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テレーゼ様と私
60.受け継がれるもの
しおりを挟む四千文字になりそうだったので、一旦切りました
推敲が間に合えば、夜、後半をあげます
❈❈❈❈❈❈❈
お父さまの秘蔵の写本と、北欧神話の伝承本、古語の辞書を片手に机に向かう。
テレーゼ様は、お母さまと王家──青の森の氏族伝統の紋様のキルトを縫っていて、クリスは、お兄さまとお庭で鍛練に励んでいるはず。
曾お祖母さまから伝わる青の森の氏族伝統の紋様で、なぜかメヒティルデ様からヴァルデマール公爵家には伝わらなかったらしい。
お母さまは、ミルヤム様にみっちりと、図案を見なくても刺せるようになるほど教え込まれたらしい。
羨ましい。
私も、例え針で指が傷だらけになっても、代々伝わる意匠なのよって、血脈の証を受け取るような、そんな時間が欲しかった。
今からでも、一緒に習いに行こうかと思ったけれど、その意匠、青の森の氏族──王家の図案を受け取る訳にはいかない。
私は、ここの家の子供でも、お母さまの子供でもない。
その事が悲しい。
母が嫌いだった訳じゃない。母に愛情を感じる事があまりなかっただけ。
顔が似ているから、ミレーニア様が私の本当のお母さまだったらよかったのにって、時々思うだけ。
さすがに赤ん坊の頃や物心つくまでくらいは、母親らしくしてくれたと思いたいけれど。そうでなければ、もっと私は、愛情に飢え、与えられず諦めた、捻くれた寂しがり屋に育っていたに違いない。
母が私に優しく話してくれたのを憶えているのは、たった一度だけ。
クリスに会うようになって二度目のお茶会。
あの日は、母の機嫌が良く、珍しく手を繋いで、テーブル席から離れた芝生の上を散歩した。
私が子供達の輪に加わらないのを心配して宥めようと思ったのだろう。
木陰の根に凭れるように座り、背後から抱き締められ、頰に自身の頰を擦り寄せて優しい声で話してくれた。
「秘密のお話よ? お父さまにも内緒。いいわね?」
「うん」
「あなたには、秘密の、本当のお名前があるの」
「本当のお名前?」
「勿論、お父さまがつけてくださったお名前もあなたの大切なお名前よ? でもね、あなたが産まれてきたその時、とても可愛らしくて、嬉しくて、神さまに感謝したの。そうしたら、あなたは輝くほどの愛らしい笑顔でわたくしを見て、小さな手で必死に私の指を握ってくれたの。産まれて直ぐは目も殆ど見えなくて、私を見分けることなんか出来ないはずなのに、ちゃんとわたくしをお母さまだと認識してくれていたのね。
その様子を見ていた人が、天使みたいだ、神さまは天使を遣わしてくださったって、泣きながら言ってくださったの。
だから、お父さまがお名前をつける前に、わたくしも、わたくしの娘として産まれてくれたことを感謝して『アンジュ』って名付けたのよ。古い言葉で、天使って意味なの。誰にも言えないけれど、憶えておいて。あなたの大切な人が出来たら──信頼出来るお友達でも恋人でもいい、大切な人が出来たら、私は産まれたとき両親に感謝されて、天使という名をもらったのよって自慢してもいいわ。だから、忘れないで。そんな、つまらなさそうな表情をしないで。あなたはわたくしの愛しい天使のような子供なの」
後にも先にも、母があんなに機嫌良く私に話しかけてくれた事はなかった。
唯一の思い出。
だから、クリスが私をアンジュって秘密の名前で呼んだ時、どうして言い当てられたんだろう、って不思議だった。
実際は、いつも同じ 白緑のクライナーエンゲルのドレスを着ていたからで、揶揄い半分洒落半分だったのだけど。
それでも、私の、母からいただいた、たったひとつの親子であることを喜ばしく感じられる贈り物。
それまでは、よく似たこの身ひとつが拠り所だったけれど、ちゃんと産まれてきて愛された証があったと、それを感じ取ってくれた人がいるのだと、喜んだのだ。
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