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主人サイドのお話
長い冬と約束の春(1/10)
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当初一週間の滞在予定だったヴィルは、十日、十二日とその滞在期間を延ばしていたが、二週間後の十四日目に、ようやく帰りの船に乗ってくれた。
彼の乗った船が遠ざかるのを見送りながら、正直私は、ホッとしていた。
彼は、優しかった。
私の事を、彼の精一杯で、大切にしようとしてくれた。
けれど、彼が大切にしようとしているのは、私ではなくあの頃のアンリで、それを感じる度に、私は胸が引き裂かれそうだった。
私はもう、アンリではないと、あの頃と同じ体ではないと、何度も告げようと思った。
でも、できなかった……。
それを知った彼の顔を見るのが……、怖くて、たまらなかった……。
私に愛を伝えようとすればするほど、私の表情が暗くなる事を、きっとヴィルも気付いていたのだろう。
一昨日の、夜に見たヴィルの顔が蘇る。
あんなに悲しそうな彼の顔は、今まで見たことがなかった。
まるで私に裏切られたとでもいうような、酷く傷付いた目をしていた。
……彼にあんな顔をさせてしまうくらいなら、もっと早く、私から打ち明けていればよかった……。
「アリエッタ様、ここは冷えます。中にお入りください」
ノクスに肩を触れられて、思わずびくりと身をすくめる。
黒毛の従者は、何も言わずにその黒い瞳を伏せた。
……一昨日の夜、私はノクスに助けを求めてしまった。
それが、彼を……ヴィルを酷く傷付けてしまった。
あの時、私が彼を受け入れていれば、彼は……。
彼は…………。
私を、どう思ったのだろうか……。
いつまでも海辺に立ち尽くしていた私の肩に、そっとショールが掛けられた。
いつの間にかノクスが取って来たようだ。
「……ありがとう」
「いえ……私が……」
それきり途絶えた言葉に、私はノクスを見上げた。
ヴィルほどではないが、兎族の中では背の高い彼。
すらりと細い彼を見上げれば、その整った細い眉は、どこか苦しげに寄せられていた。
普段、言い淀むことなんてまずない彼の、それどころか表情すらあまり変わらない彼の、そんな姿に驚く。
「私が……出過ぎた真似を致しました……」
どうやら、一昨日の事を反省していたのは私だけではなかったらしい。
「いいえ……。私が何も言わずにいたのが悪かったの……」
そう答えると、彼は痛みを堪えるようにして首を振った。
一昨日は、月の綺麗な夜だった。
ヴィルは、私に愛を囁いて、優しく口付けた。
まるで私をいたわるような、そんな柔らかな口付けに、喜びと苦しみが重なる。
爪を引っ込めた彼の指が、その柔らかな肉球で私を撫でる。
そうっと、少しも傷付けないように、と。
その気持ちが嬉しくて、同時にとても申し訳なかった。
彼が傷付けたくないのはアンリだったから。
不意に、彼の服が私の首元のリボンを解く。
「いいか?」
と低く囁かれて、私は、はいとも、いいえとも、答えることができなかった。
躊躇う私を、ヴィルは少なくとも否定的でないと受け取ったのだろう。
彼は私の服の留め具を外すと、その内へと指先を這わせた。
「……っ」
彼に愛を持って触れられる事が嬉しくて、でも苦しくて、私は息ができなくなる。
ゆっくりと、彼の指が私の胸を通り過ぎ、脇腹を撫でて、その下へと進もうとする。
彼にそれを知られることは、怖くてたまらなかった。
私が、引き攣る喉で、ようやく呼べた名は、ヴィルではなかった。
「っ……ノクス……っ!」
途端、扉の外にいたはずの従者は部屋に入ってきた。
後ろからは、ヴィルの従者も、やれやれという顔で覗き込んでいる。
ヴィルの従者は扉の前に残り、部屋には三人だけとなった。
「婚前交渉はお止めください」
ノクスは開口一番、ヴィルにそう言った。
「なんでだよ。この城はどの部屋も防音されてんだろ?」
ムッとした様子でヴィルが答える。
「貞操観念の問題です」
「そんなのは、俺達二人の問題だろ」
「……ではご自身の目でお確かめください」
言われて、ヴィルが私をもう一度見る。
私は涙でべしょべしょになってしまった顔を、慌てて伏せた。
肩が震えているのを気付かれたくなくて、自身の両肩を抱く。
それでも、彼には気付かれてしまったかも知れない。
情けなさと恥ずかしさで、涙は止まらなかった。
「私の主人が、望んでいるとでもおっしゃるおつもりですか?」
ノクスの言葉に、ヴィルは何も答えなかった。
そっと覗き見たヴィルは、酷く悲しげな、傷付いた顔をしていた。
一瞬のような、永遠のような、しばらくの沈黙の後、彼は震える声で謝罪した。
「……怖がらせて、悪かった……」
そして、明後日には国に帰ると言った。
まるで、私を少しでも安心させようとするように……。
翌日、彼はいつものように振る舞おうとしてくれた。
それでも、今までより、身体的に距離を取ろうとしているのが分かった。
それらは全て、彼の優しさだったし、誠実さでもあった。
分かっていたのに、それなのに、私は。彼の優しさに甘えて、自分の身体の事を伝えないままに、彼を帰してしまった。
彼の心を傷付けて。謝ることすらできないまま。
私は、なんて身勝手なんだろう……。
知らず俯いていた視線を、じわりと上げる。
彼を乗せた船は、水平線の彼方へと消えていた。
彼の乗った船が遠ざかるのを見送りながら、正直私は、ホッとしていた。
彼は、優しかった。
私の事を、彼の精一杯で、大切にしようとしてくれた。
けれど、彼が大切にしようとしているのは、私ではなくあの頃のアンリで、それを感じる度に、私は胸が引き裂かれそうだった。
私はもう、アンリではないと、あの頃と同じ体ではないと、何度も告げようと思った。
でも、できなかった……。
それを知った彼の顔を見るのが……、怖くて、たまらなかった……。
私に愛を伝えようとすればするほど、私の表情が暗くなる事を、きっとヴィルも気付いていたのだろう。
一昨日の、夜に見たヴィルの顔が蘇る。
あんなに悲しそうな彼の顔は、今まで見たことがなかった。
まるで私に裏切られたとでもいうような、酷く傷付いた目をしていた。
……彼にあんな顔をさせてしまうくらいなら、もっと早く、私から打ち明けていればよかった……。
「アリエッタ様、ここは冷えます。中にお入りください」
ノクスに肩を触れられて、思わずびくりと身をすくめる。
黒毛の従者は、何も言わずにその黒い瞳を伏せた。
……一昨日の夜、私はノクスに助けを求めてしまった。
それが、彼を……ヴィルを酷く傷付けてしまった。
あの時、私が彼を受け入れていれば、彼は……。
彼は…………。
私を、どう思ったのだろうか……。
いつまでも海辺に立ち尽くしていた私の肩に、そっとショールが掛けられた。
いつの間にかノクスが取って来たようだ。
「……ありがとう」
「いえ……私が……」
それきり途絶えた言葉に、私はノクスを見上げた。
ヴィルほどではないが、兎族の中では背の高い彼。
すらりと細い彼を見上げれば、その整った細い眉は、どこか苦しげに寄せられていた。
普段、言い淀むことなんてまずない彼の、それどころか表情すらあまり変わらない彼の、そんな姿に驚く。
「私が……出過ぎた真似を致しました……」
どうやら、一昨日の事を反省していたのは私だけではなかったらしい。
「いいえ……。私が何も言わずにいたのが悪かったの……」
そう答えると、彼は痛みを堪えるようにして首を振った。
一昨日は、月の綺麗な夜だった。
ヴィルは、私に愛を囁いて、優しく口付けた。
まるで私をいたわるような、そんな柔らかな口付けに、喜びと苦しみが重なる。
爪を引っ込めた彼の指が、その柔らかな肉球で私を撫でる。
そうっと、少しも傷付けないように、と。
その気持ちが嬉しくて、同時にとても申し訳なかった。
彼が傷付けたくないのはアンリだったから。
不意に、彼の服が私の首元のリボンを解く。
「いいか?」
と低く囁かれて、私は、はいとも、いいえとも、答えることができなかった。
躊躇う私を、ヴィルは少なくとも否定的でないと受け取ったのだろう。
彼は私の服の留め具を外すと、その内へと指先を這わせた。
「……っ」
彼に愛を持って触れられる事が嬉しくて、でも苦しくて、私は息ができなくなる。
ゆっくりと、彼の指が私の胸を通り過ぎ、脇腹を撫でて、その下へと進もうとする。
彼にそれを知られることは、怖くてたまらなかった。
私が、引き攣る喉で、ようやく呼べた名は、ヴィルではなかった。
「っ……ノクス……っ!」
途端、扉の外にいたはずの従者は部屋に入ってきた。
後ろからは、ヴィルの従者も、やれやれという顔で覗き込んでいる。
ヴィルの従者は扉の前に残り、部屋には三人だけとなった。
「婚前交渉はお止めください」
ノクスは開口一番、ヴィルにそう言った。
「なんでだよ。この城はどの部屋も防音されてんだろ?」
ムッとした様子でヴィルが答える。
「貞操観念の問題です」
「そんなのは、俺達二人の問題だろ」
「……ではご自身の目でお確かめください」
言われて、ヴィルが私をもう一度見る。
私は涙でべしょべしょになってしまった顔を、慌てて伏せた。
肩が震えているのを気付かれたくなくて、自身の両肩を抱く。
それでも、彼には気付かれてしまったかも知れない。
情けなさと恥ずかしさで、涙は止まらなかった。
「私の主人が、望んでいるとでもおっしゃるおつもりですか?」
ノクスの言葉に、ヴィルは何も答えなかった。
そっと覗き見たヴィルは、酷く悲しげな、傷付いた顔をしていた。
一瞬のような、永遠のような、しばらくの沈黙の後、彼は震える声で謝罪した。
「……怖がらせて、悪かった……」
そして、明後日には国に帰ると言った。
まるで、私を少しでも安心させようとするように……。
翌日、彼はいつものように振る舞おうとしてくれた。
それでも、今までより、身体的に距離を取ろうとしているのが分かった。
それらは全て、彼の優しさだったし、誠実さでもあった。
分かっていたのに、それなのに、私は。彼の優しさに甘えて、自分の身体の事を伝えないままに、彼を帰してしまった。
彼の心を傷付けて。謝ることすらできないまま。
私は、なんて身勝手なんだろう……。
知らず俯いていた視線を、じわりと上げる。
彼を乗せた船は、水平線の彼方へと消えていた。
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