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婚約者様と私
51.あなたが側に⋯⋯
しおりを挟むお兄さまの隣に立ち、剣を握られる大きな手で顔を覆って、私達から視線を逸らしているクリス。
指の隙間から覗く頰や耳、喉の一部が朱い。まだ日焼けが進んでなくて色が白いからハッキリと染まっているのが判る。
「いや、その、ごめん、立ち聞きするつもりはなかったんだけど、テオについて入ったら、その、なんだか聴かないフリが出来ない内容が⋯⋯」
聴かれていたと知ると、こちらの頰にも熱が上る。
もしかして、テレーゼ嬢は、お兄さまとクリスがいることを知ってて、ドレスの色の話を振ったの?
「いやぁ、祖父さまのお遣いで王城に行った帰り、本宮庭園で黄昏れてたクリスを見つけたから声をかけたら、お前に振られ続けて淋しがってるからさ」
「テオ!」
「いいからついて来いよって、連れて来た。お前、クリスの誘いを断ってんだって?」
「ごめんなさい。わたくしがお邪魔しているからですわね。まさか、クリストファー様のお誘いをお断りして、わたくしに付き合ってくださっていたなんて。申し訳ありません」
慌てて立ち上がり、頭を下げるテレーゼ様に、その場のみんなが慌てる。
「だ、大丈夫ですわ。嫌々付き合っている訳ではありませんもの。クリストファー様とだって、先週、城下町に参りましたわ」
「ま、まあ、浮気してるとか嫌ってるとかじゃなくて、テレーゼ様に付き合ってたんだと解れば、クリスも安心するだろうと思ってさ。連れて来たんだよ。
クリス。こんな感じで、現在我が家に滞在中のテレーゼ様と色々話してんだよ。毎日フリジア語とかラテン語とかで」
「う、うん。そうだったんだね」
「あの、クリストファー様? なにかご用事が⋯⋯」
「アンジュ。お前冷たいな? 用がなくちゃ会っちゃいけないことぁないだろう?」
「そ、でも、ご用事があるから、訪問の打診を⋯⋯」
「断ってたくせに」
「お客さまがいらしてるのに、放って出掛けたりお会いしたりするのは⋯⋯」
「アンジュ。わたくしもいるのですから、少しくらいは構わないんじゃなくて? せっかくいらしたのですから、ちゃんとお相手なさい」
「⋯⋯はい」
立ち上がって、クリスの側へ向かう。みんなの前でクリスがどうでるか解らないので、場所を変えようと思ったのに──
「ごめん。勉強の邪魔をするつもりはなかったんだ。先週、行った石屋のアクセサリーが出来たから、一刻も早く見せたくて⋯⋯」
「ありがとうございます。楽しみにしてましたの」
「断ってたくせに」
「テオ、うるさい。それで、あの、今、つけて見せてくれるかな?」
ここで?と思わないでもなかったけれど、「婚約者様」のご要望とあれば、応えるしかない。
ドレスの袖を少し捲り上げる。クライナーエンゲルのものほど緻密なレースではないけれど、これも平民の私には過ぎた品物だ。
クリスは、ポケットからブレスレットを取り出すと、私の痩せた左腕をとり、騎士の手とは思えない繊細な指先の動きで留め金を外し私の手首に巻いて留め直す。
パン屋の女将さんに、そんな細っこい腕じゃ、赤ちゃんも抱けないよって笑われてたっけ⋯⋯
などと考えていると、クリスは手を離す際、手首の脈の上にそっと口づけてから、にっこりと笑って「うん、似合ってる」と満足げだった。
「くっ、クリ、スッ、クリストファー様!? 何を」
この人は誰!? 私がお嬢さまと入れ替わっているように、クリスも実は別人なんじゃ? こんなこと出来るような人だとは思わなかったわ。7つの時のクリスは、思ったことを素直に出すのに、照れや反発が先に出る不器用さんだったのに。
「え? あ、断りなくごめん。なんか、細い手首だなぁと見てたら、つい。ブレスレットも似合ってるし。でも、これで俺のこと忘れなくなったよな? 二度目はごめんだからな」
「おいおい、クリス、案外手が早いな? こりゃ、あんまりふたりに出来ないか?」
「そんなんじゃないよ。元々、こうするつもりだった訳じゃないし。細い腕だな、ブレスレットが映える白い手首だなって見てたら、こう、無意識に? 忘れなくなる、は、後付けだから」
「にしたって、俺らも見てる前で⋯⋯」
お兄さまは揶揄い半分驚き半分だけれど、テレーゼ様とお母さまは、完全に恋愛物語の舞台を観る目だ。
「兄の見てる前で酷いですわ。こんな事されたの生まれて初めてです。クリストファー様がこのような事をなさる方だと思ってませんでした」
「つれないなぁ。この石を見に行ったときのように、自然にクリスって呼んでくれたらいいのに」
「え? わたくし、烏滸がましくもクリストファー様を愛称呼びにしてました!?」
「自覚なかった? 馬車を降りて、手を引いて歩き出してから屋敷に戻るまでずっとだったよ」
「も、申し訳ありません。まさか、そんな⋯⋯」
「なんで謝るの? そもそも烏滸がましいだなんて、婚約者だよね? 来年には夫婦になるんだし、他人行儀にしないで欲しいなぁ。
でも良かった」
「何が? 良かったって⋯⋯」
「うん、そんな事をされたのが初めてって。他にそんな事をした人が居なかったって事だよね?」
「そんな、気軽に人の身体に触れたり口づけたりする人なんて普通いませんでしょう?」
何を考えているのかしら。そんな不埒な人、そこら中にいたら大問題でしょう?
特定の男性と付き合ったことだってないのに、そんな経験ある訳がない。
「そうか。いないんだ。よかった、うん」
「クリス、頭のネジが一本抜けたのか?」
「もし、そんな人がいたら、この剣を抜かなきゃいけないところだったよ」
「いや、お前も、まだ夫じゃないから」
「上位貴族同士で婚姻契約を結んだからには、よほどのことがない限り、その時点で決まったようなものだよね? だからアンジュだって、俺の眼の色のドレスを着てくれてるんだろ?」
「言いたいことは解らんでもないが。まさか、清廉潔白な騎士公子殿は、実は独占欲強いタイプだったか⋯⋯」
お兄さまは呆れ顔で肩を竦めた。お兄さまはそれでよくても、手首に触れるだけとはいえ口づけられた私は、それで終われない。
胸だけじゃなく頭の中にも心臓があるのかってくらいドンドンと血の流れる音がうるさくて、足元から力が抜けていくような気がする。
「いいわねぇ。クリストファー様が積極的な方だったのは驚きましたけれど、わたくしも、いい人が欲しくなりますわ。
アンジュ様、よかったじゃありませんの。ご両親のように、睦まじい夫婦が理想なのでしょう? きっと、それ以上に大事にしてくださいますわね? この様子なら」
そうね。お嬢さまは、きっと、お望みの愛を語る夫婦になれるわ。ちゃんと向き合っていれば、こんなに愛情深い方だというのに。
本当に、愚かな人。クリスはこんなに愛情を見せてくださる人なのに。
婚約者クリスの愛情。
私が望んでも手に入らないもの──
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