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しおりを挟む第一章
「リリーシュア、第二王子マンフレート様は、お前との婚約破棄をお望みだ」
悲しいほどに、思いやりや慈しみとは無縁な声がした。
十七歳のリリーシュア・アッヘンヴァルは、万感の想いで目の前の男――クリストハルト・アッヘンヴァルを見つめる。
この男の背中に向かって、父親として自分を愛してほしいと何度も願った。
でも、伝わらなかった。
(久しぶりに名前を呼ばれた……)
リリーシュアは思わず唇を噛み締めた。まだ母が生きていたころ、愛情を込めて「リリーシュア」と呼んでくれた記憶がふいによみがえる。
よく似た響きだ、と思った。しかしまったく違っていた。
たった一回だった。
目線の先で口元を歪ませている生物学上の父親から母の死後に名前を呼ばれたのは、今を除いてたったの一回だけ。
あれは、十一年前の母の葬儀の日だった。
あの日に男が発した「リリーシュア」という響きを思い返すと、きりきりとこめかみが痛くなる。
今もよく覚えている。
昔は父から名を呼ばれると心が鎮まったはずなのに、あの時もたらされたのは不安だけだった。
もしかしたら、リリーシュアの未来に待ち受ける、あまりにひどい仕打ちを暗示していたのかもしれない。
そんなことを考えているリリーシュアなど意にも介さずに、目の前の男は言い放つ。
「マンフレート様は、マリーベルと結ばれることをお望みだ。一度は王族と婚約したお前を、他家の子息へ嫁がせることはできん。だが、相手が再婚ならば問題なかろう。北方の辺境伯、アルトゥール・メルダースのもとへ嫁ぐがよい」
リリーシュアは誇り高く顎を上げ、自分よりも遥かに背の高い男を見据えた。
男はさっと顔を背けると、大きく息を吐いて言葉を続ける。
「大丈夫だ、何も心配することはない。メルダース伯は御年六十歳を超えているが、お優しい人柄だと聞く。後妻として、それなりの暮らしは与えてもらえるだろう」
この男は大丈夫だという言葉を、いつだって大丈夫ではない時に用いる。
母が病の床についた時も。
母が死んだ時も。
後妻がやってきた時も。
義妹のマリーベルが、リリーシュアの何もかもを欲しがった時も。
北の塔へと追いやられた時も。
この男はリリーシュアに向かって「大丈夫だ」と言った。大丈夫なわけがないのに。
(どうせ、北の塔で一生幽閉されるはずだった身……。辺境の地で年老いた貴族の妻になったほうが、ましかもしれない)
いい機会だ、と思った。こんなことでもなければ、リリーシュアは遠くへ行けまい。
「わかりました。北の塔からは、いつ出していただけますか?」
リリーシュアは毅然と言った。
汚い男が「うむ」とくぐもった声を漏らす。逡巡しているのが見てとれた。
彼はリリーシュアから目を逸らしたまま、口元に手を当てる。
「実は、マリーベルは妊娠している。もちろん、マンフレート様のお子だ。一刻も早く婚礼の儀式を行わないとならない」
リリーシュアは大きく息を吸った。胃に不快感が込み上げてきて、吐き気すら覚える。
(妊娠……なんてマリーベルらしい。そしてマンフレート様も、一国の王子でありながら、そのようなことをするなんて……)
視界の隅に、口の端を持ち上げて笑っている義妹の姿が映る。
リリーシュアを見ながら身をよじり、嘲笑がこらえきれないといった様子だ。
リリーシュアは天井を仰ぐ。
草がほとんど生えていない荒れ地に立っているような気分だった。
父に愛されたかった。
義妹と仲良くなりたかった。
しかし、彼らには良心の呵責も罪の意識もなく、リリーシュアの無垢な願いを無惨に打ち砕いた。
(こんな人と、あの子が、私の家族……)
彼らがリリーシュアに必要でないことはたしかだ。
リリーシュアはひっそりと笑った。
かすかに、マリーベルの舌打ちの音が聞こえてくる。目の前の汚い男は、不安げにそちらに視線をやった。
(マリーベルは、私が微笑むことが気に食わないのね……。私がぼろぼろになって、泣き喚く姿が見たかったに違いないわ)
男は苦虫を噛み潰したように言う。
「マリーベルは大切な時期なのでな、お前がこの屋敷にいると落ち着かないだろう。だからお前には、すぐにメルダース伯のところへ行ってもらわねばならん。馬車を用意してあるから、最低限の持ち物だけ準備しなさい。その顔は、何か大きな布で隠していくといい。この先の山には、たまに野盗が出るらしいのでな。身元が知られたら、狙われるかもしれない」
野盗! こうして慌ただしく送り出されるなら、警備の数など期待できまい。
ふふ、とリリーシュアはまた笑った。父に愛されていないことが痛いほど伝わってくる。
父はもう、リリーシュアを完全に切り捨てているのだろう。
実の娘が齢六十を超えた辺境伯のもとへ無事に辿り着こうが、途中で死のうが、もう、どうでもいいのだ。
リリーシュアの心を、泣き喚いたところでどうにもならないという気持ちが支配する。
それは、もはや諦めと同義だった。
リリーシュアは、目の前の汚い男に最後の願い事をする。
「パンをひとつ、いただいてもよろしいでしょうか」
父から視線を逸らすと、マリーベルと目が合った。その目はぎらぎらと光っている。
悪知恵に長けたずる賢い獣のように、彼女の目はよく光る。リリーシュアから奪った後だから、よけいにそう見えるのだろうか。
「あ、ああ。そんなものならば、いくらでも持っていくといい」
父がかすかに笑みを浮かべる。
それがどんな感情から生まれたものなのか、判別がつきかねた。
「ありがとうございます。では、わたくしはこれで」
短く息をついてから、リリーシュアは淑女の礼をとった。
生前の母から、厳しくあたたかく、淑女としてのマナーは仕込んでもらった。だからリリーシュアの所作は見苦しくはないはずだ。
マリーベルの横を通り過ぎる時、彼女の口角がゆっくり上がるのが見えた。
リリーシュアがその美貌をマンフレートに称賛された時には、への字に曲がっていた口だ。
「ふふ、お義姉様。北の大地は、きっと悪くないと思いますわ。どうか、お幸せにね」
マリーベルが水色の目を細めて笑う。
きつい印象の面立ちには毒々しい化粧が施され、ほんのりとピンク色を帯びた金の巻き毛を、大粒の宝石があしらわれたバレッタで飾っている。
何層もの布地を重ねたドレスは鮮やかすぎる色彩で、見る者の目を突き刺すようだ。
「ありがとう。貴女もどうかお幸せに。お腹の赤ちゃんが、無事に生まれてくることを祈ります」
「ふふふ、赤ちゃんの洗礼式にはお呼びするわ。お義姉様の命があれば、だけれども」
リリーシュアはそれには答えず、静かな足取りで大広間を出た。
そして厨房に立ち寄り、硬くなったバゲットを一本分けてもらう。
北の塔の長い階段を上り、部屋に戻ると、リリーシュアはベッドに倒れ込んだ。
目の前が暗くなって、反射的に目を閉じる。
表情のない父の顔、嫌悪感をむき出しにする義母ドミニクの顔、嘲るような笑みを浮かべるマリーベルの顔。
それらがこの塔での惨めな日々の思い出と一緒に、頭の中でくるくる回り始めた。
そこにマンフレートの顔も交ざって、どうしようもない不快感が込み上げてくる。
暗い気持ちで、これまでのことを思い返さざるを得なかった。
リリーシュアは、アッヘンヴァル侯爵家の第一子として生まれた。
アッヘンヴァル侯爵である父には壊滅的に領地経営の才能がなく、リリーシュアの生母アンネリーエとの結婚前から、台所事情はかなり厳しかったと聞く。
子爵令嬢だった母の持参金を食いつぶし、母が病に倒れた時は、医療費にさえ困窮するありさま。誰よりも美しかった母はあっという間に痩せ枯れて、儚くなった。それが、六歳の時。
それからすぐに義母のドミニクがやってきた。
ひどい状態の侯爵家の後妻に入ってくれたドミニクは、父にとっては救世主だったに違いない。
彼女は裕福な商人の娘で、莫大な持参金と一緒にマリーベルを連れてきた。
父が彼女たちを屋敷に迎え入れた日にはもう、リリーシュアは虐げられていた。
リリーシュアは母譲りの美貌ゆえにドミニクに疎まれ続け、義妹となったマリーベルに煮え立った怒りをぶつけられた。
マリーベルはいつも下唇を突き出してリリーシュアを睨みつけ、鼻歌を歌うように持ち物を奪っていった。
とはいえ贅沢に育てられたマリーベルにとって、リリーシュアの持ち物などちりのようなもの。投げ捨てるために、踏みにじるために、燃やすために奪っている、というふうだった。
「お前はこの屋敷にふさわしくない」と言われ、寒い寒い北の塔に幽閉されたのが、八歳の終わりごろ。
それからは、まさに囚人のような暮らしを強いられた。
これまで彼らがリリーシュアを生かしてきたのは、いずれ政略の手駒にしようという思惑もあったのかもしれないが、単に外聞を憚っただけだろう。
平民から貴族の妻となったドミニクには、前妻の娘を丁重に扱っているという外面が必要だったから。
しかし内実は、食事すらも満足に与えてもらえなかった。
古くからいる使用人が父と義母の目を盗んで、できるだけ栄養のあるものを差し入れてくれたけれど。
希望の光が一筋も差し込まないそんな暮らしは、リリーシュアを心身ともに疲弊させた。
それでも、もうすぐ幸せになれるはずだった。
広い大地を駆け回りたかった。
夜空の星を掴むように、高く手を伸ばして大きな声で笑いたかった。
飽きるほど勉強がしたかった。
風呂の湯を無駄遣いして、いい匂いのする化粧品をふんだんに使いたかった。
美味しいものをお腹いっぱい食べて、あたたかい部屋のふかふかのベッドで眠りたかった。
(マンフレート様と結婚すれば、手に入るはずだったものたち……馬鹿ね、リリーシュア。愚かな夢を見て、期待して……義母と義妹に邪魔されるのは、目に見えていたじゃない)
そもそもリリーシュアとの婚約を強く望み、周囲の反対を押し切ったのは、マンフレートのほうだった。
リリーシュアは、かつて国一番の美貌と謳われた母アンネリーエに生き写しだ。
長い間塔に閉じ込められて、一度も社交の場に出たこともなかったのに、マンフレートはその噂をどこかで耳にしたらしい。
そして挨拶もそこそこに「結婚しよう」と切り出してきたのだ。
長い前髪をさらりと掻き上げ「絶対に幸せにするよ」と、とっておきの表情をしてみせた彼が、脳裏を過る。
彼はリリーシュアを愛していると言ったのと同じ顔、同じ口調で、マリーベルへの愛も囁いたに違いない。
彼がリリーシュアを妃に迎えたがったのは、考えなしの単細胞だったからなのだろうか。
(ならば、マリーベルとマンフレート様の天秤は、釣り合っているのかもしれませんね……)
リリーシュアの頭には、次から次へと嫌な記憶がよみがえる。
マンフレートがアッヘンヴァル家にやってくる日だけは、リリーシュアは塔から出ることができた。
その時ばかりは、さも大切な家族だというように扱われた。
とってつけたように娘を気遣う父。慈愛を込めて見つめてくる義母。懐いて甘えてまとわりついてくる義妹。
それでも、決して名前は呼ばれなかった。
我が娘、自慢の娘、お義姉様――顔いっぱいに笑みを浮かべながらも、王子様に選ばれたリリーシュアをどうやって蹴落とそうか、彼らはずっと考えていたのだろう。
(いつか、マンフレート様もマリーベルに捨てられるのかしら……。いえ、それは考えすぎね。あの子は王子の妃という地位を、決して手放しはしないでしょう)
アッヘンヴァル侯爵家から王子の妃が出るのは、この上ない名誉。ドミニクはそれを望むだろうし、マリーベルも贅沢な生活を謳歌したいはずだ。
(……もしマリーベルが妊娠しなければ、私、きっと毒殺されていたわね。王家との繋がりを作る機会を逃すはずがないし、義母はどんな手を使ってでも、マリーベルとマンフレート様を結婚させるはず)
リリーシュアは、大きく息を吐く。
義母や義妹はともかく、せめて父には優しさを向けてほしかった。
……いや、義母ドミニクの実家の財力だけが頼みの綱の父に、肉親としての愛を望むだなんて。
愚かだったのはリリーシュアだ。
アッヘンヴァル侯爵は、もはやドミニクと、その実家であるフライホルツ商会の操り人形。
そして彼女は、愛する娘マリーベルの望みはなんでも叶える。
義妹の望みは義母の望み、そして、父の望みであるのだ。
たとえそれが、実の娘の命を危うくすることであっても。
「なんて可哀想、不憫な子」と白々しく言葉を並べて、リリーシュアの亡骸の前で泣き喚くドミニクとマリーベルの姿が思い浮かぶ。
気が遠くなりかけた時「きゅきゅ」「きゅう」と耳元で小さな鳴き声がした。
ぱっと目を開けると、銀色のネズミと青のネズミがリリーシュアの顔を覗き込んでいる。
「……ごめんなさい、急にここを出ることになったの。だから、貴方たちにパンをあげられるのも、今日でおしまい」
この二匹は北の塔で寝起きするようになって、すぐに現れた唯一のお友達。
彼らに向かって、リリーシュアは淡く微笑んだ。
この子たちは、リリーシュアの心の支えだった。
銀のネズミにロイド、青いネズミにフラウと名づけ、ずっと可愛がってきた。
ロイドとフラウは普通のネズミよりも毛がもこもこしていて、とても愛らしい。
彼らを見ていると、全身にまとわりついた不快感が消え、代わりにほっこりした気持ちが湧いてくる。
リリーシュアはゆっくりと起き上がり、彼らのためにバゲットをちぎった。
ロイドとフラウはパンの欠片とリリーシュアの顔、それから窓のほうへと、目玉を振り子みたいに動かしている。
「貴方たちは本当に不思議な子で、いつも私の側にいてくれたけれど。この先の山には、野盗が出るかもしれないんですって。見知らぬ場所に放り出されても困るだろうし、連れてはいけないわ」
きゅう、と首を横に振るロイド。きゅふ、と首をかしげるフラウ。
そんなはずはないのに、この子たちは言葉を理解しているように思えてならない。
「私ね、こんな狭いところに閉じ込められていたでしょう? 体力づくりのためと思って階段の上り下りはしていたけど、やっぱり駄目だったみたいなの。あっちのお屋敷から、この北の塔に戻ってくるだけで、もう息も絶え絶え。屋敷の外へ出るのは何年ぶりかしら……」
まだ一歳くらいのころは、覚えたてのヨチヨチ歩きで、屋敷の庭をあっちこっちへ動く元気な子どもだった――と亡き母は言っていた。
だが今のリリーシュアの足では、ちょっと走っただけで転んでしまうに違いない。
つまり、たとえ逃げるチャンスがあっても、実際には不可能だということ。
「……私、もう何も期待しないわ。馬車に乗って、野盗に襲われるまで、ただ外の景色を楽しむの」
一度大きくうなずいて、リリーシュアは立ち上がった。
持っていくものは、母の形見のハンカチだけでいい。
不思議な文様が刺繍された美しい布は、マリーベルがリリーシュアの部屋をどんなに漁っても、一度も見つけられずに手元に残ってくれた。
粗末な机の引き出しからハンカチを取り出し、リリーシュアは振り向いた。
これで最後と思いながら、ベッドの上でパンをかじっている小さなネズミたちの頭を撫でる。
「さようならロイド、さようならフラウ。たくましく元気に暮らしてね」
本当は悲しいけれど笑顔で別れを告げる。
そしてリリーシュアはハンカチを握り締め、塔の階段をゆっくり下りた。
屋敷の裏庭には、かつて母が丹精込めて花を育てていた花壇が、そのまま残っていた。
白やピンク、黄色や赤といった花々が咲き乱れている。
一体、誰が手入れをしてくれていたのだろう。いくら多年草とはいっても、もうとっくに枯れ果てていると思ったのに。
リリーシュアは花壇の前のベンチに腰を下ろした。ベンチはお日様の熱であたためられていて、ぽかぽかする。
それから、母の愛した花々をしばし眺めた。
すると向こうから青い髪に金色の目をした少年が走ってきて、快活な声をあげる。
「リリーシュア様、馬車の用意が整いましたよ。古い上にあちこちガタがきてる馬車だから、少しでも快適に過ごせるように、色々と工夫しておきました」
年のころは十くらいだろうか。男の子らしい爽やかな短髪で、少しそばかすの浮いた顔は非常に整っている。
リリーシュアには、見たことのない顔だった。
「ありがとう。貴方、お名前は?」
リリーシュアが尋ねると、少年が口元に微笑を浮かべる。
「フラウと申します。女の子みたいな名前ですが、れっきとした男ですよ」
まあ、とリリーシュアは目を丸くした。
さっき北の塔で、最後のパンをあげてお別れをした、青いネズミと同じ名前ではないか。
(だから、不思議と懐かしさを感じるのかしら……)
リリーシュアは、ついくすくすと笑ってしまった。
気が付けば、死出の旅路だという恐怖が、胸の内から跡形もなく消えている。
「侯爵様に、旅のお供を命じられました。俺はリリーシュア様の御者兼護衛です!」
フラウが意気込んだように胸を叩く。
「そ、そうなの……?」
リリーシュアは目を瞬いて、それから小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、まだ小さい貴方に危険なお仕事をさせてしまって。この先の山には野盗が出るんでしょう? 危なくなったら私を置いて、すぐに逃げてちょうだいね」
「そんな、リリーシュア様――」
「何を言ってるんですか! いくらリリーシュア様でも、そんなこと言ったら怒りますよ!」
唾を飛ばすほどの勢いでまくしたてながら、フラウの後ろから女の子が駆け寄ってくる。
腰まで届く銀の髪に、星のように輝く金の瞳。やはり十歳くらいに見える、すこぶる綺麗な顔立ちの少女だ。
「アタシはリリーシュア様の侍女兼護衛です! アタシがいれば百人力、どんな悪党もちょちょいのちょいです。だから安心してください!」
胸を張る少女を見て、思わず微笑みが零れる。
「まあ、頼もしいのね。お名前を教えてくださる?」
「ロイドと申します。男の子みたいな名前ですが、れっきとした女ですよ」
「ええ、本当に?」
リリーシュアの口から、ちょっと調子の外れた声が出た。
この少女の名前は、可愛がっていた銀色のネズミと同じ。
こんな偶然があるだろうか。
リリーシュアが驚いた顔をしていると、愛らしい子どもたちは揃っていたずらっぽい顔つきになった。
(きっと、神様が情けをかけてくださったんだわ。私が怖くないようにって)
こんなに親しみの持てる、思いやり深い子たちとの出会いがあるなんて、とリリーシュアは嬉しくなる。
きっともうすぐ終わる人生だけれど、やっぱり捨てたものではない。
いくらマリーベルが嫁ぐ準備で屋敷中が大忙しだからって、何もこんな小さな子どもたちをお供に選ばなくても――という憤りは、やはり感じずにはいられないけれど。
リリーシュアは鼓動がいつもより弾むのを感じながら、小さな使用人のロイドとフラウに微笑んでみせた。
「わあっ!」
見慣れぬ景色に興奮が止まらなくて、リリーシュアは思わず幌馬車から顔を出した。
一応は侯爵令嬢の嫁入りであるというのに、父がリリーシュアのために用意した馬車は申し訳程度に幌があるきりで、小さい上にみすぼらしい。
それでも、リリーシュアの胸は高鳴り続けている。
青空がまぶしい。北の塔の小さな窓からは、こんなに大きく見えなかった。
木々の緑の、なんて美しいこと。空気が新鮮で、思いきり吸い込まずにはいられない。
たくさんの家のひしめき合っている場所まで来ると、人々の生活の匂いすら感じる気がする。
心地よい風が額に触れて、そのあたたかさが心も身体もほぐしていくようだ。
しばらくすると田園風景が広がり、川を渡る。遥か彼方に、稜線が見えた。
メルダース辺境伯の治める地は、山を越えた先のはずだ。リリーシュアは不思議に思って尋ねる。
「ねえ、どんどん山から離れている気がするけれど」
「ご心配なく。俺たちにお任せください」
「そうそう、リリーシュア様は大船に乗った気持ちでいてくだされば、それでいいんです!」
御者台のフラウの言葉に、後ろに張りついているロイドもうなずいた。
この二人とのやり取りは、時折笑い声が交ざって、まるで以前からの知り合いのような、打ち解けたものになる。
リリーシュアは、久しぶりに穏やかな気持ちだった。
(ほんとうに、空が、広い)
真っ白な入道雲がいくつもいくつも、もくもくと湧いているのを、飽きもせずに眺める。
やがて馬車はまた市街地に入った。
広い通りの両脇には看板が溢れ、衣裳店、茶の店、帽子屋、食肉店と、驚くほど色が氾濫している。
馬車が速度を落としたので、リリーシュアは雑多な店先を、そこから伝わってくる人々の暮らしを、ゆっくりと見ることができた。
「リリーシュア様、ここはまだアッヘンヴァル侯爵領です。今日中に領地を抜けて、もっともっと華やかな場所へ行きますからね! そうしたら、そのドブネズミみたいなドレスを買い替えましょう!」
「私のドレスを?」
この上なく素晴らしい提案だ、という顔つきのロイドに、リリーシュアは小首をかしげてみせた。
「無事に山を越えられなければ死ねばいい」くらいにしか思っていなかっただろう義母と、彼女に完全に尻に敷かれている父が、そんなお金を使用人に持たせたとは考えにくい。
マリーベルに至っては、リリーシュアが馬車で出発した後、野盗を装った追手の一つでも差し向けそうだと思っていたくらいだ。
ゆっくり買い物をするような真似が、本当にできるのだろうか。
「ご心配なく。追手はもう撒きました。ここから先は、ひたすら楽しい旅路ですよ。俺たちが責任を持って、リリーシュア様が本当に幸せになれる場所までお連れします」
リリーシュアの思考を読んだかのように、御者台のフラウが大きな声で言った。そして振り向き、にやりと笑う。
そんなフラウを見て、後ろの立ち台でロイドが喚いた。
「危ないから前向いて! 追手を追い払ったのは、このアタシなんだからねっ!」
リリーシュアはますますわけがわからなくなり、また首をかしげる。
ロイドとは、ずっとお喋りを楽しんでいたはずなのに、いつの間に追手を追い払ったのだろう。
そんなことを考えているうちに馬車の揺れでうとうとして、リリーシュアはいつの間にか眠ってしまった。
「リリーシュア様、アッヘンヴァル侯爵領を出ましたよ」
フラウの言葉でハッと目を覚ます。辺りは日が暮れていた。
リリーシュアを乗せた馬車はロイドの言葉通り、日付が変わる前にアッヘンヴァル領を抜けたようだ。
さっきとはまったく違う景色を眺めながら、リリーシュアはひそかに首をひねる。
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