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7 【レオン】どうしてこうなった?2
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その後公爵家の応接室へと通されると、パンを白い液体でくたくたにしたような食事と、飲み水が出された。パサパサじゃないパン……。手をつけずにいると、何も入っていないので安心して、とメイドが別のスプーンで一口食べてみせた。
喉が渇きお腹も限界まで空いていたせいもあり、皿を持ってゴクリと一口、程よく温かい優しい甘さにゴクゴクと2口飲む。
「ゆっくり食べないと、戻してしまいますよ。こうやって食べるんです」
メイドがスプーンですくうそぶりをし、それを真似して、ゆっくりと口へ運ぶ。
全部食べてしまった……。暖かい食べ物は、全身が温まるようだ。
軽い食事を終えてしばらくすると“公爵様”と呼ばれる人物が入ってきてーー
「きみが“ねこしゃん”か……。幼いのに、大変な境遇にあったようだね。テレシアがずっときみを“かってほしい”と言っていたよ」
「これから、商人達から買い取るため、彼ら立ち合いのもと隷属契約を交わすことになるが、どうか逃げないでほしい。私たちはきみに暴力を振るったりしない。テレシアはまだ2歳だが、言葉を話せるようになってからというもの、ずっときみを探していたんだ」
ドキドキした。そんな夢見たいなことがあるのだろうか。
俺には、パンに何か仕込まれる前の記憶がない。思い出せない。もしかして、俺の知り合いなんだろうか。
その後は公爵が商人達から俺を買い取り、商人達はへこへこしながら満足した様子で去っていった。
俺は客間だという、見た事もないような豪華な部屋へ通された。温かい水の入った入れ物でメイドにゴシゴシ、わしゃわしゃ何度も洗われた。入浴する、と言うらしい。温かい水からはとてもいい香りがした。
最初、一人でできるかと聞かれたが、さっぱりわからなかったら思いっきり擦られた。次があれば絶対に一人で入浴しよう。
用意された肌触りの良い服に着替え、部屋の中をうろうろしていると「お嬢様がいらっしゃいました」と扉の向こうから声をかけられた。
それと同時に急に不安になってきた。人間の商人ですら青ざめる“お貴族様”。あんな小さい見た目をして、鞭で打つのかもしれない……。
扉が開かれ、あの青い瞳の少女と目があったーー。
「お前……! 俺を買い取って何が目的なんだ!」
「ね、ねこしゃん、テレシアとお友達になって!」
「……はっ?」
視線を遮るように、目をぎゅっとつぶって声を荒げると、間髪入れずに発せられた相手の言葉に、数秒理解が追いつかない。
少女は俺の耳や尻尾のあたりを中心に観察するような、ぶしつけな視線をおくってくる。
ラーデャと呼ばれた、発音し難いメイドに促され部屋にあった椅子へ座ると、馬車の座面より柔らかいそれに驚いた。椅子と椅子の間には小さめのテーブルがあり、ラーデャが具の挟まったパン、甘い香りのする飲み物や食べ物を置いた。
少女がサクッと食べ物をかじり、サクッサクッと一つ頬張る。黙って眺めていると、具の挟まったパンを差し出し俺に食べるよう促した。
パサパサしていそうだが何か挟んであるパン……。先程ドロドロのパンを飲んだばかりなのに、美味しそうな匂いに腹が音を立てて鳴った。
少女が、持っていたパンをパクッとかじり、隣に並んでいたパンを改めて俺へと差し出す。
どう言うつもりだ、俺をなぶるつもりか、と尋ねると、扉の方にいた騎士達が手のひらをこちらに向けて「無礼なーー!」と声を荒げた。少女はそれを手で制し、ラーデャラーデャと連呼した。
そんなに背が変わらないのに、2歳だったのか。小さな体で捲し立てる彼女は鼻息が荒い。
その後、“ラーデャ“と呼ばれていたメイドが“ラーダ”と言う名前だと言うことがわかった。
……“デャ“の方が難しそうだ。
名前を聞かれて、言わなきゃならないと思っていたことを考える。“ねこしゃん”は、俺の名前じゃなかったのか……。お前は俺を、知ってるんじゃないのかーー。
それ以外に、俺に名前なんてーー
「……ない」
お前が俺に名前を尋ねるならーー
「……だから俺は“ねこしゃん”なんて獣人じゃない」
思った以上に声が出ず、独り言のようになてしまった……。
俯いて、相手をチラリと盗み見ると、体を小さく振るわせながら目に涙を溜めていることがわかる。
“ねこしゃん”はそんなに俺と似ていたのだろうか。獣人違い、だとわかって落胆したのかーー、そう察すると自虐的に口角が歪んだ。
……そりゃそうか。
俺みたいなやつが、公爵家なんて凄そうな子供とどこかで出会っているわけがない。
このあとはどうなるのか……一度与えられた、温かく、甘い食事がひどく手の届かないものに感じた。
「ーーじゃあ、私がお名前、つけてもいーい?」
顔を上げると、少女はニコリと微笑み目尻に涙を浮かべた。どう言うことか、何を考えているのかさっぱり分からず、おろおろ視線が彷徨う。知り合いじゃなかった、のではないのか。
「レオン、レオンはどうかな?」
「レオン……」
名前を与えられたことが嬉しくなって、顔が赤くなるのを感じた。ただ、“ねこしゃん”ではないわけで、これからどうなるのかわからなくて、複雑な感情を誤魔化すように目の前のパンを出来るだけ頬張った。
明日は食事があるのか、まだこの屋敷にいられるのか、何もわからない。
少女と別れて、寝る場所だと連れられていったベッドと言うものは一体ここに何人寝るんだろう。しかしその広いふかふかのベッドには、俺一人が寝かせられた。横には綺麗な水が置かれ、好きな時に飲んでいいのだという。
これは夢なのだろうか。頬をつねると痛くて、涙が溢れた。柔らかなベッドで小さくまるまると、馬車で寝たばかりなのに、吸い込まれるように眠りに落ちた。
朝の気配がするーー。ゆっくり目を開けると、まだふかふかのベッドの上だった。
昨日の出来事は夢じゃなかった。
ベッドの横に置かれていた水をコップに注ぎペロリと舐めても、変な味はしない。ゴクゴクと2杯程飲み干した。
メイドのラーダがやってきて、食事を置き、これからのことを説明してくれた。
俺は、名前をくれたテレシアの遊び相手として、この家で雇われることになった。給料として金ももらえる。隷属の契約は、俺を守るために継続が決定したと言われた。どうやらこの屋敷は、灰色の獣人が話していたような“怖い貴族”ではなさそうだ。
食事を終えると、これから寝起きはここでするように、と別の部屋へ案内された。
客間ほどではないが一人部屋でベッドや椅子が置かれ、部屋の奥の扉には浴室がある。通常、俺のような下っ端の住み込み使用人はもっと簡素な相部屋になるらしいが、この屋敷で初めて迎える獣人なこと、まだ幼いこと、何よりテレシアが出入りすることもあることや、彼女の希望もありこの部屋になるのだという。
その他に、テレシアと過ごすことになる“子供部屋”にも案内された。
朝、昼、晩と食事を与えられ、合間合間に、テレシアと“おやつ”を食べる。遊び相手をするよりも、今はしっかり食べてよく寝るように公爵夫妻からもテレシアからも言われた。
テレシアは、やたら俺の頭を見ては難しい顔をしたり、にっこりしたりする。
目の下まで伸びた髪、のせいだろうか……
この日の入浴は一人で行い、部屋に備え付けられているワードローブには寝る時に着るものと、昼間に着るもの、外出時に着るものがいつの間にか用意されていた。
ベッドの横の水を、自分で調理場へもらいに行く。ニコニコした中年の人間が、嫌な顔せず水差しにたっぷり水を入れてくれた。
ベッドへ横になると、それはやはりふわふわで、寒さもなく、お腹は夜の食事で満たされている。
夢の中では、頬をつねると痛くないらしい。……今日も頬をつねってみた。やっぱり痛くて、痛くて、声を殺して泣いたーー。
ついに貴族の“遊び”が始まったんだ……。
ラーダではない、メイドがハサミを構えて不敵に笑うーー。
身の危険を感じて逃げると、いつかの騎士に、魔法で椅子に拘束された。
再びハサミを構えて掛け声をかけるメイドに、恐怖を覚えぎゅっと目をつぶる。
シャキシャキシャキッと風が頭の周りを通り過ぎ、ハサミによる斬撃が体を……
ーー切り裂いて、いない。
ーー痛みは、ない。
顔を何かの毛で撫でられると「ふぅ~っ」っと満足げなため息が聞こえた。
終わったと言われ恐る恐る目を開けると、視界が開けていた。頭も軽い。目の前には鏡があり、髪を切ったのだとわかった。
鏡の中に映るテレシアを見ると一瞬目が合う。視線を外し、耳と同じ黒色の前髪を摘むと、サラサラとこぼれ落ち、目にかからないようになっていた。
首の後ろも触るが、肩のあたりまで伸ばしっぱなしになっていた髪は、短くカットされていた。鏡を見ながら襟足を撫でる。
川で自分の顔は見ていたが、金色の瞳に人間とは違う細い瞳孔。不思議だった。
礼を言うと、キレイだと言われ恥ずかしい思いをした。
その後テレシアに手を引かれて、公爵夫人のいる応接室へと向かった。商人が来ると聞いて足取りは重かったが、引かれる小さな手が力強い。獣人を守るためのアクセサリーを貴族は買うらしく、荷台にいた時には知らなかったことばかりだ。リトと名乗る宝石商は、俺が知る商人とは全然違い、穏やかな雰囲気をまとっていた。テレシアからどれがいいかと言われ、何かの時には換金できるかと、金色で高そうなメダルを選んだ。
青い石が入っていたのはたまたま、だーー。
後で知ったことだが、このアクセサリーは自分で外せないらしい。……なんだよ。
たった数日で、ガリガリだった身体には肉がつき、勝手に動く尻尾はいつの間にか艶やかになっていた。食事はテレシアと一緒にとったり、部屋へ持ってきて一人で食べたり、使用人用の食堂で一緒にとったりまちまちだ。食堂で食事をとると、みんな食べろ食べろとすごい量を押し込まれてしまうから、時々にしている。
新手の拷問かと警戒し、話を盗み聞くと、俺が痩せすぎでいたたまれないらしい。いい人間ばかりだった。
テレシアは、公爵夫妻と一緒に食べないときは、俺に声をかける。
まだ2歳のせいか、昼食後やおやつの後に眠くなるようで、食べながら寝てしまう日もあった。口を拭いてやってテレシアの部屋へ運ぶようになった。
“獣人は力持ち”とは言っても、背がそこまで変わらないテレシアを運ぶのは、物理的に大変だ。眠った人間の子供は重たい。
そんなことをラーダに言うと、お運びしましょうか、と言ってくれるが、賃金分は働かなくてはと思うようになった。
アクセサリーが完成すると、テレシアが俺の首にかけ、耳飾りをつけてくれる。首の下を見ると、キラキラと輝きとても高そうだ。
「はわわ……レオン、しゅてきでしゅ……」
そう言って、宝石以上に瞳をキラキラさせるテレシアが目の前にいた。パッと彼女に手を引かれると、何故か顔が熱くなり、鏡の前に立つ自分は真っ赤な顔をしていた。顔を隠して、2歳児はみんなこうなのか? と問えば、
「あら、レオンだって対して変わらないでしょ?」
と言われる。多分5歳だと言うと驚かれ、彼女の手がおでこに触れる。ドキッとして思わず払い退け、熱くなる顔をごまかすように不愉快な表情を作った。
その後のことはよく……覚えていない。
いや、覚えているが理解が出来なかった。
年齢をきっかけに、獣人商人とのこれまでのことを話していると、突然テレシアが泣き叫んだーー。
空気がビリビリと震え、あまりの声量に広い屋敷の外まで聞こえているのではないかと思う程だった。
突然、近くにいたラーダが弾き飛び床に横たわる。騎士達も弾き飛ばされ、家具を薙ぎ倒した……。
駆け寄ってきた他のメイド、公爵夫人、さらには公爵まで、泣くテレシアに声は届かず弾き飛ばされる。
“花畑の時と同じだーー”
そうはわかっても、何が起きているのか理解できない。
泣き止ませなければ。
そう思って、恐る恐るテレシアの背中に触れる。何故か俺だけ弾き飛ばされない。
「テレシア、怖い話して……悪かった。2歳のお前にはキツかったよな?」
人間であるお前には、まして公爵令嬢であるテレシアには、世の中はこれ程怖くはないはずだ……。そんな感じのことを話すと、“ねこしゃん”がそんな目にあって許せない、と言うようなことを泣きながら訴えてきた。
話の流れから“ねこしゃん”とは、誰かの名前ではなく獣人のことなのだと察する。
“素敵な耳と尻尾があってそれだけで尊い”
ーー尊いってなんだ!?
“撫でると幸せもふもふ”
ーーそれであんなに俺の耳と尻尾を見ていたのか!?
“ねこしゃんの下僕でいいのに”
ーー公爵令嬢の下僕は獣人の方だろう!?
泣きながら話す2歳の子供の熱烈な思いに、一瞬狼狽するがすぐに状況を思い出し、慰めるべく頭へぽん、ぽんと優しく手を伸ばした。
正気を降り戻したテレシアはあたりを見まわし、
「何があったんでしゅ!?」
そう、また叫んだ。
その後公爵夫妻がテレシアの世話をし、現場にいた使用人一同執務室へ呼ばれた。何があったのかと問われれば、見たままを話す。あれは魔法だ、と俺にはわかる。魔法だと感じ取ることはできるが、それ以上のことはわからなかった。
翌朝……ラーダに呼ばれてテレシアの眠る部屋へ向かった。
「すみませんレオン、眠られているお嬢様を起こしたいのですが……わからない寝言を呟いていらっしゃるのです。昨日のこともあり、近づくのが躊躇われまして。お嬢様に弾きとばされず、泣き止ますことのできたレオンに、お目覚めを手伝っていただけないでしょうか……?」
要するに、起こせと言うことか。頷いて、転がったのかベッドの端でスピスピと眠るテレシアに近寄り、彼女が普段使っているのであろう足踏み台に乗る。
「おーー」
おい、と口を開いた瞬間、ぐいっと引き寄せらた。俺はテレシアの上に頭を乗せたような格好になった。彼女はまだ寝ている。
そのまま頭を撫でられ、耳を撫でられ、首の下をくすぐられるとーー
「あははッ……! おい、やめろって!あははははッ」
「ムフフーーあぁ、ごにゃごにゃごにゃ……」
なるほど、訳のわからない言葉を話して……いる? ただの寝言じゃないか! とにかく首の下がくすぐったい。
それなのに、テレシアが目をさまし手が離れると素早く抜け出すも、少しの寂しさを覚えた。ああ、誰かに頭を撫でられた記憶は……。
それからと言うもの、俺はテレシアの目覚めを毎朝手伝うことになってしまった……。
俺が起こしに行くと“ねこしゃん”の夢が観れるらしい。
胸元や腹を撫で回される時もあった。
あんなことをするなんて、獣人だけど獣人じゃない“ねこしゃん”とは一体何なんだ!?
寝ぼけたテレシアに、今日も耳をこれでもかと撫で回されて心で叫ぶ。
あぁ、どうしてこうなったーー!
喉が渇きお腹も限界まで空いていたせいもあり、皿を持ってゴクリと一口、程よく温かい優しい甘さにゴクゴクと2口飲む。
「ゆっくり食べないと、戻してしまいますよ。こうやって食べるんです」
メイドがスプーンですくうそぶりをし、それを真似して、ゆっくりと口へ運ぶ。
全部食べてしまった……。暖かい食べ物は、全身が温まるようだ。
軽い食事を終えてしばらくすると“公爵様”と呼ばれる人物が入ってきてーー
「きみが“ねこしゃん”か……。幼いのに、大変な境遇にあったようだね。テレシアがずっときみを“かってほしい”と言っていたよ」
「これから、商人達から買い取るため、彼ら立ち合いのもと隷属契約を交わすことになるが、どうか逃げないでほしい。私たちはきみに暴力を振るったりしない。テレシアはまだ2歳だが、言葉を話せるようになってからというもの、ずっときみを探していたんだ」
ドキドキした。そんな夢見たいなことがあるのだろうか。
俺には、パンに何か仕込まれる前の記憶がない。思い出せない。もしかして、俺の知り合いなんだろうか。
その後は公爵が商人達から俺を買い取り、商人達はへこへこしながら満足した様子で去っていった。
俺は客間だという、見た事もないような豪華な部屋へ通された。温かい水の入った入れ物でメイドにゴシゴシ、わしゃわしゃ何度も洗われた。入浴する、と言うらしい。温かい水からはとてもいい香りがした。
最初、一人でできるかと聞かれたが、さっぱりわからなかったら思いっきり擦られた。次があれば絶対に一人で入浴しよう。
用意された肌触りの良い服に着替え、部屋の中をうろうろしていると「お嬢様がいらっしゃいました」と扉の向こうから声をかけられた。
それと同時に急に不安になってきた。人間の商人ですら青ざめる“お貴族様”。あんな小さい見た目をして、鞭で打つのかもしれない……。
扉が開かれ、あの青い瞳の少女と目があったーー。
「お前……! 俺を買い取って何が目的なんだ!」
「ね、ねこしゃん、テレシアとお友達になって!」
「……はっ?」
視線を遮るように、目をぎゅっとつぶって声を荒げると、間髪入れずに発せられた相手の言葉に、数秒理解が追いつかない。
少女は俺の耳や尻尾のあたりを中心に観察するような、ぶしつけな視線をおくってくる。
ラーデャと呼ばれた、発音し難いメイドに促され部屋にあった椅子へ座ると、馬車の座面より柔らかいそれに驚いた。椅子と椅子の間には小さめのテーブルがあり、ラーデャが具の挟まったパン、甘い香りのする飲み物や食べ物を置いた。
少女がサクッと食べ物をかじり、サクッサクッと一つ頬張る。黙って眺めていると、具の挟まったパンを差し出し俺に食べるよう促した。
パサパサしていそうだが何か挟んであるパン……。先程ドロドロのパンを飲んだばかりなのに、美味しそうな匂いに腹が音を立てて鳴った。
少女が、持っていたパンをパクッとかじり、隣に並んでいたパンを改めて俺へと差し出す。
どう言うつもりだ、俺をなぶるつもりか、と尋ねると、扉の方にいた騎士達が手のひらをこちらに向けて「無礼なーー!」と声を荒げた。少女はそれを手で制し、ラーデャラーデャと連呼した。
そんなに背が変わらないのに、2歳だったのか。小さな体で捲し立てる彼女は鼻息が荒い。
その後、“ラーデャ“と呼ばれていたメイドが“ラーダ”と言う名前だと言うことがわかった。
……“デャ“の方が難しそうだ。
名前を聞かれて、言わなきゃならないと思っていたことを考える。“ねこしゃん”は、俺の名前じゃなかったのか……。お前は俺を、知ってるんじゃないのかーー。
それ以外に、俺に名前なんてーー
「……ない」
お前が俺に名前を尋ねるならーー
「……だから俺は“ねこしゃん”なんて獣人じゃない」
思った以上に声が出ず、独り言のようになてしまった……。
俯いて、相手をチラリと盗み見ると、体を小さく振るわせながら目に涙を溜めていることがわかる。
“ねこしゃん”はそんなに俺と似ていたのだろうか。獣人違い、だとわかって落胆したのかーー、そう察すると自虐的に口角が歪んだ。
……そりゃそうか。
俺みたいなやつが、公爵家なんて凄そうな子供とどこかで出会っているわけがない。
このあとはどうなるのか……一度与えられた、温かく、甘い食事がひどく手の届かないものに感じた。
「ーーじゃあ、私がお名前、つけてもいーい?」
顔を上げると、少女はニコリと微笑み目尻に涙を浮かべた。どう言うことか、何を考えているのかさっぱり分からず、おろおろ視線が彷徨う。知り合いじゃなかった、のではないのか。
「レオン、レオンはどうかな?」
「レオン……」
名前を与えられたことが嬉しくなって、顔が赤くなるのを感じた。ただ、“ねこしゃん”ではないわけで、これからどうなるのかわからなくて、複雑な感情を誤魔化すように目の前のパンを出来るだけ頬張った。
明日は食事があるのか、まだこの屋敷にいられるのか、何もわからない。
少女と別れて、寝る場所だと連れられていったベッドと言うものは一体ここに何人寝るんだろう。しかしその広いふかふかのベッドには、俺一人が寝かせられた。横には綺麗な水が置かれ、好きな時に飲んでいいのだという。
これは夢なのだろうか。頬をつねると痛くて、涙が溢れた。柔らかなベッドで小さくまるまると、馬車で寝たばかりなのに、吸い込まれるように眠りに落ちた。
朝の気配がするーー。ゆっくり目を開けると、まだふかふかのベッドの上だった。
昨日の出来事は夢じゃなかった。
ベッドの横に置かれていた水をコップに注ぎペロリと舐めても、変な味はしない。ゴクゴクと2杯程飲み干した。
メイドのラーダがやってきて、食事を置き、これからのことを説明してくれた。
俺は、名前をくれたテレシアの遊び相手として、この家で雇われることになった。給料として金ももらえる。隷属の契約は、俺を守るために継続が決定したと言われた。どうやらこの屋敷は、灰色の獣人が話していたような“怖い貴族”ではなさそうだ。
食事を終えると、これから寝起きはここでするように、と別の部屋へ案内された。
客間ほどではないが一人部屋でベッドや椅子が置かれ、部屋の奥の扉には浴室がある。通常、俺のような下っ端の住み込み使用人はもっと簡素な相部屋になるらしいが、この屋敷で初めて迎える獣人なこと、まだ幼いこと、何よりテレシアが出入りすることもあることや、彼女の希望もありこの部屋になるのだという。
その他に、テレシアと過ごすことになる“子供部屋”にも案内された。
朝、昼、晩と食事を与えられ、合間合間に、テレシアと“おやつ”を食べる。遊び相手をするよりも、今はしっかり食べてよく寝るように公爵夫妻からもテレシアからも言われた。
テレシアは、やたら俺の頭を見ては難しい顔をしたり、にっこりしたりする。
目の下まで伸びた髪、のせいだろうか……
この日の入浴は一人で行い、部屋に備え付けられているワードローブには寝る時に着るものと、昼間に着るもの、外出時に着るものがいつの間にか用意されていた。
ベッドの横の水を、自分で調理場へもらいに行く。ニコニコした中年の人間が、嫌な顔せず水差しにたっぷり水を入れてくれた。
ベッドへ横になると、それはやはりふわふわで、寒さもなく、お腹は夜の食事で満たされている。
夢の中では、頬をつねると痛くないらしい。……今日も頬をつねってみた。やっぱり痛くて、痛くて、声を殺して泣いたーー。
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ラーダではない、メイドがハサミを構えて不敵に笑うーー。
身の危険を感じて逃げると、いつかの騎士に、魔法で椅子に拘束された。
再びハサミを構えて掛け声をかけるメイドに、恐怖を覚えぎゅっと目をつぶる。
シャキシャキシャキッと風が頭の周りを通り過ぎ、ハサミによる斬撃が体を……
ーー切り裂いて、いない。
ーー痛みは、ない。
顔を何かの毛で撫でられると「ふぅ~っ」っと満足げなため息が聞こえた。
終わったと言われ恐る恐る目を開けると、視界が開けていた。頭も軽い。目の前には鏡があり、髪を切ったのだとわかった。
鏡の中に映るテレシアを見ると一瞬目が合う。視線を外し、耳と同じ黒色の前髪を摘むと、サラサラとこぼれ落ち、目にかからないようになっていた。
首の後ろも触るが、肩のあたりまで伸ばしっぱなしになっていた髪は、短くカットされていた。鏡を見ながら襟足を撫でる。
川で自分の顔は見ていたが、金色の瞳に人間とは違う細い瞳孔。不思議だった。
礼を言うと、キレイだと言われ恥ずかしい思いをした。
その後テレシアに手を引かれて、公爵夫人のいる応接室へと向かった。商人が来ると聞いて足取りは重かったが、引かれる小さな手が力強い。獣人を守るためのアクセサリーを貴族は買うらしく、荷台にいた時には知らなかったことばかりだ。リトと名乗る宝石商は、俺が知る商人とは全然違い、穏やかな雰囲気をまとっていた。テレシアからどれがいいかと言われ、何かの時には換金できるかと、金色で高そうなメダルを選んだ。
青い石が入っていたのはたまたま、だーー。
後で知ったことだが、このアクセサリーは自分で外せないらしい。……なんだよ。
たった数日で、ガリガリだった身体には肉がつき、勝手に動く尻尾はいつの間にか艶やかになっていた。食事はテレシアと一緒にとったり、部屋へ持ってきて一人で食べたり、使用人用の食堂で一緒にとったりまちまちだ。食堂で食事をとると、みんな食べろ食べろとすごい量を押し込まれてしまうから、時々にしている。
新手の拷問かと警戒し、話を盗み聞くと、俺が痩せすぎでいたたまれないらしい。いい人間ばかりだった。
テレシアは、公爵夫妻と一緒に食べないときは、俺に声をかける。
まだ2歳のせいか、昼食後やおやつの後に眠くなるようで、食べながら寝てしまう日もあった。口を拭いてやってテレシアの部屋へ運ぶようになった。
“獣人は力持ち”とは言っても、背がそこまで変わらないテレシアを運ぶのは、物理的に大変だ。眠った人間の子供は重たい。
そんなことをラーダに言うと、お運びしましょうか、と言ってくれるが、賃金分は働かなくてはと思うようになった。
アクセサリーが完成すると、テレシアが俺の首にかけ、耳飾りをつけてくれる。首の下を見ると、キラキラと輝きとても高そうだ。
「はわわ……レオン、しゅてきでしゅ……」
そう言って、宝石以上に瞳をキラキラさせるテレシアが目の前にいた。パッと彼女に手を引かれると、何故か顔が熱くなり、鏡の前に立つ自分は真っ赤な顔をしていた。顔を隠して、2歳児はみんなこうなのか? と問えば、
「あら、レオンだって対して変わらないでしょ?」
と言われる。多分5歳だと言うと驚かれ、彼女の手がおでこに触れる。ドキッとして思わず払い退け、熱くなる顔をごまかすように不愉快な表情を作った。
その後のことはよく……覚えていない。
いや、覚えているが理解が出来なかった。
年齢をきっかけに、獣人商人とのこれまでのことを話していると、突然テレシアが泣き叫んだーー。
空気がビリビリと震え、あまりの声量に広い屋敷の外まで聞こえているのではないかと思う程だった。
突然、近くにいたラーダが弾き飛び床に横たわる。騎士達も弾き飛ばされ、家具を薙ぎ倒した……。
駆け寄ってきた他のメイド、公爵夫人、さらには公爵まで、泣くテレシアに声は届かず弾き飛ばされる。
“花畑の時と同じだーー”
そうはわかっても、何が起きているのか理解できない。
泣き止ませなければ。
そう思って、恐る恐るテレシアの背中に触れる。何故か俺だけ弾き飛ばされない。
「テレシア、怖い話して……悪かった。2歳のお前にはキツかったよな?」
人間であるお前には、まして公爵令嬢であるテレシアには、世の中はこれ程怖くはないはずだ……。そんな感じのことを話すと、“ねこしゃん”がそんな目にあって許せない、と言うようなことを泣きながら訴えてきた。
話の流れから“ねこしゃん”とは、誰かの名前ではなく獣人のことなのだと察する。
“素敵な耳と尻尾があってそれだけで尊い”
ーー尊いってなんだ!?
“撫でると幸せもふもふ”
ーーそれであんなに俺の耳と尻尾を見ていたのか!?
“ねこしゃんの下僕でいいのに”
ーー公爵令嬢の下僕は獣人の方だろう!?
泣きながら話す2歳の子供の熱烈な思いに、一瞬狼狽するがすぐに状況を思い出し、慰めるべく頭へぽん、ぽんと優しく手を伸ばした。
正気を降り戻したテレシアはあたりを見まわし、
「何があったんでしゅ!?」
そう、また叫んだ。
その後公爵夫妻がテレシアの世話をし、現場にいた使用人一同執務室へ呼ばれた。何があったのかと問われれば、見たままを話す。あれは魔法だ、と俺にはわかる。魔法だと感じ取ることはできるが、それ以上のことはわからなかった。
翌朝……ラーダに呼ばれてテレシアの眠る部屋へ向かった。
「すみませんレオン、眠られているお嬢様を起こしたいのですが……わからない寝言を呟いていらっしゃるのです。昨日のこともあり、近づくのが躊躇われまして。お嬢様に弾きとばされず、泣き止ますことのできたレオンに、お目覚めを手伝っていただけないでしょうか……?」
要するに、起こせと言うことか。頷いて、転がったのかベッドの端でスピスピと眠るテレシアに近寄り、彼女が普段使っているのであろう足踏み台に乗る。
「おーー」
おい、と口を開いた瞬間、ぐいっと引き寄せらた。俺はテレシアの上に頭を乗せたような格好になった。彼女はまだ寝ている。
そのまま頭を撫でられ、耳を撫でられ、首の下をくすぐられるとーー
「あははッ……! おい、やめろって!あははははッ」
「ムフフーーあぁ、ごにゃごにゃごにゃ……」
なるほど、訳のわからない言葉を話して……いる? ただの寝言じゃないか! とにかく首の下がくすぐったい。
それなのに、テレシアが目をさまし手が離れると素早く抜け出すも、少しの寂しさを覚えた。ああ、誰かに頭を撫でられた記憶は……。
それからと言うもの、俺はテレシアの目覚めを毎朝手伝うことになってしまった……。
俺が起こしに行くと“ねこしゃん”の夢が観れるらしい。
胸元や腹を撫で回される時もあった。
あんなことをするなんて、獣人だけど獣人じゃない“ねこしゃん”とは一体何なんだ!?
寝ぼけたテレシアに、今日も耳をこれでもかと撫で回されて心で叫ぶ。
あぁ、どうしてこうなったーー!
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