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049 練兵(6)
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「はいッ!」
北斗が駆け出さんとする刹那、五郎太は掛け声一閃、ルクレチアの馬の尻を強かに蹴りつけた。
短く嘶いて馬が飛び出してゆく。北斗の背にあって自らも盛んに鞭をくれながら、五郎太は喉も裂けよとばかりの大音声で兵どもに喚びかけた。
「敵襲ッ! 敵襲ぞ、各々方ッ! 直ちに退かれよッ!」
五郎太の喚びかけに押っ取り刀で馬の背に這い上がろうとする者、早くも撃たれたのか断末魔の声を上げる者。
その中にあって、演習に備え馬上の人となっていた鎧武者が、果敢にも頭上に向け撃ちかけようとしているのが五郎太の目に留まった。
「撃つなッ!」
五郎太が叫ぶのと、兵の鉄砲が火を噴くのとが同時だった。
刹那、驚いた馬が勢いよく駆け出し、背なる兵は悲鳴をあげ馬から転がり落ちた。
間髪を入れず上からの撃ちおろしが来る。一発目を受けてうずくまる兵に二発、三発と鉄砲の弾は降り注ぎ、たちまちその身体は動かなくなった。
(なんという惨い……)
兵の無惨な死に様に、北斗に鞭をくれながら五郎太は眉をひそめた。これだから鉄砲は好かぬ。名乗りをあげることも打ち合うことも許さず、ただ人を殺めるばかりの無粋な道具……。
だが、この期に及んで鉄砲を罵ったところでどうにもならない。兎にも角にもこの鉛弾の雨を遣り過ごし、虎口を脱するのが何よりも先決である。
その点、駆ける北斗の背にある五郎太には、鉄砲の弾はまず中らないと言っていい。
ここイスパニアの鉄砲がどれほどのものか、これまでの見聞で大体のところはわかった。連射が利くという点において日ノ本のそれより格段に優れたものであることに疑いはない。だが所詮、鉄砲は鉄砲である。あのエルゼですら闘技場を逃げまわる五郎太を仕留められなかったのだ。駆ける馬――まして北斗を狙い撃つことなどそうそうできるものではない。
けれども演習を行っていた兵どもは違う。折悪く大半の者が下馬しているところへ撃ちかけられたものだから、馬に乗ろうと右往左往している間に次々に狙撃されてゆく。ようやく馬の背に這い上がったところで撃たれて落馬する者の姿さえ見える。あれなら馬を捨て、走って逃げた方がまだ命を拾えるやもわからぬ。
かくなる上は将から退却の下知をくださねばならぬ。
突然の襲撃に思わず喚びかけてしまったが、ここは本来、五郎太が声を出していい場面ではない。現に、馬を駆けさせながらルクレチアの下知を待っている者が二三。どうにか乗馬できたものの、将の下知なく退くことができないでいるのだ。
だが、ルクレチアは馬上にあって動かない。馬の首にすがりつくように身を屈め、俯き加減に何かを思案している体だ。
いったいこの者は何をしているのか。そんな思いの中、五郎太はルクレチアに馬を寄せ、並びかけた。
「ルクレチア殿ッ! 下知をッ! あの者らに下知を早うッ!」
懸命の喚びかけにルクレチアは応えない。少し離れた所でまた一つ絶叫があがった。五郎太は思い余って、手にした鞭でルクレチアの腰を打った。
「……ッ!」
ルクレチアの顔が向けられた。きっ、と責めるようなきつい眼差しが五郎太を見据えた。
五郎太の中に怒りが生まれた。その怒りに任せて大声で吼えた。
「それでも将かッ! 疾く退却の下知を出されいッ!」
五郎太の一喝にルクレチアは瞠目し、今はじめて気づいたように周囲を見回した。
それからまた五郎太に頭を向け、苦しげな表情で「すまぬ」と呟いたあと、大きく息を吸い込んで一息に叫んだ。
「全軍直ちに退却せよッ!」
甲高い声が谷底に木霊して直後、ルクレチアの身体がぐらりと大きくよろめいた。驚きに目を見張る五郎太の隣で、半分面頬に覆われたその顔に脂汗を流しながら、助けを求めるようにルクレチアが馬の首にすがりつくのが見えた。
「ルクレチア殿ッ!」
五郎太の喚びかけにも返事はない。
すわ被弾していたのか! そう思って愕然とする五郎太の方へ、ルクレチアの身体がゆっくりと倒れてくる。咄嗟に五郎太は馬を寄せ、金色の鎧に包まれたその身体を抱きとめた。走る馬から落とさぬよう渾身の力でかかえこみ、しっかと己の腕の中に抱き寄せる。
「……っ!」
その途端、五郎太の背筋に悪寒が走った。総身の肌が粟立ち、そこかしこに腫れ物が浮かび上がってくる。
女の身体を抱いているのだから当然だった。けれどもその身体が堅い鎧に覆われているためか、あるいは五郎太自身それどころではないと観念しているからなのか、首筋までのぼってきた腫れ物はそこで止まり、馬上で気を失う憂き目にも遭わなかった。
「……」
背後を振り返る。主を喪った放れ駒の間に間に、必死に鞭をくれて馬を駆けさせている兵が数名。だが、こちらへ向かって来る者はいない。狙い撃ちされる死地から反対の方向へ逃れたのだ。軍勢がちりぢりに分かたれてしまった格好になるが、もはや引き返すことはできない。
遠ざかってゆく景色の中に、敵兵が谷底へ駆け降りて来るのが見えた。けれども今や全力でひた走る北斗の脚に、何をどうしたところで追いつくべくもない。
――谷底からの道は次第に細い渓谷となり、やがて登り坂となった。どうやら山へと続いているようだ。
ぎこちなくまわされた己の腕の中に、ルクレチアは動かなかった。どれほどの重傷なのか、意識があるのかさえわからない。
自然、五郎太の悪寒と腫れ物は治まらず、馬に乗っているのもやっとだった。だがこの期に及んで放り出すわけにもいかない。……またしても何の因果か、と内心に溜息をつきながら五郎太は馬を走らせた。
気が付けば既に夕暮れだった。いよいよ勾配を増してきた隘路の先には、黒々と木々が生い茂る山が聳えている。
夜の山には魔物か棲む――日ノ本の子供は皆そう言い聞かせられ育てられる。命知らずの五郎太にとっても、夜の山は畏ろしいものであった。
それでも五郎太は己を鼓舞し、腕の中の女性を介抱できる暗がりを求めて、大太郎坊が見下ろすように立ち塞がるその山を目指した。
北斗が駆け出さんとする刹那、五郎太は掛け声一閃、ルクレチアの馬の尻を強かに蹴りつけた。
短く嘶いて馬が飛び出してゆく。北斗の背にあって自らも盛んに鞭をくれながら、五郎太は喉も裂けよとばかりの大音声で兵どもに喚びかけた。
「敵襲ッ! 敵襲ぞ、各々方ッ! 直ちに退かれよッ!」
五郎太の喚びかけに押っ取り刀で馬の背に這い上がろうとする者、早くも撃たれたのか断末魔の声を上げる者。
その中にあって、演習に備え馬上の人となっていた鎧武者が、果敢にも頭上に向け撃ちかけようとしているのが五郎太の目に留まった。
「撃つなッ!」
五郎太が叫ぶのと、兵の鉄砲が火を噴くのとが同時だった。
刹那、驚いた馬が勢いよく駆け出し、背なる兵は悲鳴をあげ馬から転がり落ちた。
間髪を入れず上からの撃ちおろしが来る。一発目を受けてうずくまる兵に二発、三発と鉄砲の弾は降り注ぎ、たちまちその身体は動かなくなった。
(なんという惨い……)
兵の無惨な死に様に、北斗に鞭をくれながら五郎太は眉をひそめた。これだから鉄砲は好かぬ。名乗りをあげることも打ち合うことも許さず、ただ人を殺めるばかりの無粋な道具……。
だが、この期に及んで鉄砲を罵ったところでどうにもならない。兎にも角にもこの鉛弾の雨を遣り過ごし、虎口を脱するのが何よりも先決である。
その点、駆ける北斗の背にある五郎太には、鉄砲の弾はまず中らないと言っていい。
ここイスパニアの鉄砲がどれほどのものか、これまでの見聞で大体のところはわかった。連射が利くという点において日ノ本のそれより格段に優れたものであることに疑いはない。だが所詮、鉄砲は鉄砲である。あのエルゼですら闘技場を逃げまわる五郎太を仕留められなかったのだ。駆ける馬――まして北斗を狙い撃つことなどそうそうできるものではない。
けれども演習を行っていた兵どもは違う。折悪く大半の者が下馬しているところへ撃ちかけられたものだから、馬に乗ろうと右往左往している間に次々に狙撃されてゆく。ようやく馬の背に這い上がったところで撃たれて落馬する者の姿さえ見える。あれなら馬を捨て、走って逃げた方がまだ命を拾えるやもわからぬ。
かくなる上は将から退却の下知をくださねばならぬ。
突然の襲撃に思わず喚びかけてしまったが、ここは本来、五郎太が声を出していい場面ではない。現に、馬を駆けさせながらルクレチアの下知を待っている者が二三。どうにか乗馬できたものの、将の下知なく退くことができないでいるのだ。
だが、ルクレチアは馬上にあって動かない。馬の首にすがりつくように身を屈め、俯き加減に何かを思案している体だ。
いったいこの者は何をしているのか。そんな思いの中、五郎太はルクレチアに馬を寄せ、並びかけた。
「ルクレチア殿ッ! 下知をッ! あの者らに下知を早うッ!」
懸命の喚びかけにルクレチアは応えない。少し離れた所でまた一つ絶叫があがった。五郎太は思い余って、手にした鞭でルクレチアの腰を打った。
「……ッ!」
ルクレチアの顔が向けられた。きっ、と責めるようなきつい眼差しが五郎太を見据えた。
五郎太の中に怒りが生まれた。その怒りに任せて大声で吼えた。
「それでも将かッ! 疾く退却の下知を出されいッ!」
五郎太の一喝にルクレチアは瞠目し、今はじめて気づいたように周囲を見回した。
それからまた五郎太に頭を向け、苦しげな表情で「すまぬ」と呟いたあと、大きく息を吸い込んで一息に叫んだ。
「全軍直ちに退却せよッ!」
甲高い声が谷底に木霊して直後、ルクレチアの身体がぐらりと大きくよろめいた。驚きに目を見張る五郎太の隣で、半分面頬に覆われたその顔に脂汗を流しながら、助けを求めるようにルクレチアが馬の首にすがりつくのが見えた。
「ルクレチア殿ッ!」
五郎太の喚びかけにも返事はない。
すわ被弾していたのか! そう思って愕然とする五郎太の方へ、ルクレチアの身体がゆっくりと倒れてくる。咄嗟に五郎太は馬を寄せ、金色の鎧に包まれたその身体を抱きとめた。走る馬から落とさぬよう渾身の力でかかえこみ、しっかと己の腕の中に抱き寄せる。
「……っ!」
その途端、五郎太の背筋に悪寒が走った。総身の肌が粟立ち、そこかしこに腫れ物が浮かび上がってくる。
女の身体を抱いているのだから当然だった。けれどもその身体が堅い鎧に覆われているためか、あるいは五郎太自身それどころではないと観念しているからなのか、首筋までのぼってきた腫れ物はそこで止まり、馬上で気を失う憂き目にも遭わなかった。
「……」
背後を振り返る。主を喪った放れ駒の間に間に、必死に鞭をくれて馬を駆けさせている兵が数名。だが、こちらへ向かって来る者はいない。狙い撃ちされる死地から反対の方向へ逃れたのだ。軍勢がちりぢりに分かたれてしまった格好になるが、もはや引き返すことはできない。
遠ざかってゆく景色の中に、敵兵が谷底へ駆け降りて来るのが見えた。けれども今や全力でひた走る北斗の脚に、何をどうしたところで追いつくべくもない。
――谷底からの道は次第に細い渓谷となり、やがて登り坂となった。どうやら山へと続いているようだ。
ぎこちなくまわされた己の腕の中に、ルクレチアは動かなかった。どれほどの重傷なのか、意識があるのかさえわからない。
自然、五郎太の悪寒と腫れ物は治まらず、馬に乗っているのもやっとだった。だがこの期に及んで放り出すわけにもいかない。……またしても何の因果か、と内心に溜息をつきながら五郎太は馬を走らせた。
気が付けば既に夕暮れだった。いよいよ勾配を増してきた隘路の先には、黒々と木々が生い茂る山が聳えている。
夜の山には魔物か棲む――日ノ本の子供は皆そう言い聞かせられ育てられる。命知らずの五郎太にとっても、夜の山は畏ろしいものであった。
それでも五郎太は己を鼓舞し、腕の中の女性を介抱できる暗がりを求めて、大太郎坊が見下ろすように立ち塞がるその山を目指した。
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