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少年は、とっくに寝ついた頃だろう。
なるべく音を立てないように家に入っておきながら、玄関で靴を脱ぎ損なって膝を付く。
ずしんと、鈍い音が家に響いた。
(もう少し……だったのにな)
指先が確かに、その長い尾びれを掠めた気がする。
俺は、しばらくその感触を思い返しながら自身の指先を眺めていたが、こみ上げた悔しさに力一杯拳を握りしめ、立ち上がった。
空をゆらゆらと、自由に泳ぎ回る白い魚。
それを捕まえれば、少しだけ死者と話すことができると言われている。
一体どういう原理で浮いているのかは知らないが、その魚はずっと昔から人の暮らす町中にいつもさりげなく居て、それを、そう不思議に思うこともなく今まで生きてきた。
しかし、彼女を失ってから俺は、それを本気で捕まえようと、必死で追い回していた。
仕事だけは真面目にこなしていたつもりだったが、あんな小さな子をいきなり押し付けられたところを見るに、社内の皆にも随分心配されていたのだろう。
ここしばらくは、仕事が終わればそのまま社用自転車で白い魚を追い回し、ヘトヘトになって帰った後は、飯も食べずに酒を浴びて寝るだけだった。
毎日増える生傷も、仲間に心配される原因だったのだろう。
白い魚を必死に追っての、全速力からのブレーキ。
止まり切れず避けきれずに、側面から木に激突した。
ズキズキと痛む体を、なんとか引き擦るようにして、ようやく家まで帰ってこれた。
(とにかく水を飲もう……)
台所で、渇いた喉を潤しながら体のあちこちを確認する。
明るいところでみても、大きな傷はないようだ。
水には血の味が混ざっていたから、口はどこか切れているようだが……。
着替えを手に取り、そうっと寝室の扉を開けると、少年がビクっと、跳ねるように体を起こした。
「起こしちまったか、悪いな」
やはり慣れないところでは寝つきが悪かっただろうか。
「唇から、血が……」
「派手に転がっちまってな」
月明かりの中、じっと見つめる少年の視線を背に受けながら、かぎ裂きになったシャツを着替える。
「……こけたんですか……? 自転車で?」
どうやら、俺が自転車で出かけた事に気づいていたようだ。
「ああ、かっこわりぃだろ? 皆には内緒にしといてくれな」
「は、はい……」
痛む体でやっと着替えを済ませて振り返ると、そこには俺のシャツをパジャマ代わりに身にまとった少年が、顔色を真っ青にして俺を見ていた。
その視線が、俺の口端に浮かんだ赤い痕に釘付けられている。
その意味にやっと気付いて、息が詰まる。
迂闊だった。
こいつは見たんだよな。
犯人に刺された、両親の姿を……。
あの後……少年とはじめて顔をあわせた後だ。
少年が受付嬢から建物の案内をされているうちに
所長がもう一度俺のところへ来て、あれこれ事情を話していった。
両親を亡くした兄妹を引き取った、村はずれの夫婦というのは、所長の妹夫妻らしい。
この少年はたった七つの歳にして、自分で自分達の生活費を稼がねばと思い立ったらしく、働きたいと言ってきたそうだ。
俺なら、せめてもう少し大人になるまで、家の手伝いでも何でもしてご厄介になりそうなものだったが……。
まあともかく、遠いとは言え、配達屋までは、こいつが世話になっていた家からも、通おうと思えば通える距離だった。
それをわざわざ、少年の方だけ所長に預けてきた理由というのを聞いてみれば、これが『少年が妹の前で良い兄過ぎる』というのだ。
男が、守るべき者の前で弱みを見せないようにしようとするのは、至極当然のことのようにも思えたが、所長の妹夫婦いわく『少し妹から離して様子を見てほしい』という事らしい。
「こんなの何とも無いって! 心配すんなよ」
無理矢理明るく笑いながら、手の甲で口端を擦る。
鈍い痛みにほんの少し眉をしかめると、少年が苦笑して答えた。
「はい……」
その小さな微笑みは、俺にはまるで泣き顔のように見えた。
(……泣けばいいじゃないか……)
こんな小さな子供が、いきなり両親を殺されて、それでも涙をこらえなきゃならない理由って何なんだ?
俺は、この少年の三倍以上も生きてるというのに、彼女が死んでから何ヶ月も泣いて暮らしていた。
彼女を助けられなかった事を悔やんで。
自分を呪って、毎日過ごしていた。
それなのに、この目の前の少年は、両親が亡くなって以降、ただの一度も泣いていないのだという。
所長から話を聞いたときは『何を大げさな』と思ったが、今にも壊れてしまいそうな少年の笑顔を見て、俺は今、確かに危機感を感じた。
思わず伸ばした手で頬に触れて、はじめて、少年が震えていたことに気づく。
(怖かったのか……? それとも、一人きりで、不安だったか……)
俺の態度に戸惑ってか、少年の透けるような金の瞳が僅かに揺れた。
そのまま、俺はベッドの上に膝立ちをしている小さな体を、そっと抱き寄せる。
「おじさん……?」
思ったよりもずっと細いその体は、腕の中にすっぽり収まった。
生きている証明であるかのように、鼓動を刻む、温かい体。
そういや、子供は俺達より体温が高いんだっけな。
布団から出てきたとこだってのもあるだろうが……。
そんなことを頭の端で考えていたら、小さな手が、そうっと背中に回ってきた。
少なくとも突然抱きしめられた事を不快に思ってはいないようだ。
そう認識して、さらに深く、懐へと小さな体を抱きすくめる。
少年のさらさらとした髪が、屈んだ姿勢の俺の鼻先をくすぐる。
まだ幼いせいか、ほんの少し甘さを感じる少年の匂いは、死んだ彼女のそれに良く似ていた。
少年は、とっくに寝ついた頃だろう。
なるべく音を立てないように家に入っておきながら、玄関で靴を脱ぎ損なって膝を付く。
ずしんと、鈍い音が家に響いた。
(もう少し……だったのにな)
指先が確かに、その長い尾びれを掠めた気がする。
俺は、しばらくその感触を思い返しながら自身の指先を眺めていたが、こみ上げた悔しさに力一杯拳を握りしめ、立ち上がった。
空をゆらゆらと、自由に泳ぎ回る白い魚。
それを捕まえれば、少しだけ死者と話すことができると言われている。
一体どういう原理で浮いているのかは知らないが、その魚はずっと昔から人の暮らす町中にいつもさりげなく居て、それを、そう不思議に思うこともなく今まで生きてきた。
しかし、彼女を失ってから俺は、それを本気で捕まえようと、必死で追い回していた。
仕事だけは真面目にこなしていたつもりだったが、あんな小さな子をいきなり押し付けられたところを見るに、社内の皆にも随分心配されていたのだろう。
ここしばらくは、仕事が終わればそのまま社用自転車で白い魚を追い回し、ヘトヘトになって帰った後は、飯も食べずに酒を浴びて寝るだけだった。
毎日増える生傷も、仲間に心配される原因だったのだろう。
白い魚を必死に追っての、全速力からのブレーキ。
止まり切れず避けきれずに、側面から木に激突した。
ズキズキと痛む体を、なんとか引き擦るようにして、ようやく家まで帰ってこれた。
(とにかく水を飲もう……)
台所で、渇いた喉を潤しながら体のあちこちを確認する。
明るいところでみても、大きな傷はないようだ。
水には血の味が混ざっていたから、口はどこか切れているようだが……。
着替えを手に取り、そうっと寝室の扉を開けると、少年がビクっと、跳ねるように体を起こした。
「起こしちまったか、悪いな」
やはり慣れないところでは寝つきが悪かっただろうか。
「唇から、血が……」
「派手に転がっちまってな」
月明かりの中、じっと見つめる少年の視線を背に受けながら、かぎ裂きになったシャツを着替える。
「……こけたんですか……? 自転車で?」
どうやら、俺が自転車で出かけた事に気づいていたようだ。
「ああ、かっこわりぃだろ? 皆には内緒にしといてくれな」
「は、はい……」
痛む体でやっと着替えを済ませて振り返ると、そこには俺のシャツをパジャマ代わりに身にまとった少年が、顔色を真っ青にして俺を見ていた。
その視線が、俺の口端に浮かんだ赤い痕に釘付けられている。
その意味にやっと気付いて、息が詰まる。
迂闊だった。
こいつは見たんだよな。
犯人に刺された、両親の姿を……。
あの後……少年とはじめて顔をあわせた後だ。
少年が受付嬢から建物の案内をされているうちに
所長がもう一度俺のところへ来て、あれこれ事情を話していった。
両親を亡くした兄妹を引き取った、村はずれの夫婦というのは、所長の妹夫妻らしい。
この少年はたった七つの歳にして、自分で自分達の生活費を稼がねばと思い立ったらしく、働きたいと言ってきたそうだ。
俺なら、せめてもう少し大人になるまで、家の手伝いでも何でもしてご厄介になりそうなものだったが……。
まあともかく、遠いとは言え、配達屋までは、こいつが世話になっていた家からも、通おうと思えば通える距離だった。
それをわざわざ、少年の方だけ所長に預けてきた理由というのを聞いてみれば、これが『少年が妹の前で良い兄過ぎる』というのだ。
男が、守るべき者の前で弱みを見せないようにしようとするのは、至極当然のことのようにも思えたが、所長の妹夫婦いわく『少し妹から離して様子を見てほしい』という事らしい。
「こんなの何とも無いって! 心配すんなよ」
無理矢理明るく笑いながら、手の甲で口端を擦る。
鈍い痛みにほんの少し眉をしかめると、少年が苦笑して答えた。
「はい……」
その小さな微笑みは、俺にはまるで泣き顔のように見えた。
(……泣けばいいじゃないか……)
こんな小さな子供が、いきなり両親を殺されて、それでも涙をこらえなきゃならない理由って何なんだ?
俺は、この少年の三倍以上も生きてるというのに、彼女が死んでから何ヶ月も泣いて暮らしていた。
彼女を助けられなかった事を悔やんで。
自分を呪って、毎日過ごしていた。
それなのに、この目の前の少年は、両親が亡くなって以降、ただの一度も泣いていないのだという。
所長から話を聞いたときは『何を大げさな』と思ったが、今にも壊れてしまいそうな少年の笑顔を見て、俺は今、確かに危機感を感じた。
思わず伸ばした手で頬に触れて、はじめて、少年が震えていたことに気づく。
(怖かったのか……? それとも、一人きりで、不安だったか……)
俺の態度に戸惑ってか、少年の透けるような金の瞳が僅かに揺れた。
そのまま、俺はベッドの上に膝立ちをしている小さな体を、そっと抱き寄せる。
「おじさん……?」
思ったよりもずっと細いその体は、腕の中にすっぽり収まった。
生きている証明であるかのように、鼓動を刻む、温かい体。
そういや、子供は俺達より体温が高いんだっけな。
布団から出てきたとこだってのもあるだろうが……。
そんなことを頭の端で考えていたら、小さな手が、そうっと背中に回ってきた。
少なくとも突然抱きしめられた事を不快に思ってはいないようだ。
そう認識して、さらに深く、懐へと小さな体を抱きすくめる。
少年のさらさらとした髪が、屈んだ姿勢の俺の鼻先をくすぐる。
まだ幼いせいか、ほんの少し甘さを感じる少年の匂いは、死んだ彼女のそれに良く似ていた。
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