釣った魚、逃した魚

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#37 覚悟

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微かな風のさやぎ。遠い喧噪。

暫くの沈黙。

その間、俺の頭の中は思考が停止して、だが、先ほどの神子様とグレイモスのやりとりを何度も反芻してガンガンしていた。

「……まあ、でも…」
溜息混じりの、呟きのように神子様の声がした。
「今日はあなたのおかげで作業が滞りなく終わった、というのは事実です。
…いいでしょう。会って話をするだけなら」

「ああ、やはりあなたは…」
「ただし!」
喜色を含んだグレイモスの言葉を、途中でぴしゃりと断ち切って続けた。
「今日はもう帰ります。明後日、神殿の……私がいつも待機させられていた、控えの間に転移しますから、そこでお待ちください」
小さく、えっ…と戸惑うグレイモスの声が漏れ聞こえたが。

「明後日の午後2時だ。その日その時間に王兄殿下が都合を付けていなかったら、この話は白紙だ。妙な仕込みはするなよ。
すれば俺にはすぐ分かるし、したら神殿は、一瞬で、この世から消える。
主導権が自分たちの方に有るなんて勘違いはしないように。じゃあ、お疲れさま」

その言葉の直後に、ぷつりとイヤーカフから聴こえる音声が消えた。


そして。
暫くすると、我が家のリビングの床に光りが走り、魔法陣が展開された。
床から上に向けて立ち上る光のカーテンの中に人影が現れ、そこに神子様の姿が確認出来ると、光りは再び床に吸い込まれていく。

「ミラン…ッ!」
神子様の全身が戻った直後、まだ光の消えきらない魔法陣から転び出て、椅子から立ち上がりかけていた俺の腕に飛び込んできた。

……えっ…

思わず固まってしまう。

俺の胸元に頭を擦り付けるように、俯いた神子様が口許を押さえて、少し震えている。
「ゴメン、ミラン。聴いてた?…あっ、アイツ…。くそっ!最初からいけすかないヤツとは思って居たけど…!」
悔しそうに、歯を食いしばりながら呟く。
俺は、神子様の背中をさすりながら椅子に導いた。

「取りあえずお茶を淹れますので、座って下さい…エーフィンガ市の治癒、お疲れさまでした」

神子様は椅子に座ると、すぐにテーブルに突っ伏してしまう。
外套を脱ぐことも忘れて。
こんなお姿は見たことがない。俺はただおろおろするばかりだ。

横合いからそっと置いた紅茶は、少しだけオレンジの酒が垂らしてある。
以前、義兄のところで出され、神子様がたいそう気に入っていたものだ。疲れたときには、この香りが気持ちを解してくれると。

ふわりと、鼻腔を擽る香りに気がついたらしく、頭を上げ、うたた寝から意識が戻ったみたいに、一瞬理解が遅れた様子で、徐にカップを持ち上げて俺を一瞥してから「ありがとう」と言って一口飲んだ。

「ゴメンね。取り乱しちゃって…」
一息ついたあと、気を散り直して立ち上がり、外套を脱いで「夕飯は風呂のあとで貰うよ」と言いながら階段を上っていった。

酷く悔しそうだった。戻るなり、転げるように胸に倒れ込んできたとき。
…アイツ…、…いけすかないヤツ…?
グレイモスのことか?
戻る直前の二人の会話を思い出す。
…一体どこに、あれほど怒る要素があったのだろうか。

やはり神子様が『冒険者タカ』だと知られた事…調べられたことに憤慨しているのだろうか。
それとも…音声だけで、見ていなかったから分からないけれど、よほど不埒な触れ方をされたとか…。
それを考えていやな気持ちになった。
何よりそんな想像をしてしまった自分に、だ。

夕食では、以前仕留めた魔獣の肉を焼いたものに、タカがよく作ってくれた特性ソースというのを、まねて仕込んであったものをかけてみた。
それに蒸かした根菜類や煮込んだ豆類。

「スゴい、美味しい!」
風呂から出て、すっかり気持ちを立て直した神子様は、嬉しそうに頬張ってくれた。
俺は奥の棚からワインを取り出し、小さめのグラスで一杯ずつ出した。
神子様はあまりお酒を好まないけれど、これで治癒行脚のやり残しも終わったことだし、祝杯を挙げても良いのでは、と思ったのだ。

「そうだね。この位なら。乾杯するのも良いかもしれない」
互いのグラスを軽く当ててから口に運ぶ。
一口飲んで、揺れる赤い液体を暫く眺めてから神子様は口を開いた。

「ミラン。君は俺にとってこの世界で最も大切な人だ」

「……???」

危うく、口に含んだワインを吹きそうになるほど驚いて神子様を見ると、冗談でもなんでも無く、酷くつらそうな表情でこちらを見ていた。
「君の家族も、君の故郷のこのハズレの村も。俺がこの世界に来て初めて出会った安らぎなんだよ」

俺が神子様にとってどう言う存在に当たるのかは、常に気にはなっていた。ただ、確認したいとも思って居なかった。
ここに居てくれるなら、それで良かった。

「だから…」と何かを決意したみたいに切実な眼を向けて言った。
「君や君の家族、この村に関わるものに、あいつらが妙なマネしたら許せない…許さない。…もし…」
そこで言葉を句切って、暫く次の言葉を言うのをためらい、俺をじっと見る。そのうちその黒い瞳に懊悩の色が揺らめく。
「もし俺がこの国を壊すことになっても見捨てないで居てくれる?」

その言葉を言っている途中から震える指先で顔を覆った。

俺はとっさに立ち上がり神子様の椅子の横に跪いて。
「見捨てるなんてあるはずないじゃないですかッ!神子様が居ないと俺は何も出来ないんです。あなたを苦しめるだけの国なら壊れてしまえば良い!むしろ俺がこの手で壊してしまいたいくらいですよ」

神子様の様子に慌てただけじゃない。その切実な表情に、今ここでこの人を放したらどこかに行ってしまうのではないかとそれに怯えた。
そんな思いが迸って気がつけば神子様の膝にしがみついていた。

「ずっと側に居て欲しいと、ずっとこの村で一緒に…どこへも行かないで欲しい、と思っているんです。…ああ、でも…でも俺、それじゃあ陛下と同じじゃないかと…」

「同じなんかじゃ無いよ!」

神子様に俺の頭が抱え込まれ抱きしめられた。
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