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それぞれの覚悟
(中編)
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***
昼間の出来事は、少しは主人の心に届いたのだろうか。
春用の若草色した寝間着を主人に着せ、ベッドに入れて布団をかければ、主人は柔らかく目を細めた。
「ロッソ……」
囁くように名を呼ばれれば、それだけで私の息は詰まってしまう。
「はい、ここに」
私は主人に顔を寄せて、静かに答えた。
孤児院の子ども達も全員巣立ってしまった今、この方が、亡くなったあの方を追わない事が、私にはどこか不思議なほどだった。
あの方が、後を追わぬよう主人に言い聞かせていたのだろうか。
あの方ならそのくらいの先回りは容易いだろうとは思う。
主人は悲しみに潰されながらも、自棄になる事もなく、食事をとり、睡眠をとるように努めていた。
主人が、立ち直ろうとしている。
それはとても嬉しい事だった。
正直、自分一人が残されてしまう事も、密かに覚悟はしていた。
その時は、主人の葬儀を厳粛に行って、それから、彼らの残したこの孤児院の新たな姿を見届けるつもりだった。
それまでは、一人でも、生き続けようと決めていた。
けれど、私はまだ、主人と共に生きる事を許していただけるらしい。
その事実がただただ嬉しい。
主人を連れてゆくこともできたのに、ここへ残してくださったあの方に、私は深く感謝を捧げた。
隠しきれない喜びを滲ませて主人を見つめれば、私よりも十歳以上若い主人は、腕を伸ばして私の頭を撫でると、肩に流れていた黒髪を引き寄せた。
昔、足元まで伸ばしていた髪は、子ども達の世話をするようになってから、腰あたりまでの長さに切っていた。それもまた、今はもう少しだけ伸びている。
主人は、私の髪を一束、口元まで引き寄せると、そっと口付けた。
その仕草には、覚えがあった。
主人がまだ少年と青年の境だった頃、厳しい現実に押し潰されそうだった主人は、私の髪に慰めを求めた。
私の黒髪を通して、主人はあの方を見ていた。
あの頃は、主人を慰められない自身を不甲斐なく感じていた。けれど今では、私ごときの髪で、少しでもあの方の代わりになるのなら、光栄な事だとすら思えた。
「主人様……」
思わず零れた声に、主人が、ほんの少し微笑む。
寂しげな笑顔は、あの方と再会を果たすまでの彼が、よく見せていた表情だった。
あの方との再会を果たしてからも、共にいられる時間は年にほんの数日で、寂しげな様子を見せることは多かった。
寂しげな色をした主人の瞳に、私が映っている。
金色の瞳に優しく誘われて、私は主人へ唇を重ねた。
「ロッソ……。慰めてくれるの?」
主人の言葉に、胸が高鳴る。
そのようなことが、私に許されるのだろうか。
「私で、よろしいのでしたら……」
こんな私でも、主人の慰めになるのなら、何もかも捧げたいと願う。
想いを込めて、懸命に伝えれば、主人はふわりと笑った。
「ありがとう、ロッソ……」
主人の両腕が、私をその胸元にぎゅうっと抱き寄せる。
温かい……。
耳元で、規則正しい彼の心音が聞こえる。この音が、どうか、ずっとずっと続きますように……。
久々に包まれた主人の腕の中で、私が束の間の幸せに微睡んでいると、主人が私の耳元へと囁いた。
「ロッソ……、カースのこと、忘れさせて……?」
思わず目を見開く。
そんな事、出来るはずがない。
困惑を浮かべて主人を見れば、彼は全て分かった顔で、私へ寂しげに微笑んでいた。
「……はい」
私は、主人の求めに精一杯で応えた。
あの方とも、もう週に一度あるかないかという頻度だったが、私とはもっと少なかった。
その上、主人はもう十日以上ろくに運動もしていなかったし、行為はそこまで長引く事もないだろうと思っていた。
だから、主人が三度達した後に眠ってしまったのは、私からすれば十分に長かったし、その身体を清めて綺麗なシーツに寝かせた時は、ホッとした。
主人の寝顔は、まだ青年になりかけだった頃と変わらない、純真で、どこか寂しげな表情をしていた。
あの頃に戻ったのだと思った。
あの方の居なかった、あの頃に。
私と出会った頃の、抱え切れないほどの喪失感を胸の奥底へ隠していたあの頃に、主人の心は引き戻されてしまったのだと、そう思った。
それから、主人は毎夜、私に慰めを求めるようになった。
事の始めには、私を見つめて私の名を呼んでくださる主人は、熱に浮かされる程に、私の髪を搔き抱いて、あの方の名をうわ言のように呼んだ。
主人は決して、私を手荒に扱うことはなかった。
優しく丁寧に、執拗なまでに繰り返される毎晩の愛撫は、私を夜毎追い詰めた。
私の身体は、肌を重ねるほどに、主人をより敏感に感じるようになってゆく。
その晩も、何度目の絶頂なのかもう分からないほどに、私は主人の手でぐずぐずに蕩かされていた。
私の口から漏れるのは、止まない嬌声と、主人に縋る声だけで、息を吸うこともままならない。
手足は既に感覚を失っていた。
意識が遠のき、どこか現実感を失いつつある中で、それでも快感だけが鋭さを増してゆく。
何となく、本能が察している。死の気配が近付いている。
私は、このまま死んでしまうのだろうか。
「ロッソ……」
主人が、熱を孕んだ声で私の名を囁く。
ああ……、このまま、敬愛するこの方に愛され尽くして死ねるのなら、それはなんて幸せな事なんだろう……。
快楽に沈み切った頭が、間違った判断を下す。
それを正すことができないまま、私の身体が命の終わりを告げようとした時。
その声は聞こえた。
昼間の出来事は、少しは主人の心に届いたのだろうか。
春用の若草色した寝間着を主人に着せ、ベッドに入れて布団をかければ、主人は柔らかく目を細めた。
「ロッソ……」
囁くように名を呼ばれれば、それだけで私の息は詰まってしまう。
「はい、ここに」
私は主人に顔を寄せて、静かに答えた。
孤児院の子ども達も全員巣立ってしまった今、この方が、亡くなったあの方を追わない事が、私にはどこか不思議なほどだった。
あの方が、後を追わぬよう主人に言い聞かせていたのだろうか。
あの方ならそのくらいの先回りは容易いだろうとは思う。
主人は悲しみに潰されながらも、自棄になる事もなく、食事をとり、睡眠をとるように努めていた。
主人が、立ち直ろうとしている。
それはとても嬉しい事だった。
正直、自分一人が残されてしまう事も、密かに覚悟はしていた。
その時は、主人の葬儀を厳粛に行って、それから、彼らの残したこの孤児院の新たな姿を見届けるつもりだった。
それまでは、一人でも、生き続けようと決めていた。
けれど、私はまだ、主人と共に生きる事を許していただけるらしい。
その事実がただただ嬉しい。
主人を連れてゆくこともできたのに、ここへ残してくださったあの方に、私は深く感謝を捧げた。
隠しきれない喜びを滲ませて主人を見つめれば、私よりも十歳以上若い主人は、腕を伸ばして私の頭を撫でると、肩に流れていた黒髪を引き寄せた。
昔、足元まで伸ばしていた髪は、子ども達の世話をするようになってから、腰あたりまでの長さに切っていた。それもまた、今はもう少しだけ伸びている。
主人は、私の髪を一束、口元まで引き寄せると、そっと口付けた。
その仕草には、覚えがあった。
主人がまだ少年と青年の境だった頃、厳しい現実に押し潰されそうだった主人は、私の髪に慰めを求めた。
私の黒髪を通して、主人はあの方を見ていた。
あの頃は、主人を慰められない自身を不甲斐なく感じていた。けれど今では、私ごときの髪で、少しでもあの方の代わりになるのなら、光栄な事だとすら思えた。
「主人様……」
思わず零れた声に、主人が、ほんの少し微笑む。
寂しげな笑顔は、あの方と再会を果たすまでの彼が、よく見せていた表情だった。
あの方との再会を果たしてからも、共にいられる時間は年にほんの数日で、寂しげな様子を見せることは多かった。
寂しげな色をした主人の瞳に、私が映っている。
金色の瞳に優しく誘われて、私は主人へ唇を重ねた。
「ロッソ……。慰めてくれるの?」
主人の言葉に、胸が高鳴る。
そのようなことが、私に許されるのだろうか。
「私で、よろしいのでしたら……」
こんな私でも、主人の慰めになるのなら、何もかも捧げたいと願う。
想いを込めて、懸命に伝えれば、主人はふわりと笑った。
「ありがとう、ロッソ……」
主人の両腕が、私をその胸元にぎゅうっと抱き寄せる。
温かい……。
耳元で、規則正しい彼の心音が聞こえる。この音が、どうか、ずっとずっと続きますように……。
久々に包まれた主人の腕の中で、私が束の間の幸せに微睡んでいると、主人が私の耳元へと囁いた。
「ロッソ……、カースのこと、忘れさせて……?」
思わず目を見開く。
そんな事、出来るはずがない。
困惑を浮かべて主人を見れば、彼は全て分かった顔で、私へ寂しげに微笑んでいた。
「……はい」
私は、主人の求めに精一杯で応えた。
あの方とも、もう週に一度あるかないかという頻度だったが、私とはもっと少なかった。
その上、主人はもう十日以上ろくに運動もしていなかったし、行為はそこまで長引く事もないだろうと思っていた。
だから、主人が三度達した後に眠ってしまったのは、私からすれば十分に長かったし、その身体を清めて綺麗なシーツに寝かせた時は、ホッとした。
主人の寝顔は、まだ青年になりかけだった頃と変わらない、純真で、どこか寂しげな表情をしていた。
あの頃に戻ったのだと思った。
あの方の居なかった、あの頃に。
私と出会った頃の、抱え切れないほどの喪失感を胸の奥底へ隠していたあの頃に、主人の心は引き戻されてしまったのだと、そう思った。
それから、主人は毎夜、私に慰めを求めるようになった。
事の始めには、私を見つめて私の名を呼んでくださる主人は、熱に浮かされる程に、私の髪を搔き抱いて、あの方の名をうわ言のように呼んだ。
主人は決して、私を手荒に扱うことはなかった。
優しく丁寧に、執拗なまでに繰り返される毎晩の愛撫は、私を夜毎追い詰めた。
私の身体は、肌を重ねるほどに、主人をより敏感に感じるようになってゆく。
その晩も、何度目の絶頂なのかもう分からないほどに、私は主人の手でぐずぐずに蕩かされていた。
私の口から漏れるのは、止まない嬌声と、主人に縋る声だけで、息を吸うこともままならない。
手足は既に感覚を失っていた。
意識が遠のき、どこか現実感を失いつつある中で、それでも快感だけが鋭さを増してゆく。
何となく、本能が察している。死の気配が近付いている。
私は、このまま死んでしまうのだろうか。
「ロッソ……」
主人が、熱を孕んだ声で私の名を囁く。
ああ……、このまま、敬愛するこの方に愛され尽くして死ねるのなら、それはなんて幸せな事なんだろう……。
快楽に沈み切った頭が、間違った判断を下す。
それを正すことができないまま、私の身体が命の終わりを告げようとした時。
その声は聞こえた。
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