八奈結び商店街を歩いてみれば

世津路 章

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春やん

第4話 父親と崇拝と失格・下

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 それはいつも見る夢だ。
昔から愛してやまない、美しい悪夢。
 茜色に染まった書斎、その大きな装飾窓の前で、彼は跪いている。
正面には逆光に塗り潰された父が、バベルのごとく聳え立つ。手には、馬を躾ける牛革の鞭。
は、と彼が息をこぼす一瞬だけ慈悲のように待ってから、父は大きく腕を振り上げた。
 雷のように、鞭が落ちる。
 頬に直撃を受けて、彼はたまらず蹲った。嗚咽に震える背の上を、ひとつ、またひとつと鞭がしなる。
 いたかった。くるしかった。なきたかった。
それにも増して――幸せだった。
 懲罰のこの瞬間だけは、自分だけを見てくれる。
 誰からも愛されてやまない父が、この時だけは、僕だけを、
「おまえはいつまで経っても愚図が治らへんな、世一郎。ほんまに一東垣の血を引いとるんか?」
 そうです、父さん。僕はあなたの子です、
だから、
「ほんなら早よ証明してみせい。一東垣を継ぐに足ると、俺に信じさせてみい」
 わかっています、父さん、それこそ僕の心から望むところです、
だから、僕を、
「難局を乗り越えてこそ、一東垣――この血を絶やしてはならん。肝に銘じることや、世一郎」
 もちろんですとも、父さん、
誰より、神より、偉大なあなたの血がこの地上から絶えるなど、赦されざる所業です、
その守り人に選ばれたからには、身命を賭して成し遂げる所存です、
――だから、どうかお願いだから、
 一度だけでいいから――僕を、

「もう間もなく到着ですよ」

 優しく肩を叩かれて、世一郎はまどろみから醒めた。ここ数週間張り詰めていた神経が緩み、移動する車の振動に揺られてつい眠ってしまっていたようだ。
 ほどなく、車が停まった。私設秘書の芦田が到着を告げてから外に出て、後部座席の扉を開けた。
 ぼんやりとした頭のまま世一郎は外に出たが、息を吸い込んで顔をしかめる。埃っぽく、湿った空気――なんとも陰気な場所だった。話では、会わせたい人物とやらは商店街に店を構えているとのことだったが……降りたところは、裏路地に面した人通りのない歩道だった。
「顔を見られるのはよろしくないでしょう? ほら、あなたは有名人だから」
 世一郎のあとに下りてきた彼が、そう言った。
 彼は――千十世と名乗ったその青年は、秘密を共有する子どものように目くばせしてくる。それを見た途端、世一郎は今しがた抱いた胡乱な気持ちが霧散するのを感じた。自然と、頬までたわんでしまう。だが、指示を待つ秘書の姿を視界の端に捉えて、咳払いで取り繕った。
「用事が済んだら連絡を入れる――それまで、離れた場所で待機していろ」
「承知致しました」
 芦田はそそくさと車内に戻り、速やかに発進した。角を曲がって車が見えなくなると、千十世がおもむろに歩き出した。世一郎も、黙ってそれに続く。
 裏路地の中を進んでいくと、建物の向こうに人々のささやきを感じた。どうやら、この道は商店街に並ぶ店々の裏手にあるようだ。表通りでは、客や店の者たちが安穏と日常を営んでいるらしい。
対して、二人が往くこの通りは、日も射さずひっそりとして、靴底にじめついた嫌な感覚が伝ってきた。歩く音が変に響いて、心臓に悪い。今さらながら、ろくな変装もしなかったことを世一郎は悔いた。
妻と息子を亡くしたばかりの衆議院議員が、片田舎の商店街の裏路地で、人目を忍んで何をしているのか――誰かに見つかれば、即座に下世話な好奇心で首を突っ込まれるに違いない。
「大丈夫ですよ」先を行く千十世が、振り返りもせず言った。「この時間に、この場所に来る人はいません」
 ああ、そうか……と世一郎は曖昧な返事をしたが、心臓が激しく高鳴っていた。青年の言葉はまるで心を読んだかのようで――それはつい数時間前に初めて顔を合わせてから、ずっとそうだった。
 普通の人間なら――例えば先ほどまで同席していた秘書の芦田のような――気味が悪いと思うだろう。しかし残念ながら今の世一郎は、違和に対する感受性が著しく低下してた。
そしてそれは、家族を一度に喪ったがために情動の統御を失しているからでも、なかった。
(父さん……あなたが遣わしてくれたのですね。この難局を乗り越えるために――あなたの再臨である彼を!)
 目の前を歩く青年の――二回り以上も歳の離れた子どもの背を、世一郎は崇敬のまなざしでじっと眺めている。その双眸に湛えた熱は、彼が自らの父――百十世に向けていたものと何ら変わりなく、つまり、彼にとっての神が今ひとたび顕れたことの歓喜に沸き立つものだった。
 一東垣世一郎は父性狂信者ファーザー・コンプレックスである。
 一代で巨万の富と確固たる地位を築き上げた父・百十世は、世間だけでなく、実の息子の世一郎にとっても偉大な英雄だった。世界記録を打ち立てた野球選手も、老若男女から熱烈な支持を集めた歌手も、同い年の少年少女が憧れるような偶像のすべてが軽く霞むほど、世一郎にとって百十世の存在は圧倒的だった。一東垣の後継者として物心ついた頃から父の実務の場に帯同していた彼にとって、それは避けられぬ宿命であり――当の世一郎自体が、今日に至るまで疑念を差しはさみもしなかった。
 百十世が一足運べば、十の店が建った。百十世が一手加えれば、百の物流が動いた。百十世が一言語れば、千の人間が従った。その光景は幼い世一郎の目に、世界創世として映った。
 そんな父の血を受け継いだことが彼の最大の誇りであり――同時に、劣等感の源でもあった。一を聞いて百を知る、と世に湛えられたように、百十世の驚異的な成功はその怪物じみた天才性に基づく。だが、ほんの僅かな情報で的確に最善手を打つ父の能力の十分の一も、世一郎は持ち合わせていなかった。
幸い、それは他の兄妹にも言えたことで、長男である世一郎の後継者としてのポジションは揺らがなかったが――他ならぬ本人が、己の無力を嘆いていた。
 あんなに素晴らしい父の子に、相応しい自分にならなければ――それが、今日に至るまで世一郎を突き動かす唯一のモチベーションだ。
 そのためには、愛してもいない妻と結婚し、息子も設けた。妻の実家である有名食品メーカーと協業することで、実は破綻しかかっていた一東垣の食品輸入商社の経営を持ち直させたのだ。他にも百十世の遺した負の遺産はいくつもあったが、世一郎にはむしろ喜びが勝った。父が、自らを信頼して解決を任せた問題だと認識していたからだ。
 また、息子を溺愛してそれ以上子を作りたがらない妻に見切りをつけ、家の外の随所に子種をバラまいた。万が一にも一東垣の血を絶やしてはならないという義務感からだ。一度関係を持ったあと、あさましくも金目的でタカってきた女はそれなりにいて煩わしくはあったが――それでも、最低限の繋がりは残しておいた。
 その献身が今花咲いたのだと、世一郎は実感している。
「着きましたよ、さあどうぞ」
 先導していた千十世は、安っぽい扉の鍵を開けて、世一郎を促した。彼は中に入ると、独特な香りが鼻先を掠めた。中へと進んでいくと、その正体はすぐ知れた――古書だ。
 どうやらここは、古本屋らしい。しかし、シャッターは降りていて、閉店中のようだ。店内にいるのは世一郎と、裏口の鍵を閉めてからやってきた千十世だけだ。
「それで、会わせたい人物というのは……?」
「ああ、もう間もなくやってきますよ。どうぞ、お掛けになってお待ちください」
 千十世は手で来客スペースを示し、自らは奥に引っ込んだ。世一郎はしぶしぶ従い、古色をまとった一人掛けのソファに腰掛ける。じっと待っているつもりが、つい貧乏揺すりをしてしまう。
(……会わせたい人物、か。育った町に必要以上の愛着を持たれても困るな。まぁ、いくらでも打つ手はある……それに、彼も正式に一東垣の人間になれば、有象無象に時間を費やすのがいかに無駄なことか自ずと悟るだろう)
 世一郎の脳内には、庶子をどうやって世間の軋轢なく自らの後継者として発表するかなどといった、煩わしい現実の問題は一向に浮かんでこなかった。すべては順調に進んでいると思えてならなかった。妻子を喪ったあの痛ましい事故ですら、この最良の展開に至るための布石とさえ感じだしている。
(父さん……父さん……! 私はようやく、貴方の子だと胸を張れる仕事を成し遂げられそうです……! だからどうか、天国から私を見守って、そして、)
 かちゃん、と陶器の鳴る音で陶酔は遮られた。
 見遣ると、千十世が手にした盆をテーブルの上に置き、世一郎の向かいに腰かけるところだった。
「すみません、到着が少し遅れているみたいです。その間はどうぞお茶でも飲みながら、私とお話ししてくれますか」
「ああ、もちろんだとも」
 千十世が慣れた手つきで淹れた茶を、世一郎は受け取る。だが、ほんのテーブルひとつを挟んで向かい合っている青年に釘付けになり、なかなか湯呑に口をつけられない。
(――本当に、なんてそっくりなんだ)
 初めて会ったときから、ほぼそれ以外の感想が出てこなかった。
 世一郎が子どもの頃にじっと眺めた父親の姿と、目の前の青年は、驚くほど似通っていた――千十世は若干線の細さが目立つが、それ以外はほとんど変わらない。政界に進出する前、無限の可能性に挑んでいたあの百十世がそこにいるようだ。
(早く彼が、一東垣として世を統べるところを目に焼きつけたい――)
 そうすればいずれ線の細さも消えて――彼が同年代の平均的な男子より華奢な身体をしているのが、自身が強いた不遇な生活のせいかもしれない、と想像するだけの感性は、世一郎にはない――ますます百十世に似てくるだろう。世一郎の晩年に、「今があるのは父さんのおかげです」と盃を交わしあう……そんな場面ですら、夢じゃないかもしれない。
現実の百十世が一度も世一郎に与えることのなかった感謝を――承認を――愛情を、彼がもたらしてくれることだって――
「どうぞ、冷めないうちに」
 そう言って微笑みながら、千十世は自らの湯呑に口をつけた。ああ、と粘ついた口内に生返事を転がして、世一郎も湯呑を手にし、一口含んだ。乾いた喉に甘露と沁みて、気づけば一気に飲み干した。
「そう言えば」千十世は湯呑を置いて膝を組み、言った。「お話ししていないことがあるんです」
 何かな、と返そうとしたが、世一郎の舌はもつれた。
 それどころか、湯呑を持つ指にすら力が入らず、落として床にぶちまける。ガチャン、と陶器が破片と散る音が、なぜか遠く響いた。
 ――瞼が、重い。
 突如襲いかかった強烈な眠気に、世一郎は抗おうとした。彼が――何か話している――今ひとたび自分の目の前に顕れた父の言葉を聞き漏らすまいと、世一郎は必死に堪えて――
「失格だ」
 ――え、と漏れた己の声すら、もはや遠く――
「僕はチャンスを与えた。それを蹴ったおまえが悪い」
 ――まってとうさん。
 その言葉を口にするまでもなく、世一郎の意識はブラックアウトした。
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