終わった。ガラス製の魔法ビンは、外部からの衝撃にすこぶる弱いのだ。中では粉砕したガラス入りのお茶が恨めしそうに覗き込んだ彼を覗き返していた。 
 両親からこっぴどく叱られることと、今までの苦労が水の泡になったことに絶望し、彼は半べそ状態であった。遠足班の仲間にお茶をもらいながら、弁当を楽しんだ後、馬乗りが始まった。当時の子供は、変わり身が早いのだ。くよくよしない。 

 復路、ガシャガシャ音を立てる魔法ビンの音を遠くで聞きながら、母校に到着した。あの子は、きっと叱られるだろうな?と思いながら家路を急いだ。 
 数ヵ月後、家の魔法ビンを割って大目玉をもらうとは、その時の自分は予想だにしなかった。 


○其ノ弐 「OKAMI三段活用」 

 小学生の頃、やたら時代劇が流行っていた気がする。 
 どこの家庭でも、座敷の奥まった部屋にお婆ちゃんが、冬でもないのにコタツに入って、みかんやお菓子を食べながら渋茶をすすり、四六時中テレビを観ていた。 
 午後4時から6時くらいは、再放送された時代劇のゴールデンタイムだった。青春期を活動写真で過ごした明治生まれのモガは、スケールは小さいものの自宅で何時でも時代劇を観られることを至福の喜びと感じていたかもしれない? 

 時代の移り変わりとともにテレビは、白黒からカラーに変わり、それに反して彼女の黒髪は白くなっていった。 
 高度経済成長期、家庭の主流は、自分の両親たちであった。 お婆ちゃんたちは、若干隠居めいた生活に甘んじ、アンテナが載り、4本の脚が生えた旧い白黒テレビで「水戸黄門」、「遠山の金さん」、「銭形平次」などを好んで観ていた。 

 いつも判で押したようなワンパターンな話の展開に、飽きは来ないのかと心配する子供心とは裏腹に、お婆ちゃんは楽しんでいたのだ。 
 とりわけ「この印籠が…」とか、「この桜ふぶきが…」の段になると、トイレに行くのも我慢して、少女の様に頬を紅潮させていた。今思えば、吉本新喜劇の展開と技法に似ている。 

 いくら子供でも、知らず知らずのうちに時代劇に感化されるのである。時代背景や登場人物、そして、ドラマの中で遣われる旧くて特異な武家言葉や町人言葉に…。 
 自分の成長に伴って、「お父ちゃん」から「お父さん」に呼び方を変えるのに、恥ずかしさ照れ臭さを覚えたので、冗談半分だが思い切って 

「おとっつぁん」 

 と、町人の娘が職人の父親にそうするみたいに呼んだ。すると、父は怒ったのである。 

「何が、とっつぁんだ」 

 それは、被害妄想だ!でも、「パパ」と呼ぶ柄じゃあないし。そうだ、武士とか侍が大好きな人だから、いっそ武士の子弟が呼ぶみたいに 

「お父上っ」 

 またもや彼の不興を買い、最終的には「お父さん」に落ち着いた。 

 話を元に戻すと、当時の殆どの時代劇に登場するが、理解できない言葉が一つ存在したのだ。 
 それは。「おかみ」という言葉だった。何のことはない、簡単な単語である。子供が言葉の遣い方を覚えるのは、たいてい時と場所と場合を考え、文の脈絡や話の流れから連想して行うのが常である。 
 しかし、難しい漢字の理解できない子供にとっては、とても難しいことなのである。 

例えば、 
 時は元禄。ある御奉行様が、薬問屋の大店(おおだな)が幕府ご禁制の品を扱っているとの情報を入手し、手下の同心・与力とともに件(くだん)の店を詮議にかけた場合を想定して頂きたい。 

 店の奥から白髪交じりの番頭がゆっくりと出てきて 

「これはこれは、御奉行さま。この様なむさ苦しいところに…」 

 と丁寧にお辞儀してから、徐(おもむろ)に声を掛けた。すると、お奉行様は 

「おい、番頭。近頃、江戸市中で御上(おかみ:徳川幕府)御禁制の品が出回っておるという話を知っておろうな…」 

「はて、何のお話でございましょうか?手前どもは、これっぽっちも耳にしたことはございません…」 

「知らばくれるな。○○屋、○○屋を此処(ここ)に呼べ」 

「生憎(あいにく)、主(あるじ)は、富山に買い付けに出かけ…」 
 と番頭は答えた。 

「ええぃ、ならば女将(おかみ)を呼べ…」 

 番頭は、近くの丁稚に目をやり、指図した。 

「御内儀(おかみ)さん。何やらお役人が沢山やって来て、御上(おかみ)ご禁制の品が云々で…」 

 店主の妻は、丁稚奉公間もない少年から事の顛末を理解した。 

 と、いった具合である。このように、
「おかみ」は、文法の三段活用ように変化するのであった。


○其ノ参 「サンクチュアリー(聖域)」 

 間口約90?、奥行き約90?、高さ約270cmの空間が今回の主人公である。 
 和室の上座に、一見不要と思われるそれは、ある種の趣きと安らぎを醸し出している。小生には分からないが、茶道や俳諧における侘(わ)びと寂(さ)びの心に通ずるものがあるかもしれない。 
 子供の頃、その聖域に足を踏み入れ、祖母にきつく叱られた記憶が残っている。 
  
 正面に書や山水画の掛け軸が飾ってあり、床から一段高くなった床板には、花瓶か水盤に生けた花があるのが、一般的であった。 
 そして、決まって鮭をくわえた羆(ひぐま)の一刀彫が側においてあった。元は黒だったものが、ほこりを全身にまとい「灰色熊(グリズリー)」のようになっていた。多分、誰かの北海道旅行のお土産だったのだろう? 
  
 そのとなりには、祖母の薬箱があった。薬箱といってもお菓子のブリキ缶か何かを流用したものである。簡単な裁縫用具や爪切りと一緒に、近くの医者で処方された薬と目薬が入っていた。 
 現在のようにプラスチックの入れ物に入ったカプセル錠やタブレット錠ではなく、瓶(びん)に入った黒い丸薬か三角に折りたたまれた紙に包まれた粉薬が主であった。 
 さらに「オブラート」の入った丸い紙製のケースもあったのを覚えている。炊飯器についたセロファン状の米のでんぷんからヒントを得て発明したというそれは、苦い粉薬の苦しみを和らげる画期的な物であっただろう。 
 祖母の目を盗んで、オヤツ代わりに食べたのだが、味も素っ気も無くお腹が全く膨れなかった。 

 そして、和製薬用リキュールの代名詞とも云える大御所が控えていた。そうあの「養命酒」である。 
 聖域の隅の隅に置かれたそれは、律儀にも茶褐色のビンむき出しではなく、朱色に黄色の唐草模様に大きく中央に黒字で「養命酒」と書いてある少々高そうな箱に入っていた。現在とは若干意匠が異なっていた様な気がする。 
 箱に入って保管しておるものの、面倒なせいか上の紙蓋は、外したままであった。大抵、キャップの上にプラスチック製の計量カップが載せてあった。糖分が多いせいか、ビンの口から垂れた内容物が結晶化して、白くこびり付いていた。 

 人生で初めて口にしたお酒は、多分これだったのだろう!祖母の許しを得て少量を堪能し、大人の目を盗んで飲み過ぎ顔を真っ赤にして、親に叱られたのは良き想い出である。 

 床の間は、何人も冒すことの出来ない「聖域」なのである。 


○其ノ四 「手の長いお姉さん」

このお話は、昭和40年代のある片田舎の下町が舞台です。 

 誰もが知らないうちに歩くことが出来たのと違い、自転車に乗れた記憶と感動は驚くほど鮮やかに大脳皮質のしわの中に残っているはずだ。 
 そう、自転車に乗れることは子供の避けて通れない通過儀礼であり、幼児から児童への登竜門だった。 
 免許無しで乗ることができる最高の乗り物である自転車は、それまでの三輪車から大きく脱皮した物であった。何より、技術を要し行動範囲が飛躍的に広がるのである。 

 自分も上級生が颯爽と自転車にまたがり、我が者顔で風を切って行く様に強い憧れと尊敬を覚えたものだった。三輪車ならいざ知らず、二輪の自転車が立つことが物理的に信じられなかった。 
 自転車で怪我をした友だちや乗り損ねて転倒した者を目の当たりにしていた自分は、転んで怪我をすることや誤って車に轢かれるのが怖くて、チャレンジに躊躇していた。 

 ある日、近所のお姉さんが、自転車を乗れるようにしてあげると親切な言葉をかけてくれた。アスファルトは、転ぶと痛いので、近くの公園まで自転車を曳いて行った。 
 お姉さんは、今まで何人もの子に自転車を乗れるようにしたと豪語していた。正に百戦練磨の助産婦のように腕組みしながら自転車搭乗の極意を伝授してくれた。 

1 ひたすら前を見てペダルをこぐこと。 
2 決して後ろを振り返らないこと。 
※お姉さんが、必ず後ろの荷台を持っているから。 
3 ハンドルを真っ直ぐにし、止まるときは足を
   付いたり飛び降りたりせずに、ブレーキをかけ
   ること。 

 と、実演を交えながら説明してくれた。さあ、いよいよ自分の番だ。恐る恐る自転車をまたがる自分に、男の子だろうと檄を飛ばし肩を軽く叩いてくれた。 
 不安と希望の入り混じった気持ちで、たどたどしくペダルをこぐと次第にハンドルが安定してきた。公園の敷地は広く18インチの子供用の自転車が走るには十分の余地があった。 
 時折、後ろの方がふっと軽くなり抵抗が無くなった錯覚に囚われながらも懸命にこいだ。こいだ。こいだ。 
 後ろを振り向きそうな素振りをみせると、すかさずお姉さんから、 

「しっかりと前を見てこぎなさい。ちゃんと持っているから」

との声が飛ぶ。 
 しかし、どう考えても遠くから聞こえるのだ。最初の錯覚に囚われたころは、息せき切ったお姉さんの声が近くでしたのだが…。そうか、お姉さんは手が長いんだ。 たぶん10mか20mくらいあるんだろう? 

 後日、似たような光景を目にした。お母さんが子供に自転車の乗り方を教えていたのだ。同様にそのお母さんの手は、長かった。  
 そして、自分の子供たちにも同じ手法で乗れるようにしてきた。芸が無いと云ったらそうではあるが、お姉さんの教えを忠実に守っているのである。 
 お姉さん、ありがとう!名前も顔も忘れてしまったけれど… 


○其ノ伍 「風  花」かざはな

「お前、そんなとこで何してる?」

「………」

 見慣れない少女は、一人で苅田の中に座っていた。正座を片方に崩したお姉さん座りをして、昔の女の子が皆そうしたように、摘んだ花をスカートの上に載せるように小さな何かをしきりに集めていた。

 古ぼけた白いワンピースに薄緑色のスカート、髪はおかっぱが伸びたような髪形で前髪を片方に寄せ上げ幅広のピンで留めており、晩秋の頃にあっても素足のまま靴を履いていた。
 年の頃は、10歳に満たないくらいで痩せてはいたが、背筋をピンと伸ばし凛としていたのが、とても印象的であった。

「何してるかって、聞いてんだろ」

 百姓は、田圃に人や石などが入るのを極端に嫌う。それは、例え子供でも例外の無いことだった。ことさら厳しかった近くの農夫から常日頃、叱責されていることの憂さ晴らしを少女に向けていた幼い自分であった。
 つぶらな瞳をきょとんとさせて、少女は答えた。

「おこめを、おこめを拾っているの」

 少女は、小さなひび割れた手に落穂を拾い集めていたのだ。

「こめだって、どうしてそんなもん拾うんだ」

「だって、家(うち)にはおこめが無いの」

「今、おとうさんとおかあさんが、局(郵便局)にお金を借りに行ってるの」

「ふぅん?」

 若干の同情と侮蔑を込めた態度で私は溜飲を下げた。

「あなたは、この近くの子。お名前は、何ていうの」

「……、恥ずかしいんで言いたない」

 昔から自分の名前は好きじゃなかった。そして、初対面の女の子に自己紹介することは、当時の私にとっても抵抗があった。

「どうして、どうして自分の名前を言うのが恥ずかしいの。私は、○○ ○子よ」

 一度、凛(りん)と背筋を伸ばしてから少女は答えた。利発そうだが勝気な瞳に整った眉、品の良い通った鼻筋、遠慮勝ちについた小さな唇。清貧という言葉が、ぴったりの少女であったが、名前は、失念してしまった。
 私は、少々照れながら、うつむきながら小声で答えた。

「俺は、○○ ○男だっ!」

 二言三言話したところに一つの考えが浮かんだ。

「ちょっと、待ってろ」

 私は家に駆け込んだ。僅か10m余り、目と鼻の先である。子供ながらも精一杯の覚悟をして、米びつを開けた。米びつの中には、四隅の角が丸く磨り減り米ぬかの付いた一升マスと一合マスがどの家庭でも入っていた。

 親の目を盗んで、無造作に一合枡で米をすくうと、お勝手の引き出しにしまってあったお店の紙袋に急いで入れた。貴重な米粒を自分の責任でなんとか言い訳できるギリギリの範囲の量であった。
 あわててこぼした米粒は、丁寧に拾って米びつに戻した。他人様には落ちた米は、いくら何でも差し上げられない。

 危険を冒したが人の為にしたことなので、ちょっとした英雄気取りの私は、黙って鷲づかみした紙袋(当時は、レジ袋は無く。買い物かごにガマ口の時代であった)差し、きっと喜んでくれると期待して、照れ臭そうに横目で少女の顔も見ずに渡した。
 すると、意外にも少女は今にも泣き出しそうな顔をして、イヤイヤをする子供みたいに首を振った。

「そんなもん、いらない。だって、私(わた)の(しん)家(ち)、こじきじゃないもん。もうすぐおとうさんが、お金を借りて来てくれるもん!」

 半べそ混じりの訴えは、全部は上手く聞き取れなかったが、何となくその場の雰囲気で分かった。

「何だこいつ、偉そうに人がせっかく危険を冒してまでして、持って来てやったものをこんなもん呼ばわりしやがって!」

と口には出さなかったが、激しい憤りを覚えた。

「そんなら、勝手にしろ」

 少々バツの悪さを感じた自分は、空しさと悲しさを覚えながらも少女から離れ、遠目で気にしながらも遊びにも行けず。悶々とわずかの時間を過ごした。何度も少女の姿を目の端に捉えながらも、近寄ることも声をかけることも出来ずにいた。

 うつむき加減に地面を見ているときに発見したアリの生態を観察して、ほんのちょっと気をやった。しばらくして田圃をみると少女もまだ見ていない父親の姿も忽然と消えていた。

 一人立ち尽くす私の心には、やるせない空しさと寂しさだけが残った。あれから三十余年の月日が過ぎた。現在、あの少女は、どうしているのだろうか? そして、幸せなのであろうか

 彼女の可憐な笑顔は、長い人生の中のほんの一瞬の出来事なのに、いつまでも私の心に残るのであった。風にさらわれて宙に舞い、人の手の温もりの中で、儚(はかな)く消えてしまう一片(ひとひら)の風花(かざはな)のように…


○其ノ六 「郷  愁」

 「赤とんぼ」を聴くと、なぜか涙が出そうになる。 

 物悲しい曲調と簡潔だが心を揺さぶる歌詞が日本人としての心情を呼び覚ますのだろうか。 

 三木露風が詞を作り、山田耕作が曲をつけたのは、今から80年近く前のことだと聞いた。 

 幼少時の露風を取り巻く全てのものを原体験として捉え、それを言葉にした。それから推測すると、現在の自分とは一世紀の時を隔てている。 

 しかし、なぜか自分の心の中では、これとオーバーラップしてしまうのだ。 

 あれは、いつの頃だったかな?多分、学校に上がる前くらいだったと思う。家族で、伊吹山に行き、頂上付近の登山道を歩いている最中、急にお腹が痛くなった。 

 青空と緑の中の一本道を母に負われている光景。泣き腫らした瞳に映った名も知らぬ黄色い花と赤とんぼ…。 

 いつの間にか泣きつかれて、眠ってしまった幼い自分。何も疑うことなく負われた温かい背中。  
 いつか年老いた母を背負う約束をとうとう果たせなかった… 

 あの曲を聴くと、あの頃に戻りたい気がする。
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