2 / 50
001 物ノ怪(1)
しおりを挟む
「――もう、このあたりで良いか」
小さく独り言ちて五郎太は馬を降りた。
あの森でお屋形様にはぐれたのが昨日の夕刻で、そこから一昼夜馬を駆けさせてきたことを思えば、よほど遠くまで来たはずである。
森を出てからは真っ直に西を目指した。北斗――幾多の戦場を共に駆け抜けてきたこの駿馬の脚をもってすればここは播磨か、あるいは備前美作のあたりと考えて然るべきだろう。
……だが、そんなはずはない。馬を駆けさせている間、五郎太の目に映っていたものといえば見渡す限りの平原で、山もなければ海もなかった。村里はおろか人の姿のひとつとしてなく、もとより羽柴筑前の軍勢など影も形もない。
そればかりか――何と言えばいいのだろう、空気が異なっている気がする。五郎太のよく知るそれとは風のにおいさえ違うのだ。
……ここは本当に日ノ本なのだろうか。そんな思いの中、最後の方はほとんど惰性で北斗の背に揺られていた。けれども夜が明け、真昼を過ぎたあたりで、五郎太はもう総てがどうでもよくなった。
「すまんな北斗。さんざん駆けさせておいてなんだが、俺はもう自分がどこにいるかさえわからぬ。道に迷ってしもうたようだ」
汗にまみれた鼻づらを撫でてやると、北斗は何でもないというようにブヒヒと鼻を鳴らした。
道に迷ってしまった――と、自分が寸刻前に口にした言葉を思って、五郎太は自嘲の笑みを浮かべた。同時にあの森で目にした情景がまざまざと脳裏に蘇る。
どこからともなく響き渡る読経――門徒一揆との戦いの中でさんざん耳にした単調な南無阿弥陀仏ではない――おそらく生まれ落ちたときから聞き続けてもはや魂深く刻みこまれた陀羅尼のうねりの中、木陰から走り出た雑兵の手なる竹槍がお屋形様の胴を横あいから刺し貫くのを、五郎太ははっきりと目にした。
駆けつけようと馬に鞭をくれ、だがいくら駆けさせてもお屋形様との距離は縮まらず、刀を抜こうとするお屋形様に別の雑兵がまた竹槍を突き立てるのを、声ならぬ声で絶叫しながらただ見つめるしかなかった。
……あれはいったい何だったのだろう。一刻も早くお屋形様のもとへと気ばかり焦る己の心が見せた幻影であったのならばそれに越したことはない。けれどもそれがおそらく真か、限りなく真に近いものであったことを、五郎太は実感として持っている。
――お屋形様は亡くなられたのだ。そのことを思っても、もはや五郎太は何も感じなかった。
森を抜けたあと、ただひたすら西へと向かったのは、そこに残っているであろう筑前守の手勢にせめて一太刀与えて死に花を咲かせたいと願ったからだが、それももうどうでも良い。……ただ胸にぽっかりと空いた穴に冷たい風が吹き抜けているだけだ。
道に迷ってしまった――それもそのはずだ。いつも行く先を指し示して下されたお屋形様が亡くなってしまったのだから、俺のように分別のない者が道に迷わぬ道理がない。そう思って五郎太は、もう一度労わるように馬の鼻を撫でた。
「これほど広々した野っ原であればそなたの遊び場にはちょうど良かろう。今日までよう働いてくれた。礼を言う。だが、俺はここまでのようだ」
お屋形様のあとを追おう――などと殊勝なことを考えたわけではない。ただ、お屋形様が亡くなった今、五郎太にはもう生きる意味がなかった。
馬に積んでいた荷をおろす。皆朱の片鎌槍――お屋形様に手ずから賜った名槍「摩利支天」を日にかざし、それを草むらの上に置く。
鞍もおろす。この鞍もお屋形様が若かりし頃お使いになっていたのを頂いたものだ。
鉄砲。雑賀衆選りすぐりの鉄砲鍛冶が鍛えあげたもののうちでも取り分けてよく中る一丁を俺にと言ってお屋形様が下されたもの。
北斗もそう。連銭葦毛のこの名馬もまたお屋形様から頂いた宝物に他ならない。
具足を脱ぎ、腰から大小を抜く。京の職人に拵えさせた軽くて頑丈な当世具足と、千住院村正の大小。これらも同じ。
俺の持ち物はすべてお屋形様から賜ったものだ。――少年だったあの日、焼け落ちようとする伽藍から救われたこの命さえも。
草むらにどっかりと腰をおろし、脇差を抜く。切腹の作法は心得ている。腹を一文字にかき切り、頚脈を破ればそれで終わりだ。
脇差を両手に持ち、内に向けて構えたそれを腹に突き立てようとし、けれども五郎太はそうすることができなかった。
十八年の命を今さら惜しんだためではない。ただ、ひとつの無念が五郎太の動きを止めた。
「……お屋形様のために、俺は死にたかった」
呟いて、滂沱のごとき涙が五郎太の頬を伝い落ちた。
自分の命はいつかお屋形様にお返しすると決めていた。苛烈な戦の中でお屋形様を守る盾となって、あるいは敵陣深く射ち込まれる鏃となって。
――お屋形様の命とあらば幾千、幾万の敵を相手に一騎駆けすることも厭わない。そう思って生きてきた。むしろそれを願ってさえきた。
それがご恩のひとつも返せぬまま腹かっ切って果てるのかと思うとたまらなかった。こんなものは犬死ににすらならない。わけもわからぬまま、総てを投げ出すように自害することに何の意味があろう。
だが目の前にはもうそうする道しか残されてはいない。戦に負け、お屋形様は亡くなられた。この上おめおめと生き長らえて何をなせというのか、この俺に何ができるというのか――
「……?」
――そこでふと、五郎太は焦げ臭いにおいを嗅いだ。
野焼きのにおい……ではない。あのときより幾度となく嗅ぎ慣れたこれは、着物とともに人の肉が焼け焦げるにおいだ。
その前後、五郎太は小高い丘の向こう側に人々が争い合うかすかな音を聞いた。それを聞くや五郎太は外したばかりの具足を手早に身に着け、鞍を馬の背に戻した。
無造作に大小を差し、槍と鉄砲を引っ掴んで馬にまたがり、「はいッ!」という掛け声一閃その腹を蹴った。
この丘の上で戦がおこなわれている。筑前守が残した軍勢と毛利とのそれに違いない。祈りにもにたそんな想いを胸に、丘を駆け上がった。――だがそこで五郎太が目にしたのは、地獄絵にも似た異様な光景だった。
「……なんだあの物ノ怪は」
小さく独り言ちて五郎太は馬を降りた。
あの森でお屋形様にはぐれたのが昨日の夕刻で、そこから一昼夜馬を駆けさせてきたことを思えば、よほど遠くまで来たはずである。
森を出てからは真っ直に西を目指した。北斗――幾多の戦場を共に駆け抜けてきたこの駿馬の脚をもってすればここは播磨か、あるいは備前美作のあたりと考えて然るべきだろう。
……だが、そんなはずはない。馬を駆けさせている間、五郎太の目に映っていたものといえば見渡す限りの平原で、山もなければ海もなかった。村里はおろか人の姿のひとつとしてなく、もとより羽柴筑前の軍勢など影も形もない。
そればかりか――何と言えばいいのだろう、空気が異なっている気がする。五郎太のよく知るそれとは風のにおいさえ違うのだ。
……ここは本当に日ノ本なのだろうか。そんな思いの中、最後の方はほとんど惰性で北斗の背に揺られていた。けれども夜が明け、真昼を過ぎたあたりで、五郎太はもう総てがどうでもよくなった。
「すまんな北斗。さんざん駆けさせておいてなんだが、俺はもう自分がどこにいるかさえわからぬ。道に迷ってしもうたようだ」
汗にまみれた鼻づらを撫でてやると、北斗は何でもないというようにブヒヒと鼻を鳴らした。
道に迷ってしまった――と、自分が寸刻前に口にした言葉を思って、五郎太は自嘲の笑みを浮かべた。同時にあの森で目にした情景がまざまざと脳裏に蘇る。
どこからともなく響き渡る読経――門徒一揆との戦いの中でさんざん耳にした単調な南無阿弥陀仏ではない――おそらく生まれ落ちたときから聞き続けてもはや魂深く刻みこまれた陀羅尼のうねりの中、木陰から走り出た雑兵の手なる竹槍がお屋形様の胴を横あいから刺し貫くのを、五郎太ははっきりと目にした。
駆けつけようと馬に鞭をくれ、だがいくら駆けさせてもお屋形様との距離は縮まらず、刀を抜こうとするお屋形様に別の雑兵がまた竹槍を突き立てるのを、声ならぬ声で絶叫しながらただ見つめるしかなかった。
……あれはいったい何だったのだろう。一刻も早くお屋形様のもとへと気ばかり焦る己の心が見せた幻影であったのならばそれに越したことはない。けれどもそれがおそらく真か、限りなく真に近いものであったことを、五郎太は実感として持っている。
――お屋形様は亡くなられたのだ。そのことを思っても、もはや五郎太は何も感じなかった。
森を抜けたあと、ただひたすら西へと向かったのは、そこに残っているであろう筑前守の手勢にせめて一太刀与えて死に花を咲かせたいと願ったからだが、それももうどうでも良い。……ただ胸にぽっかりと空いた穴に冷たい風が吹き抜けているだけだ。
道に迷ってしまった――それもそのはずだ。いつも行く先を指し示して下されたお屋形様が亡くなってしまったのだから、俺のように分別のない者が道に迷わぬ道理がない。そう思って五郎太は、もう一度労わるように馬の鼻を撫でた。
「これほど広々した野っ原であればそなたの遊び場にはちょうど良かろう。今日までよう働いてくれた。礼を言う。だが、俺はここまでのようだ」
お屋形様のあとを追おう――などと殊勝なことを考えたわけではない。ただ、お屋形様が亡くなった今、五郎太にはもう生きる意味がなかった。
馬に積んでいた荷をおろす。皆朱の片鎌槍――お屋形様に手ずから賜った名槍「摩利支天」を日にかざし、それを草むらの上に置く。
鞍もおろす。この鞍もお屋形様が若かりし頃お使いになっていたのを頂いたものだ。
鉄砲。雑賀衆選りすぐりの鉄砲鍛冶が鍛えあげたもののうちでも取り分けてよく中る一丁を俺にと言ってお屋形様が下されたもの。
北斗もそう。連銭葦毛のこの名馬もまたお屋形様から頂いた宝物に他ならない。
具足を脱ぎ、腰から大小を抜く。京の職人に拵えさせた軽くて頑丈な当世具足と、千住院村正の大小。これらも同じ。
俺の持ち物はすべてお屋形様から賜ったものだ。――少年だったあの日、焼け落ちようとする伽藍から救われたこの命さえも。
草むらにどっかりと腰をおろし、脇差を抜く。切腹の作法は心得ている。腹を一文字にかき切り、頚脈を破ればそれで終わりだ。
脇差を両手に持ち、内に向けて構えたそれを腹に突き立てようとし、けれども五郎太はそうすることができなかった。
十八年の命を今さら惜しんだためではない。ただ、ひとつの無念が五郎太の動きを止めた。
「……お屋形様のために、俺は死にたかった」
呟いて、滂沱のごとき涙が五郎太の頬を伝い落ちた。
自分の命はいつかお屋形様にお返しすると決めていた。苛烈な戦の中でお屋形様を守る盾となって、あるいは敵陣深く射ち込まれる鏃となって。
――お屋形様の命とあらば幾千、幾万の敵を相手に一騎駆けすることも厭わない。そう思って生きてきた。むしろそれを願ってさえきた。
それがご恩のひとつも返せぬまま腹かっ切って果てるのかと思うとたまらなかった。こんなものは犬死ににすらならない。わけもわからぬまま、総てを投げ出すように自害することに何の意味があろう。
だが目の前にはもうそうする道しか残されてはいない。戦に負け、お屋形様は亡くなられた。この上おめおめと生き長らえて何をなせというのか、この俺に何ができるというのか――
「……?」
――そこでふと、五郎太は焦げ臭いにおいを嗅いだ。
野焼きのにおい……ではない。あのときより幾度となく嗅ぎ慣れたこれは、着物とともに人の肉が焼け焦げるにおいだ。
その前後、五郎太は小高い丘の向こう側に人々が争い合うかすかな音を聞いた。それを聞くや五郎太は外したばかりの具足を手早に身に着け、鞍を馬の背に戻した。
無造作に大小を差し、槍と鉄砲を引っ掴んで馬にまたがり、「はいッ!」という掛け声一閃その腹を蹴った。
この丘の上で戦がおこなわれている。筑前守が残した軍勢と毛利とのそれに違いない。祈りにもにたそんな想いを胸に、丘を駆け上がった。――だがそこで五郎太が目にしたのは、地獄絵にも似た異様な光景だった。
「……なんだあの物ノ怪は」
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?
俣彦
ファンタジー
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。
屋台飯! いらない子認定されたので、旅に出たいと思います。
彩世幻夜
ファンタジー
母が死にました。
父が連れてきた継母と異母弟に家を追い出されました。
わー、凄いテンプレ展開ですね!
ふふふ、私はこの時を待っていた!
いざ行かん、正義の旅へ!
え? 魔王? 知りませんよ、私は勇者でも聖女でも賢者でもありませんから。
でも……美味しいは正義、ですよね?
2021/02/19 第一部完結
2021/02/21 第二部連載開始
2021/05/05 第二部完結
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる