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017 死合い(1)
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「……はあ。まったく何の因果でこのようなことに」
薄暗い坑道で鉄格子の門が開くのを待ちながら、五郎太は深い溜息をついた。
あの門が開いたとき、ともすれば己の嫁になるかも知れない女性と死合うことになる。そのことを思って、五郎太は総身に深い脱力を覚えた。
……別段、誰に非がある話でもない。行きががり上そうなったというだけのことだ。非があるとすればクリスにあるのだが、事の性質を考えれば一概にクリスばかりを責められない事情もあり、いわば振り上げた拳の落とし所がない憤懣を抱えたまま五郎太はここに立っているのである。
憤懣を抱えているのは五郎太ばかりではない。あの謁見の間での顛末を思えば、死合いの相手である女性こそ遣る方なき憤懣に身を揉んでいるだろうことは容易に想像がつく。
そもそもの発端となったのは昨日。都合三日にわたる道程の果てにようやく辿り着いた都で、クリスに引き回されるままに登城し諸侯が居並ぶ広間へ通されたときのことだ――
* * *
「――以上のように、此度のこの者の働きは絶大であり、帝国の威信に懸け最大限の栄誉をもって称えなければならぬ。よってこの者を子爵位に叙し、我が妹であるエルゼベートと娶せることを、エスペラス帝国皇帝の名においてここに宣言する」
「……あ?」
五郎太が間の抜けた声をあげて隣に目を遣るのと居並ぶ諸侯からおお、という歓声があがるのとが同時だった。
「おいクリス、世迷言を申すな! 聞いておらぬぞ!」
五郎太が衆目を憚らずクリスに食ってかかったのはある意味、当然のことだったと言えよう。さすがに声は抑えたが、言葉遣いは道中でのそれに戻っていた。そんな五郎太にクリスは悪びれもせず、してやったりと言わんばかりの薄笑いを浮かべると、唇を五郎太の耳元に寄せて言った。
「命救ってくれた礼はちゃんとするって言ったろ? オマエをオレの義弟にしてやろうって言ってんだ。スゲエだろ」
「だからそんな話は聞いておらぬと言っておろうが!」
「当たり前だろ、驚かせようと思って言ってなかったんだからよ」
「二人の時ならいざ知らずこのような場でそんな子供じみた真似をするものではないわ! お前はこの者達の主君であろうが!」
家臣である彼等の前でクリスの面目を潰すことはできない。そう思いながらも五郎太は口から出る言葉を止められなかった。
子爵位とやらに叙するだの何だのといった話はまあ良い。仔細はわからぬが官位の類であろう。官位など何処の大名家でも好き勝手に家臣に名乗らせているのだし、いずれ己も名乗るものかと漠然と考えてはいた。お屋形様から賜ったのであれば感激のひとつもしたであろうが、数日前に出会った者に行きがけの駄賃のように与えられて嬉しかろうはずもない。とまれ、この国の官位など自分には毒にも薬にもならぬのだからくれると言うのなら有難く貰っておくまでのことだ。
嫁娶の話はそれとはまったく次元が異なる。結局、クリスが押し切る形で最後まで二人旅となった行路の果てに見たこともない家々が建ち並ぶ都と壮麗な城を目の当たりにし、更にはその城で下にも置かぬ歓待を受けるに及んで、五郎太は己が共に旅してきたのが思っていた通り大名にあたる者であると認めざるを得なかった。
その大名が、命の恩人とは言え数日前に逢ったばかりのどこの馬の骨とも知れぬ者に、まるで犬の仔でもくれてやるように妹を娶らせるなどと放言しているのである。五郎太のような男にとって、それは到底容認できる話ではなかった。
あまつさえ、五郎太自身の事情もある。お屋形様の元にありし頃も、早く身を固めよと御歴々に娘を娶らされそうになるのをぬらりくらりとかわしてきたのは、女に触れられぬという五郎太の切ない事情もあってのことである。そのような男の元に嫁いではその女子も哀れ、情けなさを味わう己も哀れであろうと頑なに拒んできた嫁娶をこのような形で押し付けられることになろうとは、五郎太は夢にも思わなかった。
ましてそのあたりの事情をこの殿様は熟知しているのである。例外であることがはっきりしているクリス自身が嫁に来るというのならまだしも、自分の妹を看々不幸な目に遭わせるやも知れぬ縁組みを平然とぶち上げるとは、この者はいったい何を考えているのか……。
「いずれにせよこの縁談は無理だ。まだ間に合うによって、今すぐ取り消せ」
「はぁ? なんで取り消さなきゃなんねーんだよ」
「そもそも我等は登城してから真っ直ぐここに来たではないか。肝心の妹御にその話は――」
「――お兄様」
と、居並ぶ諸侯の間から一人の女がクリスと五郎太の前に進み出た。どうやら問題の妹御がお出ましのようだ。そう思って目を遣った五郎太は、己の前に現れた女性の姿を目にして凍りついたようになった。
(なんという美しさだ……!)
五郎太は息をするのも忘れてその姿に見入った。兄妹――もとい姉妹だけあってその顔かたちはクリスとよく似ている。だがどちらかといえば眼が大きく優しげなクリスの顔に比べ、妹御のすっと通った鼻筋と切れ長の目は見た者にきつい印象を与える。実のところ、五郎太はこの手のきつめの美人が壊滅的に好みなのである。
そして何より五郎太の心の臓を鷲掴みにしたのはその黒髪であった。腰までもあろうかというその長い黒髪は水も滴るような輝きに満ち、それが己の好みの中心に突き刺さる顔と合わさることで、目の前に立つ女の容色に五郎太はある種蠱惑的な魅力を見ずにはいられないのであった。
「おおエルゼベート、我が妹よ。余はそなたのためにまたとない夫を連れて参ったぞ」
薄暗い坑道で鉄格子の門が開くのを待ちながら、五郎太は深い溜息をついた。
あの門が開いたとき、ともすれば己の嫁になるかも知れない女性と死合うことになる。そのことを思って、五郎太は総身に深い脱力を覚えた。
……別段、誰に非がある話でもない。行きががり上そうなったというだけのことだ。非があるとすればクリスにあるのだが、事の性質を考えれば一概にクリスばかりを責められない事情もあり、いわば振り上げた拳の落とし所がない憤懣を抱えたまま五郎太はここに立っているのである。
憤懣を抱えているのは五郎太ばかりではない。あの謁見の間での顛末を思えば、死合いの相手である女性こそ遣る方なき憤懣に身を揉んでいるだろうことは容易に想像がつく。
そもそもの発端となったのは昨日。都合三日にわたる道程の果てにようやく辿り着いた都で、クリスに引き回されるままに登城し諸侯が居並ぶ広間へ通されたときのことだ――
* * *
「――以上のように、此度のこの者の働きは絶大であり、帝国の威信に懸け最大限の栄誉をもって称えなければならぬ。よってこの者を子爵位に叙し、我が妹であるエルゼベートと娶せることを、エスペラス帝国皇帝の名においてここに宣言する」
「……あ?」
五郎太が間の抜けた声をあげて隣に目を遣るのと居並ぶ諸侯からおお、という歓声があがるのとが同時だった。
「おいクリス、世迷言を申すな! 聞いておらぬぞ!」
五郎太が衆目を憚らずクリスに食ってかかったのはある意味、当然のことだったと言えよう。さすがに声は抑えたが、言葉遣いは道中でのそれに戻っていた。そんな五郎太にクリスは悪びれもせず、してやったりと言わんばかりの薄笑いを浮かべると、唇を五郎太の耳元に寄せて言った。
「命救ってくれた礼はちゃんとするって言ったろ? オマエをオレの義弟にしてやろうって言ってんだ。スゲエだろ」
「だからそんな話は聞いておらぬと言っておろうが!」
「当たり前だろ、驚かせようと思って言ってなかったんだからよ」
「二人の時ならいざ知らずこのような場でそんな子供じみた真似をするものではないわ! お前はこの者達の主君であろうが!」
家臣である彼等の前でクリスの面目を潰すことはできない。そう思いながらも五郎太は口から出る言葉を止められなかった。
子爵位とやらに叙するだの何だのといった話はまあ良い。仔細はわからぬが官位の類であろう。官位など何処の大名家でも好き勝手に家臣に名乗らせているのだし、いずれ己も名乗るものかと漠然と考えてはいた。お屋形様から賜ったのであれば感激のひとつもしたであろうが、数日前に出会った者に行きがけの駄賃のように与えられて嬉しかろうはずもない。とまれ、この国の官位など自分には毒にも薬にもならぬのだからくれると言うのなら有難く貰っておくまでのことだ。
嫁娶の話はそれとはまったく次元が異なる。結局、クリスが押し切る形で最後まで二人旅となった行路の果てに見たこともない家々が建ち並ぶ都と壮麗な城を目の当たりにし、更にはその城で下にも置かぬ歓待を受けるに及んで、五郎太は己が共に旅してきたのが思っていた通り大名にあたる者であると認めざるを得なかった。
その大名が、命の恩人とは言え数日前に逢ったばかりのどこの馬の骨とも知れぬ者に、まるで犬の仔でもくれてやるように妹を娶らせるなどと放言しているのである。五郎太のような男にとって、それは到底容認できる話ではなかった。
あまつさえ、五郎太自身の事情もある。お屋形様の元にありし頃も、早く身を固めよと御歴々に娘を娶らされそうになるのをぬらりくらりとかわしてきたのは、女に触れられぬという五郎太の切ない事情もあってのことである。そのような男の元に嫁いではその女子も哀れ、情けなさを味わう己も哀れであろうと頑なに拒んできた嫁娶をこのような形で押し付けられることになろうとは、五郎太は夢にも思わなかった。
ましてそのあたりの事情をこの殿様は熟知しているのである。例外であることがはっきりしているクリス自身が嫁に来るというのならまだしも、自分の妹を看々不幸な目に遭わせるやも知れぬ縁組みを平然とぶち上げるとは、この者はいったい何を考えているのか……。
「いずれにせよこの縁談は無理だ。まだ間に合うによって、今すぐ取り消せ」
「はぁ? なんで取り消さなきゃなんねーんだよ」
「そもそも我等は登城してから真っ直ぐここに来たではないか。肝心の妹御にその話は――」
「――お兄様」
と、居並ぶ諸侯の間から一人の女がクリスと五郎太の前に進み出た。どうやら問題の妹御がお出ましのようだ。そう思って目を遣った五郎太は、己の前に現れた女性の姿を目にして凍りついたようになった。
(なんという美しさだ……!)
五郎太は息をするのも忘れてその姿に見入った。兄妹――もとい姉妹だけあってその顔かたちはクリスとよく似ている。だがどちらかといえば眼が大きく優しげなクリスの顔に比べ、妹御のすっと通った鼻筋と切れ長の目は見た者にきつい印象を与える。実のところ、五郎太はこの手のきつめの美人が壊滅的に好みなのである。
そして何より五郎太の心の臓を鷲掴みにしたのはその黒髪であった。腰までもあろうかというその長い黒髪は水も滴るような輝きに満ち、それが己の好みの中心に突き刺さる顔と合わさることで、目の前に立つ女の容色に五郎太はある種蠱惑的な魅力を見ずにはいられないのであった。
「おおエルゼベート、我が妹よ。余はそなたのためにまたとない夫を連れて参ったぞ」
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