八奈結び商店街を歩いてみれば

世津路 章

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秋やなぁ

第3話 葵と計算違いとおもろいオチ・下

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 午後一時半。曇天はなんとか持ちこたえているものの、今に崩れてもおかしくはない雲行きだった。
 舞台は午前の部が催されたスペースから場所を移した。土手を背に簡易に設えられたネットに、使い古された点数板。年代物で薄茶けた四塁と形ばかりのマウンドによって形成されるダイヤモンド。普段、休日に草野球チームが利用する、常設のグラウンドだ。
 雨ざらしでろくに整備もされていないその土の上を闊歩する、二組のチーム。
 互いに相対し整列すると、号令に従い頭を下げる。ちらほら残った観客が、ぱらぱらとまばらに拍手した。
『それでは、八奈結び運動会午後の部、野球大会を開始します。先攻、紅組――』
 タマばあのアナウンスを契機に、それぞれが攻守に分かれて配置につく。
 ルールは全日本軟式野球連盟の定めるアマチュア野球内規を適用、使用するのは軟球に金属バットとなる。また、選手の年齢・性別等が各チーム混合していることを考慮し、短時間で決着をつけるために五回戦までとされている。審判団は外部へ依頼しているので、どちらかのチームに肩入れすることはない。
 打順及び守備位置は、紅‐白で次の通りとなる。

 一、 吉田    (中) ――  南田   (二)
 二、 美也    (右) ――  ユキ   (中)
 三、 葵     (遊) ――  千十世  (左)
 四、 紅輔    (投) ――  繁雄   (捕)
 五、 和希    (左) ――  颯太   (遊)
 六、 角井さん  (一) ――  なずな  (右)
 七、 北村さん  (二) ――  みさこさん(一)
 八、 上山さん  (三) ――  下川さん (三)
 九、 壱之助理事長(捕) ――  アキさん (投)

 バッター用ヘルメットをかぶり、バッドとともにボックスに立った吉田少年は唖然とした。
「……え、うそ。マジで?」
 迎えた正面、マウンドの上に堂々と構えるその姿に、吉田だけでなく間知川河川敷全体が動揺にざわついていた。
「うそもヘチマもあるかいな。さっさと準備せんかい」
 鼻を鳴らして腰に手を宛がい胸を反らすその様子は、おおよそピッチャーからかけ離れている――どこかのランウェイで決めポーズでもとっているのではないかと見紛う、立ち姿。
 白組の守備の要を務めるのは商店街唯一の美容院《ビューティ・アキ》店主、八奈結びのオシャレ番長とも名高いアキさんだった。
 知られたスポーツブランドのジャージ(ラインに入ったヒョウ柄がワンポイントだ)を颯爽と着こなし、白帽のキャップをキュッと下げ、細い腕の先にミットを垂れ下げたその格好は妙な貫録すら漂わせている。齢六〇を超えながらシャンとした足腰にすらりと整ったスタイルで、モデル・ウォークも難なくこなしそうだ。
 が、あくまでそれはそれ、投手に似つかわしくない事実に変わりはない。観客席もざわついているし、紅組ベンチでは紅輔が怒髪天寸前になっているところを葵が口を塞いで、なんとか事なきを得ている。迎え撃つ吉田はすっかり腰が抜けてしまって、なかなかバッドを構えられない。
 そんな周囲のどよめきを大口開けたあくびでいなし、アキさんはさもどうでもよさそうに言う。
「ほら、ちゃっちゃせぇ、ちゃっちゃと。うち一六時からの再放送観なあかんねん。……あ、それともあれか? こない年寄りにめたくそヤられて、好きな娘に恥ずかしいトコ見せんのが嫌なんか? あ?」
「ハッ、ハァーーー??! 何言うとんねん!!!」
 吉田少年は顔を真っ赤にしてあたふたと、反論にならない反論をする。そのままベンチにチラリと視線をやる(のがいけないのだが)……さいわい、肝心の〝好きな娘〟は仏頂面で心ここにあらず、と地面を睨んで今のやりとりを聞いていなかったようだ。
 ほっと胸を撫で下ろしている吉田を、せせら笑うようにアキさんが畳みかける。
「残念やったなぁー脈ナシで。ま、ま、そない焦らんでも人生これからや。でっかい未来掴んで見返したれや、んん?」
「こ、の、くっそババァ……!!」
 触れられたくないところをズカズカ土足で踏み荒らされて、吉田は完全に怒り心頭である。戸惑いを焼却し、『絶対本塁打キメたる』と物語る気迫を立ち上らせ、力強くバッドを握る。ザッと土を踏み鳴らし腰を落として、迎撃態勢を取った。
 ようやく始まりつつあるゲームに、土手の観客がパラパラと応援の声をかける――

 バスッ!!!

 ――のを、断ち切るように、大きな音。
 誰もがその発生源を目で追う。その先にはキャッチャーマスクとプロテクターに身を包んだ繁雄がいて、構えたミットの中には――白球が、収まっていた。
「ふふん――」と、アキさん。「本場ニューヨーク仕込みやで?」
 審判が「ストライク!」と叫んだ。
 目にした光景の解釈がようやく追いついて、おおお! と場が驚きに沸く。
 アキさんが、完璧な下手投げ(アンダースロー)で放った白球はバッターボックスに届く瞬間、くんっ、と軌道を上向け、その勢いのままキャッチャーミットに行きついた。球速自体は、さほどではない。でもその一瞬の変化が吉田の目には劇的に作用し、加速したように見えて――反応すら、できなかった。
 白球の駆け抜けた後の空気に残る、ぴりりとした威圧感プレッシャーが吉田の身を強張らせる。マウンド上では返球を受けたアキさんが、第二球に備えていた。ミットを口元に宛がい、その視線だけが際立つ。まるでヘビに睨まれたカエルように吉田の脚は竦んで――
「ビビんな!!」
 ベンチから、怒号が飛んでくる。
「思っ切り振ってけ!! そこに立ってる奴がすんのは、それだけや!!」
 吉田がハッと見遣ると、葵の制止を振り切った紅輔がまっすぐこちらを見ていた。
 バカ正直な眼差しだった。たった二度の練習で顔を合わせただけの自分を、どこまでも信じていることしか伝わってこない眼差しだった。
 仲間チームメイトだと、思っている者の眼差しだった。
(……へっ、なんやねん! えらそーに!)
 知らず、吉田は口元に笑みを浮かべていた。さっきより幾分冷静に、それでも腹の底からふつふつ湧き立つ不思議な熱を感じながら、バットを両手でしかと握りしめる。
 アキさんがモーションに入るのが、今度はよく見えた。左腿を胸につけるように上げ、ぐっと腰を屈める――そして、足が下がると同時に上半身が後ろへぐっと開いて、前へと戻す勢いで、細い右腕がブンと唸り、白球を射出する。
 下から上にくる軌道は、理解している。グン、と迫りくるその白い影を瞬きもせず視界に捉えたまま、吉田は思い切りバッドを振った。
 ブン、と空振り。
 そのすぐ直後に、バスッ、とあの嫌な音がした。
 ストライクを告げる審判の声に続いて、上ずった自身の呼吸が鼓膜を揺さぶる。ほんの一瞬の出来事なのに、ひどく心身が消耗しているのを感じる。
 だがそれでも、
「せや! それでええ!!」
 ベンチから飛んでくる騒々しい声援が、弱気になるのを許してくれない。
 紅輔が何やらわいわい叫んでくる。さっきまでの般若顔がどこへやら、その顔は子どものようにきらきらと輝いていた。
それに釣られて他のメンバーも立ち上がり、吉田にエールを送ってきた。次打席の美也もバッドを持ったまま、応援の振り付けでぴょこぴょこ跳ねている。
 それに活気づいて、土手の方からもこの一番バッターを応援する声が飛び始めた。応援歌を即興で替え歌にして合唱するゴキゲンな飲兵衛たちもいる。
「おー、おー、なんや、うち悪モンみたいやんけ」
 やれやれ、とマウンド上で肩をすくめるアキさん。ニッと歯を見せ笑って、吉田も再び構えながら返す。
「へっ、あんまちごうてないやんか」
「お? 言うやないか、ぼうす」
 ふっとニヒルな笑みを浮かべ、アキさんが三球目の投球態勢に入る。
 ガッと、その左足が地面を踏み抜くとともに下手投げが炸裂した。
 三度目の正直を願いつつ、吉田はバッドを振るう――そのスレスレ一センチ下をアキさんの球は掻い潜り、キャッチャーミットに飛び込んだ。
「ストライク! バッターアウト!」――その宣告とともに、吉田はボックスを去る。
 野球の試合を中継などで観ることはあったが、塁にも出られない選手はこんなにも惨めな気持ちになるのか、と、ちょっと肩を丸めてベンチへトボトボ歩いていく。だがその背をいきなりバシンと叩かれ、否が応にも顔を上げた。
「ようやった!」
 言ってやろうと思った文句が、吉田の頭から飛んで行った。
 そう言って満面の笑みを向けてくる紅輔の表情のどこにも、批難する色はない。仲間の善戦を、ただ純粋に称えているのがわかる。それがあまりにも揺るぎなくて、吉田はちょっと、ひるんでしまった。
「せやけど、俺、一回も当てられんかったし……」
「初見なんてそんなモンや! 当てにいっただけで十分や!」
 言い切る紅輔に、ベンチの大人たちからも賛同の声が上がる。
「お、ええこと言うやんけ紅輔」「吉田くん、ナイスファイト!」「俺も頑張らんとなぁ」
 逆にここまで温かく迎え入れられても恥ずかしく、吉田は縮こまりながらバッターヘルメットを外して美也に渡しに行った。受け取った美也は、子ども用でも大分余裕のあるそのヘルメットをかぶって頭をぐらぐらさせている。彼女に向かってもまた、紅輔は声を張り上げる。
「よっしゃ、いてこましたれチビ!」
「ミヤ、ブンブンやねん」
「と、人を応援する前にご自身の準備をなさってくださいね兄上」
「ギャッ!! せやから頭掴むな葵!!!」
 首から上をぐらぐらさせたままバッターボックスへ歩む美也。葵に頭を引っ掴まれて投球練習に移る紅輔。白組の思わぬ伏兵に凍り付いたベンチが、いつの間にかほぐれている。
吉田は自身のバッドをフェンスに立てかけてから、北村さんの隣に座った。そして、先ほどまで自分のいた場所に立っている美也へと、思い切って声援を送る。
「……っ、気張れや、ミヤちゃん!」
 波乱の幕開けとなった八奈結び野球大会、第一回表――紅組の攻撃が、続く。


(なるほど……まじめに練習してないのは、こちらに情報を与えないためでしたのね)
 ベンチサイドでゆるくバッティングフォームを確認しながら、葵は思索を巡らせる。
(もっとも、シゲ様がそんな小細工なさるわけないでしょうから……あのヒトと、あとはあのマダムの差し金、といったところかしら)
 マウンドではアキさんが相変わらず、子ども相手らしかぬ投球を披露していた。吉田よりなお年少の美也相手だから手加減……するはずもなく、むしろさっきよりずっと速いテンポで次々とピッチング。あっという間に三振を取ってしまった。もっとも、バッドを振った勢いでくるくるその場で回ってしまうような幼い選手を、さっさと退場させるための慈悲であったかもしれないが。
(腕力・体格に特筆するところはない……となると、単純にこれは技量テクニックの問題。こんなところに手練れが潜んでいるとは……少し、侮りすぎましたわね)
 葵は事前に、紅白両チームの選手について下調べを済ませてある。アキさんについても当然調査したが、若い頃渡米経験があるというところで認識が留まっており、自身の詰めの甘さを叱責した。還暦の草野球チームで活躍する七五歳の投手の例もある――それを知りながら、若手の颯太か千十世が投げるものと思い込み、その前提で作戦を構築していた。そして今やそれは、役に立たない机上の空論になってしまった。
(――ええ、かえって都合がいい)
 にい、っとつり上がる口元に気付き、葵は咳払いして戒めた。
 そう、この先何が起こるかなんて、予測できないほうがいい。
 不確定要素が生じれば生じるほど、それだけ、結末オチは読めなくなる。だからみんな、渇望する。必死になって、手を伸ばす。
 それこそが彼女の望むところだった。
「ミヤ、グルグルやねん……」
まだ目を回しながらも、美也が何とかベンチサイドまで戻ってきた。葵は脳内での状況整理にキリをつけ、笑顔でそれを迎え入れた。ぐらつかせていたバッターヘルメットを取ってやると、すっかり乱れたおかっぱ頭を優しく撫でて整えてやる。
 そして受け取ったメットを自らが着用し、ボックスに向かって歩き出した――ところで、ふと視線を白組のベンチへ飛ばした。
(ふふっ、睨んでる睨んでる)
 案の定、千十世がこちらに向かって殺気走った眼光を飛ばしていた。今日のこの大会に紅輔と葵ぶがいしゃが介入したの自体がそもそも気に食わないのに、一番大切なものに触れられて、はらわたが煮えくり返っているのがわかる。そんな彼が彼方から飛ばしてくる怒気をやすやすと受け流し、葵は優雅にバッターボックスに足を踏み入れた。投手アキさんから見て左方だ。
「ふん」アキさんが構えながら鼻を鳴らす。「ジブン、左打ちか」
「いえ、どちらでも構わないのですが」葵も構えながら返す。「右投げ相手なら左打ちが有利――セオリーでしょう?」
 ぬかせ、の最後の一音とともに、アキさんが白球を放つ。まだ一度も打ち取られたことのないその打球は、またも捕手しげおのミットに収まる――

 ッキン!

 かと、誰もが思った。
「ファウル!」
 主審の判定を聞きながら、その場にいる人々はポンッ、と地に落ちる白球を、口を開けて見ていた。本塁と一塁を繋ぐ線より土手側に、とんとん跳ねて転がっていく。
「あのう――アナウンスをお願いしますわ」
 葵が不敵な笑顔で、テントに向かって声を張り上げる。
「『ファウルボールに、ご注意ください』、とね。これから、続きますので」
 そう言ってまたバットを構え、次球に備える。その大胆不敵な宣戦布告に、アキさんも応えた。返球を受けるや否や、先ほどまでより明らかに力の入った腕の振り。
球速も段違いのその球を、キンッ、とこともなげに掠めチップする。ボールはバックネットにぽすんと飛び込み、一拍遅れてタマばあのアナウンスが入った。これでストライクカウント、二。あと一度空振りでもすれば、その場でボックスから退場を余儀なくされる。
 それでも葵は、再び悠々と構えた。そして襲い来る第三球を、これも軽々と当てる。今度は三塁の外に落下した。
「ふん……」新しい球を受け取りながら、アキさんはご不満顔で言う。「口だけやない、言うわけか」
「ええ」葵も新たに構えながら返す。「残念ながら、野球バカの妹に生れ落ちてしまったもので」
 そこからの投打は、速いテンポの応酬だった。
 球を受け取ったアキさんは捕手とのやり取りをほとんど見せず、間髪入れずに投げ込む。それを葵はいなすように左右に打ち分ける。その余力のある佇まいから、本当は打てるのにわざと反らしているのだと、薄々察する者もいた。実際その通りで、葵は塁に出る前にまず、アキさんの体力を削げるだけ削いでおく手を採ったのだ。
(ご老体にも関わらずこの投球精度、賞賛に値しますわ――もっとも)
 六球目、アウトコースすれすれの球を最大限に引っ張る。
 わぁ、と観客が湧いた。球場で言えば一塁側のホームランポールにぎりぎり届かないか、という距離まで、見事運んだ。
(紅輔の球には、遠く及ばへん)
 矜持を滲ませて、葵はすぐさま構えを戻す。
 睨みつける先、マウンド上ではアキさんがさすがに息を上げ始めていた。
 まんまと若輩に、上手いように弄ばれている――その屈辱ものの状況下において八奈結びのオシャレ番長は、ニッと笑った。
 そしてこくりとひとつ頷く――それはこれまでの彼女が見せなかった仕草だ。本来、ピッチャーがもっと見せるべき動作だ。その意味に葵が気付き、一瞬身体が強張る。
 今のは、キャッチャーの指示を承諾したというピッチャーの合図で、
「っらぁ!!」
 アキさんが球を放つ。そのフォームはこれまでと違う――上手投げ(オーバースロー)!
 それまで下からの軌道に慣れ切っていた葵の目に、上から突き刺さるように白が迫る。インコースいっぱいを目がけて飛んでくる、これはおそらくストレート。瞬時に判断し、葵は身をコンパクトに縮めてバッドを振り抜く。
「――ストライぃク!!」
 主審の拳が上がり、観客がわっと湧いた。
 それを鼓膜に捉えててから一瞬後、葵はぶわっと身体中の汗腺が開くのを感じた。ほんの刹那に強いられた極度の集中。そこから解放された代償と言わんばかりに、倦怠感がのしかかった。
「おまえのそーいうとこも相変わらずやな、葵」
 いたずらが成功した子どものような声に葵が振り向くと、立ち上がった繁雄がキャッチャーマスクを上げながら、歯を見せて笑いかけてきた。
「余裕あるうちに仕留めんと、ネズミ相手でも手ぇ噛まれるで。ま、こっちはそれで助かったけどな」
「……改めて肝に銘じますわ。さすがです、シゲ様」
 見事にしてやられたというのに、葵の頬も思わず緩む。
 そうだ、昔――中学時代にも同じように、詰めの甘さを指摘された。紅輔に巻き込まれた繁雄と颯太が、部活外でも野球の練習に駆り出されたとき、自分もよく交ざって。読み切ったと思った紅輔の球筋を、繁雄のリードで乱されて。
 たった、二年ぶりのことなのに――どうしてこうも、懐かしいのだろう。
 あるいはこのひとときのためだけに、自分は手を尽くしたのだ。そう思えるほどの充足感が葵の胸の内に湧きかえる。
 だが、これは単なる副産物だ。
 自分の望みは、もっと、もっと遠くにある。
「おぉい、さっさとハケんかいボケガキぃ。攻守交替やっちゅうねん」
 腕をブルンブルン振りながら寄ってきたアキさんが、ガラ悪くそう話しかけてきた。葵はいつもの取り澄ました笑顔を装着して、ペコリと一礼する。
「無礼を働きまして申し訳ございませんでした、マダム。大変素晴らしい投球でしたわ」
「はっ、心にもないくせによぉ言いよるで」
 アキさんが唾でも吐き掛けそうなそぶりで言う。
「まぁ、どこぞの根暗よりはマシやけどな」
「ええ、ワタクシもそう自負しております」
「? 誰の話してるんや?」
 相通じ合うふたりについていけない繁雄は首を傾げていたが、アキさんがしっしと追い払うジェスチャーをするので、判然としない面持ちのまま白組ベンチへと戻っていく。アキさんはピッチャーグローブを外しながら、にぃ、と口元を吊り上げて葵に言った。
「わざわざこうして手のひらの上で踊ったってんねん。せいぜいおもろい結末オチ見せてくれや」
「まぁ、どうやったらマダムのお眼鏡に適うかしら。ワタクシまるで見当もつきませんわ」
 白々しい葵の言葉に、アキさんは胸を反らせる。
「せやなぁ……ジブンも一緒に踊ったらええん違うか? ひとつ滑稽なん頼むで」
 鼻で笑って、アキさんはダラダラと白組ベンチへ歩き始めた。
 もうこちらを見る気もないその背中に、葵は微笑んでこう返す。
「ええ、喜んで――それこそが、ワタクシの必要としているものですから」
 そして自らもまた、ベンチへ向かって歩き出した。
 紅組の打線は実らず、一回表は三者凡退で終了。
 試合は続いて一回裏――白組の攻撃に移る。

   ◇◆◇

「ストライぃーク! バッターアウト!」
立て続けに、二者を打ち取る。
白組の一番打者・南田と、続く二番のアキ。明らかに人数合わせのふたりだったが、果敢にバットを振って迫りくる白球を捉えようとした。しかしその試みはあえなく失敗。アキなどは勢い余って、その場に尻餅をついてしまった。
(……やっぱりこんなん、お遊戯会やわ)
マウンド上で壱之助からの返球を受け取った紅輔は、そう思った。
 彼のこれまでの投球を見て、土手は驚きにざわめいている。中にはいつぞやのテレビニュースで紅輔を見たことがあるのか、露骨に指さしてはしゃぎたてる飲兵衛たちもいた。そうした空気を煩わしく思いながら、耳に入れてしまう自分もまた集中に欠けていて、苛立たしい。
 そんな彼の様子に気付いたのか、対面の壱之助がキャッチャーマスクごしにウインクを投げかけてきた。肩の力を抜け、とでも言いたげだ。本日限りの相棒のそんな仕草に、紅輔は否が応にも午前のやりとりを思い出してしまう。
『ほんならこのお遊戯会はなんのためにやるんやろうな?』
『そのお遊戯会にどないして、こない大勢の人が集まってるんやろうな?』
『――儂は君にも今日をめいっぱい楽しんでいってほしい、それだけや』
 何度も頭の中に回り続ける壱之助の言葉を、紅輔は舌打ちをして追い出そうとした。
 今日の試合は、自分の人生を懸けた大切なものなのだ。こんな余興にかまけているヒマなどない。何が何でも、勝たなければならない。そう何度も言い聞かせた。
 にもかかわず、身体の中が不思議な熱に疼いている。
 その熱は、紅輔の意志に関係なく全身を突き動かして、気づけば吉田の応援に立ち上がらせていた。いいや、その前から――午前中、あの五〇メートル走のときから、久しく忘れていた感覚を、蘇えらせていた。
 それは中学のとき――繁雄や颯太とともに部活動に打ち込んでいたあのとき、絶えず彼の傍らにあった感情だった。
 楽しい、という、長らく遠ざかっていた情動だった。
(……こない茶番に、なんで……)
 紅輔が自分でも戸惑っているうちに、白組の三番手が打席に立った。
 投手から見て左のボックスに入った、細長い立ち姿――千十世だ。
 逡巡が、紅輔の中から消える。代わりに燃え滾るような闘志が湧いてきた。
 千十世はキザっぽくバッターヘルメットを直してから、右手に握ったバットでくるりと下から弧を描き、その先を高く、空に突き付けた。
 ホームラン宣言。
 その大胆なパフォーマンスに、土手からもベンチからも、おお、と感嘆が広がる。
「なめくさって、モヤシ野郎がァ!」
 びくり、とこめかみに血管が浮き上がらせながら、紅輔は投球フォームに入る。
 中学時代から、紅輔は千十世を蛇蝎のごとく嫌っていた。繁雄と千十世、それからなずなは当時一緒に暮らしていて、そこには外野が介入できない特殊な絆があるように紅輔には思えた。なずなは転ぶだけで人畜無害だが、何かにつけてねちっこく揶揄してくる千十世は天敵だった。繁雄の相棒は自分だ、という自負が一層、紅輔の態度を硬化させて――それは、今極まらんとしていた。
 因縁を捻じ伏せんと、紅輔は右腕を振りかぶる。
 人差し指と中指を外側にずらして球を持ち、チョップする要領で振り落とした手から投げ放つ。空を切り裂くようなスピードで駆ける白球は、打席まで届くと、くんっ! と打者の手元に迫るような角度で落ちた。スライダーだ。
 主審の拳が上がり、ストライクが決まる。先ほどまでよりキレの増した投球に湧き立つギャラリーを余所に、紅輔は鼻白んだ。
(ハッ、なんやねん。威勢の良さはこけおどしか)
 この一球を、千十世はバットを振りもせず単に見過ごした。壱之助が返球している間に足元の土を爪先で慣らすと、再びバットを構えた。だがその姿勢には、打ち取ってやろうという気迫がまるでない。
 球を受け取った紅輔は、捕手いちのすけからの合図もまたず次の投球に移る。力強く投げ放たれた白球は、まっすぐの軌跡を描く。今度は千十世も反応して、スイングして見せた――が、球はミートする手前で減速。バットの振りぬかれた後の空間に柔らかく落ち込んで、キャッチャーのミットに収まった。
 この見事なフォークボールに、観客もますます色めき立つ。フン、と紅輔も鼻を鳴らし、嘲笑を露わにした。このまま三振で悠々打ち取り、逆に赤っ恥をかかせてやる――そう考える彼の脳が次の一球に選ぶのはただひとつ、もっとも自分が自信を持つ球筋。そう、ストレートだ。
 しかし返球してしゃがみこんだ壱之助は、もう一度スライダーという指示を送ってきた。首を横に振り、一蹴する。再度壱之助が合図を出そうとしてきたが、それより先に紅輔は投球態勢をとった。
 そして跳躍した虎が着地するようなダイナミックさで右腕を振り抜き、自慢のまっすぐを披露する。弾丸のごときスピードで射出された白球に一堂も息を呑み、

 ――カキィンッ!

 甲高い金属音が、秋の空に響く。
 白球はグラウンドの中央に大きく弧を描き、土手の上の遊歩道にぽとん、と落ちた。
「はい、ホームラン」
 空々しい一言とともにバッドを放り投げ、本塁から一塁に向かって歩いていく。その千十世の姿を見て、ようやく周囲も状況を認識した。
 この見るからに運動神経のない少年が、易々と紅輔から一点を奪ったのだと。
 じわじわと、土手が熱狂に染まっていく。まるで漫画かドラマのような展開にのめり込み、指笛で囃し立てるものまで現れた。
 だが当の千十世はどこ吹く風だ。審判に注意され、しぶしぶと小走りで二塁、三塁と踏みつけていく。そして本塁まで戻ったとき、タマばあがアナウンスで白組が先制の一点を獲得したことを告げる。
 ベンチも当然大盛り上がりだったが、千十世はそちらに凱旋する――のではなく、バッターヘルメットを外しながら、てくてくとマウンドまで歩いて行った。
 紅輔はまだ、愕然としていた。侮っていた相手が、すぐそこでいけ好かない笑いを浮かべ、こちらを見ている。
「いやぁ、助かったよ。独り相撲にますます磨きがかかってて、手の内簡単に読めちゃった。僕のほうでもそれなりにデータ集めて研究したんだけど、こうもあっさり打てるとはね」
「……ッ、おまえェ……!」
 憤怒のあまり、紅輔はロクな言葉も返せない。そんな彼を冷笑して、千十世は続ける。
「シゲには八奈結びここにいてもらわないと、困るんだ。だからおまえなんかに渡してやらない」
 それだけ吐き捨てるように言って、千十世は今度こそベンチに戻る。怒りが収まらず反射的にその背を追いかけようとした紅輔だが、その視界の端に見たくないものを見て足を強張らせた。
「おい、ほんなら次は俺や。手ぇ抜くなよ、紅輔!」
 千十世からヘルメットを受け取った繁雄が、歯を見せて笑いかけてくる。
 このときになって、紅輔は自分の挑んだ決闘が何を意味するのか、肌で理解した。
 それは取り戻したい相棒と敵になる、ということだった。
 
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