ご飯でもお風呂でもなくて

阿沙🌷

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 こんなに、自宅は遠いものだったのだろうか。
 撮影で県外に移動することもあるが、今回の撮影は近場のスタジオだった。
 けれど、ぐったりと疲労を携えた身体は言うことを聞かない。いまにも路上に倒れそうになりながらも、タクシーを降りた新崎は、アパートの自分の部屋を目指した。
 懐から鍵を取りだす。回す。
そんな些細な動作でさえ、面倒くさく感じる。
 けれど、そんな疲れの虜になっている新崎を、自然に開いた扉の向こう側にいた彼が一掃してしまった。
「おかえりなさい」
 玄関のドアを開けたのは紛れもなく、千尋ちひろ崇彦たかひこその人だった。
「え、ど、どういう……?」
 いきなり現れた恋人の存在に、新崎は目を白黒させる。
 彼は、彼が所属している劇団の団長の友人で、その縁から本業である出版社勤務の漫画編集者と兼業で劇の脚本を書いている男だ。彼の執筆する話は情緒的でありながらも、めそめそしたところがなく、どの作品も筋書きで人の心を前向きにしてくれる熱い作品ばかりだ。
 最初はただ彼の作品に惚れていただけだった。しかし、何度か脚本家と顔を合わせているうちに、新崎は彼のことを好きになっていた。
 思いを打ち明けても、一度は立場の違いから千尋に退けられていた新崎だったが、今ではすっかり恋人の関係性におさまっている。
 とはいえ、互いに多忙な身だ。なかなか休日オフが一致せず、ふたりでいる時間など泡のようなひとときに過ぎない。
 そんな彼がいま目の前にいるのだ。新崎は自分の両の眼球を疑った。疲れでいま一番自分が見たいものを幻想として見てしまっているのかと。
 しかし、伸びてきた千尋の腕が、新崎はこれが幻想でもなんでもなく現実なのだということを確認させた。
「どうしたの? 調子わるい?」
 心配そうに新崎の頬をなでる千尋の手の感触、ほのかに伝わってくる彼のあたたかな匂いに、新崎は膝から崩れ落ちそうになった。
「あ~もう、なんで」
「え、あ、大丈夫? 来てはだめだったのか?」
 心配そうに新崎を見つめる千尋に新崎は飛びついて抱きしてた。
「だめ、だめです、先生、俺、嬉しすぎて死んでしまう!」
 新崎のいきなりの行動に千尋は驚いて目を見開いたが、やがてそこから驚きは消え、慈愛を含んだ優しいまなざしで微笑んだ。
「おかえり、疲れただろう。夕食を作った」
「へ、あ、ほんとに?」
 そういえば、千尋は白のワイシャツの上にエプロンをつけていた。
「先生、可愛い……」
 思わずこぼれた新崎の呟きに千尋がかっと頬を染めた。
「世界一かっこいいを表現できるきみに言われたくはないよ」
「そんなこと、ないです、俺はまだまだひよっこで……」
 千尋が、微笑む。
「正しい反省ならいいが、卑屈になることはないんだよ」
 新崎は何もいえずただ彼を見た。
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