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051 懸命のラストステージ(5)
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――非常口のランプだけが点る漆黒のホールに昌真は息をつめ、その時を待っていた。
ざわついていた観客たちも開演五分前を告げるブザーが鳴り、照明が落ちたあたりから徐々に静かになり、今は静寂の中に緞帳が上がるのを待っている。ライブ開演前のこの張り詰めた空気は、アイドルでも他のアーティストでも変わらないといったところか。
あやかが用意してくれた席はステージのほぼ中央、前から二番目の列というまさに特等席だった。昌真としては最後まで席について観ているつもりだったのだが、この席でそんなことをしていては後ろで観ているファンに申し訳が立たない。ノリ方もペンライトの振り方もわからないし、曲のどこでかけ声をかければいいかもわからない。だがせめて他の人たちに合わせて席を立ち、周りの真似をしてファンらしく振る舞うことくらいはしよう――
そんな決意を固める昌真の鼓膜を、突如として巻き起こったファンの声援が震わせた。軽快な8ビートの旋律――昌真でさえ知っているロスジェネの代表曲『O.K.コラルでつかまえて』のイントロに合わせ、緞帳が上がり始めたのだ。
――だが、緞帳が上がりきる前に歓声とは少し調子の違う「おおっ!」というどよめきが周囲から起こった。
そのどよめきとほぼ同時に、昌真は我知らず立ち上がっていた。
整然とステージに並ぶロスジェネのメンバー達――そのセンターにマイクを持って立っていたのは、あやかだったのだ。
『みんなー! こんにちはー!』
あやかのマイクから声が飛ぶ。だが会場の反応はまばらで、盛り上がる様子はない。……それもそのはずだ。あやかの声は完全に掠れており、ほとんど声になるかならないかといったか細いものだったからだ。
マイクで拾っているからどうにか聞き取れる声になっている――事情を知る昌真だけでなく、誰の耳にもそのことは明らかだった。どう反応していいかわからない……そんな周囲の声が聞こえてくるようだ。そんな声なき声に応えるように、またあやかの声がホールに響いた。
『夏の全国ツアー最終日! ここまで全力で走ってきたよー! 色んなところで歌ってきましたー! 歌いすぎて声出なくなっちゃったー!』
またしても会場の反応はない。録音に合わせて口パクで踊るだけのアイドルのライブに『歌いすぎて声出なくなっちゃった』も何もない。笑えばいいのか、それとも……会場のファンが困惑に包まれていることは異分子である昌真にもわかった。
照明の不具合かそういった演出なのか、あやかの表情は昌真の席からははっきりとは見えない。全国ツアーの最終日にセンターでオープニングマイク――これがどんな意味を持つのか、アイドルを知らない昌真にもわかる。
「亞鵺伽ー、今日はどうしたー」と、声援ともヤジともつかない声が飛んだ。あやかの名を呼ぶ幾つかの声がそれに続く。これはまずいんじゃないか……期せずして会場とひとつになった昌真の心の声を、あやかの絶叫が掻き消した。
『あたしはッ!』
闇をつんざくようなあやかの声に、鋭いハウリングの音が続いた。
『あたしは今日! ここに来てくれた人を元気にしたい!』
必死の絶叫に静まり返るホール。だがその中にあって、あやかの声は昌真の胸に深々と突き刺さった。あやかは今、暗闇の中にいる俺にこのマイクでうったえている――そう思って、ドクンと心臓が跳ねた。
『自分が元気じゃなくても! 誰かを元気にできるんだって証明したい!』
「亞鵺伽ー」という声があがった。最初ひとつだったその声はやがて会場のそこかしこから次々にかかり、何本もの糸がひとつに集まるようにあやかに向け飛んでいった。
『声が出なくても! 歌が歌えなくてもライブできる! そんなあたしたちって何なんだろってずっと考えてた! あたしたちって本当にアイドルなのかなってずっとずっと考えてた!』
最初は小さかった歓声。だが最早、あやかを呼ぶ声は大きなうねりとなって、会場全体をどこかへ運んでゆこうとしている。「あやか」と、昌真は小さく呟いた。そうしてすぐ、周りの人達がそうしているように、声を限りにその人の名前を叫んでいた。
「あやかあッ! あやか頑張れえッ!」
『でも! 今日ここでわかる気がする! アイドルって何なのか! その答え、出せそうな気がする! 今日ここに来てくれた人を元気にできそうな気がする! みんな見てて! あたし……あたしたち最後まで全力で頑張るから!』
最後の絶叫――そしてあやかは手にしていたマイクを大きく振りかぶり、会場に向かって投げた。マイクは空中で音を立てて爆ぜ、紙吹雪となってファンの上に降り注いだ。
同時に照明が転換した。あやか一人を浮かび上がらせていたライトがぱっとステージ全体に展開し、咲き乱れる幾つもの花々を照らし出した。潮のような歓声の真っ只中に、『O.K.コラルでつかまえて』の演奏が始まった。
『――! ――!』
だが演奏が始まっても、昌真の耳に曲の内容は入ってこなかった。
ステージに舞い踊るアイドルたちの姿も、一人のそれを除いてまったく目に入らなかった。
――ただあやかの姿だけがあった。ぼんやりした光をまとって浮かぶあやかの笑顔だけがあった。
こちらまで楽しくなってくるような満面の笑顔。
片目をつむって見せる挑発的な笑顔。
憂いを帯びたどこか寂しげな笑顔。
いつも俺と他愛もない話をするときに見せていた屈託のない無邪気な笑顔――
(――この笑顔だ)
どの笑顔も、昌真が見たいと願っていた笑顔だった。テレビカメラの前で、あるいはこのホールに詰めかけているような大勢のファンの前で、その顔に咲かせて欲しいと心から願っていた笑顔だった。
その笑顔を見つめながら、昌真はあやかの体調のことを忘れた。昨日の夜あやかと衝突したことも、高岡への復讐のことも、自分があやかと特別な関係にあることさえ、すべて忘れた。
ライブが続いている間、昌真の中には一人のアイドルだけがいた。
ずっと前から知っている――だがおそらく、今日ここに生まれたばかりのアイドル――藤原亞鵺伽だけが、昌真の意識に何かをうったえかけてくるものの全てで、周りのファンたちと同じように声を張り上げ、ペンライトを振ってその姿に見入った。
あっという間に全ての曲が終わって、鳴り止まない三度目のアンコールの拍手の中、最高潮に達したファンの合間を縫って昌真は会場を飛び出した。
ざわついていた観客たちも開演五分前を告げるブザーが鳴り、照明が落ちたあたりから徐々に静かになり、今は静寂の中に緞帳が上がるのを待っている。ライブ開演前のこの張り詰めた空気は、アイドルでも他のアーティストでも変わらないといったところか。
あやかが用意してくれた席はステージのほぼ中央、前から二番目の列というまさに特等席だった。昌真としては最後まで席について観ているつもりだったのだが、この席でそんなことをしていては後ろで観ているファンに申し訳が立たない。ノリ方もペンライトの振り方もわからないし、曲のどこでかけ声をかければいいかもわからない。だがせめて他の人たちに合わせて席を立ち、周りの真似をしてファンらしく振る舞うことくらいはしよう――
そんな決意を固める昌真の鼓膜を、突如として巻き起こったファンの声援が震わせた。軽快な8ビートの旋律――昌真でさえ知っているロスジェネの代表曲『O.K.コラルでつかまえて』のイントロに合わせ、緞帳が上がり始めたのだ。
――だが、緞帳が上がりきる前に歓声とは少し調子の違う「おおっ!」というどよめきが周囲から起こった。
そのどよめきとほぼ同時に、昌真は我知らず立ち上がっていた。
整然とステージに並ぶロスジェネのメンバー達――そのセンターにマイクを持って立っていたのは、あやかだったのだ。
『みんなー! こんにちはー!』
あやかのマイクから声が飛ぶ。だが会場の反応はまばらで、盛り上がる様子はない。……それもそのはずだ。あやかの声は完全に掠れており、ほとんど声になるかならないかといったか細いものだったからだ。
マイクで拾っているからどうにか聞き取れる声になっている――事情を知る昌真だけでなく、誰の耳にもそのことは明らかだった。どう反応していいかわからない……そんな周囲の声が聞こえてくるようだ。そんな声なき声に応えるように、またあやかの声がホールに響いた。
『夏の全国ツアー最終日! ここまで全力で走ってきたよー! 色んなところで歌ってきましたー! 歌いすぎて声出なくなっちゃったー!』
またしても会場の反応はない。録音に合わせて口パクで踊るだけのアイドルのライブに『歌いすぎて声出なくなっちゃった』も何もない。笑えばいいのか、それとも……会場のファンが困惑に包まれていることは異分子である昌真にもわかった。
照明の不具合かそういった演出なのか、あやかの表情は昌真の席からははっきりとは見えない。全国ツアーの最終日にセンターでオープニングマイク――これがどんな意味を持つのか、アイドルを知らない昌真にもわかる。
「亞鵺伽ー、今日はどうしたー」と、声援ともヤジともつかない声が飛んだ。あやかの名を呼ぶ幾つかの声がそれに続く。これはまずいんじゃないか……期せずして会場とひとつになった昌真の心の声を、あやかの絶叫が掻き消した。
『あたしはッ!』
闇をつんざくようなあやかの声に、鋭いハウリングの音が続いた。
『あたしは今日! ここに来てくれた人を元気にしたい!』
必死の絶叫に静まり返るホール。だがその中にあって、あやかの声は昌真の胸に深々と突き刺さった。あやかは今、暗闇の中にいる俺にこのマイクでうったえている――そう思って、ドクンと心臓が跳ねた。
『自分が元気じゃなくても! 誰かを元気にできるんだって証明したい!』
「亞鵺伽ー」という声があがった。最初ひとつだったその声はやがて会場のそこかしこから次々にかかり、何本もの糸がひとつに集まるようにあやかに向け飛んでいった。
『声が出なくても! 歌が歌えなくてもライブできる! そんなあたしたちって何なんだろってずっと考えてた! あたしたちって本当にアイドルなのかなってずっとずっと考えてた!』
最初は小さかった歓声。だが最早、あやかを呼ぶ声は大きなうねりとなって、会場全体をどこかへ運んでゆこうとしている。「あやか」と、昌真は小さく呟いた。そうしてすぐ、周りの人達がそうしているように、声を限りにその人の名前を叫んでいた。
「あやかあッ! あやか頑張れえッ!」
『でも! 今日ここでわかる気がする! アイドルって何なのか! その答え、出せそうな気がする! 今日ここに来てくれた人を元気にできそうな気がする! みんな見てて! あたし……あたしたち最後まで全力で頑張るから!』
最後の絶叫――そしてあやかは手にしていたマイクを大きく振りかぶり、会場に向かって投げた。マイクは空中で音を立てて爆ぜ、紙吹雪となってファンの上に降り注いだ。
同時に照明が転換した。あやか一人を浮かび上がらせていたライトがぱっとステージ全体に展開し、咲き乱れる幾つもの花々を照らし出した。潮のような歓声の真っ只中に、『O.K.コラルでつかまえて』の演奏が始まった。
『――! ――!』
だが演奏が始まっても、昌真の耳に曲の内容は入ってこなかった。
ステージに舞い踊るアイドルたちの姿も、一人のそれを除いてまったく目に入らなかった。
――ただあやかの姿だけがあった。ぼんやりした光をまとって浮かぶあやかの笑顔だけがあった。
こちらまで楽しくなってくるような満面の笑顔。
片目をつむって見せる挑発的な笑顔。
憂いを帯びたどこか寂しげな笑顔。
いつも俺と他愛もない話をするときに見せていた屈託のない無邪気な笑顔――
(――この笑顔だ)
どの笑顔も、昌真が見たいと願っていた笑顔だった。テレビカメラの前で、あるいはこのホールに詰めかけているような大勢のファンの前で、その顔に咲かせて欲しいと心から願っていた笑顔だった。
その笑顔を見つめながら、昌真はあやかの体調のことを忘れた。昨日の夜あやかと衝突したことも、高岡への復讐のことも、自分があやかと特別な関係にあることさえ、すべて忘れた。
ライブが続いている間、昌真の中には一人のアイドルだけがいた。
ずっと前から知っている――だがおそらく、今日ここに生まれたばかりのアイドル――藤原亞鵺伽だけが、昌真の意識に何かをうったえかけてくるものの全てで、周りのファンたちと同じように声を張り上げ、ペンライトを振ってその姿に見入った。
あっという間に全ての曲が終わって、鳴り止まない三度目のアンコールの拍手の中、最高潮に達したファンの合間を縫って昌真は会場を飛び出した。
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