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046 練兵(3)

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 不意に、それまでとは違うで五郎太を見つめ、あからさまな不満を込めた声でエルゼは訊ねてきた。

 レーチェというのはルクレチアのことで、エルゼは彼女のことを専らその名で呼ぶ。何でもエルゼとルクレチアにクリスを含めた三人は竹馬の友で、エルゼは幼少のみぎりよりずっとその名で彼女を呼んでいるのだという。

 ここでエルゼが訊ねてきたのは、五郎太が同行することになっている演習についてである。明日、ルクレチア麾下の鉄砲隊が某所で演習を行うという話を聞きつけた五郎太は、クリスに頼み込んでその演習へ随行させてもらうことになったのである。

「それについては、先程申した通りだ」

「あたしとしてはあんまり行ってほしくないんだけどなあ」

「ルクレチア殿がお前達にまつろわぬ面々の旗頭であることは聞き及んでおる。が、此度こたびはクリスに口を利いてもらったこともあり、体面を潰すわけにもいかぬ。ルクレチア殿にしてみても、そうした事情があるによって、よもや俺を害するような行為には及ぶまい」

「……そのへんは別に心配してないわよ。けど、なんか悪い予感がするのよねえ。精霊がざわざわするっていうか……こういうときのあたしのカンって、けっこうあたるんだけど」

「ふむ……虫の知らせのようなものか」

 言いながら、けだしそれだけではないのだろうな、と五郎太は思った。

 エルゼとルクレチア、この二人は幼馴染みでありながら、殊にここ最近は何かにつけて反目し合う犬猿の仲と言うべき間柄になり果ててしまったのだとクリスがこぼしていた。第一騎士団、第二騎士団それぞれの頭領である二人がそれではお国の将来が案じられてならぬ、とも。

 そうした事情もあってか、明日の演習に同行したいという五郎太の希望を、クリスは二つ返事で了承した。この際だから二人の仲を取り持ってくれという要求まで押し付けられそうになり、それについては慌てて拒否したものの、せめて己は真っさらな心持ちで明日に臨もうと決意したのである。

「済まぬが、明日のそれだけはどうしてもこの目で見ておきたいのだ。長の年月、こういった形もあり得るものかと、俺が思い描いてきたいくさの仕様であるによって」

「行くな、とは言わないわよ。実際、レーチェがやってることにはあたしも興味あるし。でもさあ……その、なんていうか、あの子も年頃の女の子じゃない? 近くで話すこととかもあるだろうし、大丈夫かなあ……みたいに思って」

 訴えるような目つきでちらちらと五郎太を窺いながら、何時になく歯切れの悪い調子でエルゼは言った。それで、五郎太にはエルゼが何を言わんとしているか察しがついた。

「心配は無用じゃ。組み付かれでもせぬ限り問題ない。少なくともこの間のように気をうしのうてしまうことはあるまい」

「ああ、もう! そういうこと言ってんじゃなくって!」

 堪りかねたように叫ぶと、エルゼは真っ赤になって俯いてしまう。

 そんなエルゼの姿を見て、五郎太はまたわからなくなった。……女嫌いである俺の身を案じてくれていたのではないのか。だが、そうだとすればエルゼが懸念しているのは――

「……ひょっとして、俺がルクレチア殿に横惚よこぼれせぬかとうたごうておるのか?」

「……逆よ。レーチェがゴロータのこと好きになっちゃうんじゃないかって、それが心配でしょうがないの」

 そこに至って、五郎太は思わず吹き出してしまった。当然の成り行きとして、エルゼはむくれた顔になる。

「なによ……笑わなくたっていいじゃない」

「ああいや、済まぬ済まぬ。だがルクレチア殿はクリスの許嫁であろう。俺とどうこうなる道理があるまい。何より、俺はそれほど女にもてぬわ」

「そこなのよ。あの子もエリクシルの創製でなくしちゃったものがあるんだけど、それ見てもあんたは悪く言わない気がするの。そしたらあの子もあたしみたいに……」

 大真面目にそう言うエルゼに、五郎太は笑うのを止めた。代わりに目の前で恥ずかしそうに俯く人への恋慕の情が、胸の奥にじんわりと込み上げてくるのを覚える。

 有り難いことだと思う。俺のような男を相手に、このような極上の女性にょしょうが心からの悋気をいだいてくれているのだ。まさしく恋女房である。いや、彼女をその名で呼ぶためにはまだ乗り越えねばならぬ山があるのだが……。

「ルクレチア殿がどう思うかはいざ知らず、俺は惚れた女子おなごとしか触れ合いとうない」

 エルゼの真摯な想いに応えるため、ランプの灯り越しに真っすぐエルゼを見て、五郎太は言った。

「そうして俺が惚れた女子は、この世でお前ただ一人じゃ」

「……そんなこと言って。浮気したら許さないんだから」

 五郎太の言葉にエルゼは益々真っ赤になり、落ち着かない様子でもじもじと身体をくねらせる。

「心配し過ぎであろう。そもそも浮気しようにも俺は――」

 言いかけて、五郎太はそこで詰まった。情けない思いがにわかに湧き起こり、五郎太の意識を真っ黒に埋め尽くしてゆく。

「寝よっか」

 そんな五郎太の様子に気付いたのかエルゼはそう言うと、五郎太の返事を待たずにランプの灯を消した。

 そのままエルゼは寝台に横たわり、薄い夜具を身体にかける。五郎太はそのあとに続き、寝台の隅に寝転んで夜具の端に潜り込んだ。

 指一本触れられぬ――もはや口癖か何かのように五郎太が頭の中で繰り返しているそれは、実のところ正しくない。

 畳三帖分はあろうかという大きな寝台。その寝台に二人並んで身体を横たえ、どうにか指先同士を触れられるまでになった。ここ数日間の成果である。

 遠く伸ばした腕の先の、小指だけをそっと絡めて眠る。エルゼが五郎太に課したそれは、呪わしい宿痾を克服するための鍛錬であり、同時に二人の絆を確かめる毎晩の習慣になりつつあった。

 ……ここのところ五郎太のしんが足りていない理由もそのあたりにある。エルゼは寝台に横たわってすぐ寝息を立てはじめるのだが、諸般の事情により、五郎太の方はなかなかに寝付かれないのである。

 いずれにしても明日はあの鉄砲隊の演習をじかに拝見できる。……己がずっと胸に思い描いてきたいくさの仕様。それを試みようとしている軍勢の有りようを、しかとこの目で確かめなければならぬ。そんな思いの中、五郎太は我が身に眠りが訪れるのを待った。

 ――この時点で、ある意味エルゼが言い当てたかの如く、次の夜をルクレチアと二人で明かすことになろうとは、五郎太は夢にも思わなかった。
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