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婚約者様と私Ⅱ
110.嘆きと昏い感情
しおりを挟む「クリス?」
思い詰めたような表情と思ったのは間違いではなかったようで、訊きたいことがあると言いつつ、なかなか言い出さない。
お湯を沸かそうにも、手を離してくれないので、仕方なく、手を引くように促して、ベッドの端に二人で向かい合って座る。
「どうしたの? 訊きたいことって? 言いにくいこと?」
「⋯⋯ああ。俺は、信じてない。信じられないからな。でも、確かな筋から、証拠と共に聞かされたら、その自信が揺らぐんだ。
だから、君の口から本当のことを訊きたい。否定して欲しい。ちゃんと、本当のことを話してくれるね?」
「ええ」
なんだろう。嫌な予感がする。
もしかしてお嬢さまの噂を今更ながらに聞いたとか?
もしそうなら否定する一択だとは思うけれど、納得するかしら? 入れ替わり戻った時、おかしな事になるかしら。
でも、肯定する訳にはいかないだろうし、病のこともある。
そもそも、婚約者のいる上位貴族の令嬢としてあってはならないことなのだから、ちゃんと否定しないと、私が身代わりでここに居る意味がない。
「侯爵や夫人が出ていない夜会に参加して、あまりいい噂を聞かない令嬢達と酒盛りしたり、男性がその場に同席していたって本当?」
「いいえ。わたくしは、両親の参加していない夜会には出たことはありませんわ。まして、お酒の席など。わたくしはお酒はいただきませんもの」
「そうだよな。テオも飲めないしな⋯⋯」
お嬢さま~。一部バレてるみたいですよ。しかも、クリスの耳に入るなんて。
私は、お酒はやらないし、夜会には出たことがないのだから、嘘ではない。
「その酒の席で同席していた男性と、街のパブやブルストバーなんかで逢っているとも聞いたのだけど」
「そのような知り合いはいませんし、わたくしは、この邸で読書や古ノルド語の神話古書を翻訳したりしていて、外には出ませんわ。お洋服を新調する時も、デザイナーと、生地や素材を扱う商人、お針子さんなんかをこちらに呼んでお母さまと注文するので、お出かけすることもありませんもの」
私はやっていないのだから、自信を持って否と言える。
だから、真っ直ぐクリスを見て、疚しいところなく否定した。それは信じてくれたようだった。
けれど。
真っ直ぐ見つめ合って、納得したようだったクリスの目に、迷いが現れ、私の手を握り締めて来た。
「本当に?」
「ええ。誓って」
「保護者のいない夜会には参加してない、酒の席にも参加していない、男と同席していない。
邸の外で夜遅くに男と逢っていない。
信じていいね?」
「もちろんです」
優しい表情で、詰めた息を吐き出し、目を閉じるクリス。
これでよかったのかしら? 不安が擡げて来た時。
「じゃあ、複数の男と情を交わしたという噂もあるんだけど、それは?」
「は!?」
噂になってる? 本当に? じゃあ、両親やお兄さまのお耳にも入ってる?
誰が流したの? お相手も迂闊には言えないわよね。
テレーゼ様のお茶会で会った、ロスカスタニエ伯爵家のローザリンデ様かしら。クリスのことを気にしていたようだったし。
デュッセルホフ侯爵令嬢のナターリエ様はその場に同席していたであろう同じ穴の狢だから、墓穴を掘ることになるもの、口にするはずがないわね。
お嬢さまが華やかな装いで男性の目をひくことをやっかんだ令嬢達の口からついた出任せの噂なのかしら。
「聞いたことないの?」
「ええ。夜会にも出ませんし、あまり外を出歩かなくて人と会うこともありませんので、噂には疎くて」
まさか、本当にそんな噂が出回っているのかしら。
クリスは、ハインスベルクへ帰っていたはず。
誰に訊いたの? いつ? どこで?
情を交わしたって、気持ちの上の話? お嬢さまが男性と関係を持った事を指しているの?
動揺を出しちゃダメ。
それとも、そんな噂が出てることに驚くべきなの?
何が正解なの?
「本当に、男性と遊びに行ったり、二人っきりで逢ったりしてない?」
この、具体的な質問は、やはり何か確信があってのことなのだろう。
軍の尋問を受けているような気分になる。受けたことはないけれど、きっとこんな、証拠はあるんだぞといいたげな、責めるような眼で見られて、是以外の答えを認めないという雰囲気に違いない。
「わたくしは、令嬢方も含め、他人とはあまり交流を持ちませんから、そのような事実はありませんわ」
これで納得してくれたら⋯⋯!! そう思って、嘘ではないから自信を持って、真っ直ぐ見つめて答えたのに。
なぜか、クリスは、泣き笑いのような表情を作り、俯いてしまった。
私の手を握るクリスの手が、震えている。
何か答えを間違えた? なぜ、クリスはこんなに苦しんでいるの?
「クリス?」
寄り添って、背や肩を撫ぜ、慰めてあげたい。でも、それは逆効果に思えた。
私ではないけれどクリスにとって私であるお嬢さまの噂が彼をこんなに苦しめているのなら、その本人である私が慰めるのは間違っている。
行動するなら謝罪のはず。でも、謝罪してしまったら認める事になるし、私は、やっていない。
嗚呼、お嬢さま!! 貴女はなぜ、婚約者──ただの、結婚を約束した相手という意味ではなく婚姻契約で結ばれた相手という、夫であるのと実質変わらない相手──がいながら、他の男性と情を交わすような軽はずみなことをしたの!!
その事が、こんなにもクリスを苦しめている。
本当に、お嬢さまは酷い人だ。
そして、こんなにも情の深いクリスを騙している私も、酷い人間だ。
昔話を持ち出して、親しみを感じさせて関係改善を図り、乗り気ではなかったはずのクリスを、この婚姻に前向きにさせたのだから。
──イッソ、破談ニナレバイイノニ
私の中に、悪魔の囁きとも言える昏い感情が涌き上がった。
その事に動揺している間に、クリスは、苦しみと哀しみを怒りに変えて、身を起こしていた。
「言ったよね? 確かな筋から、証拠と共に聞かされたと」
どんな証拠だろう? 気にはなったけれど、訊くのが怖くて、今まで目を背けていた。
クリスは、私の手を握るのは離さずに、反対の手をクロークコートの内の隠しから、何かを取り出した。
それは、花の形を模した、小さな天然石のかけらだった。
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