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「おたく、いつまでここにいるの?」
貝沢は、例のカメラ男に向かって言い放った。彼はホテルから出て行こうと部屋からエントランスに機材を担いで姿をみせたところだった。
「えっと、写真が、撮れるまで」
「ふーん」
貝沢は興味がないふりをして、つまらなさそうに、鼻をならした。
「あ、いたいた、森垣さん」
背後から、小走りに駆け寄ってくる女中が手にしていたのは、このカメラ男の水筒だった。
「麦茶、いれておきましたから」
「ああ、かたじけない」
「今日も頑張ってきてくださいね」
「はい」
嬉しそうに彼女から受け取った水筒を胸に抱きしめて、彼は何度も頭を下げた。
「麦茶?」
貝沢が、首をかしげる。
「そうよ、よっちゃん、森垣さんに頼まれてたの」
「毎日、このひと、前の自販機でいろいろ買ってたけど……」
「そう、清涼飲料ばっかりじゃ体に悪いでしょ。カメラマンなんて体が資本じゃないの」
ああ、なるほど、と貝沢は思った。
きっと、彼女が、森垣にそれを指摘して、こういう流れになったのだろう。田舎の、あえてホテルといってはいるが、このこじんまりとした宿泊施設で一番のボスは社長ではなく、こういうパートタイムのおばさまがたなのだ。
「ありがたくちょうだいいたします」
「そうよ、がぶがぶ飲んで、元気に写真とってきなさいな!」
まるで長年の知り合いのような顔ぶれで、彼女は若い男の肩を叩きまくる。容赦はない。
「はい、今日こそ」
「よし、それじゃいってらっしゃい。夕飯はいつもの時間だからね。ほら、よっちゃん、にこやかなに見送ってやんなさい」
背中を押された貝沢は、森垣と共に建物の外にほうりだされた。
「すごいひとだよね……」
森垣が苦笑する。
「な、田舎ってこわいだろ」
貝沢のことばに、森垣が何度もうなづいた。
「だけど、ありがたい」
麦茶の入った水筒をいまもなお、この男は抱きしめている。
「そりゃよかったな」
「ああ。……いいよ、ここまでで、よっちゃん、さん、は、その……」
「は!?」
「あ、え、えっと」
「いや、何その、よっちゃんさんって……!」
「い、いや、さっき澄江さんが、そう言ってたから」
しどろもどろになって、応える彼が面白くて、貝沢は目を細めた。
「俺、貝沢良樹。よしき、だから、よっちゃん」
「そっか、良樹くん。森垣幸一郎です」
「もう、知ってます」
「そっか、そりゃそうだな」
森垣は笑った。
この近くに、ある湖がある。
一見するとただの大きな水たまり。だけど、この土地ならではの特殊な「特技」を持っているという都市伝説のようなものがある。時間帯と天候と、ある一定の条件が揃ったとたん、水面が虹色のように輝くのだ。
けれど、その虹色に光る水面というのは、あくまで、噂話、都市伝説の域を出ない。一枚だけ、この世に、その時の風景がおさまった写真が残っているのだが、それはモノクロ写真なのだ。その撮り手が、手書きのメモに書かれた七色の湖というのが、この噂の発祥だろう。
だが、それを信じて、七色に光る水面を狙ってやってきた客がいる。この森垣幸一郎と、いうわけだ。
「今日で、一週間ですね」
貝沢は事実を述べた。建物を出てもうすぐホテルの門につく。
「いつまで、いるつもりなんですか」
森垣は黙った。
「まあ、いつまでいたっていいんですよ。こっちとしては、お金を落としてもらえたほうが助かります」
「……いつまで、だろうね」
「決めてないんですか?」
「無尽蔵にお金があるわけじゃないけど、出来るところまで、迫ってみようと思って」
「……そうですか。森の中にあるので、気を付けてください。足を滑らせたりしないこと」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃ、いってらっしゃい」
「はい」
門の前で、森垣の遠ざかっていく背中を見送ると、貝沢はひとつため息をついた。
どう見ても、彼は若い。自分もこの土地では若い部類にだんとつで入るほうなのだが、彼にあてる若いはそういう若いではなかった。
「まだ、年齢、高校生だろうに」
彼の背中を眺めながら、貝沢はつぶやいた。
話を聞いた女中によると、森垣は、通信制の高校に在籍しているらしい。そのため、わざわざ日中に毎日学校に登校しなくてもいいらしいのだ。
だから、一人で、こんな辺鄙な場所までやってきて、時間をかけてホテル裏の山に登って湖まで行って帰ってきて、寝て、起きて、というのを繰り返していられるのだろう。それはわかった。
だが、彼の目的がわからない。
「ねえ、よっちゃん。昔の写真、見つけた」
「へ?」
控室で、ぼんやりと、スマホゲームをしていたら、耳に入れていたイヤホンのコードをひっぱったやつがいる。この旅館のボス。
「裏でいま、整理しているのよ。ほら、アルバム」
黄ばんだ表紙のそれを持ってきた彼女はにかっと笑って見せた。
「じゃーん、ちっこいころのよっちゃんです」
「わー」
棒読みでしかリアクションが出来ない。
「見て見て、可愛いねえ」
「可愛いって、これ、俺が高校生ぐらいのときでしょうが」
「でも可愛いじゃない。こんなおっさんみたいになっちゃってぇ」
「いや、まだ俺、若者だから」
ひとのいうことを聞かない女は、勝手にページをめくりまくる。
「あらやだ、この子、よっちゃんの友達?」
「友達っていう年齢じゃ……」
そこのページにはある写真がおさまっていた。水浸しになった濡れ鼠の子どもがふたり。高校生のときの貝沢と、本当に小さな児童。ふたりで手をつないでホテル前をバックにして、写真に撮られている。
「……あれ、これって……」
「どうかしたの?」
「いや、昔すぎて、何だったか忘れた」
「あらまあ」
ふふと、女中は笑った。
「あれ……本当になんだったっけ……何か、あったような……」
「それにしても、不思議よね、二人ともびしょぬれ。一体何して遊んできたのかしら」
「というか……」
この子どもは一体誰だ。
こんな子、いたっけ?
思い出そうとして、そこから先に進めない。ぼんやりと靄がかかって、輪郭を掴みそこなう。
「あらやだ。そろそろ森垣ちゃんが帰ってくる時間じゃない」
「そうだね、森垣ちゃん……」
一応は、お客さまなのだが。貝沢は苦笑した。
「よっちゃん、出迎えてあげなさいよ、年齢近いんだから」
「近かかないよ。まあ、澄江さんよりは若いけど」
「あら、マダムになんて失礼なことを」
「じゃあ、マダム、いってきます」
「おかえりなさい。どう? 写真は」
玄関前に佇む森垣をそっと出迎えた貝沢は担当直入に聞いた。
「いや、不作でした」
「そっか、だろうな」
「だろうなって……」
むっとした口調で、森垣が返して来る。
「だってそうだろ。七色の水面だなんて、そんなのありゃしない」
「あります。本当に!」
「そうかあ?」
そう言って、荷物を持ってやろうとして伸ばした手を、貝沢は森垣に払われる。
「平気です、自分で」
「ああ、はい」
「良樹くん、良樹くんだって見ているんじゃないですか」
「へ?」
見てるって、七色の――。
「いや、ないない。俺、ここで生まれてから一度も」
「そんなことはないはずだ!」
森垣の声が、ロビーに響き渡った。
「え?」
「だって、一緒に見てるじゃないですか! 一度、俺と」
「……は?」
「……すみません、いいです。その、部屋に戻ります」
くるりと、貝沢に背を向けて、森垣は部屋へと戻っていく。
「な、お、おいっ……え?」
取り残された貝沢の頭の中に、何度も森垣の声が響きわたった。
――「だって、一緒に見てるじゃないですか! 一度、俺と」――
何故か、そのとき、あの写真の小さな子どもの姿が、浮かんだ。
勤務が終わって、自宅に戻った貝沢は、そっとベッドに横になった。瞳をつぶるが、どうしても、いてもたってもいられない気分だ。
落ち着かなくて、なんども深呼吸をする。どうしたんだろう。わけがわからない。
「ああ、もう、しゃーない」
起き上がって、頭をかきむしる。ここまで、むしゃくしゃしていては、だめだ。
結局、彼は、もと来た道を戻って、ホテルへと向かった。まだ午後七時だ。開いている。
事務室の扉をそっとあければ、そこには、まだ女中の姿があった。
「あらやだ、よっちゃん、夜更かし?」
「まだ寝る時間じゃないでしょ……って、澄江さん、まだいたの?」
「えへー、昔の写真見てたらねえ」
「それはいいけど、あの写真、貸してくれない?」
「へ?」
「俺の小さいころの……」
「ああ、このアルバム」
「そう、それ」
「いいけど……って、よっちゃん!」
受け取るやいなや、貝沢は、勢いよく事務室を飛び出していった。
「それじゃ、澄江さん、おやすみ」
声だけが、後に残った。
「ちょっと、まだ起きてますか」
扉をノックすれば、返事が聞こえた。
「申し訳ない、夜遅くに」
「いえ……」
寝間着姿の森垣が現れて、思わず胸をときめかしながら、貝沢は早口で言った。
「これ、みてほしいんだが」
「わあ、アルバムですね」
「これ、この写真。もしかして、お前か?」
森垣が指さす先には、今日見つけた例の子どもとの写真があった。
「もしそうなら、俺、この時期の記憶がない。覚えていないんだ。だから……」
「……やっぱりそうだったんですね」
「じゃ、じゃあ……」
「そうです。これが俺。ちっこいときの俺。一度ここに来たことがあるんです。俺がまだ、このぐらいのときに。あなたにもお会いしています」
では、やはりこの写真は……!
「七色の水面を見たのも――」
「って、え!?」
驚いて目を丸くした貝沢に、森垣は、ふふと小さく笑った。
「話長くなるかもしれないので、あがります?」
「え。いや、そ、んな……」
あがるといっても、客がいる前で、客が借りている部屋だぞ。迷っている、森垣に対して、彼はそっと扉を大きくあけて促した。
「それじゃあ……」
「はい」
にっこりと、森垣が笑いながら、部屋のなかへ導かれた。
「えっと、俺、このときはまだ親が離婚してなかったので、家族サービスという形で、旅行に来たんです」
「へ、へえ……」
離婚。突然とびだしてきたことばに、どきりと胸を掴まされる。
「で、俺、はしゃいでしまって、勝手に、裏の山に遊びに行って、まあ、冒険、というか、その……。えへへ」
はにかむ森垣の頬が赤く染まった。
「やんちゃだな」
「やんちゃです、今でも」
「それで?」
「えっと、夕方になって、俺の姿がないっていうことで、両親が俺のことを探しはじめて、この宿のかたがたにもお世話になったんです。三馬ホテル従業員ズにも」
「おお、なるほど」
「で、そのとき、俺は、山の中で迷子になっていて、どんどん日が暮れて、暗くなっていくし、心細かった。歩くにも疲れて、それで、地面にうずくまっていたとき、声がして、振り返ったら、あなたがいたんです」
「へ!? そこで俺!?」
「ええ、さすが、ホテルのボスの息子さん」
「いや、このホテル表向きは社長がトップだが、本当のボスは……って、そもそもホテルって名前ついているけど、小規模すぎて哀しい宿だからな」
「そう、なんですか」
彼は口元を手で覆った。笑っているのだ。
「で、えーっと、それで、優しい良樹くんにおんぶしてもらって、俺、帰ることになるんですけど」
「優しい良樹くん」
「そうです、あなたのことです」
「そっか、俺か……」
突然、ふっと、森の匂いを嗅いだ。夜特有の深い奥まった感じの空気。
いや、そうだ、そうだ、そのとき、確かに。
足許には、湿った地面の上を歩く時のスニーカーの感触。そうだ、確かに俺は、この子を負ぶって山を下りた。
「その、と、ちゅうで、確か……」
「そうです! 途中で、湖を見て、そのとき……」
ああ、思いだたしたぞ。貝沢は、絶句した。
確かにその夜、湖は、七色に輝いていたのだった。
貝沢は、例のカメラ男に向かって言い放った。彼はホテルから出て行こうと部屋からエントランスに機材を担いで姿をみせたところだった。
「えっと、写真が、撮れるまで」
「ふーん」
貝沢は興味がないふりをして、つまらなさそうに、鼻をならした。
「あ、いたいた、森垣さん」
背後から、小走りに駆け寄ってくる女中が手にしていたのは、このカメラ男の水筒だった。
「麦茶、いれておきましたから」
「ああ、かたじけない」
「今日も頑張ってきてくださいね」
「はい」
嬉しそうに彼女から受け取った水筒を胸に抱きしめて、彼は何度も頭を下げた。
「麦茶?」
貝沢が、首をかしげる。
「そうよ、よっちゃん、森垣さんに頼まれてたの」
「毎日、このひと、前の自販機でいろいろ買ってたけど……」
「そう、清涼飲料ばっかりじゃ体に悪いでしょ。カメラマンなんて体が資本じゃないの」
ああ、なるほど、と貝沢は思った。
きっと、彼女が、森垣にそれを指摘して、こういう流れになったのだろう。田舎の、あえてホテルといってはいるが、このこじんまりとした宿泊施設で一番のボスは社長ではなく、こういうパートタイムのおばさまがたなのだ。
「ありがたくちょうだいいたします」
「そうよ、がぶがぶ飲んで、元気に写真とってきなさいな!」
まるで長年の知り合いのような顔ぶれで、彼女は若い男の肩を叩きまくる。容赦はない。
「はい、今日こそ」
「よし、それじゃいってらっしゃい。夕飯はいつもの時間だからね。ほら、よっちゃん、にこやかなに見送ってやんなさい」
背中を押された貝沢は、森垣と共に建物の外にほうりだされた。
「すごいひとだよね……」
森垣が苦笑する。
「な、田舎ってこわいだろ」
貝沢のことばに、森垣が何度もうなづいた。
「だけど、ありがたい」
麦茶の入った水筒をいまもなお、この男は抱きしめている。
「そりゃよかったな」
「ああ。……いいよ、ここまでで、よっちゃん、さん、は、その……」
「は!?」
「あ、え、えっと」
「いや、何その、よっちゃんさんって……!」
「い、いや、さっき澄江さんが、そう言ってたから」
しどろもどろになって、応える彼が面白くて、貝沢は目を細めた。
「俺、貝沢良樹。よしき、だから、よっちゃん」
「そっか、良樹くん。森垣幸一郎です」
「もう、知ってます」
「そっか、そりゃそうだな」
森垣は笑った。
この近くに、ある湖がある。
一見するとただの大きな水たまり。だけど、この土地ならではの特殊な「特技」を持っているという都市伝説のようなものがある。時間帯と天候と、ある一定の条件が揃ったとたん、水面が虹色のように輝くのだ。
けれど、その虹色に光る水面というのは、あくまで、噂話、都市伝説の域を出ない。一枚だけ、この世に、その時の風景がおさまった写真が残っているのだが、それはモノクロ写真なのだ。その撮り手が、手書きのメモに書かれた七色の湖というのが、この噂の発祥だろう。
だが、それを信じて、七色に光る水面を狙ってやってきた客がいる。この森垣幸一郎と、いうわけだ。
「今日で、一週間ですね」
貝沢は事実を述べた。建物を出てもうすぐホテルの門につく。
「いつまで、いるつもりなんですか」
森垣は黙った。
「まあ、いつまでいたっていいんですよ。こっちとしては、お金を落としてもらえたほうが助かります」
「……いつまで、だろうね」
「決めてないんですか?」
「無尽蔵にお金があるわけじゃないけど、出来るところまで、迫ってみようと思って」
「……そうですか。森の中にあるので、気を付けてください。足を滑らせたりしないこと」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃ、いってらっしゃい」
「はい」
門の前で、森垣の遠ざかっていく背中を見送ると、貝沢はひとつため息をついた。
どう見ても、彼は若い。自分もこの土地では若い部類にだんとつで入るほうなのだが、彼にあてる若いはそういう若いではなかった。
「まだ、年齢、高校生だろうに」
彼の背中を眺めながら、貝沢はつぶやいた。
話を聞いた女中によると、森垣は、通信制の高校に在籍しているらしい。そのため、わざわざ日中に毎日学校に登校しなくてもいいらしいのだ。
だから、一人で、こんな辺鄙な場所までやってきて、時間をかけてホテル裏の山に登って湖まで行って帰ってきて、寝て、起きて、というのを繰り返していられるのだろう。それはわかった。
だが、彼の目的がわからない。
「ねえ、よっちゃん。昔の写真、見つけた」
「へ?」
控室で、ぼんやりと、スマホゲームをしていたら、耳に入れていたイヤホンのコードをひっぱったやつがいる。この旅館のボス。
「裏でいま、整理しているのよ。ほら、アルバム」
黄ばんだ表紙のそれを持ってきた彼女はにかっと笑って見せた。
「じゃーん、ちっこいころのよっちゃんです」
「わー」
棒読みでしかリアクションが出来ない。
「見て見て、可愛いねえ」
「可愛いって、これ、俺が高校生ぐらいのときでしょうが」
「でも可愛いじゃない。こんなおっさんみたいになっちゃってぇ」
「いや、まだ俺、若者だから」
ひとのいうことを聞かない女は、勝手にページをめくりまくる。
「あらやだ、この子、よっちゃんの友達?」
「友達っていう年齢じゃ……」
そこのページにはある写真がおさまっていた。水浸しになった濡れ鼠の子どもがふたり。高校生のときの貝沢と、本当に小さな児童。ふたりで手をつないでホテル前をバックにして、写真に撮られている。
「……あれ、これって……」
「どうかしたの?」
「いや、昔すぎて、何だったか忘れた」
「あらまあ」
ふふと、女中は笑った。
「あれ……本当になんだったっけ……何か、あったような……」
「それにしても、不思議よね、二人ともびしょぬれ。一体何して遊んできたのかしら」
「というか……」
この子どもは一体誰だ。
こんな子、いたっけ?
思い出そうとして、そこから先に進めない。ぼんやりと靄がかかって、輪郭を掴みそこなう。
「あらやだ。そろそろ森垣ちゃんが帰ってくる時間じゃない」
「そうだね、森垣ちゃん……」
一応は、お客さまなのだが。貝沢は苦笑した。
「よっちゃん、出迎えてあげなさいよ、年齢近いんだから」
「近かかないよ。まあ、澄江さんよりは若いけど」
「あら、マダムになんて失礼なことを」
「じゃあ、マダム、いってきます」
「おかえりなさい。どう? 写真は」
玄関前に佇む森垣をそっと出迎えた貝沢は担当直入に聞いた。
「いや、不作でした」
「そっか、だろうな」
「だろうなって……」
むっとした口調で、森垣が返して来る。
「だってそうだろ。七色の水面だなんて、そんなのありゃしない」
「あります。本当に!」
「そうかあ?」
そう言って、荷物を持ってやろうとして伸ばした手を、貝沢は森垣に払われる。
「平気です、自分で」
「ああ、はい」
「良樹くん、良樹くんだって見ているんじゃないですか」
「へ?」
見てるって、七色の――。
「いや、ないない。俺、ここで生まれてから一度も」
「そんなことはないはずだ!」
森垣の声が、ロビーに響き渡った。
「え?」
「だって、一緒に見てるじゃないですか! 一度、俺と」
「……は?」
「……すみません、いいです。その、部屋に戻ります」
くるりと、貝沢に背を向けて、森垣は部屋へと戻っていく。
「な、お、おいっ……え?」
取り残された貝沢の頭の中に、何度も森垣の声が響きわたった。
――「だって、一緒に見てるじゃないですか! 一度、俺と」――
何故か、そのとき、あの写真の小さな子どもの姿が、浮かんだ。
勤務が終わって、自宅に戻った貝沢は、そっとベッドに横になった。瞳をつぶるが、どうしても、いてもたってもいられない気分だ。
落ち着かなくて、なんども深呼吸をする。どうしたんだろう。わけがわからない。
「ああ、もう、しゃーない」
起き上がって、頭をかきむしる。ここまで、むしゃくしゃしていては、だめだ。
結局、彼は、もと来た道を戻って、ホテルへと向かった。まだ午後七時だ。開いている。
事務室の扉をそっとあければ、そこには、まだ女中の姿があった。
「あらやだ、よっちゃん、夜更かし?」
「まだ寝る時間じゃないでしょ……って、澄江さん、まだいたの?」
「えへー、昔の写真見てたらねえ」
「それはいいけど、あの写真、貸してくれない?」
「へ?」
「俺の小さいころの……」
「ああ、このアルバム」
「そう、それ」
「いいけど……って、よっちゃん!」
受け取るやいなや、貝沢は、勢いよく事務室を飛び出していった。
「それじゃ、澄江さん、おやすみ」
声だけが、後に残った。
「ちょっと、まだ起きてますか」
扉をノックすれば、返事が聞こえた。
「申し訳ない、夜遅くに」
「いえ……」
寝間着姿の森垣が現れて、思わず胸をときめかしながら、貝沢は早口で言った。
「これ、みてほしいんだが」
「わあ、アルバムですね」
「これ、この写真。もしかして、お前か?」
森垣が指さす先には、今日見つけた例の子どもとの写真があった。
「もしそうなら、俺、この時期の記憶がない。覚えていないんだ。だから……」
「……やっぱりそうだったんですね」
「じゃ、じゃあ……」
「そうです。これが俺。ちっこいときの俺。一度ここに来たことがあるんです。俺がまだ、このぐらいのときに。あなたにもお会いしています」
では、やはりこの写真は……!
「七色の水面を見たのも――」
「って、え!?」
驚いて目を丸くした貝沢に、森垣は、ふふと小さく笑った。
「話長くなるかもしれないので、あがります?」
「え。いや、そ、んな……」
あがるといっても、客がいる前で、客が借りている部屋だぞ。迷っている、森垣に対して、彼はそっと扉を大きくあけて促した。
「それじゃあ……」
「はい」
にっこりと、森垣が笑いながら、部屋のなかへ導かれた。
「えっと、俺、このときはまだ親が離婚してなかったので、家族サービスという形で、旅行に来たんです」
「へ、へえ……」
離婚。突然とびだしてきたことばに、どきりと胸を掴まされる。
「で、俺、はしゃいでしまって、勝手に、裏の山に遊びに行って、まあ、冒険、というか、その……。えへへ」
はにかむ森垣の頬が赤く染まった。
「やんちゃだな」
「やんちゃです、今でも」
「それで?」
「えっと、夕方になって、俺の姿がないっていうことで、両親が俺のことを探しはじめて、この宿のかたがたにもお世話になったんです。三馬ホテル従業員ズにも」
「おお、なるほど」
「で、そのとき、俺は、山の中で迷子になっていて、どんどん日が暮れて、暗くなっていくし、心細かった。歩くにも疲れて、それで、地面にうずくまっていたとき、声がして、振り返ったら、あなたがいたんです」
「へ!? そこで俺!?」
「ええ、さすが、ホテルのボスの息子さん」
「いや、このホテル表向きは社長がトップだが、本当のボスは……って、そもそもホテルって名前ついているけど、小規模すぎて哀しい宿だからな」
「そう、なんですか」
彼は口元を手で覆った。笑っているのだ。
「で、えーっと、それで、優しい良樹くんにおんぶしてもらって、俺、帰ることになるんですけど」
「優しい良樹くん」
「そうです、あなたのことです」
「そっか、俺か……」
突然、ふっと、森の匂いを嗅いだ。夜特有の深い奥まった感じの空気。
いや、そうだ、そうだ、そのとき、確かに。
足許には、湿った地面の上を歩く時のスニーカーの感触。そうだ、確かに俺は、この子を負ぶって山を下りた。
「その、と、ちゅうで、確か……」
「そうです! 途中で、湖を見て、そのとき……」
ああ、思いだたしたぞ。貝沢は、絶句した。
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