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040 近習(5)
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メロメの言葉に、二人は無言でじっと五郎太を見つめる。毛穴の数まで数え上げんとするが如き視線の圧を受けながら、五郎太は歯を食いしばってその恥辱に耐えた。
……惚気ならまだ良い。だが、これは惚気にすらならない。口にするのも情けない女嫌いという積年の病を、将来の妻と成り得る者の助力により治さんと試みている最中なのである。
救いがあるとすれば、この問題に取り組むエルゼの態度であろう。当事者の一方であるエルゼは、クリスが苦言を呈したその状況をまったく苦にしないばかりか、むしろ嬉々として楽しんでいる節さえある。
だが、五郎太は違う。エルゼへの申し訳なさと己への情けなさとで憤懣遣る方なく、あまつさえいつでも抱いて良いと言われながら、触れたくとも触れられぬ女体を夜毎に眺め、正に垂涎ものの大御馳走を前に吐き気を堪えて身悶えるような曰く言い難い拷問の日々を送っているのである。
押し黙る五郎太の胸の内を知ってか知らずか、メロメはやおら夢見る童女のような華やいだ表情を浮かべると、芯から嬉しそうな声で言った。
「ただひとつだけ確かなのはぁ、エルゼベート様は生まれてはじめての恋をしてらっしゃるということでございますぅ!」
「ああ、それな。オレもウチの妹があんな風になっちまうなんて思ってもみなかったぜ。なにせ『わたくしはもうゴロータ様とでなければ生涯誰とも結婚致しませぬ』とまで言い切られちまったからなあ」
エルゼはそんなことまで口にしたのか……追い討ちをかけられたように更なる羞恥でいっぱいになる五郎太を、またぞろ二人分の眼差しがじっと見つめる。そしてまた歯噛みしてそれを遣り過ごそうと必死になる五郎太。
「それにしてもこのお兄さんの何がそこまであのエルゼベート様の乙女心を鷲掴みにしたのか、ボクとしてはそのあたりにとっても興味がありますねえ」
「それなんだがな、こないだウチの妹にちょっと聞いてみたところが――」
そう言ってクリスはぼそぼそとメロメに耳打ちする。やがて驚きに大きく目を見開いたメロメが、世紀の秘事でも打ち明けられたように辺り構わぬ大声で叫んだ。
「ええ!? あのエルゼベート様が頬を赤らめて『あのお方の前ではわたくしはか弱い一人の娘でいられる』ですって!?」
「バッカ、声がデカいって! 誰かに聞かれたらどーすんだ」
そう言って、さも大事と言うように顔を見合わせあったあと、二人は揃ってちらりと五郎太に目を遣る。ちらり、ちらりと。
芝居がかったその仕草に調子を合わせる気にもなれず、唯々歯を食いしばって耐える五郎太などお構いなしに、二人は尚もその狂言じみた掛け合いを続ける。
「ということは、やっぱりエルゼベート様の方がお兄さんにホの字ってことになるんでござりましょうか?」
「いや、どうもそればっかりじゃないらしい。こないだウチの妹にちょっと聞いてみたところが――」
そう言ってクリスはまたしてもメロメに耳打ちする。そうして先程のそれを焼き直すように目を丸くしたメロメが勝ち鬨のような大声で叫ぶ。
「ええ!? あのエルゼベート様がもじもじと恥じらいながら『この世でお前が一番美しいとあのお方にはっきり言われた』ですって!?」
「バッカ、声がデカいって! 誰かに聞かれたらどーすんだ」
クリスは口の前に指を立ててそう言い、メロメと顔を見合わせると、やはり二人揃ってちらりと五郎太に目を遣る。ちらり、ちらりと。
このような猿芝居にはとてもではないが付き合うていられぬ……そう思いながら、さりとて逃げ出すこともできず、もはや羞恥とも怒りともわからぬ情念のため真っ赤になった顔を俯かせて、五郎太は声も出せずにいた。
そこへ、それまでより幾分真摯なクリスの声が掛かった。
「なあ、ゴローさんよ。ダンマリを決め込むのもいいが、妹を思うオレの気持ちも少しは慮ってくれねーか」
「……」
「オレとしちゃ、二人が望まない縁談を押し付けちまったんじゃねーかって負い目がある。実際のところ、オマエがウチの妹のことどう思ってんのか、兄として率直なところを聞かせて欲しいんだわ」
薄ら笑いを浮かべてそう言うクリスからは妹への思い遣りなど微塵も感じられない。だがその一方において、言っていることは至極もっともなようにも聞こえる。
両親亡き今、唯一人残った妹の仕合わせを案ずる兄の言であることを思えば無碍にはできない。そう思い、五郎太は大きく溜息をついた。
「……俺に言えることはひとつだけよ。あれほど可憐でいじらしい女子を、俺は他に知らぬ」
口にした本人ならずとも赤面を禁じ得ない初な人物評はその実、嘘偽りのない五郎太の本心でもあった。羞恥に身を焼きながら五郎太は、どれ程にやついた顔で己を見ているのであろうかと二人を垣間見た。
だが、クリスとメロメは揃ってあんぐりと口を開け、呆けたように五郎太を見ていた。やがて二人はゆっくりと顔を見合わせ、苦笑いのようで苦笑いではない何とも微妙な表情を浮かべ、口を開いた。
「『火炎でイビるらしい』の聞き間違い……かとも思ったんですが、どうやらそうでもないようで」
「ああ……『可憐でいじらしい』か。帝国広しと言えどもウチの妹のことそんな風に言うやつ、こいつくらいだろうなあ」
呆然とした表情を顔に張り付けたまま、クリスとメロメは感に堪えたと言うように何度も頷き合っている。
そんな二人の様子を横目に眺めながら、五郎太はにわかに苛立ちを覚え始める自分を感じていた。己が小馬鹿にされるだけならまだ良い。だがあの凛々しくも美しい女性まで一絡げにして嘲弄するのは断じて捨て置けぬ。たとえそれがこの国の太守であっても……。
「ま、あいつがゴローに夢中になるわけが何となくわかった。これからもひとつその調子で頼むぜ。さっきも言った通り、あのジャジャ馬をここの厩につなぎとめておくことがこの国の至上命題なわけだからな」
「……おい、クリス。口の聞き方に気を付けよ。あの老爺にも言ってやりたかったのだが、いかな兄とは言え一国の姫を馬呼ばわりは――」
「あ、そういや用事あったの思い出した」
わずかに怒気を孕んだ五郎太の警句をそんな言葉で遮ると、クリスは踵を返し、「そんじゃな」と言って元来た道を駆け戻っていった。
気勢を削がれた五郎太は最初呆気にとられ、それからしばらく口の中でぶつぶつ呟いていたが、やがて頭の裏を乱暴に掻きむしり、気持ちを切り替えるように大きくひとつ息をついた。
「……まったく。人をさんざんにお嘲繰りよってからに」
「んー、どうだろ。お兄さんはあれ、からかってただけだと思う?」
……惚気ならまだ良い。だが、これは惚気にすらならない。口にするのも情けない女嫌いという積年の病を、将来の妻と成り得る者の助力により治さんと試みている最中なのである。
救いがあるとすれば、この問題に取り組むエルゼの態度であろう。当事者の一方であるエルゼは、クリスが苦言を呈したその状況をまったく苦にしないばかりか、むしろ嬉々として楽しんでいる節さえある。
だが、五郎太は違う。エルゼへの申し訳なさと己への情けなさとで憤懣遣る方なく、あまつさえいつでも抱いて良いと言われながら、触れたくとも触れられぬ女体を夜毎に眺め、正に垂涎ものの大御馳走を前に吐き気を堪えて身悶えるような曰く言い難い拷問の日々を送っているのである。
押し黙る五郎太の胸の内を知ってか知らずか、メロメはやおら夢見る童女のような華やいだ表情を浮かべると、芯から嬉しそうな声で言った。
「ただひとつだけ確かなのはぁ、エルゼベート様は生まれてはじめての恋をしてらっしゃるということでございますぅ!」
「ああ、それな。オレもウチの妹があんな風になっちまうなんて思ってもみなかったぜ。なにせ『わたくしはもうゴロータ様とでなければ生涯誰とも結婚致しませぬ』とまで言い切られちまったからなあ」
エルゼはそんなことまで口にしたのか……追い討ちをかけられたように更なる羞恥でいっぱいになる五郎太を、またぞろ二人分の眼差しがじっと見つめる。そしてまた歯噛みしてそれを遣り過ごそうと必死になる五郎太。
「それにしてもこのお兄さんの何がそこまであのエルゼベート様の乙女心を鷲掴みにしたのか、ボクとしてはそのあたりにとっても興味がありますねえ」
「それなんだがな、こないだウチの妹にちょっと聞いてみたところが――」
そう言ってクリスはぼそぼそとメロメに耳打ちする。やがて驚きに大きく目を見開いたメロメが、世紀の秘事でも打ち明けられたように辺り構わぬ大声で叫んだ。
「ええ!? あのエルゼベート様が頬を赤らめて『あのお方の前ではわたくしはか弱い一人の娘でいられる』ですって!?」
「バッカ、声がデカいって! 誰かに聞かれたらどーすんだ」
そう言って、さも大事と言うように顔を見合わせあったあと、二人は揃ってちらりと五郎太に目を遣る。ちらり、ちらりと。
芝居がかったその仕草に調子を合わせる気にもなれず、唯々歯を食いしばって耐える五郎太などお構いなしに、二人は尚もその狂言じみた掛け合いを続ける。
「ということは、やっぱりエルゼベート様の方がお兄さんにホの字ってことになるんでござりましょうか?」
「いや、どうもそればっかりじゃないらしい。こないだウチの妹にちょっと聞いてみたところが――」
そう言ってクリスはまたしてもメロメに耳打ちする。そうして先程のそれを焼き直すように目を丸くしたメロメが勝ち鬨のような大声で叫ぶ。
「ええ!? あのエルゼベート様がもじもじと恥じらいながら『この世でお前が一番美しいとあのお方にはっきり言われた』ですって!?」
「バッカ、声がデカいって! 誰かに聞かれたらどーすんだ」
クリスは口の前に指を立ててそう言い、メロメと顔を見合わせると、やはり二人揃ってちらりと五郎太に目を遣る。ちらり、ちらりと。
このような猿芝居にはとてもではないが付き合うていられぬ……そう思いながら、さりとて逃げ出すこともできず、もはや羞恥とも怒りともわからぬ情念のため真っ赤になった顔を俯かせて、五郎太は声も出せずにいた。
そこへ、それまでより幾分真摯なクリスの声が掛かった。
「なあ、ゴローさんよ。ダンマリを決め込むのもいいが、妹を思うオレの気持ちも少しは慮ってくれねーか」
「……」
「オレとしちゃ、二人が望まない縁談を押し付けちまったんじゃねーかって負い目がある。実際のところ、オマエがウチの妹のことどう思ってんのか、兄として率直なところを聞かせて欲しいんだわ」
薄ら笑いを浮かべてそう言うクリスからは妹への思い遣りなど微塵も感じられない。だがその一方において、言っていることは至極もっともなようにも聞こえる。
両親亡き今、唯一人残った妹の仕合わせを案ずる兄の言であることを思えば無碍にはできない。そう思い、五郎太は大きく溜息をついた。
「……俺に言えることはひとつだけよ。あれほど可憐でいじらしい女子を、俺は他に知らぬ」
口にした本人ならずとも赤面を禁じ得ない初な人物評はその実、嘘偽りのない五郎太の本心でもあった。羞恥に身を焼きながら五郎太は、どれ程にやついた顔で己を見ているのであろうかと二人を垣間見た。
だが、クリスとメロメは揃ってあんぐりと口を開け、呆けたように五郎太を見ていた。やがて二人はゆっくりと顔を見合わせ、苦笑いのようで苦笑いではない何とも微妙な表情を浮かべ、口を開いた。
「『火炎でイビるらしい』の聞き間違い……かとも思ったんですが、どうやらそうでもないようで」
「ああ……『可憐でいじらしい』か。帝国広しと言えどもウチの妹のことそんな風に言うやつ、こいつくらいだろうなあ」
呆然とした表情を顔に張り付けたまま、クリスとメロメは感に堪えたと言うように何度も頷き合っている。
そんな二人の様子を横目に眺めながら、五郎太はにわかに苛立ちを覚え始める自分を感じていた。己が小馬鹿にされるだけならまだ良い。だがあの凛々しくも美しい女性まで一絡げにして嘲弄するのは断じて捨て置けぬ。たとえそれがこの国の太守であっても……。
「ま、あいつがゴローに夢中になるわけが何となくわかった。これからもひとつその調子で頼むぜ。さっきも言った通り、あのジャジャ馬をここの厩につなぎとめておくことがこの国の至上命題なわけだからな」
「……おい、クリス。口の聞き方に気を付けよ。あの老爺にも言ってやりたかったのだが、いかな兄とは言え一国の姫を馬呼ばわりは――」
「あ、そういや用事あったの思い出した」
わずかに怒気を孕んだ五郎太の警句をそんな言葉で遮ると、クリスは踵を返し、「そんじゃな」と言って元来た道を駆け戻っていった。
気勢を削がれた五郎太は最初呆気にとられ、それからしばらく口の中でぶつぶつ呟いていたが、やがて頭の裏を乱暴に掻きむしり、気持ちを切り替えるように大きくひとつ息をついた。
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