空のジョッキが鈍く光る

阿沙🌷

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✿空のジョッキが鈍く光る

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 だんだんと夜闇が深くなる時間帯。閑静な住宅街の中にぽつんと小さな定食屋が店を構えている。扉が開いた。出てきたのは先代である父から店を継いだあつしだった。
 室外の寒さに若店主はぶるりと身震いしながら、店先にはためいていた旗をしまい、店前の看板をクローズにして店内に戻っていった。
 そこに客の姿はひとりもいない。しかし、カウンター席にぽつんと寂しげに丸まった青年の背中が奇妙な異物のように存在感を持って佇んでいた。
「ちっくしょー! こんなことなら、男なんて好きになるんじゃなかった!」
 机に顔をうずめて彼は悔しそうに叫んだ。その眉根は極度に引き締まっていて、自分の行動を強く後悔しているさまを如実に表していた。彼はそのまま撃沈したふねのようにしばらく顔をあげずに黙っていたが、突然、ふっと勢いよくこうべをあげ、大きく目を見開いた。
「敦! 今日は飲む! 浴びるように飲んでやるぜ!」
 威勢よく発したはいいが、それを聞いて店主が困ったようにカウンター越しに笑った。
「おいおい、もう充分、今日は飲んでいじゃないか。よしときなって。な、悠二ゆうじ
「おかわり」
 赤ら顔を堂々とさらして彼は敦に空のジョッキを差し出した。
「やめとけ、やめとけ。ほらもう帰れって」
 敦は彼の手からガラス製のそれを受け取った。
「おかわり!」
 受け取ってなおも、じっとして動かない男に悠二は業を切らして、大声で叫んだ。
「もう、営業終了でーす。ほら帰った帰った」
「無理! 帰れない! 死ぬ!」
「死なない死なない。たかが痴情のもつれだの失恋だのあーだこーだの話なんだろ。この世に男も女もいっぱいいるんだから、大したことないの、ね」
「そー言われても、俺は男じゃないと無理」
 ああ、そうですか、と男はつまらなさそうに青年を一瞥して、流しに彼の口を付けた空のジョッキを置いた。
「あー、もう、なんでなんだよぉ。なんで俺ってばいつも駄目な人間ばっか好きになっちまうんだよぉ」
 今度はめそめそとうなだれ始める。非常に厄介な人間だ。
「お前も駄目な人間だろ?」
「そりゃそうだけどぉ」
「そういや、お前の初彼ってやつ、妻子持ちだったんだっけな」
 青年は黙って頷いた。
「で、その次はスーパーかけもち状態」
「俺の他にも黙って三人と付き合ってたんだよ……俺はそういうの無理」
「で、今度は?」
「今度のは、彼女持ち、だったみたい」
「うっわぁ」
 彼の縁のなさは半端ない。学生時代、まだ彼自身が自分の性癖に気が付かなかったころから、本命を持った女生徒に引っかかったり、メンヘラな重い女に付きまとわれたり、とにかく運がなかった。実際、女嫌いになってもしかたがなかったのかもしれない、と男は内心、彼を温かく見守りたい気分にもなったのだが、翌朝も早くから仕入れや仕込の仕事がある。早く帰ってほしい。早く寝たい。
「そりゃドンマイだったな、よし帰ろう」
「無理無理無理。無理だってぇ。その彼といま同棲してるって、敦、知ってるでしょ」
「知っているというより、お前が押しかけてきて高らかに自慢しまくっていただけだろ」
「もう、無理。俺、そこに帰れない」
「お前のアパートだろ」
「むりぃ、顔合わせたくない」
「……俺んは無理だぞ」
 一瞬目を見開いて、絶望にうなだれる。そして、再び敦へと視線を送る。
「そんな顔しても無駄だ。ほら帰れ」
「ひっでぇ。お前、いつもそうだよな。もしかして、敦は俺のこと、苦手なわけ?」
 敦がぴたりと身体を硬直させた。
「あ、図星?」
「お前、酔ってんのに観察力だけはあるなぁ」
「酔ってねぇっての」
「いや、絶対に酔っているだろうに」
「つか、ほんと? 敦、俺、嫌いなん?」
「お前なぁ」
「最初に俺が男好きだって言っても受け入れてくれたのになぁ」
「そこかい」
「小中高って同じ学校だったし、部活でヤバい先輩に絡まれたときだって、クラスの女子にストーカーされたときも、いつも敦がなんとか助けてくれたしなぁ」
「はいはい、うら若きときの思いでとやらで」
「なんだかんだいって、俺は、敦、好きなんだけどなぁ」
 ぐっと瞳が寄る。悠二の大きな瞳が。敦の心臓がどきりと大きく高鳴った。
 普段はやけに人懐っこそうな印象の柔らかなたれ目は、ときおりこうして奇妙な熱を湛えると一気に別次元の色気を迸りだす。
 たまらなくなって敦は彼から視線を逸らせた。
「俺もお前のこと、好きだって返せばいいのかよ」
 敦の返答に、悠二がにっこりとほほ笑んだ。
「それがお前の本心ならサイコー!」
 ちくしょう。敦はギュッと手でこぶしを作って強く握りしめた。激しく胸の内から汚い感情が込みあがってくる。それは苦くて自分自身が焼き切れてしまいそうな悔しさだった。
「ほら、もう帰れって。一旦、帰ってから彼とはどうこうすりゃいいだろ」
「わーん、ひどい。ほんと、冷たいよなぁ」
「あのな、相談しに来たいんだったら、アルコールを体内に入れないでくれ」
「飲んで忘れてハッピーっていう人生の法則を知らないの?」
「知らんでもええだろ。ひとつひとつ受け止めて生きていけ」
「ハード・モードだなぁ」
「苦いも苦しいも人生だ」
「それが出来るから敦はすごいんだけどな」
 すこしふらつきながらも、悠二は立ち上がった。素直に帰ろうとするのはいいことだ、と思いながらも、彼の夜道が心配になる。ついていこうとする敦に、悠二は振り返ってへらへらとした笑みを浮かべる。
「いいって、いいって」
「ほんとか?」
「俺が路上で寝込むような男に見えるか」
「そういう意味じゃないて」
「平気平気。じゃ、また今度」
「お前、アパート帰りたくないんじゃなかったんじゃ……」
「いいのいいの。敦の顔見たらなんか元気でてきた。このまま俺は二流でいいの」
「そりゃどういう意味だ」
「とにかく、じゃな」
 やけに軽やかなステップで、男は去って行った。
 本当に腹が立つ。敦は強く歯を噛みしめた。
 学生時代から、ずっと、彼は気になる存在だったのだ。それなのに、自分はただの隣人・・に過ぎない。それ以上にもそれ以下にもなれない。きっとずっと。
 だから、彼のことなんて、大嫌いなんだ。すごく悔しいけれど。
 敦は彼の背中が消えたあと、店じまいを再開した。軽くテーブルを拭き終えて、厨房に戻る。彼の残した空のジョッキが電球の光を反射して光った。

(了)

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