12 / 67
011 解散のスリーピースバンド(5)
しおりを挟む
帰宅後、昌真はコータローに指摘された、自分が高岡に対して抱いているというコンプレックスについて、長い時間をかけて内省した。
その結果、昌真が辿り着いたのは、コータローの言う通り自分の中には高岡へのコンプレックスがあるが、それはコータローが言っていたような単純なものではなく、根はずっと深いのだというある意味で救いようのない結論だった。
まず、コータローの指摘は前提が間違っている。昌真が心の底では高岡に勝ちたいと願っているのだという認識。それは完全にコータローの事実誤認だった。
これはもうはっきりしているのだが、昌真は高岡に勝ちたいなどと思ったことは一度もない。と言うより、その勝負自体が成り立たないことを誰よりもよく知っている。
なぜなら昌真にとって高岡の音楽こそが理想だからだ。
実のところ昌真は高岡涼馬がこれまでに出した全CDを所有しており、そのすべてを擦り切れるほど聴いている。その上で昌真はおそらくどんなファンよりも高岡の曲を高く評価しており、歌詞や旋律ばかりか合わせる楽器の種類、音の質感、作り上げようとする空気までひっくるめてその音楽性を全面的に認めている。
だから仮にコータローの言うようなコピーバンドを作り、昌真自身の音楽を全力で展開したとしても、それは文字通りのコピーバンドにしかならない。……勝負が成り立たないというのはそういうことだ。
そもそものところ、高校進学とほぼ同時に各種メディアでその名前が聞こえ始めた頃から、昌真は高岡涼馬というアーティストのことが気になって仕方なかった。どの曲にも共感できてしまう、というのがその理由だ。それは聞き手として共感できるということではない。もちろんそれもあったのだが、それ以上に曲の作り手として高岡の作意への共感が半端なかったのだ。
もっと簡単に言ってしまえば、『こういう曲が作りたい』と昌真が心に思い描いていたそれを、高岡が再現率百パーセントで次々と具現化していったのである。
そればかりではない。高岡の音楽に対するものの考え方は奇妙なほど昌真のそれに酷似していた。
一例を挙げればドラムを擁することなく、ベース一本でリズムを作るという特異なスタイル。当時としては――と言うより今もって極めて稀なそのスタイルを、昌真とはまったく関係のないところで独自に思いつき、実現しようと試みていた男が一人いた――それが高岡涼馬である。
つまり昌真にとって高岡は顔ばかりでなく、存在そのものがドッペルゲンガーとでも言うべきものだったのだ。
中学時代のバンドで培ってきた音楽へのこだわりを形にするために一歩を踏み出した昌真は、自分がやりたいと夢見たこと、時間をかけてものにしていきたいと願ったことのすべてを、他の人間がこれ以上ないレベルの完成度で実現してゆくのをリアルタイムでまざまざと見せつけられた。
――もし昌真の中に高岡へのコンプレックスと呼べるものがあるとすればそれだ。自分がやりたかったことをぜんぶ先にやられてしまった悔しさ――身も蓋もない言い方をすればただそれだけなのだ。
誰よりも高岡の音楽を認めながら、最近ではCDジャケットを見るのも嫌でクロゼットの奥に仕舞い込んでいる。けれども新曲が出ればリリース当日に聴かずにはいられないという絵に描いたようなアンビバレンス。それが昌真の中にある高岡への想いのすべてで、だから高岡を負かしてやろうなどという気持ちが昌真の中に湧き起こってくるはずもないのである。
もっとも涙ぼくろの位置が逆であるように、昌真の音楽観と高岡のそれとの間にまったく違いがないというわけではない。
二人の音楽に対するアプローチに違いを見出すのであれば、それはボーカルということになるだろう。
プロフェッショナルで活躍するような完成されたボーカルは、『歌詞の意味を酌んだ感情を歌にこめるかこめないか』という観点で大きくふたつのタイプに分類できると昌真は考えている。これでもかというくらい感情をこめて歌うタイプと、過度に感情をこめずに旋律そのものを聞かせるタイプである。
これはどちらが優れているとか、そういった文脈で語られるべき話ではない。カフェやバーでゆったりと聞きたい音楽に強い感情は邪魔になるだけだし、逆に失恋したとき聞くのは一緒に泣いてくれる曲でなければならない。どちらにも需要はあり、どちらも正しい音楽なのだ。
ただその分類において――おそらくその一点においてのみ、高岡と昌真の音楽性は両極端と言っていいほどに異なっている。
昌真がボーカルで大切にしているものは歌詞の意味を底の底まで考え抜いた上でその解釈を音にすることであり、感情を歌にこめることこそがボーカルの存在理由だと信じている。
一方の高岡はというと、実際その辺について彼がどう考えているかまでは知る由もないが、まさにカフェやバーで聞くのにぴったりの『角ばったところのない』歌い方をする。
昌真にとって高岡の音楽は理想だが、ことボーカルに関してはその限りではない。この曲はもっとこのフレーズにこんな感情をこめて歌ったらいいのに、と思う曲が何曲もある。
昌真と高岡の音楽に優劣をつけられるポイントがあるとすればそこで、それに気づいていたからこそあの場でレナはあんなことを言い出したのかも知れない。
だがそんな諸々の事情を合わせてみても、昌真には高岡と競いたいという気持ちなど欠片も湧いてこないのだった。
たしかに高岡との違いは見せられるかも知れない。風貌は高岡涼馬にそっくりだが歌い方はずいぶん違う、これはこれでいい音楽だ――などと、そんな風には言ってもらえるのかも知れない。
けれどもそんなことをしていったい何になるというのだろう? 心に響く、響かないといった評価にしてみたところでそれはあくまで主観的なものであり、レナはああ言ってくれたがそれはたまたま『レナの心には響いた』というだけのことかも知れないのだ。
それに昌真の目指していたものはそんな小さなことではない。これこそはと信じる音楽を自分の手で紡ぎ出し、それを世の中に認めさせること――昌真がやりたかったことはそれだ。そしてそれは既に高岡涼馬によって果たされており、昌真が出る幕などどこにもない……と、問題は結局そこに帰着するのである。
高岡に勝ちたいのではない、高岡とは違うと認めさせたいわけでもない。ただ高岡に先を越されてしまったことからくるやり場のない焦燥――それが、コータローが昌真の中にある高岡へのコンプレックスと呼んだものの正体で、おそらくそれはちょっとやそっと足掻いたくらいではどうすることもできない類のものだ。
――そうして昌真は高岡涼馬への復讐をあやかと誓い合ったその翌日に、早くもその目的を見失った。高岡に怒りの矛先を向けることは逆恨みでしかないことに気づいたからだ。
……いや、正確には逆恨みですらない。昌真は自分がやりたいことを先にやってしまった高岡が憎いのではなく、『誰か』にそれを先にやられてしまったという事実が悔しくてならないだけなのだ。
つまり自分とは似ても似つかない顔をした別のアーティストが高岡と同じ音楽を作っていたとしても、昌真が今のような苦境に陥っていた可能性は大なのである。
だから昌真が高岡という個人に復讐する理由は、もうどこにもない。
と言うより、そんなものが最初からないことなど昌真にはわかっていた。バンド解散前日のラブホテル連れ込み騒動――あんなタチの悪い冗談のような事件がなければ高岡への復讐など口に出すこともなかったに違いない。
あの提案は一時の気の迷いだったと正直に告白し、ドツボにハマる前に計画からの離脱を表明する……さしあたって自分がするべきことはそれだろう。そう思い、昌真はそのうち来るであろうあやかからの連絡を待つことにした。
けれどもそのうちどころかそう思った直後にかかってきたあやかからの電話で、そんな昌真の決意はもろくも打ち砕かれることになる――
その結果、昌真が辿り着いたのは、コータローの言う通り自分の中には高岡へのコンプレックスがあるが、それはコータローが言っていたような単純なものではなく、根はずっと深いのだというある意味で救いようのない結論だった。
まず、コータローの指摘は前提が間違っている。昌真が心の底では高岡に勝ちたいと願っているのだという認識。それは完全にコータローの事実誤認だった。
これはもうはっきりしているのだが、昌真は高岡に勝ちたいなどと思ったことは一度もない。と言うより、その勝負自体が成り立たないことを誰よりもよく知っている。
なぜなら昌真にとって高岡の音楽こそが理想だからだ。
実のところ昌真は高岡涼馬がこれまでに出した全CDを所有しており、そのすべてを擦り切れるほど聴いている。その上で昌真はおそらくどんなファンよりも高岡の曲を高く評価しており、歌詞や旋律ばかりか合わせる楽器の種類、音の質感、作り上げようとする空気までひっくるめてその音楽性を全面的に認めている。
だから仮にコータローの言うようなコピーバンドを作り、昌真自身の音楽を全力で展開したとしても、それは文字通りのコピーバンドにしかならない。……勝負が成り立たないというのはそういうことだ。
そもそものところ、高校進学とほぼ同時に各種メディアでその名前が聞こえ始めた頃から、昌真は高岡涼馬というアーティストのことが気になって仕方なかった。どの曲にも共感できてしまう、というのがその理由だ。それは聞き手として共感できるということではない。もちろんそれもあったのだが、それ以上に曲の作り手として高岡の作意への共感が半端なかったのだ。
もっと簡単に言ってしまえば、『こういう曲が作りたい』と昌真が心に思い描いていたそれを、高岡が再現率百パーセントで次々と具現化していったのである。
そればかりではない。高岡の音楽に対するものの考え方は奇妙なほど昌真のそれに酷似していた。
一例を挙げればドラムを擁することなく、ベース一本でリズムを作るという特異なスタイル。当時としては――と言うより今もって極めて稀なそのスタイルを、昌真とはまったく関係のないところで独自に思いつき、実現しようと試みていた男が一人いた――それが高岡涼馬である。
つまり昌真にとって高岡は顔ばかりでなく、存在そのものがドッペルゲンガーとでも言うべきものだったのだ。
中学時代のバンドで培ってきた音楽へのこだわりを形にするために一歩を踏み出した昌真は、自分がやりたいと夢見たこと、時間をかけてものにしていきたいと願ったことのすべてを、他の人間がこれ以上ないレベルの完成度で実現してゆくのをリアルタイムでまざまざと見せつけられた。
――もし昌真の中に高岡へのコンプレックスと呼べるものがあるとすればそれだ。自分がやりたかったことをぜんぶ先にやられてしまった悔しさ――身も蓋もない言い方をすればただそれだけなのだ。
誰よりも高岡の音楽を認めながら、最近ではCDジャケットを見るのも嫌でクロゼットの奥に仕舞い込んでいる。けれども新曲が出ればリリース当日に聴かずにはいられないという絵に描いたようなアンビバレンス。それが昌真の中にある高岡への想いのすべてで、だから高岡を負かしてやろうなどという気持ちが昌真の中に湧き起こってくるはずもないのである。
もっとも涙ぼくろの位置が逆であるように、昌真の音楽観と高岡のそれとの間にまったく違いがないというわけではない。
二人の音楽に対するアプローチに違いを見出すのであれば、それはボーカルということになるだろう。
プロフェッショナルで活躍するような完成されたボーカルは、『歌詞の意味を酌んだ感情を歌にこめるかこめないか』という観点で大きくふたつのタイプに分類できると昌真は考えている。これでもかというくらい感情をこめて歌うタイプと、過度に感情をこめずに旋律そのものを聞かせるタイプである。
これはどちらが優れているとか、そういった文脈で語られるべき話ではない。カフェやバーでゆったりと聞きたい音楽に強い感情は邪魔になるだけだし、逆に失恋したとき聞くのは一緒に泣いてくれる曲でなければならない。どちらにも需要はあり、どちらも正しい音楽なのだ。
ただその分類において――おそらくその一点においてのみ、高岡と昌真の音楽性は両極端と言っていいほどに異なっている。
昌真がボーカルで大切にしているものは歌詞の意味を底の底まで考え抜いた上でその解釈を音にすることであり、感情を歌にこめることこそがボーカルの存在理由だと信じている。
一方の高岡はというと、実際その辺について彼がどう考えているかまでは知る由もないが、まさにカフェやバーで聞くのにぴったりの『角ばったところのない』歌い方をする。
昌真にとって高岡の音楽は理想だが、ことボーカルに関してはその限りではない。この曲はもっとこのフレーズにこんな感情をこめて歌ったらいいのに、と思う曲が何曲もある。
昌真と高岡の音楽に優劣をつけられるポイントがあるとすればそこで、それに気づいていたからこそあの場でレナはあんなことを言い出したのかも知れない。
だがそんな諸々の事情を合わせてみても、昌真には高岡と競いたいという気持ちなど欠片も湧いてこないのだった。
たしかに高岡との違いは見せられるかも知れない。風貌は高岡涼馬にそっくりだが歌い方はずいぶん違う、これはこれでいい音楽だ――などと、そんな風には言ってもらえるのかも知れない。
けれどもそんなことをしていったい何になるというのだろう? 心に響く、響かないといった評価にしてみたところでそれはあくまで主観的なものであり、レナはああ言ってくれたがそれはたまたま『レナの心には響いた』というだけのことかも知れないのだ。
それに昌真の目指していたものはそんな小さなことではない。これこそはと信じる音楽を自分の手で紡ぎ出し、それを世の中に認めさせること――昌真がやりたかったことはそれだ。そしてそれは既に高岡涼馬によって果たされており、昌真が出る幕などどこにもない……と、問題は結局そこに帰着するのである。
高岡に勝ちたいのではない、高岡とは違うと認めさせたいわけでもない。ただ高岡に先を越されてしまったことからくるやり場のない焦燥――それが、コータローが昌真の中にある高岡へのコンプレックスと呼んだものの正体で、おそらくそれはちょっとやそっと足掻いたくらいではどうすることもできない類のものだ。
――そうして昌真は高岡涼馬への復讐をあやかと誓い合ったその翌日に、早くもその目的を見失った。高岡に怒りの矛先を向けることは逆恨みでしかないことに気づいたからだ。
……いや、正確には逆恨みですらない。昌真は自分がやりたいことを先にやってしまった高岡が憎いのではなく、『誰か』にそれを先にやられてしまったという事実が悔しくてならないだけなのだ。
つまり自分とは似ても似つかない顔をした別のアーティストが高岡と同じ音楽を作っていたとしても、昌真が今のような苦境に陥っていた可能性は大なのである。
だから昌真が高岡という個人に復讐する理由は、もうどこにもない。
と言うより、そんなものが最初からないことなど昌真にはわかっていた。バンド解散前日のラブホテル連れ込み騒動――あんなタチの悪い冗談のような事件がなければ高岡への復讐など口に出すこともなかったに違いない。
あの提案は一時の気の迷いだったと正直に告白し、ドツボにハマる前に計画からの離脱を表明する……さしあたって自分がするべきことはそれだろう。そう思い、昌真はそのうち来るであろうあやかからの連絡を待つことにした。
けれどもそのうちどころかそう思った直後にかかってきたあやかからの電話で、そんな昌真の決意はもろくも打ち砕かれることになる――
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
如月さんは なびかない。~クラスで一番の美少女に、何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。
つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。
彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。
なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか?
それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。
恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。
その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。
更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。
婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。
生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。
婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。
後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。
「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる