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日も陰り、薄暗くなってきた村の中を、足早に進む人影がひとつ。
雪は風とともに強くなり、視界を白く染めてゆく。
ノックの音に、カースは扉を開けた。
「カースっ」
「とにかく入れ」
男は、自身を一目見るなり破顔した青年に苦笑を浮かべつつ、その肩をぐいと中に引き込むと、扉を閉めた。
風とともに勢いよく室内に飛び込んだ雪が、力を失いふわりと舞い落ちる。
「どうだった? 見ててくれた?」
目深に被っていたフードを脱ぎつつ、青年が期待を浮かべて尋ねる。
「ああ、立派だったよ」
ふ。と口角を上げて、森色の瞳が緩やかに青年を撫でた。
「そっかー、ふふふ」
簡潔に褒められて、青年は見えない尻尾をブンブンと振る仔犬のように体を揺らす
。
「お前一人か?」
扉の外に、人の気配はない。それでも男は念のため尋ねた。
「うん」
「あの従者はどうした」
「ロッソは……俺の身代わりになってくれた」
「ん?」
どこか不穏なその単語に、カースはリンデルの次の言葉を待つ。
「俺は日中の疲れが出て、宿で休んでることになってるんだ」
「……それでそんな格好で来たのか」
カースは僅かに入ってしまった肩の力を抜きながら、金色の青年を上から下まで眺めた。
リンデルは、ラフな普段着の上から全身を包むようなローブを着ていた。
ちょうど雪も吹雪になりつつある今なら、そう怪しい格好でもないだろう。
(しかし、あの従者が、こいつを一人にするなんてな……)
カースがどこか信じられないような顔をしているので、リンデルは小さく苦笑する。
「俺だって、村の中くらい一人で歩けるよ」
「夕飯は済ませたのか?」
「ううん、まだ。だってカースのシチュー食べる約束したよね?」
「……毒見はいいのか?」
「カースは、ロッソに信頼されてるんだよ」
リンデルの濡れたローブを片腕で器用に干していたカースが、その言葉に振り返る。
……そうなのだろうか。
こんな、呪われた俺を?
そう長く、共に過ごしたわけでもないのに?
それどころか、今日なんて、あの従者を殺気で炙ってしまったと言うのに。
「……早く名を決めないと、な……」
あの従者の顔を思い浮かべて、カースはポツリと呟いた。
「名前……?」
リンデルが首を傾げる。
「ああ、俺の呼び名だ」
「カース……?」
「……お前がその言葉を口にするのは良くないようだ」
カースはリンデルを椅子へ座らせると、食事の用意を始める。
先に、ほんの少しの軽い酒を出されて、リンデルはそれに口を付けた。
「ロッソが、そんなこと言ったんだ……」
「責めてやるなよ? あの従者は間違っちゃいない」
「……」
リンデルは両手で酒の入った小さなグラスを包んでいる。
その水面を、じっと見つめていた。
「考えてはいたんだが、なかなかこれというのを思いつかなくてな」
リンデルは何も言わなかった。
しばらく、二人の耳には食事を用意する音だけが聞こえる。
「……カースの、本当の名前はなんていうの?」
静かな声だった。
問われて、男が振り返ると、金色の瞳が真摯に男を見つめていた。
墓の前でロッソに言われた言葉が、耳に蘇る。
もう二度と、聞くことはないだろうと思っていたその名……。
男は、その金色から目を逸らして、掠れた声で答えた。
「……ゴルラッド・ディ・クルーヴ」
この名をまた口にする日など、来るはずがないと思っていた。
たとえリンデルに問われたとしても、生涯伝えるつもりはなかった。
なのに、なぜか、今、口から零れてしまった。
「クルーヴって言うんだ?」
呼ばれて、男が表情を嶮しくする。
「……やめろ」
苦し気な男の様子に、リンデルは優しく尋ねた。
「どうして? 俺はカースの本当の名前、教えてもらえて嬉しいよ」
「もう捨てた過去だ……」
「……そっか」
リンデルがそれきり黙った事に、男は内心安堵しつつ、作業に戻る。
昔から、こいつはなんでも聞いてくるやつではあったが、こちらが嫌がればそれ以上踏み込むことはなかった。
どうやら、そんなところも、変わらずにいてくれたらしい。
心の奥が安心感で温かくなるのを感じながら、男は器にシチューを注ぐ。
間もなく、二人分の食事が食卓に並べられ、男も青年の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、新しい名前は俺がつけてもいい?」
顔を上げれば、温かい金色の瞳が二つ、男を見つめている。
目の前でもうもうと湯気をあげている料理よりも、なお温かな色をした瞳。
男はゆっくり頷いた。
「んー……、シチューが美味しいから、シチューとか?」
「おい……」
森色の瞳が半分隠れる。半眼を向けられてリンデルは悪戯っぽく笑った。
「カースはさ、今の名前が好き?」
「……いや……。そんな、ことは……」
ほんの少しの動揺を滲ませた男の言葉はそこで途切れる。
カースというのは、あの男が付けた名だった。
名を捨てた俺を、あいつが勝手にそう呼んだ。
お前にはお似合いだと、そう言って、クックッと喉の奥で笑っていた。
茶色がかった黒髪を、手入れのされていないボサボサの頭を揺らして。
ここではないどこかを見ながら黙ってしまった男を、青年は見つめる。
なんとなく、分かってはいた。
この家には、ほんの少しだけれど、あの獣と煙の臭いが残っていたから。
でも尋ねたことは無かった。
俺と離れてから、今まで、誰と過ごしていたのか。とは。
今、彼が一人なら、それでいい。
ずっと、そう思おうとしていた。
それでも、こんな風に、時折心を奪われている様を見せられると、どうしようもなく暗い何かが心に滲んでしまう。
この人の前でだけは、あの頃のままの、まっさらな自分でいたいのに……。
「リンデル、冷めるぞ」
声をかけられて、リンデルはハッとする。
手の中の木の器から、少し冷めてきたシチューを掬って口に入れる。
あの頃と同じ。
あの頃と同じ味がするはずなのに。
今の自分にはどこか苦く思えた。
「お前が……呼んでくれるなら、なんだっていいよ」
男が、そっと労わるように言う。
リンデルが黙っているのを、名前に悩んでいるからだと思ったのだろう。
リンデルは、ほんの少し迷った後、心を決める。
今の名をつけたのが誰かは、もう考えないことにしよう。
カースが今の名を捨てたくないと思うなら、やはりここは、彼の気持ちを優先したい。
「……じゃあ、カーシュっていうのは、どうかな?」
「カーシュ……」
男が、確かめるように繰り返す。
「これなら、俺がうっかり呼び間違えても誤魔化せるしさ」
リンデルが悪戯っぽく笑うと、
「そうだな」
と男が口元を緩めた。
「それに、全部変えなくても、俺が外で呼ぶときだけでいいよ」
「分かった。そうしよう」
穏やかに目を細める男を、リンデルはどこかホッとしながら見た。
自分の中の醜い部分を、今日もこの人に気付かれずに済んだ。と。
しかし、ここで安心したのはまだ早過ぎたと、リンデルは後から気付くことになる。
雪は風とともに強くなり、視界を白く染めてゆく。
ノックの音に、カースは扉を開けた。
「カースっ」
「とにかく入れ」
男は、自身を一目見るなり破顔した青年に苦笑を浮かべつつ、その肩をぐいと中に引き込むと、扉を閉めた。
風とともに勢いよく室内に飛び込んだ雪が、力を失いふわりと舞い落ちる。
「どうだった? 見ててくれた?」
目深に被っていたフードを脱ぎつつ、青年が期待を浮かべて尋ねる。
「ああ、立派だったよ」
ふ。と口角を上げて、森色の瞳が緩やかに青年を撫でた。
「そっかー、ふふふ」
簡潔に褒められて、青年は見えない尻尾をブンブンと振る仔犬のように体を揺らす
。
「お前一人か?」
扉の外に、人の気配はない。それでも男は念のため尋ねた。
「うん」
「あの従者はどうした」
「ロッソは……俺の身代わりになってくれた」
「ん?」
どこか不穏なその単語に、カースはリンデルの次の言葉を待つ。
「俺は日中の疲れが出て、宿で休んでることになってるんだ」
「……それでそんな格好で来たのか」
カースは僅かに入ってしまった肩の力を抜きながら、金色の青年を上から下まで眺めた。
リンデルは、ラフな普段着の上から全身を包むようなローブを着ていた。
ちょうど雪も吹雪になりつつある今なら、そう怪しい格好でもないだろう。
(しかし、あの従者が、こいつを一人にするなんてな……)
カースがどこか信じられないような顔をしているので、リンデルは小さく苦笑する。
「俺だって、村の中くらい一人で歩けるよ」
「夕飯は済ませたのか?」
「ううん、まだ。だってカースのシチュー食べる約束したよね?」
「……毒見はいいのか?」
「カースは、ロッソに信頼されてるんだよ」
リンデルの濡れたローブを片腕で器用に干していたカースが、その言葉に振り返る。
……そうなのだろうか。
こんな、呪われた俺を?
そう長く、共に過ごしたわけでもないのに?
それどころか、今日なんて、あの従者を殺気で炙ってしまったと言うのに。
「……早く名を決めないと、な……」
あの従者の顔を思い浮かべて、カースはポツリと呟いた。
「名前……?」
リンデルが首を傾げる。
「ああ、俺の呼び名だ」
「カース……?」
「……お前がその言葉を口にするのは良くないようだ」
カースはリンデルを椅子へ座らせると、食事の用意を始める。
先に、ほんの少しの軽い酒を出されて、リンデルはそれに口を付けた。
「ロッソが、そんなこと言ったんだ……」
「責めてやるなよ? あの従者は間違っちゃいない」
「……」
リンデルは両手で酒の入った小さなグラスを包んでいる。
その水面を、じっと見つめていた。
「考えてはいたんだが、なかなかこれというのを思いつかなくてな」
リンデルは何も言わなかった。
しばらく、二人の耳には食事を用意する音だけが聞こえる。
「……カースの、本当の名前はなんていうの?」
静かな声だった。
問われて、男が振り返ると、金色の瞳が真摯に男を見つめていた。
墓の前でロッソに言われた言葉が、耳に蘇る。
もう二度と、聞くことはないだろうと思っていたその名……。
男は、その金色から目を逸らして、掠れた声で答えた。
「……ゴルラッド・ディ・クルーヴ」
この名をまた口にする日など、来るはずがないと思っていた。
たとえリンデルに問われたとしても、生涯伝えるつもりはなかった。
なのに、なぜか、今、口から零れてしまった。
「クルーヴって言うんだ?」
呼ばれて、男が表情を嶮しくする。
「……やめろ」
苦し気な男の様子に、リンデルは優しく尋ねた。
「どうして? 俺はカースの本当の名前、教えてもらえて嬉しいよ」
「もう捨てた過去だ……」
「……そっか」
リンデルがそれきり黙った事に、男は内心安堵しつつ、作業に戻る。
昔から、こいつはなんでも聞いてくるやつではあったが、こちらが嫌がればそれ以上踏み込むことはなかった。
どうやら、そんなところも、変わらずにいてくれたらしい。
心の奥が安心感で温かくなるのを感じながら、男は器にシチューを注ぐ。
間もなく、二人分の食事が食卓に並べられ、男も青年の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、新しい名前は俺がつけてもいい?」
顔を上げれば、温かい金色の瞳が二つ、男を見つめている。
目の前でもうもうと湯気をあげている料理よりも、なお温かな色をした瞳。
男はゆっくり頷いた。
「んー……、シチューが美味しいから、シチューとか?」
「おい……」
森色の瞳が半分隠れる。半眼を向けられてリンデルは悪戯っぽく笑った。
「カースはさ、今の名前が好き?」
「……いや……。そんな、ことは……」
ほんの少しの動揺を滲ませた男の言葉はそこで途切れる。
カースというのは、あの男が付けた名だった。
名を捨てた俺を、あいつが勝手にそう呼んだ。
お前にはお似合いだと、そう言って、クックッと喉の奥で笑っていた。
茶色がかった黒髪を、手入れのされていないボサボサの頭を揺らして。
ここではないどこかを見ながら黙ってしまった男を、青年は見つめる。
なんとなく、分かってはいた。
この家には、ほんの少しだけれど、あの獣と煙の臭いが残っていたから。
でも尋ねたことは無かった。
俺と離れてから、今まで、誰と過ごしていたのか。とは。
今、彼が一人なら、それでいい。
ずっと、そう思おうとしていた。
それでも、こんな風に、時折心を奪われている様を見せられると、どうしようもなく暗い何かが心に滲んでしまう。
この人の前でだけは、あの頃のままの、まっさらな自分でいたいのに……。
「リンデル、冷めるぞ」
声をかけられて、リンデルはハッとする。
手の中の木の器から、少し冷めてきたシチューを掬って口に入れる。
あの頃と同じ。
あの頃と同じ味がするはずなのに。
今の自分にはどこか苦く思えた。
「お前が……呼んでくれるなら、なんだっていいよ」
男が、そっと労わるように言う。
リンデルが黙っているのを、名前に悩んでいるからだと思ったのだろう。
リンデルは、ほんの少し迷った後、心を決める。
今の名をつけたのが誰かは、もう考えないことにしよう。
カースが今の名を捨てたくないと思うなら、やはりここは、彼の気持ちを優先したい。
「……じゃあ、カーシュっていうのは、どうかな?」
「カーシュ……」
男が、確かめるように繰り返す。
「これなら、俺がうっかり呼び間違えても誤魔化せるしさ」
リンデルが悪戯っぽく笑うと、
「そうだな」
と男が口元を緩めた。
「それに、全部変えなくても、俺が外で呼ぶときだけでいいよ」
「分かった。そうしよう」
穏やかに目を細める男を、リンデルはどこかホッとしながら見た。
自分の中の醜い部分を、今日もこの人に気付かれずに済んだ。と。
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