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039 空蝉のサマーデイズ(1)
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――だが実際に夏休みが始まってみると、そこで昌真を待ち受けていたのは嵐のような日々ではなく、逆に凪いだ海のように穏やかな毎日だった。
佐倉たちとの会合の翌日は終業式で、その夜に昌真はあやかからロスジェネの全国ツアーのため夏休み中はこれまでのように毎日電話できないという主旨の連絡を受けた。
もちろん昌真としては異存などあるはずもない。最終日のライブを楽しみにしているというステレオタイプな言葉でその日の会話を締め電話を切ると、昌真はスマホを持ったまま両手を高々と天に衝き上げた。
全身の拘束を解かれたようなえもいわれぬ解放感があった。復讐計画の目処は立った。佐倉の件も問題なく片付いた。おまけにあやかの電話攻勢からも解放され、高校二年の夏休みが始まる!
いい夏になりそうだ――そう思ってその日は眠りに就いた。
◇ ◇ ◇
だがその夜に昌真が解放感だと思ったものの正体は、翌日、明らかになる。
夏休み初日の朝は慌ただしかった。吹奏楽部の練習のため登校するという千晴のため、料理当番の昌真は早起きして弁当を作った。二人分の朝食と自分のための昼食の準備もおこたらず進め、いつも通り夕食の下ごしらえも朝のうちに済ませた。
そして妹を送り出してしまうと、昌真には何もすることがなくなってしまった。
リビングのソファに座り、テレビをつけた。だがいくらも見ないうちに消して、今度はラジオをつけた。よく聴く地元のFMからは夏のはじめにぴったりの爽やかなナンバーが流れていたが、なんとなく聴く気がせず、テレビと同じようにすぐ電源を落とした。
夕飯の支度をしておこうと腰を浮かしかけ、すでにあらかた終えていることを思い出してまたソファに沈み込んだ。
……やることがない。本気でやることがないのだ。
いっそ勉強でもしようか――ふとそんなことを考えて、けれどもそれがひどくつまらない思いつきであることを思った。受験生でもあるまいし、なぜ夏休み初日の朝から勉強などしなければならないのか。……だがそうなると、本当に何もすることがなくなってしまう。
――去年の夏はただひたすらレスポールと共に曲を書き、腕を磨いた。千晴と同じように部活のために登校し、部室が使えない日も防音のきいたスタジオを借りてバンドの練習をした。
……今年はそれもない。相棒のレスポールはクロゼットの奥深くにしまい込んだままで、再会の日はいつ来るともわからない。
そうなるとあとは翻訳しかないが、こんな日の高いうちからヘミングウェイと向き合う気にはどうしてもなれない。仕事に疲れた社会人がウイスキーのグラスを傾けながらほっと一息つく時間――昌真にとって、趣味の翻訳とはあくまでもそういった類のものなのだ。
無聊に追い立てられるように家を出た昌真を、周囲から圧倒的な蝉の鳴き声が襲った。重々しいうねりに昌真は一瞬立ち竦み、けれどもそれを掻き分けるように炎天の中へと踏み出した。
「……もう夏だったんだな」
遅まきながらの感慨は、我が世の夏を謳歌する蝉たちの声に溶けた。
あてどなく街を歩いて、やがて昌真は子供の頃よく遊んだ近所の公園に辿り着いた。
公園では子供たちが噴水のそばで水着になって遊んでいた。噴水のまわりの地面から時間になると水が噴き出すようになっており、それがこの公園の売りなのだ。自分も何年か前まではああして遊んでいたっけ――噴水から少し離れたベンチに座り、きらきらと輝く水しぶきを浴びて笑い合う子供たちを眺めながら昌真は、この夏をどうやって過ごそうと考え始めた。
だがすぐに、自分がこの夏に何のビジョンも持てないことに気づいた。
……やりたいことがない。本気で何もないのだ。
そうして昌真はようやく、昨夜から自分が感じていたものが解放感などではなく虚無感、あるいは虚脱感と呼ばれるものだということを理解したのである。
「……そっか」
同時に絶望が来た。この夏をどうやって過ごせばいいかわからない――それが絶望の理由だった。
どこかへ遊びに行くような友達はいない。勉強も必要以上にするつもりはない。
大学に受かる受からないは生徒の自己責任というのがデフォである公立進学校の例にもれず、薫ヶ丘に夏休みの課題といったものは存在しない。だからといって長い夏休み中まったく勉強しないつもりでいるわけではないが、来年ならまだしも高二のこの夏を勉強に捧げようとは思わない。
……だが、そうなると本当にやることがない。一ヶ月余に及ぶ夏休みの期間にこれをやりたいということが何ひとつ思い浮かばないのだ。
「……だから夏になるとみんな付き合うのか」
夏とクリスマスにはカップルが急増する――巷間に流布されたあまりにも有名な風説である。だがクリスマスはわかるとしてもなぜ夏にカップルが増えるのか……今日までわからなかったそれを、昌真は今、実感として理解した。……他にやることがないからだ。
たしかに彼女がいれば違うのだろう。海に行くなり花火に行くなり、夏に二人でできる楽しいことはいくらでもある。
俺も彼女をつくるべきなのだろうか――これまであまり真剣に考えてこなかったそれが、はじめて切実な問題として昌真に突き付けられた。……まあ、つくろうと思って簡単につくれるものでもないのだろうが、少なくともそのための努力ないし行動を今からでも開始すべきなのではないか――
「……彼女か」
佐倉たちとの会合の翌日は終業式で、その夜に昌真はあやかからロスジェネの全国ツアーのため夏休み中はこれまでのように毎日電話できないという主旨の連絡を受けた。
もちろん昌真としては異存などあるはずもない。最終日のライブを楽しみにしているというステレオタイプな言葉でその日の会話を締め電話を切ると、昌真はスマホを持ったまま両手を高々と天に衝き上げた。
全身の拘束を解かれたようなえもいわれぬ解放感があった。復讐計画の目処は立った。佐倉の件も問題なく片付いた。おまけにあやかの電話攻勢からも解放され、高校二年の夏休みが始まる!
いい夏になりそうだ――そう思ってその日は眠りに就いた。
◇ ◇ ◇
だがその夜に昌真が解放感だと思ったものの正体は、翌日、明らかになる。
夏休み初日の朝は慌ただしかった。吹奏楽部の練習のため登校するという千晴のため、料理当番の昌真は早起きして弁当を作った。二人分の朝食と自分のための昼食の準備もおこたらず進め、いつも通り夕食の下ごしらえも朝のうちに済ませた。
そして妹を送り出してしまうと、昌真には何もすることがなくなってしまった。
リビングのソファに座り、テレビをつけた。だがいくらも見ないうちに消して、今度はラジオをつけた。よく聴く地元のFMからは夏のはじめにぴったりの爽やかなナンバーが流れていたが、なんとなく聴く気がせず、テレビと同じようにすぐ電源を落とした。
夕飯の支度をしておこうと腰を浮かしかけ、すでにあらかた終えていることを思い出してまたソファに沈み込んだ。
……やることがない。本気でやることがないのだ。
いっそ勉強でもしようか――ふとそんなことを考えて、けれどもそれがひどくつまらない思いつきであることを思った。受験生でもあるまいし、なぜ夏休み初日の朝から勉強などしなければならないのか。……だがそうなると、本当に何もすることがなくなってしまう。
――去年の夏はただひたすらレスポールと共に曲を書き、腕を磨いた。千晴と同じように部活のために登校し、部室が使えない日も防音のきいたスタジオを借りてバンドの練習をした。
……今年はそれもない。相棒のレスポールはクロゼットの奥深くにしまい込んだままで、再会の日はいつ来るともわからない。
そうなるとあとは翻訳しかないが、こんな日の高いうちからヘミングウェイと向き合う気にはどうしてもなれない。仕事に疲れた社会人がウイスキーのグラスを傾けながらほっと一息つく時間――昌真にとって、趣味の翻訳とはあくまでもそういった類のものなのだ。
無聊に追い立てられるように家を出た昌真を、周囲から圧倒的な蝉の鳴き声が襲った。重々しいうねりに昌真は一瞬立ち竦み、けれどもそれを掻き分けるように炎天の中へと踏み出した。
「……もう夏だったんだな」
遅まきながらの感慨は、我が世の夏を謳歌する蝉たちの声に溶けた。
あてどなく街を歩いて、やがて昌真は子供の頃よく遊んだ近所の公園に辿り着いた。
公園では子供たちが噴水のそばで水着になって遊んでいた。噴水のまわりの地面から時間になると水が噴き出すようになっており、それがこの公園の売りなのだ。自分も何年か前まではああして遊んでいたっけ――噴水から少し離れたベンチに座り、きらきらと輝く水しぶきを浴びて笑い合う子供たちを眺めながら昌真は、この夏をどうやって過ごそうと考え始めた。
だがすぐに、自分がこの夏に何のビジョンも持てないことに気づいた。
……やりたいことがない。本気で何もないのだ。
そうして昌真はようやく、昨夜から自分が感じていたものが解放感などではなく虚無感、あるいは虚脱感と呼ばれるものだということを理解したのである。
「……そっか」
同時に絶望が来た。この夏をどうやって過ごせばいいかわからない――それが絶望の理由だった。
どこかへ遊びに行くような友達はいない。勉強も必要以上にするつもりはない。
大学に受かる受からないは生徒の自己責任というのがデフォである公立進学校の例にもれず、薫ヶ丘に夏休みの課題といったものは存在しない。だからといって長い夏休み中まったく勉強しないつもりでいるわけではないが、来年ならまだしも高二のこの夏を勉強に捧げようとは思わない。
……だが、そうなると本当にやることがない。一ヶ月余に及ぶ夏休みの期間にこれをやりたいということが何ひとつ思い浮かばないのだ。
「……だから夏になるとみんな付き合うのか」
夏とクリスマスにはカップルが急増する――巷間に流布されたあまりにも有名な風説である。だがクリスマスはわかるとしてもなぜ夏にカップルが増えるのか……今日までわからなかったそれを、昌真は今、実感として理解した。……他にやることがないからだ。
たしかに彼女がいれば違うのだろう。海に行くなり花火に行くなり、夏に二人でできる楽しいことはいくらでもある。
俺も彼女をつくるべきなのだろうか――これまであまり真剣に考えてこなかったそれが、はじめて切実な問題として昌真に突き付けられた。……まあ、つくろうと思って簡単につくれるものでもないのだろうが、少なくともそのための努力ないし行動を今からでも開始すべきなのではないか――
「……彼女か」
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