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043 近習(8)
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「……やれやれ」
五郎太は呟いて、近くにあった石造りの椅子に腰掛けた。眼前に広がる手入れの行き届いた庭園の風景を眺め、しばし物思いに耽った。
クリスに仕えようか仕えるまいか……気が付けばもうそんな話ではなくなっているようだ。
世継ぎの件は別にしても、本人の意思とは離れたところで周囲の者は既に俺をクリスの近習と見ている――そんな思いの中に、五郎太はまたひとつ溜息をついた。
「二君に仕える……か」
そのことを思って、五郎太は総身の力が抜けるような感覚を覚えた。
……これについては、我が事ながら悩みすぎているようにも思う。茶の湯の席でエルゼに指摘された通り、お屋形様は既に亡くなられている。そのことを思えば、自分がクリスに仕えることは、厳密には二君に仕えるにはあたらないのではないか。
「――それに、お屋形様とて」
……そうなのである。実のところ、お屋形様も二君に仕えていた時期があるのだ。
足利の公方様にお仕えしながら右大将様との間を取り持っているうち、どういうわけかそのお二方から扶持を賜るようになったのだと、あるときお屋形様は笑ってそう申されていた。
よくよく考えてみれば奇妙な話である。なぜそのように出鱈目なことになり得たのか皆目わからぬ。公方様と右大将様が諸共に余程お屋形様の才を買っていたとしか思えない。
とまれ、少なくとも一時、お屋形様は間違いなく二君に仕えていた。そのことを思えばお屋形様亡き今、自分がクリスの禄を食むのが当のお屋形様への裏切りになるとは到底思えぬ……。
『この国にはきっとゴロータの居場所がある。あたしはそう思うの』
そして何より、乱世であるというのが良い。
この国もいつまで保つかわからぬ――先程、あの道化もそのようなことを言っていた。泰平の世にぬくぬくと生かされるのであれば真っ平だが、お屋形様のために死に損なったこの俺に死に場所を与えてくれると言うのであれば、まったくもって吝かではない。
出来れば戦場が良い。だが、別段そうでなくとも構わない。クリスのために死ぬのでも――或いは惚れた女のために死ぬのでも良い。
「……ふ」
このような異国で巡り逢うた女性と――と、未だに信じられぬ思いはあるが、どうやら自分とエルゼは深いところで好き合うているようだ。であれば、その女のために死ぬるというのも、この際、さして悪い死に様でもないように思う。
だが、それにしても――
「……俺の子が、イスパニアの王になるなどと」
思わず乾いた笑いが込み上げてくる。
そのようなことにもなり兼ねないということが理屈ではわかっても、余りに突拍子もない話に心は付いて来ない。かかる話を日ノ本の輩が聞いたら何と思うであろう。与太話と笑われるか、それとも気が触れたと思われるのが落ちか。
「そもそも指一本触れられぬでは子ができる道理がないわ」
そう独り言ちて、遂に五郎太は吹き出した。
捕らぬ狸の皮算用にも程がある。惚れ合うた女子を抱くこともできぬくせに、子が王になるだのならぬだのと、まったく片腹痛い。
一頻り笑い続けるなか、五郎太はふと仰け反って天を仰いだ。
ひゅっ、と音を立てて、五郎太の頭のあった場所を過っていくものがあった。
「……」
反射的に五郎太は脇差を抜き、擲っていた。けれども脇差は少し離れた地面に、小さな音を立て虚しく落下した。
逆の方を見た。通常のものに比べ半分程しかない短い矢が、木の幹に深々と突き刺さっているのが見えた。
もう一度、脇差を投げた方を見た。
そこには、誰もいなかった。殺気もなければ、誰かがそこにいたという形跡すらない。
五郎太は立ち上がり、脇差に歩み寄ってそれを拾い上げた。そしてもう一度周囲に誰もいないことを確認し、音もなく脇差を鞘に戻した。
「そうこなくてはな」
そう呟いて、五郎太はむしろ嬉しそうに口許に笑みを浮かべた。
五郎太は呟いて、近くにあった石造りの椅子に腰掛けた。眼前に広がる手入れの行き届いた庭園の風景を眺め、しばし物思いに耽った。
クリスに仕えようか仕えるまいか……気が付けばもうそんな話ではなくなっているようだ。
世継ぎの件は別にしても、本人の意思とは離れたところで周囲の者は既に俺をクリスの近習と見ている――そんな思いの中に、五郎太はまたひとつ溜息をついた。
「二君に仕える……か」
そのことを思って、五郎太は総身の力が抜けるような感覚を覚えた。
……これについては、我が事ながら悩みすぎているようにも思う。茶の湯の席でエルゼに指摘された通り、お屋形様は既に亡くなられている。そのことを思えば、自分がクリスに仕えることは、厳密には二君に仕えるにはあたらないのではないか。
「――それに、お屋形様とて」
……そうなのである。実のところ、お屋形様も二君に仕えていた時期があるのだ。
足利の公方様にお仕えしながら右大将様との間を取り持っているうち、どういうわけかそのお二方から扶持を賜るようになったのだと、あるときお屋形様は笑ってそう申されていた。
よくよく考えてみれば奇妙な話である。なぜそのように出鱈目なことになり得たのか皆目わからぬ。公方様と右大将様が諸共に余程お屋形様の才を買っていたとしか思えない。
とまれ、少なくとも一時、お屋形様は間違いなく二君に仕えていた。そのことを思えばお屋形様亡き今、自分がクリスの禄を食むのが当のお屋形様への裏切りになるとは到底思えぬ……。
『この国にはきっとゴロータの居場所がある。あたしはそう思うの』
そして何より、乱世であるというのが良い。
この国もいつまで保つかわからぬ――先程、あの道化もそのようなことを言っていた。泰平の世にぬくぬくと生かされるのであれば真っ平だが、お屋形様のために死に損なったこの俺に死に場所を与えてくれると言うのであれば、まったくもって吝かではない。
出来れば戦場が良い。だが、別段そうでなくとも構わない。クリスのために死ぬのでも――或いは惚れた女のために死ぬのでも良い。
「……ふ」
このような異国で巡り逢うた女性と――と、未だに信じられぬ思いはあるが、どうやら自分とエルゼは深いところで好き合うているようだ。であれば、その女のために死ぬるというのも、この際、さして悪い死に様でもないように思う。
だが、それにしても――
「……俺の子が、イスパニアの王になるなどと」
思わず乾いた笑いが込み上げてくる。
そのようなことにもなり兼ねないということが理屈ではわかっても、余りに突拍子もない話に心は付いて来ない。かかる話を日ノ本の輩が聞いたら何と思うであろう。与太話と笑われるか、それとも気が触れたと思われるのが落ちか。
「そもそも指一本触れられぬでは子ができる道理がないわ」
そう独り言ちて、遂に五郎太は吹き出した。
捕らぬ狸の皮算用にも程がある。惚れ合うた女子を抱くこともできぬくせに、子が王になるだのならぬだのと、まったく片腹痛い。
一頻り笑い続けるなか、五郎太はふと仰け反って天を仰いだ。
ひゅっ、と音を立てて、五郎太の頭のあった場所を過っていくものがあった。
「……」
反射的に五郎太は脇差を抜き、擲っていた。けれども脇差は少し離れた地面に、小さな音を立て虚しく落下した。
逆の方を見た。通常のものに比べ半分程しかない短い矢が、木の幹に深々と突き刺さっているのが見えた。
もう一度、脇差を投げた方を見た。
そこには、誰もいなかった。殺気もなければ、誰かがそこにいたという形跡すらない。
五郎太は立ち上がり、脇差に歩み寄ってそれを拾い上げた。そしてもう一度周囲に誰もいないことを確認し、音もなく脇差を鞘に戻した。
「そうこなくてはな」
そう呟いて、五郎太はむしろ嬉しそうに口許に笑みを浮かべた。
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