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完璧な風景

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 微かな潮の香り。
 僕は手の甲で額の汗を拭きながら、坂道のてっぺんを見上げた。
 強い日差しに火照る頬を、湿り気を含んだ風が冷ましていく。
 てっぺんを越えると、木々の合間から見えるのは、海。進むにつれて視界いっぱいに広がったその光景に僕は息を呑む。
 青。そして碧。どこまでも広がる空と海。
 
「よお、来たね」
 ユキオは振り返り手を挙げた。僕は無言で手をふり返し、彼のいるレジへとむかう。
 海辺の小さな雑貨屋。浮き輪やビーチサンダル、着替え用のタオル、フィンやゴーグルなどが雑多に並び、奥にはスナック菓子やカップ麺の並ぶ棚、レジ横にはドリンクの冷蔵ケースが置かれている。
「どうだった?」
 ユキオの質問に、僕はうなずく。
「いいと思うよ。特に季節感が申し分ない。十分に暑いのに、まだピークでないっていうか、これからもっと暑くなる予感に満ちているっていうか。街を一回りして山を越えてきたけど、雰囲気も注文通りなんじゃない? この店が、ちょっとセンスないけど」
「ほっとけ」
 ユキオは笑った。
「完成したらここは撤収だ。店にしてるのは、まあ俺の趣味みたいなもんさ」
「それにしてもさ、なんで海辺なんだよ。もっと全体を俯瞰できるような場所の方がいいんじゃないの」
「夏っていや海だろう」
「いや、そりゃそうだけど」
「注文が、青なんだよ」
「青」
「そう。君にはあえて言わなかったんだけどね」
「なんだって? おいおい、そりゃないよ」
 僕の仕事はこの世界の調査。全ての条件を与えられないと、満足な結果が出せない。
「僕が聞いてるのは、夏のはじまりの海辺の田舎町って設定だけだよ。漁港もあるけどサラリーマン世帯が多いような、古い街並みに新しい住宅街がまだらになっているような。ずいぶん具体的だから判定はしやすかったけど……いきなり、青、なんて言われても」
「知らない状態で、見て欲しかったんだよ。評価対象としてでなく、生の体験として」
「生の体験?」
 ユキオはすぐには答えず、傍の冷蔵ケースから取り出したサイダーを、僕に手渡した。釈然としない気分のまま蓋を開け、瓶から直接、ごくごくと喉を鳴らして呑む。
 ユキオはバーチャル世界の設計者で、僕はその協力者。彼とは、とあるWeb上のフォーラムで知り合い意気投合して以来の友人だが、実は一度もリアルで顔を合わせたことはない。彼は時々、自分の仕事の成果を「外からの客観的な目で」評価してくれと僕に頼んでくる。作られたものとは言え、様々な世界を散策するのはちょっとした旅行気分で楽しいし、報酬も弾んでくれるので、今までにも何度か引き受けてきた。
 彼の作る世界には独特の郷愁がある。現実ではもうお目にかかれない景色。世界から姿を消してしまった自然や静かな街並み。もちろんそれは多くのクリエーターが指向するものではあるのだが、彼はそこにある種の匂いのようなものを……意識に上ることはないのに、人の感覚に決定的な印象を残す空気感を盛り込むことに長けていた。
「なんだよ、その生の体験って。青がどうしたって?」
「うん。今回のクライアントがね、一番拘っているのがそこなんだよ」
「そこって……青?」
「そう。どこまでも広がる空、どこまでも広がる海、どこまでも深い青。そんな風景を、御所望なんだ」
「青」
 鸚鵡返しに呟きながら、僕は振り返る。大きな窓ごしに見える外の風景は歪みくすんでいたが、先ほど見た鮮烈な青また青を思い出させるには十分な広がりをもっていた。
「いいんじゃないの。すごく綺麗で、深くて、澄んでいて。僕は見惚れたよ」
 そうだ、あの風景の前で、僕は一瞬心を奪われていた。
 鮮烈な色に、魂まで染め上げられたかのような感覚に、我を忘れてただ景色を眺めていた。
 評価を言えというなら最高だ。
 だがそんな僕の内心とは裏腹に、ユキオは呟くように「ありがとう」と言ったきり、しばし黙り込んでしまった。
「どうしたんだよ。もしもう一度しっかり見てきた方がよければ」
「いや、それよりまず……」
 腰を浮かしかけた僕を彼は制止した。
「聞いてくれるかい。実はここ、すでに一度クライアントに見せているんだ」
「そうなのか?」
 珍しい。いつもは僕を含む何人かのレビューを参考にして完璧を期すのが彼のやり方なのに。
「ああ、どうしても事前にチェックしたいと言う、たっての希望でね。自分で言うのもなんだけど、今回のは自信作だった。君も言っていた通り、注文が具体的でやりやすかったのもあるけど、そこから実際のバランスや質感を調整してリアリティを出すのには手をかけたし、かなり高いレベルで実現できたと思ってる。クライアントもほとんどの点にはOKを出してくれたよ。ただ……」
「青?」
「そう。青。というより、紺碧、と言った方が正確かな。海の色。黒味を帯びた深い青。その色に、なにかが足りないような気がする、と言うんだ」
「紺碧……」
 僕は思い出してみる。濃い、なのにどこか明るさを帯びた色合い。波がもたらす濃淡と、光の煌めき。
「何が足りないんだろう」
「こっちがききたい」
 ユキオは肩をすくめる。
「いや、実際に聞いてもみたんだけどね。わからない、と言うのがその答え。ただ、何かが足りない、そんな気がするっていうんだ」
「気になるな」
「ああ、じゃあ、行ってみようか」
 僕らは連れ立って店の外へ出た。途端に潮の香りが押し寄せてくる。波の音。店の側からも海は見えているが、僕らはより広い視界を求めて波打ち際へと近づく。ざざーん。ざざーん。あたりを包むノイズを、みずから飲み込もうとするかのような、どこまでも深い青。まさに紺碧。
「これに、何か足りないって?」
 僕は呟く。実際にもう一度見ることで、疑問は解消されるどころかますます深まるばかり。一体、何が足りないって言うんだ?
「完璧じゃないか」
「僕も、そう思う」
 ユキオの声は波音をくぐり抜けるようにして僕の耳に届いた。
「ただ、あるいは……」
「え?」
「いや、ひょっとしたら、という話なんだけどね。この風景は、何か足りないのではなくて、むしろ」
 海鳥が舞い、僕の視界を一瞬翳らせる。戻ってきた光はかえって眩しく感じられ、僕は目を細めた。
 ユキオは言った。
「むしろ、完璧すぎるのかもしれない」
「……なんだって?」
 ユキオは遠くに視線を彷徨わせながら、先を続けた。
「うん、そうだな……僕がこの世界に作り出そうとしているのは、より現実に近いモノだ。視覚であれ、聴覚や嗅覚であれ……現実の肉体に与えられるのと同等の感覚刺激、それを作り出すことができれば、全ては完璧なリアリティを持ちうるはずだ。たとえ現実には存在しないものであってさえも、ね」
 僕はうなずく。それ以上の完璧さなどあろうはずもない。
「けれども……その"感覚刺激"は、感覚器官に直接与えられるものじゃない。あくまで、感覚器官が神経を通して脳に送り込む信号を模したものだ」
「それは……そう、だけど。でもそれって同じことだろ? データ化されたものとはいえ、与えられた刺激をもとに心に情景が映し出されるんだから。そんな根本的なところに違いがあるとしたら、この世界を体験すること自体が不可能になるんじゃないか?」
「ああ、そうだね。けれども、その間に肉体が介在していないことは、ひょっとしたら、ある人が現実から作り上げたイメージと、このヴァーチャルな体験との間に、決定的な齟齬をもたらしうるのかもしれない」
「それって、どういう」
「たとえば……そうだな、生まれた時からずっと緑色のコンタクトレンズを装着させられていた人がいたとすると。彼にとっては現実世界は緑色のものとして認識されるだろう。そこに突然、さまざまな色彩に満ちたイメージがデータとして送り込まれたとしたら」
「……それを現実とは異なるものとして認識する?」
「その、可能性がある、と言う話だけどね。実際には、そのような状態でいろんな色を認識できるような神経回路が育つかどうかも怪しいとは思う。しかし、人の肉体はしばしば個別の偏りを持つ。そんな偏りが、表象そのものに、ひいては現実や、理想のイメージにまで偏りをもたらしているとしたら? さらに、同じことは神経組織や脳、心にも言えるかもしれない。システムは現実の刺激を模してはいるけれども、最終的に結ばれる像が本当に現実と同等であるかどうかは、検証しようがないんだ」
「そう、なんだろうか」
「もちろん人は社会的動物だからね、他者との間にある程度の認識の共有はしているだろう。脳神経のマッピングだってかなりの精度でできてはいる。だからこそ僕も今回の件までこう言った壁にぶつかることがなかったんだろう。けれども、言葉や映像でゆるく共有されただけのイメージや概念には、思っているより多くのバリエーションがあるのかもしれない。現実の持つ情報を高い精度で伝えることが、イメージとの合致を保証するとは限らないのかも」
「それで、"完璧すぎる"か」
「そう、一面的に過ぎる、と言った方が適切かな」
「……いいは悪い、悪いはいい、って言葉があったなあ」
 僕はどこかで聞いたセリフをつぶやいてみる。
「シェイクスピアだね。矛盾したセリフも、君たちヒトの口から聞くと自然に聞こえるよ」
 ユキオは少し寂しそうに、そう、つぶやいた。
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