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テレーゼ様と私

61.兄と婚約者様

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「アンジュ。アンジュ?」

 誰かが私の肩を揺さぶる。この声は、クリス?

「アンジュ。そんなに本や辞書とにらめっこしてたら、眼が疲れたんじゃないか? ミレーニア様が菓子を焼いてくださったから、お茶にしよう」

 いつの間にか、机に突っ伏して寝ていたらしい。
 この図書室の本を読めるのも、お嬢さまが戻るまでだから、一冊でも多く読みたくて、夜も寝る間を惜しんで読んでいるのだ。

「夢を見てた?」

 寂しいと感じていたのは私のはずなのに、クリスが寂しそうな眼で私を見つめ、頰に手を添えると、親指で撫でる。

「眼が疲れただけじゃないのかな、泣いてる」

 クリスの親指は、撫でたのではなく、涙を掬うためだったのか⋯⋯

「子供の頃の、夢を見てたの。子供の社交の予行演習みたいなお茶会で、女の子達の自慢話に馴染めなくて、いつも一人で木の陰でみんなを眺めてた」

 恥ずかしくなって自分の膝の上の両手に視線を移す。
 自然、頭上からクリスの声が降ってくるような感覚になる。

「寂しかった?」
「全然。あんな、くだらない意味のない大人の真似をしてもなんにもならないわ。──っていつも思ってた。でも、それだって、親を間近で見てたからなのよね」
「でも、そのおかげで、俺は君に会えた」
「え?」

 今、なんて?

 顔を上げてクリスの表情を確かめようとしたら、驚くほど近くにあって、咄嗟には焦点が合わない。

 殆ど音を立てずに、クリスの唇が私の頰を伝う涙を吸った。

 さっきのクリスの言葉について、考えなきゃいけないのに、頭が真っ白で、どんどん頰が目の下が、熱くなってくる。
 動悸が速くなって、息苦しい。

 クリスは、なんて言った? イマナニヲシタ?

 なんのおかげでなんて言った? ナンカアタマガマワラナイ

 もう片方の頰にもクリスの手が添えられ、焦点が合わないような近すぎる距離で目を合わせられる。

 クリスは、何か言ったはず⋯⋯ デモ、カンガエラレナイノ 

 今でも鼻先が触れそうな距離にあるのに、ゆっくりと近づいてくる?

 何か重要なことを言ったはず? ナニガジョウヨウダッケ?

 クリスの目が優しく半開きに伏せられて⋯⋯




「くぉら!! ホント、目を離せないな、お前は」
「って! 痛い、テオ、乱暴は」
「言っただろ、お前の天使(新妻)になるのはら・い・ね・ん!」
「せめて後三秒待って欲しかったな」
「三秒も待ったら、キスできるだろ」
「だから、待って欲しかったんだけど」
「来年、お前の領地に俺が泣く泣く送っていって、お前が満面の笑みで受け取って、聖堂の中で永遠とわを誓って初めてしろ」
「え~? 婚約者なんだから、キスくらいいいだろ」
「ダメだ。俺の(可愛い)天使(妹)は、真っ白なまま、嫁ぐその日まで純潔は守るの」
「いつの時代の話だよ。俺の国の騎士の中にも、授かり婚だって少なくないぞ? キスくらい⋯⋯」
「嘆かわしい!! 君主に忠誠を誓い、婦女を敬い、弱きを護る清廉潔白な騎士達はどこへ行ったんだ!?」
「そんなの十二~三世紀までの話だろ? 何百年前なんだよ、古いって。騎士はいても騎士道なんか廃れたさ。騎士が忠誠を誓い、婦女に頭を垂れ、女神に触れる心地で求愛するなんざ、今時流行らないよ。
 それに、騎士が活躍して持て囃される時代はもう終わってるよ。皇帝マクシミ ※十六世紀初頭リアン一世が最後の騎士って言われてるの知らないのか? 誰でも相手を一度にたくさん簡単に殺せる兵器がどんどん開発されて大量生産されるようになって、馬に乗って剣や槍で闘う騎士は時代遅れになってる。もう殺戮兵器に勝てなくなってるさ。騎士団公爵領国リッテルヒュルステントゥームとは言っても騎士爵という称号を持った、ただの前時代の古びた戦闘集団さ」
騎士リッター公爵さヒュルスト まの言うことじゃないな」
「人や家畜を襲う羆や狼を駆逐したり、作物を荒らす鹿や猪を間引きしたり、ケチな盗賊団の討伐はまだ出来るけど。いざ戦争になれば、騎士百人いても大砲ひとつで蹴散らされ⋯⋯て、女性の前でする話じゃないだろ」
「あ、ああ、すまない。そうだな」

 クリスは、私の手を取り立たせて、微笑みかける。

「変な話をして悪かったね。さあ、ミレーニア様やテレーゼ様が待ってるよ。行こう」

 イルゼさんが私の拡げていた本を重ねて持ち、「お部屋にお持ちしておきます」と請け負ってくださった。
 エルマさんと入れ替わりについてくださっているイルゼさんは、一見事務的に仕事をこなすけれど、優しい気遣いも出来る人だ。


「不安にさせるような話をして悪かったね。心配しないで。母上が砦の内側の街を商業都市として守ってるし、自然区をガイドしたり、羊や馬の牧場で体験学習や見学会なんかの観光業も始めようと思ってるんだ。外貨を稼ぐ方法は幾らでもあるよ。君もアイデアを出したり、数カ国語でガイドブックを作ったり、手伝ってくれるだろう?」
「羊の肉やヤギのチーズなんかも、うちの領地に卸してもらってるしな」
「そうなのですか?」
「ああ。羊肉や羊毛品、チーズの替わりに、こちらは小麦と野菜を卸してもらってるんだ。その価格交渉にテオが来ることあるんだけど、まあ、値段の話になると、鬼になるんだよ、コイツ」
「少しでも安く仕入れて高く売りたいだろ」
「まぁな。しかも、俺達の通貨じゃなくて、帝国マルクでって条件もつけるし」
「その方が、帝国相手に仕事するとき、いちいち両替しなくて済むだろ」
「これだよ。ったく」

 お兄さまとクリスが仲がいいのは、領地同士での付き合いもあるからなのね。


 テレーゼ様は、作りかけの愛らしいキルトを見せてくれた。

「この、青い葉と木は、青の森ブラウヴァルトの氏族の紋章をイメージしているのですって」
「素敵な図案ね」
「明日は、アンジュ様も一緒に作りましょう」
「アンジュ。特別に、お兄さまにベッドカバーを作る栄光を許すぞ?」
「初心者にそんな大きなものは無理よ、テオ」
「んじゃ、クッションでも枕カバーでもいいから、何かこの兄に作ってくれ」
「⋯⋯はい」

 お嬢さまがお戻りになる前に間に合うといいけれど。

 私は、この仮初めの暮らしがとても幸せだと思った。




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