61 / 143
テレーゼ様と私
61.兄と婚約者様
しおりを挟む「アンジュ。アンジュ?」
誰かが私の肩を揺さぶる。この声は、クリス?
「アンジュ。そんなに本や辞書とにらめっこしてたら、眼が疲れたんじゃないか? ミレーニア様が菓子を焼いてくださったから、お茶にしよう」
いつの間にか、机に突っ伏して寝ていたらしい。
この図書室の本を読めるのも、お嬢さまが戻るまでだから、一冊でも多く読みたくて、夜も寝る間を惜しんで読んでいるのだ。
「夢を見てた?」
寂しいと感じていたのは私のはずなのに、クリスが寂しそうな眼で私を見つめ、頰に手を添えると、親指で撫でる。
「眼が疲れただけじゃないのかな、泣いてる」
クリスの親指は、撫でたのではなく、涙を掬うためだったのか⋯⋯
「子供の頃の、夢を見てたの。子供の社交の予行演習みたいなお茶会で、女の子達の自慢話に馴染めなくて、いつも一人で木の陰でみんなを眺めてた」
恥ずかしくなって自分の膝の上の両手に視線を移す。
自然、頭上からクリスの声が降ってくるような感覚になる。
「寂しかった?」
「全然。あんな、くだらない意味のない大人の真似をしてもなんにもならないわ。──っていつも思ってた。でも、それだって、親を間近で見てたからなのよね」
「でも、そのおかげで、俺は君に会えた」
「え?」
今、なんて?
顔を上げてクリスの表情を確かめようとしたら、驚くほど近くにあって、咄嗟には焦点が合わない。
殆ど音を立てずに、クリスの唇が私の頰を伝う涙を吸った。
さっきのクリスの言葉について、考えなきゃいけないのに、頭が真っ白で、どんどん頰が目の下が、熱くなってくる。
動悸が速くなって、息苦しい。
クリスは、なんて言った? イマナニヲシタ?
なんのおかげでなんて言った? ナンカアタマガマワラナイ
もう片方の頰にもクリスの手が添えられ、焦点が合わないような近すぎる距離で目を合わせられる。
クリスは、何か言ったはず⋯⋯ デモ、カンガエラレナイノ
今でも鼻先が触れそうな距離にあるのに、ゆっくりと近づいてくる?
何か重要なことを言ったはず? ナニガジョウヨウダッケ?
クリスの目が優しく半開きに伏せられて⋯⋯
「くぉら!! ホント、目を離せないな、お前は」
「って! 痛い、テオ、乱暴は」
「言っただろ、お前の天使になるのはら・い・ね・ん!」
「せめて後三秒待って欲しかったな」
「三秒も待ったら、キスできるだろ」
「だから、待って欲しかったんだけど」
「来年、お前の領地に俺が泣く泣く送っていって、お前が満面の笑みで受け取って、聖堂の中で永遠を誓って初めてしろ」
「え~? 婚約者なんだから、キスくらいいいだろ」
「ダメだ。俺の(可愛い)天使は、真っ白なまま、嫁ぐその日まで純潔は守るの」
「いつの時代の話だよ。俺の国の騎士の中にも、授かり婚だって少なくないぞ? キスくらい⋯⋯」
「嘆かわしい!! 君主に忠誠を誓い、婦女を敬い、弱きを護る清廉潔白な騎士達はどこへ行ったんだ!?」
「そんなの十二~三世紀までの話だろ? 何百年前なんだよ、古いって。騎士はいても騎士道なんか廃れたさ。騎士が忠誠を誓い、婦女に頭を垂れ、女神に触れる心地で求愛するなんざ、今時流行らないよ。
それに、騎士が活躍して持て囃される時代はもう終わってるよ。皇帝マクシミリアン一世が最後の騎士って言われてるの知らないのか? 誰でも相手を一度にたくさん簡単に殺せる兵器がどんどん開発されて大量生産されるようになって、馬に乗って剣や槍で闘う騎士は時代遅れになってる。もう殺戮兵器に勝てなくなってるさ。騎士団公爵領国とは言っても騎士爵という称号を持った、ただの前時代の古びた戦闘集団さ」
「騎士公爵さまの言うことじゃないな」
「人や家畜を襲う羆や狼を駆逐したり、作物を荒らす鹿や猪を間引きしたり、ケチな盗賊団の討伐はまだ出来るけど。いざ戦争になれば、騎士百人いても大砲ひとつで蹴散らされ⋯⋯て、女性の前でする話じゃないだろ」
「あ、ああ、すまない。そうだな」
クリスは、私の手を取り立たせて、微笑みかける。
「変な話をして悪かったね。さあ、ミレーニア様やテレーゼ様が待ってるよ。行こう」
イルゼさんが私の拡げていた本を重ねて持ち、「お部屋にお持ちしておきます」と請け負ってくださった。
エルマさんと入れ替わりについてくださっているイルゼさんは、一見事務的に仕事をこなすけれど、優しい気遣いも出来る人だ。
「不安にさせるような話をして悪かったね。心配しないで。母上が砦の内側の街を商業都市として守ってるし、自然区をガイドしたり、羊や馬の牧場で体験学習や見学会なんかの観光業も始めようと思ってるんだ。外貨を稼ぐ方法は幾らでもあるよ。君もアイデアを出したり、数カ国語でガイドブックを作ったり、手伝ってくれるだろう?」
「羊の肉やヤギのチーズなんかも、うちの領地に卸してもらってるしな」
「そうなのですか?」
「ああ。羊肉や羊毛品、チーズの替わりに、こちらは小麦と野菜を卸してもらってるんだ。その価格交渉にテオが来ることあるんだけど、まあ、値段の話になると、鬼になるんだよ、コイツ」
「少しでも安く仕入れて高く売りたいだろ」
「まぁな。しかも、俺達の通貨じゃなくて、帝国マルクでって条件もつけるし」
「その方が、帝国相手に仕事するとき、いちいち両替しなくて済むだろ」
「これだよ。ったく」
お兄さまとクリスが仲がいいのは、領地同士での付き合いもあるからなのね。
テレーゼ様は、作りかけの愛らしいキルトを見せてくれた。
「この、青い葉と木は、青の森の氏族の紋章をイメージしているのですって」
「素敵な図案ね」
「明日は、アンジュ様も一緒に作りましょう」
「アンジュ。特別に、お兄さまにベッドカバーを作る栄光を許すぞ?」
「初心者にそんな大きなものは無理よ、テオ」
「んじゃ、クッションでも枕カバーでもいいから、何かこの兄に作ってくれ」
「⋯⋯はい」
お嬢さまがお戻りになる前に間に合うといいけれど。
私は、この仮初めの暮らしがとても幸せだと思った。
11
お気に入りに追加
4,316
あなたにおすすめの小説
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
婚約「解消」ではなく「破棄」ですか? いいでしょう、お受けしますよ?
ピコっぴ
恋愛
7歳の時から婚姻契約にある我が婚約者は、どんな努力をしても私に全く関心を見せなかった。
13歳の時、寄り添った夫婦になる事を諦めた。夜会のエスコートすらしてくれなくなったから。
16歳の現在、シャンパンゴールドの人形のような可愛らしい令嬢を伴って夜会に現れ、婚約破棄すると宣う婚約者。
そちらが歩み寄ろうともせず、無視を決め込んだ挙句に、王命での婚姻契約を一方的に「破棄」ですか?
ただ素直に「解消」すればいいものを⋯⋯
婚約者との関係を諦めていた私はともかく、まわりが怒り心頭、許してはくれないようです。
恋愛らしい恋愛小説が上手く書けず、試行錯誤中なのですが、一話あたり短めにしてあるので、サクッと読めるはず? デス🙇
旦那様に愛されなかった滑稽な妻です。
アズやっこ
恋愛
私は旦那様を愛していました。
今日は三年目の結婚記念日。帰らない旦那様をそれでも待ち続けました。
私は旦那様を愛していました。それでも旦那様は私を愛してくれないのですね。
これはお別れではありません。役目が終わったので交代するだけです。役立たずの妻で申し訳ありませんでした。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様
オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる