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030 初夜(6)

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 ――美しく着飾った童女わらわめの姿を見ている。

 幾本もの蝋燭に童女はぐるりを囲われている。明々と灯る火に照らされるかんばせうっすらと化粧しているようで、まだとおにも満たないものと見受けられるその肢体になまめかしい花を添えている。

 これは己が夢幻の中に見ている像である――と、五郎太にはそれがわかった。あの昼下がりの蔵で、下女の大きく開いた袂からまろび出る胸乳を押し付けられ、今と同じように暗闇へ落ちたときにも、俺はこの像を見ていた……。

 こうなってはじめてそのことを思い出し、再び女のために気を失った自分がまたこうしてこの童女を眺めている不思議を思いながら、五郎太は、夢幻の中に浮かび上がる童女の、その愛くるしい姿を観照した。

 肩できれいに切り揃えられた振分髪ふりわけがみは蝋燭の火に照らされ、水に濡れたように輝いている。色とりどりの唐衣からぎぬを身に纏った華奢なその姿は、たくみの手によって精緻に組上げられた雛人形のようだ。

 ただほうけたように唇を半開きにし、涎さえ垂らしている虚ろな表情がその印象を裏切っていた。

 見れば、童女の膝元には香炉が置かれており、そこから立ち上る煙が薄ぼんやりと童女を取り巻いている。……何か如何いかがわしい香でも嗅がされているものと見える。麝香じゃこうのように甘ったるこいその匂いまで、五郎太にはありありと感じられる。

 やがて童女の前に、年嵩としかさのいった僧が姿を見せる。でっぷりと肥え太り、酒焼けした顔に好色の薄笑いを貼り付けた僧は、童女の腕を引いて立たせ、隣の部屋へと続く襖を引き開ける。

 襖の奥の暗がりには閨がしつらえられている。童女は僧に腕引かれるまま、その薄暗い閨の中へと消えてゆく。襖が閉ざされる。そこに至って五郎太は遂に堪りかね、固く眼をつむり、両の掌で耳を閉ざす。

 ――その襖の向こう側で何が行われようとしているのか、五郎太は知っているのである。

 果たして襖の向こうからくぐもった童女の悲鳴が聞こえはじめる。耳朶じだが潰れるほど強く耳を押さえつけても、悲鳴は頭の中にまでじかに響いてくる。声ならぬ声で叫びながら、五郎太はその声を遣り過ごさんと躍起になる。

 悲鳴はやがて泣き声に変わる。苦痛に喘ぐ童女の泣き声が、地獄に救いを求めるように大きくなり、また小さくなる。五郎太はもう堪らず、己の頭を割れんばかりに締め上げながら、只々ただただその閨の中の有様から目を背け、耳を塞ごうとする。

 ――だが、やがて五郎太は己の耳に届く泣き声が童女のそれとは別のものに成り代わっていることに気付いた。

 恐る恐る目を開ける。そこに五郎太は、ランプの灯を受けて一人椅子に腰かけ、悄然とうなだれるエルゼベートの姿を見た。

 薄暗い部屋の中、何かをこらえるように下唇を噛み、膝に置いた手で夜着を握り締め小さく肩を震わせてエルゼベートは一人、涙を流していた。

 その姿を目にした五郎太は胸を掻きむしられるような思いで、再び声ならぬ声をあげはじめる。

(……泣かせるつもりはなかった。お前様を泣かせるつもりはなかった)

 だがエルゼベートに、五郎太の声は届かない。

 この世に二人とない剽悍ひょうかんにして高貴なる姫君が、己の至らなさのために泣き濡れている。その哀れな絵に、五郎太はもう矢も盾も堪らず、届くことのない声ならぬ声で唯ひたすらに叫び続けた――

* * *

 ――夢から覚めたときには、既に朝であった。

 夢現ゆめうつつの中にしばし見慣れぬ天井を眺めていた五郎太は、程なくしてがばと跳ね起き――果たせるかな、そこにエルゼベートの姿を見た。

 夢の中さながら、部屋の隅の椅子に腰掛けていたエルゼベートは、五郎太が身を起こすや弾かれたように五郎太を見て椅子を立ちかけ、けれども立ち上がることなくまた悄然と俯いてしまう。

「お目覚めになられたのですね……良かった」

「これは……いったい、どういう……」

 己の置かれた状況が掴めずに狼狽する五郎太を気遣わしげな目で見つめたあと、静かな声でエルゼベートは言った。

「昨夜、ゴロータ様は気を失ってしまわれたものでありますから……」

「……それをエルゼベート殿が、朝まで看病を……?」

「はい……どうやらわたくしのせいのようでありましたので」

 消え入るような声でそう告げるエルゼベートのげんに、五郎太への皮肉の臭いはなかった。代わりに身を焼くような含羞の色が、その言の葉からはまざまざと感じられた。

 ぼんやりとした朝日を受けるエルゼベートの面差おもざしは、心無し昨日よりもやつれて見えた。――ずきり、と五郎太の胸が痛んだ。

「重ね重ね申し訳ありませんでした。ゴロータ様のお気持ちも考えず、わたくしは何というはしたない真似を……」

「いや……違うのだ、エルゼベート殿。俺は――」

 言いかける五郎太を、エルゼベートは小さく頭を振って抑えた。それから、どこか泣き腫らしたようにも見える、真摯な目で五郎太を見た。

「ゴロータ様……貴方様のそのやさしさは、時として残酷ともなり得るものです。もしわずかなりとも今のわたくしを哀れにお思いでしたら、そのことをお心の片隅にでも留め置き下さいませ」

 エルゼベートの言葉に、五郎太は何も返せない。……何か返さねばと思いはするのだが、言葉が出てこない。

「……婚約に関しましては、わたくしから兄に断りを入れます。わたくしは負けを認めていない……そう言えば、兄もそれ以上は押してこないでしょう」

 エルゼベートはそう言って再び目を伏せる。そのまましばらく俯いていたあと……わずかに逡巡する様子を見せて、それからまた五郎太に向き直り、真っすぐに背筋を伸ばして言った。

「ただひとつ……皇女ではなく、貴方様に恋したただの娘として、ひとつだけ恨み言を許していただけるのなら……わたくしのことが気に入らなかったなら気に入らなかったで、はっきりそう仰っていただきたかった……」

 そう言って、一条ひとすじの涙がエルゼベートの頬をつたい落ちた。

 息をくこともできず、五郎太はその姿を見守っていた。

 かける声が見つからなかったのではない。生まれたての朝日の中、苦しい胸の内を告げ涙する女の――そのあまりのいじらしさに、声をかけることが躊躇われたのだ。

「これ以上はもう……失礼致します」

 そう言ってエルゼベートは椅子を立ち、足早に部屋を出ていこうとする。

「エルゼベート殿」

 そこではじめて、五郎太は声を出した。

 五郎太の声にエルゼベートは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。その頬を、また一条の涙がつたい落ちてゆく。

「……ただの一度。一度きりで良い。どうか俺に、申し開きの機会をいただけぬか」

 喉の奥から絞り出すような、五郎太の声だった。

 扉に手をかけ、頭だけ見返ったぎこちない姿勢のまま、エルゼベートはいつまでも五郎太を見つめ、動かなかった。
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