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婚約者様と私Ⅱ

121.お嬢さまの咎が追いかけてくる

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 パトリツィア殿下のリンブルフ=ベルク語の古語訛りを直したいとの希望で、みんなでリンブルフ=ベルク語のゲルマン語寄りの正しい発音で会話することを試みる。

 元々ゲルマン派生語のベルク語として丁寧に話すことが出来るアウレリア=ベネディクト君は、単語に気をつけるだけでなんとかなるし、丁寧で優しい話し方のヘンリエッタ様も、ちょっとした地方的なクセを直すのはそう難しくなかった。

 問題は、古低地フランク語を話す乳母や古フリジア語を話す侍女に囲まれて育ったというパトリツィア殿下である。

「長年のクセというものは、なかなか抜けぬものじゃのぅ」
「抜けないものなのね」
「ぬ、抜けぬものじゃのね」
「抜けないものなのね」
「抜けぬものなのね⋯⋯ テレーゼ殿、イルゼ殿、厳しいぞぇ」
「訛りクセをなくしたいと仰せなのは殿下でございましょう?」
「む。そうじゃ。よい。この邸の中、特に語学訓練中は、テレーゼ殿もイルゼ殿も、わたくしを殿下呼びするのはナシじゃ」
「わかりました」

 テレーゼ様は浅めのカーテシーで応えるものの、イルゼさんは恐れ戦くように身を縮めた。

「わ、わたくしは使用人でございます。そのようなことは!!」
「構わぬと申したであろう。今のイルゼ殿はわたくしの教師であるゆえ、立場としては、わたくしがイルゼ殿に教えを請う側なれば、当然のことじゃ」
「事です」
「⋯⋯ことです」

「イルゼは夫君を亡くされて、婚家から実家に戻っているから今は男爵令嬢を名乗っておりますが、数年前までは、伯爵家の若夫人でしたの」
「ならば、わたくし達と変わらぬではないか。気にするでない」
「気にしないで」
「⋯⋯気にしないで、ください」

 テレーゼ様がにっこりと訂正すると、舌や唇を噛みそうになりながらも修正するパトリツィア殿下。

 そんな微笑ましい光景を堪能しながら、ヘンリエッタ様とベルク地方定番意匠の刺繍を刺していると、廊下の向こうで騒がしい声がした。

「⋯⋯ネ リー⋯⋯ネ!!」

 よく聴き取れないけれど、なんだか、お嬢さまアンジュリーネを呼んでいるような?

「なんでしょうか? 騒がしいですわ」

 ヘンリエッタ様が刺繍を置いて立ち上がるけれど、テレーゼ様が澄まし顔で止める。

した方がいいですわ。侯爵家にも警備の騎士は居るでしょうから、すぐに収まりますわ」
「でも、なんだか、アンジュリーネ様を呼んでませんか? それにしても、なんとも怖い声⋯⋯」
「尚更、止した方がいいですわ。きっと、ろくな用件ではないでしょう」

 テレーゼ様は、何か知ってるのかしら?

 声は段々近くなって来て、確かにお嬢さまを呼んでいると判る。でも、誰? 聞き覚えのない声だ。

「やはり、わたくしを呼んでいるようですし、なんなのか聞くだけでも⋯⋯」
「アンジュ!! ダメよ」

 テレーゼ様の制止より早く、私が廊下に出てしまう。

「アンジュリーネ!! 貴様、よくも平然と⋯⋯!!」
「え? どなた?」

 見たことのない男性だ。

 クリスやお兄さまのよくお召しになる、上質でシンプルなドレスシャツにクラヴァットやシャボを添えるのとは違い、簡略式の宮廷服を着た20歳にならないかくらいの男性。
 鮮やかな青い目と栗色に近いダークブロンド。
 スッとした鼻筋の、貴公子然とした感じがお嬢さまが好きそうと思ったのは間違いでなかったようで⋯⋯

「アンジュリーネ!! お前のせいで、俺は、俺は⋯⋯もう、終わりだ。貴様の事は許さないぞ」

 酷く興奮した男性は、血走った眼で掴みかかろうとしてくる。

 私の事を貴様だとかお前だとか、呼称も定まらず、とても正気ではない様子。

 ッシャーン

 私に飛びかかろうとした男性との間に、長剣と斧槍が飛び出してきてクロスし、男性の行動を阻む。
 ラースさんとギルベルトさんだ。

「わたしの妹に触れるな!!」

 騎士を何人も連れて、お兄さまが廊下を進んでくる。

「テオドール殿には用はない! 俺は、この売女ばいたが許せないんだ!!」
 売女※ 売春婦、春を鬻(ひさ)ぐ女 転じて不貞な女の事 女性への強い罵りの言葉

「お兄さま、こちらの方はどなた?」

 たぶん、お嬢さま絡みの人なのだろうけど、ずいぶんと怨んでいらっしゃる様子。
 お嬢さまは、この方に何をしたのかしら。

「よくもヌケヌケと!! この俺を見忘れたとでも⋯⋯!!」

 そうは言われても。
 私はお嬢さまではない。
 お嬢さまに聞かされている、交際のあった男性の内、ルーゼンベルガー公爵家のギュンター様は亡くなられている。
 フォルケンハウゼン家のカール様は赤毛にヘーゼルの目をした私達と同じ歳の方。
 ローリングホーフェン家のマンフレート様は、黒に近いダークブラウンの髪に夜闇の瞳の成人した(21歳以上の)男性。
 この方のお姿は、頭の中の貴族名鑑とお嬢さまの話とを照らし合わせても、一致しない。

 息がかかりそうなほどの近さで、剣と斧槍に押さえられながら私の顔を凝視する男性の眼が、少し弛む。

「お前、誰だ?」




 ❈❈❈❈❈❈❈

日本やイギリス、中国の貴族と違って、ドイツやヨーロッパの爵位は、権力の範囲と職務上での称号であり、立場の優劣がそのまま爵位には直結しないらしい?です

方伯と宮中伯 どちらも伯爵?ってなりますが、宮中伯は宮中における大臣みたいなもので、領地があるとは限らず俸給で暮らしています。アンジュの母方の祖父がこれですね。
ヴィルヘルム・ランドスケイプ侯爵もこれと同じ、領地付きで皇帝に直接封じられた侯爵ではなく、宮中で通産省の高級官僚を務める上での役職です。

一方、方伯は、「伯爵」のように、神聖ローマ皇帝から直接封建的な役割義務を担っていた人の称号。
時には、公爵や司教、宮中伯などの中間の権力にも言いなりにならず、支配領域は拡大され、主権を行使し、方伯の意思決定力は公爵のそれにも相当したという記述があるらしい。

爵位は役職のために与えられた称号爵位であって、それぞれの領地が小国みたいなもので、帝国といいつつも皇帝を盟主とする連邦国状態なので、帝国諸侯と、各自領主としての爵位は別物。
近世になると、領主貴族達は帝国の構成国家の領邦の君主とも言うべき存在で、クリスん家みたいにハインスベルク公国、○○伯領国、って感じでそれぞれ小国主らしいです。

え~と、何が言いたいかというと、この話の中では、ラノベや一般的な貴族階級みたいに、伯爵より公爵が圧倒的に優位な立場という事はないという事です😅

男爵や子爵は、近世になってから使われ始める新興官僚爵位なので、アンジュの父子爵やベアグルント男爵にはあまり権力はない設定です。


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