1 / 1
✿空のジョッキが鈍く光る
しおりを挟む
だんだんと夜闇が深くなる時間帯。閑静な住宅街の中にぽつんと小さな定食屋が店を構えている。扉が開いた。出てきたのは先代である父から店を継いだ敦だった。
室外の寒さに若店主はぶるりと身震いしながら、店先にはためいていた旗をしまい、店前の看板をクローズにして店内に戻っていった。
そこに客の姿はひとりもいない。しかし、カウンター席にぽつんと寂しげに丸まった青年の背中が奇妙な異物のように存在感を持って佇んでいた。
「ちっくしょー! こんなことなら、男なんて好きになるんじゃなかった!」
机に顔をうずめて彼は悔しそうに叫んだ。その眉根は極度に引き締まっていて、自分の行動を強く後悔しているさまを如実に表していた。彼はそのまま撃沈した艦のようにしばらく顔をあげずに黙っていたが、突然、ふっと勢いよく頭をあげ、大きく目を見開いた。
「敦! 今日は飲む! 浴びるように飲んでやるぜ!」
威勢よく発したはいいが、それを聞いて店主が困ったようにカウンター越しに笑った。
「おいおい、もう充分、今日は飲んでいじゃないか。よしときなって。な、悠二」
「おかわり」
赤ら顔を堂々とさらして彼は敦に空のジョッキを差し出した。
「やめとけ、やめとけ。ほらもう帰れって」
敦は彼の手からガラス製のそれを受け取った。
「おかわり!」
受け取ってなおも、じっとして動かない男に悠二は業を切らして、大声で叫んだ。
「もう、営業終了でーす。ほら帰った帰った」
「無理! 帰れない! 死ぬ!」
「死なない死なない。たかが痴情のもつれだの失恋だのあーだこーだの話なんだろ。この世に男も女もいっぱいいるんだから、大したことないの、ね」
「そー言われても、俺は男じゃないと無理」
ああ、そうですか、と男はつまらなさそうに青年を一瞥して、流しに彼の口を付けた空のジョッキを置いた。
「あー、もう、なんでなんだよぉ。なんで俺ってばいつも駄目な人間ばっか好きになっちまうんだよぉ」
今度はめそめそとうなだれ始める。非常に厄介な人間だ。
「お前も駄目な人間だろ?」
「そりゃそうだけどぉ」
「そういや、お前の初彼ってやつ、妻子持ちだったんだっけな」
青年は黙って頷いた。
「で、その次はスーパーかけもち状態」
「俺の他にも黙って三人と付き合ってたんだよ……俺はそういうの無理」
「で、今度は?」
「今度のは、彼女持ち、だったみたい」
「うっわぁ」
彼の縁のなさは半端ない。学生時代、まだ彼自身が自分の性癖に気が付かなかったころから、本命を持った女生徒に引っかかったり、メンヘラな重い女に付きまとわれたり、とにかく運がなかった。実際、女嫌いになってもしかたがなかったのかもしれない、と男は内心、彼を温かく見守りたい気分にもなったのだが、翌朝も早くから仕入れや仕込の仕事がある。早く帰ってほしい。早く寝たい。
「そりゃドンマイだったな、よし帰ろう」
「無理無理無理。無理だってぇ。その彼といま同棲してるって、敦、知ってるでしょ」
「知っているというより、お前が押しかけてきて高らかに自慢しまくっていただけだろ」
「もう、無理。俺、そこに帰れない」
「お前のアパートだろ」
「むりぃ、顔合わせたくない」
「……俺ん家は無理だぞ」
一瞬目を見開いて、絶望にうなだれる。そして、再び敦へと視線を送る。
「そんな顔しても無駄だ。ほら帰れ」
「ひっでぇ。お前、いつもそうだよな。もしかして、敦は俺のこと、苦手なわけ?」
敦がぴたりと身体を硬直させた。
「あ、図星?」
「お前、酔ってんのに観察力だけはあるなぁ」
「酔ってねぇっての」
「いや、絶対に酔っているだろうに」
「つか、ほんと? 敦、俺、嫌いなん?」
「お前なぁ」
「最初に俺が男好きだって言っても受け入れてくれたのになぁ」
「そこかい」
「小中高って同じ学校だったし、部活でヤバい先輩に絡まれたときだって、クラスの女子にストーカーされたときも、いつも敦がなんとか助けてくれたしなぁ」
「はいはい、うら若きときの思いでとやらで」
「なんだかんだいって、俺は、敦、好きなんだけどなぁ」
ぐっと瞳が寄る。悠二の大きな瞳が。敦の心臓がどきりと大きく高鳴った。
普段はやけに人懐っこそうな印象の柔らかなたれ目は、ときおりこうして奇妙な熱を湛えると一気に別次元の色気を迸りだす。
たまらなくなって敦は彼から視線を逸らせた。
「俺もお前のこと、好きだって返せばいいのかよ」
敦の返答に、悠二がにっこりとほほ笑んだ。
「それがお前の本心ならサイコー!」
ちくしょう。敦はギュッと手で拳を作って強く握りしめた。激しく胸の内から汚い感情が込みあがってくる。それは苦くて自分自身が焼き切れてしまいそうな悔しさだった。
「ほら、もう帰れって。一旦、帰ってから彼とはどうこうすりゃいいだろ」
「わーん、ひどい。ほんと、冷たいよなぁ」
「あのな、相談しに来たいんだったら、アルコールを体内に入れないでくれ」
「飲んで忘れてハッピーっていう人生の法則を知らないの?」
「知らんでもええだろ。ひとつひとつ受け止めて生きていけ」
「ハード・モードだなぁ」
「苦いも苦しいも人生だ」
「それが出来るから敦はすごいんだけどな」
すこしふらつきながらも、悠二は立ち上がった。素直に帰ろうとするのはいいことだ、と思いながらも、彼の夜道が心配になる。ついていこうとする敦に、悠二は振り返ってへらへらとした笑みを浮かべる。
「いいって、いいって」
「ほんとか?」
「俺が路上で寝込むような男に見えるか」
「そういう意味じゃないて」
「平気平気。じゃ、また今度」
「お前、アパート帰りたくないんじゃなかったんじゃ……」
「いいのいいの。敦の顔見たらなんか元気でてきた。このまま俺は二流でいいの」
「そりゃどういう意味だ」
「とにかく、じゃな」
やけに軽やかなステップで、男は去って行った。
本当に腹が立つ。敦は強く歯を噛みしめた。
学生時代から、ずっと、彼は気になる存在だったのだ。それなのに、自分はただの隣人に過ぎない。それ以上にもそれ以下にもなれない。きっとずっと。
だから、彼のことなんて、大嫌いなんだ。すごく悔しいけれど。
敦は彼の背中が消えたあと、店じまいを再開した。軽くテーブルを拭き終えて、厨房に戻る。彼の残した空のジョッキが電球の光を反射して光った。
(了)
室外の寒さに若店主はぶるりと身震いしながら、店先にはためいていた旗をしまい、店前の看板をクローズにして店内に戻っていった。
そこに客の姿はひとりもいない。しかし、カウンター席にぽつんと寂しげに丸まった青年の背中が奇妙な異物のように存在感を持って佇んでいた。
「ちっくしょー! こんなことなら、男なんて好きになるんじゃなかった!」
机に顔をうずめて彼は悔しそうに叫んだ。その眉根は極度に引き締まっていて、自分の行動を強く後悔しているさまを如実に表していた。彼はそのまま撃沈した艦のようにしばらく顔をあげずに黙っていたが、突然、ふっと勢いよく頭をあげ、大きく目を見開いた。
「敦! 今日は飲む! 浴びるように飲んでやるぜ!」
威勢よく発したはいいが、それを聞いて店主が困ったようにカウンター越しに笑った。
「おいおい、もう充分、今日は飲んでいじゃないか。よしときなって。な、悠二」
「おかわり」
赤ら顔を堂々とさらして彼は敦に空のジョッキを差し出した。
「やめとけ、やめとけ。ほらもう帰れって」
敦は彼の手からガラス製のそれを受け取った。
「おかわり!」
受け取ってなおも、じっとして動かない男に悠二は業を切らして、大声で叫んだ。
「もう、営業終了でーす。ほら帰った帰った」
「無理! 帰れない! 死ぬ!」
「死なない死なない。たかが痴情のもつれだの失恋だのあーだこーだの話なんだろ。この世に男も女もいっぱいいるんだから、大したことないの、ね」
「そー言われても、俺は男じゃないと無理」
ああ、そうですか、と男はつまらなさそうに青年を一瞥して、流しに彼の口を付けた空のジョッキを置いた。
「あー、もう、なんでなんだよぉ。なんで俺ってばいつも駄目な人間ばっか好きになっちまうんだよぉ」
今度はめそめそとうなだれ始める。非常に厄介な人間だ。
「お前も駄目な人間だろ?」
「そりゃそうだけどぉ」
「そういや、お前の初彼ってやつ、妻子持ちだったんだっけな」
青年は黙って頷いた。
「で、その次はスーパーかけもち状態」
「俺の他にも黙って三人と付き合ってたんだよ……俺はそういうの無理」
「で、今度は?」
「今度のは、彼女持ち、だったみたい」
「うっわぁ」
彼の縁のなさは半端ない。学生時代、まだ彼自身が自分の性癖に気が付かなかったころから、本命を持った女生徒に引っかかったり、メンヘラな重い女に付きまとわれたり、とにかく運がなかった。実際、女嫌いになってもしかたがなかったのかもしれない、と男は内心、彼を温かく見守りたい気分にもなったのだが、翌朝も早くから仕入れや仕込の仕事がある。早く帰ってほしい。早く寝たい。
「そりゃドンマイだったな、よし帰ろう」
「無理無理無理。無理だってぇ。その彼といま同棲してるって、敦、知ってるでしょ」
「知っているというより、お前が押しかけてきて高らかに自慢しまくっていただけだろ」
「もう、無理。俺、そこに帰れない」
「お前のアパートだろ」
「むりぃ、顔合わせたくない」
「……俺ん家は無理だぞ」
一瞬目を見開いて、絶望にうなだれる。そして、再び敦へと視線を送る。
「そんな顔しても無駄だ。ほら帰れ」
「ひっでぇ。お前、いつもそうだよな。もしかして、敦は俺のこと、苦手なわけ?」
敦がぴたりと身体を硬直させた。
「あ、図星?」
「お前、酔ってんのに観察力だけはあるなぁ」
「酔ってねぇっての」
「いや、絶対に酔っているだろうに」
「つか、ほんと? 敦、俺、嫌いなん?」
「お前なぁ」
「最初に俺が男好きだって言っても受け入れてくれたのになぁ」
「そこかい」
「小中高って同じ学校だったし、部活でヤバい先輩に絡まれたときだって、クラスの女子にストーカーされたときも、いつも敦がなんとか助けてくれたしなぁ」
「はいはい、うら若きときの思いでとやらで」
「なんだかんだいって、俺は、敦、好きなんだけどなぁ」
ぐっと瞳が寄る。悠二の大きな瞳が。敦の心臓がどきりと大きく高鳴った。
普段はやけに人懐っこそうな印象の柔らかなたれ目は、ときおりこうして奇妙な熱を湛えると一気に別次元の色気を迸りだす。
たまらなくなって敦は彼から視線を逸らせた。
「俺もお前のこと、好きだって返せばいいのかよ」
敦の返答に、悠二がにっこりとほほ笑んだ。
「それがお前の本心ならサイコー!」
ちくしょう。敦はギュッと手で拳を作って強く握りしめた。激しく胸の内から汚い感情が込みあがってくる。それは苦くて自分自身が焼き切れてしまいそうな悔しさだった。
「ほら、もう帰れって。一旦、帰ってから彼とはどうこうすりゃいいだろ」
「わーん、ひどい。ほんと、冷たいよなぁ」
「あのな、相談しに来たいんだったら、アルコールを体内に入れないでくれ」
「飲んで忘れてハッピーっていう人生の法則を知らないの?」
「知らんでもええだろ。ひとつひとつ受け止めて生きていけ」
「ハード・モードだなぁ」
「苦いも苦しいも人生だ」
「それが出来るから敦はすごいんだけどな」
すこしふらつきながらも、悠二は立ち上がった。素直に帰ろうとするのはいいことだ、と思いながらも、彼の夜道が心配になる。ついていこうとする敦に、悠二は振り返ってへらへらとした笑みを浮かべる。
「いいって、いいって」
「ほんとか?」
「俺が路上で寝込むような男に見えるか」
「そういう意味じゃないて」
「平気平気。じゃ、また今度」
「お前、アパート帰りたくないんじゃなかったんじゃ……」
「いいのいいの。敦の顔見たらなんか元気でてきた。このまま俺は二流でいいの」
「そりゃどういう意味だ」
「とにかく、じゃな」
やけに軽やかなステップで、男は去って行った。
本当に腹が立つ。敦は強く歯を噛みしめた。
学生時代から、ずっと、彼は気になる存在だったのだ。それなのに、自分はただの隣人に過ぎない。それ以上にもそれ以下にもなれない。きっとずっと。
だから、彼のことなんて、大嫌いなんだ。すごく悔しいけれど。
敦は彼の背中が消えたあと、店じまいを再開した。軽くテーブルを拭き終えて、厨房に戻る。彼の残した空のジョッキが電球の光を反射して光った。
(了)
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

僕の番
結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが――
※他サイトにも掲載

【完結】I adore you
ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。
そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。
※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。
噛痕に思う
阿沙🌷
BL
αのイオに執着されているβのキバは最近、思うことがある。じゃれ合っているとイオが噛み付いてくるのだ。痛む傷跡にどことなく関係もギクシャクしてくる。そんななか、彼の悪癖の理由を知って――。
✿オメガバースもの掌編二本作。
(『ride』は2021年3月28日に追加します)

クズ彼氏にサヨナラして一途な攻めに告白される話
雨宮里玖
BL
密かに好きだった一条と成り行きで恋人同士になった真下。恋人になったはいいが、一条の態度は冷ややかで、真下は耐えきれずにこのことを塔矢に相談する。真下の事を一途に想っていた塔矢は一条に腹を立て、復讐を開始する——。
塔矢(21)攻。大学生&俳優業。一途に真下が好き。
真下(21)受。大学生。一条と恋人同士になるが早くも後悔。
一条廉(21)大学生。モテる。イケメン。真下のクズ彼氏。
掌編・短編集
わこ
BL
恋人同士・恋人未満・同級生・高校生・社会人etc...
自サイトの拍手御礼だった小話を詰めました。
下に行くほど新しいです。一部修正しています。
1.野良猫みたいな男の話
2.職場の先輩に逆らえない男の話
3.就職難に直面する男二人
4.天然幼馴染
5.キレる同居人
6.友人の謎提案
7.恋人溺愛男
8.ネタにされた男の話
9.幼馴染の片思い
10.ファンタジーギャグ
11.年下ヤンキー攻め
12.恋人至上主義男
13.嗅覚超人並みな男
14.教師と生徒
15.ホスト×ホスト
16.捕食系情事
17.タチネコ争い
18.堅物男との同居生活
表紙画像はぱくたそ様(www.pakutaso.com)よりお借りしています。

白い部屋で愛を囁いて
氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。
シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。
※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

告白ゲームの攻略対象にされたので面倒くさい奴になって嫌われることにした
雨宮里玖
BL
《あらすじ》
昼休みに乃木は、イケメン三人の話に聞き耳を立てていた。そこで「それぞれが最初にぶつかった奴を口説いて告白する。それで一番早く告白オッケーもらえた奴が勝ち」という告白ゲームをする話を聞いた。
その直後、乃木は三人のうちで一番のモテ男・早坂とぶつかってしまった。
その日の放課後から早坂は乃木にぐいぐい近づいてきて——。
早坂(18)モッテモテのイケメン帰国子女。勉強運動なんでもできる。物静か。
乃木(18)普通の高校三年生。
波田野(17)早坂の友人。
蓑島(17)早坂の友人。
石井(18)乃木の友人。
美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした
亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。
カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。
(悪役モブ♀が出てきます)
(他サイトに2021年〜掲載済)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる