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1巻
1-2
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うっかり寝入ってしまった間に、一体全体フラウはどれほど馬車を飛ばしたのだろう。
(少し、おかしいんじゃないかなあ、と思う……。半日も経たずに、もう違う領土に入っているだなんて……)
リリーシュアは十年近くも塔に閉じ込められていたため、学問の知識が乏しい。
塔に入る直前まで学んでいた初級の算術書や歴史書は持っていたから、擦り切れるほど読み返したけれど。
結局できるのは簡単な読み書き計算だけで、速度や距離のことはうっすらとしかわからない。
それでも、明らかにおかしいと思うほどの移動速度だった。
そんなリリーシュアには構わず、ロイドが明るい声をあげる。
「よかったー、この時間ならまだ衣裳店は開いてますね! なんたって、今日はリリーシュア様のお誕生日ですもの。うんと着飾らなくちゃっ!」
「え?」
リリーシュアが間の抜けた返事をすると、ロイドは頬を膨らませる。
「んもう、やっぱり忘れていらした! 今日はリリーシュア様の、十八歳のお誕生日ですよ! アタシたち、だから出てくることができたんだからっ!」
「ちょ、ちょっと何を言っているのか、よくわからないけれど……たしかに、忘れていたわ」
リリーシュアはため息をついた。
胸元で両手を組み合わせて目をキラキラさせる彼女を見て、フラウが咳払いをひとつする。
「無理もありませんよ。せっかくのお誕生日に、あのゲス野郎からあんなことを言われたんじゃあ……気付いていなかったほうが、まだ救いがあるってものです」
リリーシュアは目を丸くした。一応は雇い主である父に対して、口が悪いにもほどがある。
(この子たちも、父と義母から虐げられていたのかもしれない……)
孤児院から引き取られた子どもが、死ぬまでこき使われるということは多々ある。
ロイドとフラウの侯爵夫妻嫌いは歴然としているようだ。だからこそリリーシュアのお供に選ばれたに違いない。
この不憫で可愛い子どもたちと束の間の旅を楽しみたい、という気持ちがいっそう湧いてきた。
「ねえ、メルダース辺境伯領へは、どれくらいかかるのかしら。追手を撒くために、ずいぶん違う道を選んだようだけれど……もう山が見えないわ」
「何言ってるんですか?」
リリーシュアの問いに、フラウが唖然とした声を出す。
「メルダースへなんか、行きませんよ?」
ロイドは困っちゃう、というようなため息をつき、首を左右に振った。
フラウは街道を走っていた馬車をゆっくり路肩に停車させると、きっぱりと言い切る。
「俺たちが今いるのは、アッヘンヴァル領の南隣、レッバタール公爵の領地です。メルダースとは反対ですよ。六十をとっくに過ぎた爺さんのところで、リリーシュア様が幸せになれるはずがありませんから」
その言葉にリリーシュアは目をぱちくりさせた。
「メルダース辺境伯は、四度、離縁したことがあるそうですよ。つまり四度、失敗したってことです。娘の嫁ぎ先には、最悪すぎる人選です」
フラウはそう続け、思いっきり顔をしかめる。
ロイドが「まったく!」と声を荒らげた。
「リリーシュア様は、心が綺麗すぎます。もうアッヘンヴァル家から逃げきったのだから、あんなクズな父親に言われるがまま嫁ぐ必要なんて、まったくないんです。リリーシュア様は、自由の身になったんですよっ!」
ロイドはそうまくしたてながら、後ろの立ち台から幌の中に入ってきた。
そしてリリーシュアの隣に座って、怒ったように上下に身体を揺らす。
彼女の綺麗な銀髪が一緒に動くのを見ながら、リリーシュアは震える声を出した。
「私が、自由に……?」
リリーシュアの人生は、八歳で塔に閉じ込められたところで暗転している。
十七歳で第二王子のマンフレートに見初められ、もしかしたら自由が得られるかもしれないと期待したけれど。
今朝がた父から婚約破棄と同時にマリーベルの妊娠を知らされて、希望はこの手をすり抜けたと思っていたのに。
「自由……に、生きられるかしら。私の身体では、お金を稼ぐことは難しいだろうし……。きっとフラウとロイドに、迷惑ばかりかけてしまう……」
運動と栄養が不足して、すっかり弱っているリリーシュアに、生きていくための金銭を稼ぐことができるだろうか。
こんな身体で人並みに生きるには、フラウとロイドに助けてもらうしかない。
それはずいぶん、虫のいい話に思える。
(お母様にそっくりと言われるこの顔があれば、糊口をしのぐことくらいできるのかしら……。いえ、春をひさぐようなことをしたら、やっぱり亡くなったお母様に顔向けできない……)
リリーシュアがぐるぐると思考を巡らせていると「あー、もう!」とロイドが叫んだ。
「リリーシュア様は、まったく、なんにも、心配しなくていいんですよ! アタシとフラウには色々と特技があるんです。バーンと大らかに構えて、ゆーったりしていてくださいませ!」
「まったくロイドは煩い。そんなにキンキン声で叫んじゃ、リリーシュア様はゆったりできない」
フラウの言葉にロイドが怒り、三人しかいない馬車にわんわんと声が響く。道の端で犬が吠えた。
もう日が落ちかけて肌寒くなっているのに、馬車にだけは熱気が溢れ、まるで陽だまりのようにあたたかく感じられた。
「この先に街があったはずだ」「とりあえずどこそこの店に行こう」とフラウとロイドが今後の予定を立てている。
リリーシュアは微笑を頬にのせ、そんな二人を眺めていた。
しばらくすると、話がまとまったらしい。二人はリリーシュアのほうを向く。
「申し訳ないですが、リリーシュア様。宿を探す前にまずはドレスです! アッヘンヴァルの馬鹿どもを思い出すようなものは、全部捨てましょう!」
明るいロイドの声は言葉とは裏腹に、そんなに申し訳なさそうではなかった。
「すいません、リリーシュア様。お疲れだとは思うのですが、ロイドは言い出したら聞かないので。少しだけ付き合ってやってください」
フラウの眉がやや曇る。リリーシュアは慌てて首を左右に振った。
「ううん、ちっとも疲れていないわ。本当に不思議、ものすごく長い距離を馬車で揺られていたはずなのに……」
リリーシュアの胸に、不思議と可笑しさが湧き上がってきた。
父や義母、義妹は、リリーシュアの体調を斟酌する気もないようだったし、体力のないこの身体では、野盗に襲われずとも行き倒れるに違いないと思っていたはずなのに。
まさか死を覚悟した旅の途中で、こんな楽しさを初めて知るなんて。
だから、粗末な馬車でも疲れを感じなかったのだろうか。
「でも、私と貴方たちだけで、衣裳店へなど入れるものかしら……」
リリーシュアは頬に指先を当てて、小首をかしげた。
立派なドレスを扱う衣裳店では、それ相応の振る舞いが求められる。
まだ母が生きていたころ、買い物に行ったことはあったけれど、母がどうしていたかなんてもうすっかり忘れている。
「あ、アタシたちが子どもだからって、心配なさってるんですか?」
ロイドが腕組みし、むうっと唸った。
「無理もありませんけどね」
とフラウも笑って、腕を組む。するとロイドが得意げに続けた。
「言ったでしょう? アタシたちには不思議な力があるんですって。そもそも『魔力持ち』は少ないし、アタシたちの『幻術』を見破れる輩なんてそうそういませんから! どーんと構えていてください」
「『魔力持ち』? 幻術?」
「ロイド、そこまで。一気に話を進めると、リリーシュア様が混乱する」
フラウが低い声で言うと、ロイドはしぶしぶといった顔で黙った。フラウはリリーシュアを安心させるように微笑む。
「リリーシュア様、あんまり難しく考えないでください。とりあえず、俺とロイドは『不思議なおまじない』が使えるんです。子どもの俺たちが店に入っても、不審に思われたりしません」
「まだ力を得たばかりだから、あんまりすごいことはできないんですけど! ぐんぐん、ぐんぐん、伸びてる最中ですから!」
そう言うロイドを、フラウがまたそっとたしなめる。
リリーシュアはくすくす笑った。
この子たちは、素直な気持ちを包み隠さないでいてくれている。
そのことが、堪らなく嬉しい。
(それにしても『魔力持ち』なんて、おとぎ話の中にしかいないのに……ふふ、やっぱりまだ子どもなのね)
『魔力持ち』というのは、神様から不思議な力を賜った人のことだ。
遥か昔――それこそ神話の時代には、世界には『魔力持ち』が数多く存在したと信じられている。
指先一本で嵐を呼んだり、乾いた大地に雨を降らせたりする、いわゆる物語の中の魔女や魔法使い。
彼らは子どもなら誰もが思い描く、空想上の英雄だろう。
(『魔力持ち』のことはともかく、ロイドのお望み通り、衣裳店の前まで行ってみよう。半病人と子どもでは、きっと入店を断られてしまうだろうけれど)
この可愛い子たちとならば、そんな経験も悪くない、とリリーシュアは思った。
第二章
レッバタール公爵領はアッヘンヴァルよりもよほど栄えていて、街には衣裳店がいくつもある。
リリーシュアはロイドとフラウに連れられて、そのうちのひとつに入ることにした。
すぐに追い出されるだろうと思っていたけれど、店員は意外にもすんなりとリリーシュアたちを店内に通した。
店員にはなぜかロイドの姿ががっしりとした体格の大女に、フラウは背が高くて浅黒い肌の騎士に見えているらしいのだ。
彼らは勢いのままあれやこれやと衣服を選んでいたが、リリーシュアは内心で冷や汗をかく。
母の形見のハンカチに数枚の紙幣と硬貨を包んで隠し持ってはいるけれど、ロイドとフラウはそれでは足りないくらい高価な衣裳ばかり手に取るのだ。
貴族の娘とわかる豪華な衣裳は必要ないと何度言っても、彼らは聞き入れなかった。
しかも驚いたことに、この子たちは路銀としては十分すぎるほどのお金を持っていた。
「ドブネズミみたいな汚いドレスは脱いで、身分にふさわしいものに着替えましょう」
ロイドが強硬に主張し、フラウもそれに同意する。
あれもこれもと買いたがる二人の勢いに負けて一緒に選んだ既製品のドレスは、小柄で細身のリリーシュアにはサイズが合わなかった。
そこでフラウは、お針子に夜なべで仕事をしてもらうために追加料金を払ってしまった。
どうしても、明日の朝には欲しいからと。
ひとまずドレスの代わりにと、フラウは平民の娘が着るような白いシャツと赤い巻きスカートを持ってきて、リリーシュアに着せる。
淑女のおしゃれには必須だからと、桃色の可愛らしいスカーフもセットだ。
ロイドも肌触りのいい羊毛のひざ掛けを選んでくれたので、あわせて購入する。
そして二人は薄汚れたドレスは処分するよう店主に頼むと、リリーシュアを連れて衣裳店を飛び出した。
あれよあれよという間に、リリーシュアは夜の盛り場に連れていかれる。
ひしめき合うように立ち並ぶ建物の中に、料理店の看板を見つけると、ロイドとフラウはためらうことなくドアを開けた。
テーブルにずらりと並んだのは、魚介の煮込み、骨付き肉を焼いたもの、彩り豊かな野菜と果実の酢漬け、スパイスたっぷりのスープ、湯気が立ち上る焼きたてのパン。
こんなにたくさんのご馳走を前にして、おまけにあまりにも懐かしい団欒というものをしている。
熱いスープを一口飲んで、リリーシュアはほうっと息を吐いた。
「美味しい……」
涙が込み上げそうになって、リリーシュアはうつむく。
ゆっくり視線だけ上げると、とても美しい子どもたちが、キラキラした目でこちらを見ていた。
彼らの表情や身動きは、北の塔にいたネズミたちを思い起こさせる。
ロイドは食卓に腕をのせ、指と指を絡ませた。そして前のめりにリリーシュアの顔を覗き込んでくる。
「塔での食事は、運ばれてくる間に冷めちゃってましたもんね! 今日のお昼も、馬車の中でパンを食べたっきりだし。リリーシュア様、お腹いーっぱい食べてくださいね!」
「こら、ロイド。リリーシュア様は胃が小さくなってるんだぞ。無理しないで、食べたいものだけ食べたらいいんですからね?」
「ね?」と、フラウが首をかしげた。ありがとう、とリリーシュアは笑った。
店内には賑やかな笑い声が響いている。
客たちは酔っているのか上機嫌で、仲間内で冗談を言い合っているようだ。
テーブルの向かいの男性客と目が合った。彼はなぜかあんぐりと口を開ける。
すいすいと泳ぐように歩く給仕人も、リリーシュアを横目で見て息を呑んだ。
こちらを見つめてくる人々の視線には、内心恐怖を覚える。
でも、少しやんちゃで明るく活発なロイドと、善良でまじめそうだが腹に一物ありそうなフラウが、本当に『不思議なおまじない』が使えることは、もうわかっている。
この店にいる人々にも、二人のことが立派な大人に見えているようだからだ。
リリーシュアは焼き立てのパンを呑み込んだ後、ゆっくりと瞬きをした。
ロイドとフラウは、やっぱり十歳くらいの子どもに見える。
(まさか本当に魔法が使えるなんて……)
そう思いながら、リリーシュアは小さくうなずいた。そして躊躇いつつも切り出す。
「あの、ぶしつけなことを聞くけれど……貴方たちのお金、賃金で貯めたにしてはちょっと多すぎない?」
「あ、これはネズミ……いやいやいや、屋敷中をくまなく回って手に入れた、合法的なお金です!」
ロイドがそう答えると、フラウもそれに同意する。
「リリーシュア様の正当な取り分ですよ。お気になさらず」
「そ、そうなの……。今さら返しには行けないけれど、残った分は、修道院に寄付しましょうか……」
リリーシュアは笑顔をひきつらせた。
どうやらこの子たち、ちょっと手癖が悪いらしい。
(でも、あの人たちは立場の弱い使用人には、かなりきつく当たっていたようだし。この子たちの心がむしばまれ、すさんでしまっても仕方ないわ。明日になったら、この子たちを修道院に連れていこう。きっとあたたかく保護してくださるわ)
ロイドとフラウは、なぜかリリーシュアを守り尊ぶという誓いを立て、熱い忠誠心を胸に抱いているようだけれど、このまま逃げ続けるのは難しい。
レッバタール公爵領を越えた先は、隣国のシェファールド帝国だ。
いくら金があっても、周囲を惑わせる『不思議なおまじない』が使えても、国境は抜けられないだろう。
塔に食事を運んでくれた侍女がたまに外のことを教えてくれたのだが、リリーシュアの生まれたレティング王国とシェファールド帝国は、ここのところ仲が良くないらしい。
そもそもレティング王国は、大陸北部のオルスダーグ帝国に従属して平和を得ている。
一方のシェファールド帝国は、大陸の南部にある多くの国を統べる大国だ。
つまり、北部のオルスダーグと南部のシェファールドは、世界の覇権を争う二大大国なのだ。
このようにもとより立場を分かつレティング王国とシェファールド帝国だが、近年はより緊張状態にあるようだ。
そのため、双方の国の間の人や物の往来について、非常に慎重な姿勢を示している。
国境には検問所があって、きちんとした手形を持っていないと通してもらえないそうだ。
まさか警備の目をかいくぐって、シェファールド帝国側に行くことはできまい。
(レティング王国内にいる限りは、いつあの人たちに見つかるかわからない……。この子たちの身の安全を、第一に考えなくては)
リリーシュアの皿に次々に料理を取り分け、自分たちもどんどん料理をたいらげている可愛い子たちを、しみじみとした気持ちで眺める。
あははと大きく口を開けて笑うロイドとフラウの顔を見ていると、リリーシュアは星の瞬く夜空に浮かんだような気持ちになった。
とても楽しい、誕生日の夜だった。
「リリーシュア様。宿屋に一晩泊まって、明日の朝サイズを直したドレスを受け取ったら、国境を抜けますからね!」
ロイドが笑いながら、首と両手を上下に振る。
「え、でも、国境を抜けるのは、大変なことだと聞いているし……」
どうしましょう、とリリーシュアは胸の内でつぶやいた。
椅子の上でぴょんぴょん跳ねている可愛い子を、頭から否定して傷つけたくはない。
リリーシュアがそう考えていると、フラウは微笑みながらも少々鋭い口調で言った。
「ご心配なく、方法はちゃんと考えています。レティング王国は、リリーシュア様の置かれている現状を見抜けなかった馬鹿王子のいる国ですよ? おまけに、あっという間にあの女に乗り換えて。こんな国じゃ、リリーシュア様はお幸せになれませんから。リリーシュア様はお優しいから、あの馬鹿王子に嫁いでも、アッヘンヴァル家の連中のことを告げ口なんかしなかっただろうけど。マリーベルのやつ、馬鹿王子にひたすら色仕掛けしてましたからね。それも、家族ぐるみで策略を立てて。それがうまくいかなきゃ、リリーシュア様は毒でも盛られたに違いありません」
ふふふ、とフラウが静かに笑う。人でも殺しそうな気配があった。
「もう、フラウったら。アッヘンヴァルの汚い連中のことなんか思い出させないで! おかげで、不器量で愚かな連中の顔を思い出しちゃったじゃない!」
ロイドは胸に手を当て、はーはーと息を吐き出す真似をした後、表情をコロリと変える。
「気分転換に、楽しいことを思い出そうっと。そうそう、衣裳店の人たち! リリーシュア様のお美しさに、度肝を抜かれてましたねえ!」
ロイドが大きく鼻息を漏らすと、フラウは腕を組み、真面目くさった顔つきで言った。
「そりゃあそうだ。リリーシュア様ほどお美しい方は、世界中を探したって見つかりっこない」
リリーシュアはばつの悪い思いをしながら、小さく肩をすくめる。
衣裳店の大鏡には、たしかに母に似た目鼻立ちのはっきりした娘が映っていたけれど。
痩せっぽちで、背が低くて。お母様とは似ても似つかないなあと、ぼんやりと思ったものだ。
母が生きていたころは、リリーシュアの艶やかな蜂蜜色の髪はいつも綺麗に整えられ、さらさらと背中を流れていた。
だけど鏡の中のリリーシュアは、髪の毛はごわごわと硬そうで、翡翠色の大きな瞳ばかりが目立つ、垢抜けない娘にしか見えなかった。
(北の塔では、小さな手鏡しか持っていなかったものね。マンフレート様とお会いした大広間も、なぜか鏡が外してあったし……)
元気だったころの母の魅惑的な肢体と華やかな顔立ちをよく覚えているだけに、自分のみすぼらしさにちょっとがっかりした。
(だからマンフレート様がマリーベルに魅了されてしまったのも、仕方のないことなんだわ……)
マンフレートが王都からやってきた回数は、そう多くはない。
その時ばかりは痩せた手足を隠せるドレスを着せられ、侍女が無理やり編み込んだ髪の上から、総レースのヴェールまでかぶせられた。
リリーシュアは雨に降られたような薄ら寒い気分だったが、マンフレートは心も身体も揺さぶられたようで。
きっと私がお母様にそっくりだから――なんて思っていたけれど、あの人は単に珍しいもの好きの、惚れっぽい人だっただけに違いない。
そんなことを頭のどこかで考えていた時、なんとも騒々しい、大きな声が店内に響いた。
「すみませんね、旦那! あいにく、今はテーブルが埋まってるんでさあ!」
その声をあげたのは、たっぷり贅肉のついた給仕だった。
リリーシュアは思わず振り向いて、小さく息を呑む。
「そうか。俺は、相席でも構わないんだが」
大柄な男が頭を巡らし、店の中を眺めている。
いかにも意志の強そうな顔をした筋骨たくましいその人は、威圧的とさえ思えるほど力強く見えた。
襟足を覆うほどの長さの、獅子のたてがみのような黄金の髪。紫がかった神秘的な瞳。年齢は、リリーシュアより三、四歳は上だろうか。
気品を感じさせる顔立ちだが、衣服が薄汚れているところを見ると、そう身分は高くなさそうだ。
リリーシュアは胃の辺りが奇妙に収縮するのを感じた。なぜか頬が熱くなる。
リリーシュアは顔を隠すように、ロイドたちのほうへ向き直った。
「やばいぞ、ロイド。あいつ、すごく強い『魔力持ち』だ」
「うん、そうみたいね。リリーシュア様、デザートの前ですけど、すぐにここを出ましょう」
ロイドとフラウが急にそわそわし始める。
彼らの様子がおかしいのは明らかで、リリーシュアは小声で「え?」と聞き返した。
まだ子どもなのに大胆不敵で、好戦的とさえいえる態度の彼らが、狩人の罠にかかった小動物のように怯えている。
慌てて立ち上がろうとする二人を見て、リリーシュアはぽかんと口を開けた。
そして、急いで自分も立ち上がろうとする。
十分すぎるほど慌てたつもりなのに、リリーシュアの身体の動きは遅い。塔暮らしで足腰が弱っているせいで、咄嗟の反応が鈍くなっているのだ。
そうこうしているうちに、困ったような給仕の声が聞こえる。
「相席でも構わないんだったら……いや、今日は妙に混雑してましてねえ、ああ、あっちのお嬢様とお供の騎士さんに聞いてみましょう」
「お供の騎士?」
背後で上がった硬い声に、目の前のロイドがぎょっとした。フラウが舌打ちする。
リリーシュアの耳に、硬い靴の踵が床を鳴らす音が届いた。
「失礼、お嬢さん」
視界の隅に、大きな革靴の先が入る。
リリーシュアは浮かせかけていた腰を下ろして、壁のようにそびえ立つ男を見上げた。
目の前の男は堂々たる偉丈夫で、やや古びた印象の騎士服を身にまとい、革のブーツを履いている。こちらもかなり履き古しているようで、いかにも旅慣れている風情だ。
こんな人ならば上流階級の人間と付き合いはなさそうなので、素性を暴かれることはないだろうと、ひとまず安堵する。
彼はリリーシュアたちを威圧するように見た。
(下劣な山賊や、残忍な野盗には見えないけれど……因縁をつけられるのなら、私が無垢な子どもたちを守らなければ)
なるべく甘く見られないように、リリーシュアは瞳に力を込めた。
「わたくしたちに、何か? ちょうど食事が終わったところです。相席をご希望ならば、わたくしたちはもう出ますから、ゆっくりなさるといいわ」
「貴女のような幼く小さな淑女が、こんな子どもの供しかつけずに、夜の盛り場に繰り出すとは。少々愚かではありませんか」
小さな淑女! 痩せっぽちで背が低いから、子どもだと思われたのか。
男の台詞に胸を衝かれて、リリーシュアは唇を噛んだ。
しかも、彼はロイドとフラウの正体に気づいているようだ。
「ん? そっちの二人は、精霊か、妖精の類か……? いや、従魔なのだとしたら、なぜこんなところに……。あー、君たちの主人がどこにいるのか、尋ねてもいいかな?」
男は小さな声でぶつぶつとつぶやいた後、首の後ろに手を当てて、複雑な表情になる。
問われたロイドとフラウの目には活気が戻っていた。
いや、それどころか、これは確実に怒りを燃やしている。
「なんて失礼な! リリーシュア様は子どもじゃないし!」
すっぽ抜けたような、上擦った声でロイドが答える。
「そして、俺たちのご主人様ですし」
ロイドの言葉を引き継ぐフラウの声も、少々間が抜けていた。
男をキッと見据えながらもどこか怯えている二人は、まるで猫に睨まれたネズミ。
(少し、おかしいんじゃないかなあ、と思う……。半日も経たずに、もう違う領土に入っているだなんて……)
リリーシュアは十年近くも塔に閉じ込められていたため、学問の知識が乏しい。
塔に入る直前まで学んでいた初級の算術書や歴史書は持っていたから、擦り切れるほど読み返したけれど。
結局できるのは簡単な読み書き計算だけで、速度や距離のことはうっすらとしかわからない。
それでも、明らかにおかしいと思うほどの移動速度だった。
そんなリリーシュアには構わず、ロイドが明るい声をあげる。
「よかったー、この時間ならまだ衣裳店は開いてますね! なんたって、今日はリリーシュア様のお誕生日ですもの。うんと着飾らなくちゃっ!」
「え?」
リリーシュアが間の抜けた返事をすると、ロイドは頬を膨らませる。
「んもう、やっぱり忘れていらした! 今日はリリーシュア様の、十八歳のお誕生日ですよ! アタシたち、だから出てくることができたんだからっ!」
「ちょ、ちょっと何を言っているのか、よくわからないけれど……たしかに、忘れていたわ」
リリーシュアはため息をついた。
胸元で両手を組み合わせて目をキラキラさせる彼女を見て、フラウが咳払いをひとつする。
「無理もありませんよ。せっかくのお誕生日に、あのゲス野郎からあんなことを言われたんじゃあ……気付いていなかったほうが、まだ救いがあるってものです」
リリーシュアは目を丸くした。一応は雇い主である父に対して、口が悪いにもほどがある。
(この子たちも、父と義母から虐げられていたのかもしれない……)
孤児院から引き取られた子どもが、死ぬまでこき使われるということは多々ある。
ロイドとフラウの侯爵夫妻嫌いは歴然としているようだ。だからこそリリーシュアのお供に選ばれたに違いない。
この不憫で可愛い子どもたちと束の間の旅を楽しみたい、という気持ちがいっそう湧いてきた。
「ねえ、メルダース辺境伯領へは、どれくらいかかるのかしら。追手を撒くために、ずいぶん違う道を選んだようだけれど……もう山が見えないわ」
「何言ってるんですか?」
リリーシュアの問いに、フラウが唖然とした声を出す。
「メルダースへなんか、行きませんよ?」
ロイドは困っちゃう、というようなため息をつき、首を左右に振った。
フラウは街道を走っていた馬車をゆっくり路肩に停車させると、きっぱりと言い切る。
「俺たちが今いるのは、アッヘンヴァル領の南隣、レッバタール公爵の領地です。メルダースとは反対ですよ。六十をとっくに過ぎた爺さんのところで、リリーシュア様が幸せになれるはずがありませんから」
その言葉にリリーシュアは目をぱちくりさせた。
「メルダース辺境伯は、四度、離縁したことがあるそうですよ。つまり四度、失敗したってことです。娘の嫁ぎ先には、最悪すぎる人選です」
フラウはそう続け、思いっきり顔をしかめる。
ロイドが「まったく!」と声を荒らげた。
「リリーシュア様は、心が綺麗すぎます。もうアッヘンヴァル家から逃げきったのだから、あんなクズな父親に言われるがまま嫁ぐ必要なんて、まったくないんです。リリーシュア様は、自由の身になったんですよっ!」
ロイドはそうまくしたてながら、後ろの立ち台から幌の中に入ってきた。
そしてリリーシュアの隣に座って、怒ったように上下に身体を揺らす。
彼女の綺麗な銀髪が一緒に動くのを見ながら、リリーシュアは震える声を出した。
「私が、自由に……?」
リリーシュアの人生は、八歳で塔に閉じ込められたところで暗転している。
十七歳で第二王子のマンフレートに見初められ、もしかしたら自由が得られるかもしれないと期待したけれど。
今朝がた父から婚約破棄と同時にマリーベルの妊娠を知らされて、希望はこの手をすり抜けたと思っていたのに。
「自由……に、生きられるかしら。私の身体では、お金を稼ぐことは難しいだろうし……。きっとフラウとロイドに、迷惑ばかりかけてしまう……」
運動と栄養が不足して、すっかり弱っているリリーシュアに、生きていくための金銭を稼ぐことができるだろうか。
こんな身体で人並みに生きるには、フラウとロイドに助けてもらうしかない。
それはずいぶん、虫のいい話に思える。
(お母様にそっくりと言われるこの顔があれば、糊口をしのぐことくらいできるのかしら……。いえ、春をひさぐようなことをしたら、やっぱり亡くなったお母様に顔向けできない……)
リリーシュアがぐるぐると思考を巡らせていると「あー、もう!」とロイドが叫んだ。
「リリーシュア様は、まったく、なんにも、心配しなくていいんですよ! アタシとフラウには色々と特技があるんです。バーンと大らかに構えて、ゆーったりしていてくださいませ!」
「まったくロイドは煩い。そんなにキンキン声で叫んじゃ、リリーシュア様はゆったりできない」
フラウの言葉にロイドが怒り、三人しかいない馬車にわんわんと声が響く。道の端で犬が吠えた。
もう日が落ちかけて肌寒くなっているのに、馬車にだけは熱気が溢れ、まるで陽だまりのようにあたたかく感じられた。
「この先に街があったはずだ」「とりあえずどこそこの店に行こう」とフラウとロイドが今後の予定を立てている。
リリーシュアは微笑を頬にのせ、そんな二人を眺めていた。
しばらくすると、話がまとまったらしい。二人はリリーシュアのほうを向く。
「申し訳ないですが、リリーシュア様。宿を探す前にまずはドレスです! アッヘンヴァルの馬鹿どもを思い出すようなものは、全部捨てましょう!」
明るいロイドの声は言葉とは裏腹に、そんなに申し訳なさそうではなかった。
「すいません、リリーシュア様。お疲れだとは思うのですが、ロイドは言い出したら聞かないので。少しだけ付き合ってやってください」
フラウの眉がやや曇る。リリーシュアは慌てて首を左右に振った。
「ううん、ちっとも疲れていないわ。本当に不思議、ものすごく長い距離を馬車で揺られていたはずなのに……」
リリーシュアの胸に、不思議と可笑しさが湧き上がってきた。
父や義母、義妹は、リリーシュアの体調を斟酌する気もないようだったし、体力のないこの身体では、野盗に襲われずとも行き倒れるに違いないと思っていたはずなのに。
まさか死を覚悟した旅の途中で、こんな楽しさを初めて知るなんて。
だから、粗末な馬車でも疲れを感じなかったのだろうか。
「でも、私と貴方たちだけで、衣裳店へなど入れるものかしら……」
リリーシュアは頬に指先を当てて、小首をかしげた。
立派なドレスを扱う衣裳店では、それ相応の振る舞いが求められる。
まだ母が生きていたころ、買い物に行ったことはあったけれど、母がどうしていたかなんてもうすっかり忘れている。
「あ、アタシたちが子どもだからって、心配なさってるんですか?」
ロイドが腕組みし、むうっと唸った。
「無理もありませんけどね」
とフラウも笑って、腕を組む。するとロイドが得意げに続けた。
「言ったでしょう? アタシたちには不思議な力があるんですって。そもそも『魔力持ち』は少ないし、アタシたちの『幻術』を見破れる輩なんてそうそういませんから! どーんと構えていてください」
「『魔力持ち』? 幻術?」
「ロイド、そこまで。一気に話を進めると、リリーシュア様が混乱する」
フラウが低い声で言うと、ロイドはしぶしぶといった顔で黙った。フラウはリリーシュアを安心させるように微笑む。
「リリーシュア様、あんまり難しく考えないでください。とりあえず、俺とロイドは『不思議なおまじない』が使えるんです。子どもの俺たちが店に入っても、不審に思われたりしません」
「まだ力を得たばかりだから、あんまりすごいことはできないんですけど! ぐんぐん、ぐんぐん、伸びてる最中ですから!」
そう言うロイドを、フラウがまたそっとたしなめる。
リリーシュアはくすくす笑った。
この子たちは、素直な気持ちを包み隠さないでいてくれている。
そのことが、堪らなく嬉しい。
(それにしても『魔力持ち』なんて、おとぎ話の中にしかいないのに……ふふ、やっぱりまだ子どもなのね)
『魔力持ち』というのは、神様から不思議な力を賜った人のことだ。
遥か昔――それこそ神話の時代には、世界には『魔力持ち』が数多く存在したと信じられている。
指先一本で嵐を呼んだり、乾いた大地に雨を降らせたりする、いわゆる物語の中の魔女や魔法使い。
彼らは子どもなら誰もが思い描く、空想上の英雄だろう。
(『魔力持ち』のことはともかく、ロイドのお望み通り、衣裳店の前まで行ってみよう。半病人と子どもでは、きっと入店を断られてしまうだろうけれど)
この可愛い子たちとならば、そんな経験も悪くない、とリリーシュアは思った。
第二章
レッバタール公爵領はアッヘンヴァルよりもよほど栄えていて、街には衣裳店がいくつもある。
リリーシュアはロイドとフラウに連れられて、そのうちのひとつに入ることにした。
すぐに追い出されるだろうと思っていたけれど、店員は意外にもすんなりとリリーシュアたちを店内に通した。
店員にはなぜかロイドの姿ががっしりとした体格の大女に、フラウは背が高くて浅黒い肌の騎士に見えているらしいのだ。
彼らは勢いのままあれやこれやと衣服を選んでいたが、リリーシュアは内心で冷や汗をかく。
母の形見のハンカチに数枚の紙幣と硬貨を包んで隠し持ってはいるけれど、ロイドとフラウはそれでは足りないくらい高価な衣裳ばかり手に取るのだ。
貴族の娘とわかる豪華な衣裳は必要ないと何度言っても、彼らは聞き入れなかった。
しかも驚いたことに、この子たちは路銀としては十分すぎるほどのお金を持っていた。
「ドブネズミみたいな汚いドレスは脱いで、身分にふさわしいものに着替えましょう」
ロイドが強硬に主張し、フラウもそれに同意する。
あれもこれもと買いたがる二人の勢いに負けて一緒に選んだ既製品のドレスは、小柄で細身のリリーシュアにはサイズが合わなかった。
そこでフラウは、お針子に夜なべで仕事をしてもらうために追加料金を払ってしまった。
どうしても、明日の朝には欲しいからと。
ひとまずドレスの代わりにと、フラウは平民の娘が着るような白いシャツと赤い巻きスカートを持ってきて、リリーシュアに着せる。
淑女のおしゃれには必須だからと、桃色の可愛らしいスカーフもセットだ。
ロイドも肌触りのいい羊毛のひざ掛けを選んでくれたので、あわせて購入する。
そして二人は薄汚れたドレスは処分するよう店主に頼むと、リリーシュアを連れて衣裳店を飛び出した。
あれよあれよという間に、リリーシュアは夜の盛り場に連れていかれる。
ひしめき合うように立ち並ぶ建物の中に、料理店の看板を見つけると、ロイドとフラウはためらうことなくドアを開けた。
テーブルにずらりと並んだのは、魚介の煮込み、骨付き肉を焼いたもの、彩り豊かな野菜と果実の酢漬け、スパイスたっぷりのスープ、湯気が立ち上る焼きたてのパン。
こんなにたくさんのご馳走を前にして、おまけにあまりにも懐かしい団欒というものをしている。
熱いスープを一口飲んで、リリーシュアはほうっと息を吐いた。
「美味しい……」
涙が込み上げそうになって、リリーシュアはうつむく。
ゆっくり視線だけ上げると、とても美しい子どもたちが、キラキラした目でこちらを見ていた。
彼らの表情や身動きは、北の塔にいたネズミたちを思い起こさせる。
ロイドは食卓に腕をのせ、指と指を絡ませた。そして前のめりにリリーシュアの顔を覗き込んでくる。
「塔での食事は、運ばれてくる間に冷めちゃってましたもんね! 今日のお昼も、馬車の中でパンを食べたっきりだし。リリーシュア様、お腹いーっぱい食べてくださいね!」
「こら、ロイド。リリーシュア様は胃が小さくなってるんだぞ。無理しないで、食べたいものだけ食べたらいいんですからね?」
「ね?」と、フラウが首をかしげた。ありがとう、とリリーシュアは笑った。
店内には賑やかな笑い声が響いている。
客たちは酔っているのか上機嫌で、仲間内で冗談を言い合っているようだ。
テーブルの向かいの男性客と目が合った。彼はなぜかあんぐりと口を開ける。
すいすいと泳ぐように歩く給仕人も、リリーシュアを横目で見て息を呑んだ。
こちらを見つめてくる人々の視線には、内心恐怖を覚える。
でも、少しやんちゃで明るく活発なロイドと、善良でまじめそうだが腹に一物ありそうなフラウが、本当に『不思議なおまじない』が使えることは、もうわかっている。
この店にいる人々にも、二人のことが立派な大人に見えているようだからだ。
リリーシュアは焼き立てのパンを呑み込んだ後、ゆっくりと瞬きをした。
ロイドとフラウは、やっぱり十歳くらいの子どもに見える。
(まさか本当に魔法が使えるなんて……)
そう思いながら、リリーシュアは小さくうなずいた。そして躊躇いつつも切り出す。
「あの、ぶしつけなことを聞くけれど……貴方たちのお金、賃金で貯めたにしてはちょっと多すぎない?」
「あ、これはネズミ……いやいやいや、屋敷中をくまなく回って手に入れた、合法的なお金です!」
ロイドがそう答えると、フラウもそれに同意する。
「リリーシュア様の正当な取り分ですよ。お気になさらず」
「そ、そうなの……。今さら返しには行けないけれど、残った分は、修道院に寄付しましょうか……」
リリーシュアは笑顔をひきつらせた。
どうやらこの子たち、ちょっと手癖が悪いらしい。
(でも、あの人たちは立場の弱い使用人には、かなりきつく当たっていたようだし。この子たちの心がむしばまれ、すさんでしまっても仕方ないわ。明日になったら、この子たちを修道院に連れていこう。きっとあたたかく保護してくださるわ)
ロイドとフラウは、なぜかリリーシュアを守り尊ぶという誓いを立て、熱い忠誠心を胸に抱いているようだけれど、このまま逃げ続けるのは難しい。
レッバタール公爵領を越えた先は、隣国のシェファールド帝国だ。
いくら金があっても、周囲を惑わせる『不思議なおまじない』が使えても、国境は抜けられないだろう。
塔に食事を運んでくれた侍女がたまに外のことを教えてくれたのだが、リリーシュアの生まれたレティング王国とシェファールド帝国は、ここのところ仲が良くないらしい。
そもそもレティング王国は、大陸北部のオルスダーグ帝国に従属して平和を得ている。
一方のシェファールド帝国は、大陸の南部にある多くの国を統べる大国だ。
つまり、北部のオルスダーグと南部のシェファールドは、世界の覇権を争う二大大国なのだ。
このようにもとより立場を分かつレティング王国とシェファールド帝国だが、近年はより緊張状態にあるようだ。
そのため、双方の国の間の人や物の往来について、非常に慎重な姿勢を示している。
国境には検問所があって、きちんとした手形を持っていないと通してもらえないそうだ。
まさか警備の目をかいくぐって、シェファールド帝国側に行くことはできまい。
(レティング王国内にいる限りは、いつあの人たちに見つかるかわからない……。この子たちの身の安全を、第一に考えなくては)
リリーシュアの皿に次々に料理を取り分け、自分たちもどんどん料理をたいらげている可愛い子たちを、しみじみとした気持ちで眺める。
あははと大きく口を開けて笑うロイドとフラウの顔を見ていると、リリーシュアは星の瞬く夜空に浮かんだような気持ちになった。
とても楽しい、誕生日の夜だった。
「リリーシュア様。宿屋に一晩泊まって、明日の朝サイズを直したドレスを受け取ったら、国境を抜けますからね!」
ロイドが笑いながら、首と両手を上下に振る。
「え、でも、国境を抜けるのは、大変なことだと聞いているし……」
どうしましょう、とリリーシュアは胸の内でつぶやいた。
椅子の上でぴょんぴょん跳ねている可愛い子を、頭から否定して傷つけたくはない。
リリーシュアがそう考えていると、フラウは微笑みながらも少々鋭い口調で言った。
「ご心配なく、方法はちゃんと考えています。レティング王国は、リリーシュア様の置かれている現状を見抜けなかった馬鹿王子のいる国ですよ? おまけに、あっという間にあの女に乗り換えて。こんな国じゃ、リリーシュア様はお幸せになれませんから。リリーシュア様はお優しいから、あの馬鹿王子に嫁いでも、アッヘンヴァル家の連中のことを告げ口なんかしなかっただろうけど。マリーベルのやつ、馬鹿王子にひたすら色仕掛けしてましたからね。それも、家族ぐるみで策略を立てて。それがうまくいかなきゃ、リリーシュア様は毒でも盛られたに違いありません」
ふふふ、とフラウが静かに笑う。人でも殺しそうな気配があった。
「もう、フラウったら。アッヘンヴァルの汚い連中のことなんか思い出させないで! おかげで、不器量で愚かな連中の顔を思い出しちゃったじゃない!」
ロイドは胸に手を当て、はーはーと息を吐き出す真似をした後、表情をコロリと変える。
「気分転換に、楽しいことを思い出そうっと。そうそう、衣裳店の人たち! リリーシュア様のお美しさに、度肝を抜かれてましたねえ!」
ロイドが大きく鼻息を漏らすと、フラウは腕を組み、真面目くさった顔つきで言った。
「そりゃあそうだ。リリーシュア様ほどお美しい方は、世界中を探したって見つかりっこない」
リリーシュアはばつの悪い思いをしながら、小さく肩をすくめる。
衣裳店の大鏡には、たしかに母に似た目鼻立ちのはっきりした娘が映っていたけれど。
痩せっぽちで、背が低くて。お母様とは似ても似つかないなあと、ぼんやりと思ったものだ。
母が生きていたころは、リリーシュアの艶やかな蜂蜜色の髪はいつも綺麗に整えられ、さらさらと背中を流れていた。
だけど鏡の中のリリーシュアは、髪の毛はごわごわと硬そうで、翡翠色の大きな瞳ばかりが目立つ、垢抜けない娘にしか見えなかった。
(北の塔では、小さな手鏡しか持っていなかったものね。マンフレート様とお会いした大広間も、なぜか鏡が外してあったし……)
元気だったころの母の魅惑的な肢体と華やかな顔立ちをよく覚えているだけに、自分のみすぼらしさにちょっとがっかりした。
(だからマンフレート様がマリーベルに魅了されてしまったのも、仕方のないことなんだわ……)
マンフレートが王都からやってきた回数は、そう多くはない。
その時ばかりは痩せた手足を隠せるドレスを着せられ、侍女が無理やり編み込んだ髪の上から、総レースのヴェールまでかぶせられた。
リリーシュアは雨に降られたような薄ら寒い気分だったが、マンフレートは心も身体も揺さぶられたようで。
きっと私がお母様にそっくりだから――なんて思っていたけれど、あの人は単に珍しいもの好きの、惚れっぽい人だっただけに違いない。
そんなことを頭のどこかで考えていた時、なんとも騒々しい、大きな声が店内に響いた。
「すみませんね、旦那! あいにく、今はテーブルが埋まってるんでさあ!」
その声をあげたのは、たっぷり贅肉のついた給仕だった。
リリーシュアは思わず振り向いて、小さく息を呑む。
「そうか。俺は、相席でも構わないんだが」
大柄な男が頭を巡らし、店の中を眺めている。
いかにも意志の強そうな顔をした筋骨たくましいその人は、威圧的とさえ思えるほど力強く見えた。
襟足を覆うほどの長さの、獅子のたてがみのような黄金の髪。紫がかった神秘的な瞳。年齢は、リリーシュアより三、四歳は上だろうか。
気品を感じさせる顔立ちだが、衣服が薄汚れているところを見ると、そう身分は高くなさそうだ。
リリーシュアは胃の辺りが奇妙に収縮するのを感じた。なぜか頬が熱くなる。
リリーシュアは顔を隠すように、ロイドたちのほうへ向き直った。
「やばいぞ、ロイド。あいつ、すごく強い『魔力持ち』だ」
「うん、そうみたいね。リリーシュア様、デザートの前ですけど、すぐにここを出ましょう」
ロイドとフラウが急にそわそわし始める。
彼らの様子がおかしいのは明らかで、リリーシュアは小声で「え?」と聞き返した。
まだ子どもなのに大胆不敵で、好戦的とさえいえる態度の彼らが、狩人の罠にかかった小動物のように怯えている。
慌てて立ち上がろうとする二人を見て、リリーシュアはぽかんと口を開けた。
そして、急いで自分も立ち上がろうとする。
十分すぎるほど慌てたつもりなのに、リリーシュアの身体の動きは遅い。塔暮らしで足腰が弱っているせいで、咄嗟の反応が鈍くなっているのだ。
そうこうしているうちに、困ったような給仕の声が聞こえる。
「相席でも構わないんだったら……いや、今日は妙に混雑してましてねえ、ああ、あっちのお嬢様とお供の騎士さんに聞いてみましょう」
「お供の騎士?」
背後で上がった硬い声に、目の前のロイドがぎょっとした。フラウが舌打ちする。
リリーシュアの耳に、硬い靴の踵が床を鳴らす音が届いた。
「失礼、お嬢さん」
視界の隅に、大きな革靴の先が入る。
リリーシュアは浮かせかけていた腰を下ろして、壁のようにそびえ立つ男を見上げた。
目の前の男は堂々たる偉丈夫で、やや古びた印象の騎士服を身にまとい、革のブーツを履いている。こちらもかなり履き古しているようで、いかにも旅慣れている風情だ。
こんな人ならば上流階級の人間と付き合いはなさそうなので、素性を暴かれることはないだろうと、ひとまず安堵する。
彼はリリーシュアたちを威圧するように見た。
(下劣な山賊や、残忍な野盗には見えないけれど……因縁をつけられるのなら、私が無垢な子どもたちを守らなければ)
なるべく甘く見られないように、リリーシュアは瞳に力を込めた。
「わたくしたちに、何か? ちょうど食事が終わったところです。相席をご希望ならば、わたくしたちはもう出ますから、ゆっくりなさるといいわ」
「貴女のような幼く小さな淑女が、こんな子どもの供しかつけずに、夜の盛り場に繰り出すとは。少々愚かではありませんか」
小さな淑女! 痩せっぽちで背が低いから、子どもだと思われたのか。
男の台詞に胸を衝かれて、リリーシュアは唇を噛んだ。
しかも、彼はロイドとフラウの正体に気づいているようだ。
「ん? そっちの二人は、精霊か、妖精の類か……? いや、従魔なのだとしたら、なぜこんなところに……。あー、君たちの主人がどこにいるのか、尋ねてもいいかな?」
男は小さな声でぶつぶつとつぶやいた後、首の後ろに手を当てて、複雑な表情になる。
問われたロイドとフラウの目には活気が戻っていた。
いや、それどころか、これは確実に怒りを燃やしている。
「なんて失礼な! リリーシュア様は子どもじゃないし!」
すっぽ抜けたような、上擦った声でロイドが答える。
「そして、俺たちのご主人様ですし」
ロイドの言葉を引き継ぐフラウの声も、少々間が抜けていた。
男をキッと見据えながらもどこか怯えている二人は、まるで猫に睨まれたネズミ。
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