八奈結び商店街を歩いてみれば

世津路 章

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夏やで!

第3話 なずなと祭りと浴衣にメイク・下

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「も、もうええから、なずな!!」
 ユキは慌てて立ち上がり、彼女の身体を背後から抱き留めた。
 なずなの手からパラパラと、玉砂利が零れ落ちる。だが気勢は殺がれず、その眼光が――といっても、やっぱりどこか鋭さに欠けるのだが――キッとユキに向けられる。
「ユキもユキやわ! なんでこんなん、話してくれんのよ! こんな、こんなかなしいこと…」
 そこでようやく、気が弛んだらしい。うええええん! と、大泣きし始めた。
 打ち所が悪かったのか気絶しているらしい植川のことが、若干気にかかったものの、ユキはなんとかなずなをなだめながら、一緒にその場を後にした。


   ◇◆◇


 一目惚れだった。それは嘘じゃない。
 入学してすぐ、植川のことがすきになった。どうしてか、なんて聞かれると困るのだが、やはり同い年にしては少しシャレているところなのかもしれない。
 そんな感情は初めてで、ユキは戸惑った。いつも活発なキャラクターで通している自分が、男子を見て胸を切なくしたり、弾ませたりしている。そんないかにも乙女な振る舞いなんてできないし、バレるのも恥ずかしかった。だからそれは彼女だけの秘密――大事な友達にも打ち明けられない想いだった。
 最初は、見ているだけでよかった。でもいつからか、合同授業が待ちきれなくなった。気が付けば視線を巡らせて、彼のことを探すようにまでなっていた。自分でも滑稽に思えるのに、止められなかった。
 そして、夏休みが間近に迫ったある日、彼女は思い余って告白する決意をしたのだ。
 彼女がいるだろう、とは思った。男女問わず友達が多いみたいだし、女子ときわどい絡みをして生活指導の先生に怒られているのを見たこともある。でも、自分がこういう気持ちでいるということを、彼に知ってほしかった。ただそれだけでよかった。
 だから終業式の日――誰より早く学校にきて、植川の下駄箱の中にメモを入れた。みんな帰った後、視聴覚室に来てほしい、と。特別教室にはいずれも特に鍵はかけられていないのだが、校舎の端にある視聴覚室なら誰にも聞かれる心配はないだろう――そういう選択だった。
 結果は惨憺たるものだった――植川を前にしたユキは想いが空回りして、ろくなことを喋れなかった。まともな言葉になったのは、名前と、すきだ、ということだけ。自分でもいたたまれなくなって、彼がなにかを言う前に視聴覚室を飛び出てしまった。
 廊下に出て、ユキは足腰が立たなくなってしまって、へなへなとその場に座り込んだ。ほぼ人がいなくなった校舎で、いやなほど大きく聞こえる自らの心音に苛立ちながら、ユキはあり得ないものを聞いた。
『あー、世紀の瞬間って感じ? おもしろかったわー』
 あれだけ熱くて仕方のなかった身体が、一気に冷えていくのを感じた。知らない男子の声が、背後から――視聴覚室の中から、聞こえてくる。
『え、待って、さっきの聞き取れたヤツおる?』
『いやあ、ありゃ無理やろー。まだ耳キンキンしてんで』
『キッキキーキー! 植川くんしゅき! キキー!』
『うっわ、おまえ似すぎ』
 視聴覚室で、爆笑が起こる。下卑たその笑い声は容赦なく、ユキの心に突き刺さる。
 潜んでいたのだ。視聴覚室特有の、あの箱のような机の中に――そしてそんなことができるのは、植川が予めメモの内容を内輪に漏らしていたからに他ならず――
『で、どうなんよ植川。OKするん?』
 びくりと、ユキは身を震わせた。なんとか声を上げずに済んだ。再びドクドクドクンと心臓が早鐘を撃つ。だがそんな彼女の心境など知る由もなく、植川は答える。
『やー、もう勘弁してぇや。真っ赤なって、ホンマサルみたいやってんでアレ』
『でもおまえ童貞捨てたいって言うてたやん』
『セフレでも無理。立花優理くらい可愛かったら別やけどなー』
『言うなー植川。まぁあれ、文化祭で見たん、確かに
ごっつ可愛かったよなぁ』
 ――ユキはひどく機械的に、物音も起こさず立ち上がった。
 ふらふらと、昇降口へと向かう――既にその時から、彼女は考え始めていた。
 復讐してやる、と。


◇◆◇


 一連の騒動に至るまでの動機を話し終え、ユキはそっとまぶたを上げた。
 ビューティ・アキの一画――ソファに腰かけて、四人は朝と同じように向かい合っていた。
 話し終えた今、ひどく凪いだ心持ちだった。この半月ほど、自らの中で溜め込んでいた泥濘をすべて吐き出し終えたような感覚だった。
 ああ、もっと早く、こうすればよかったのだ。
 初めての恋は惨敗に終わり、無残にも踏みにじられた――それを誰にも打ち明けることが出来ず、外に出せない負の感情が勢い余って、復讐に乗り出させた。
しかし今になって思えば、なんて恐ろしいことをしようとしたのだろう。強姦冤罪を作りだし、何も関係のない少女を被害者にしようとした――自分のやろうとしたことは、そういうことなのだ。
 ぶるりと、ユキは怖気に身を震わせる。そんな、普通ならありえないと笑い飛ばせる、そんな判断すら自分はできなかったのだ。自分の中にそんな制御の出来ない感情があることをユキはこの上なく恐ろしく思った。
だが今回は――寸でのところで、踏みとどまることが出来た。
 それは紛れもなく、今隣に座っている友達のおかげだ。
「なずな、ほんまありがとう…とめてくれて」
 酷いことを言ったのに、彼女はなお自分を心配し、ついてきてくれたのだ。感謝してもしきれない。そして、絶交だ、などとあまりにも思い上がった言葉を口にした自分を恥じた。
だがなずなは、まだ大粒の涙をぼろんぼろんと流しながら、大きく頭を振った。
「ごめんな…ごめんなぁ、ユキ」
「もう、なんでなずなが謝るんよ」
「だって……だって」
 なずなは涙で曇った眼鏡レンズ越しに、まっすぐユキを見つめながら、その手を自らの掌でそっと包んだ。
「辛かったやんなぁ…そんなん、人に話せられへんやんなぁ…せやのに、うち、何で話してくれへんかったんや、なんて……」
 それ以上は言葉にならなくて、なずなは手のひらに一層力を込めた。そこから伝わるあたたかな気持ちが、ユキの心をほぐしていく。
ユキは顔を正面に向け、目の前の二人――タマばあとアキさんに、頭を下げた。
「ふたりにも、迷惑かけてすみませんでした…」
 アキさんはこれに、腕を組んで瞼を下ろしたまま、答えなかった。タマばあは、身を乗り出して柔らかく微笑む。
「うちな、ユキちゃんのことを何度か見かけたんよ…バス停で。最初の内は隣町に遊びに行ってたんかいな、思てたんやけど、どうも尋常やない様子やったから、気になっててん」
「……」
「そのときに、声をかけたらよかったんやな…頼りないばあさんでごめんな、ユキちゃん」
「そんなことは…!」
 タマばあが深々と頭を下げるので、ユキは慌てた。しかし上手く二の句が継げずにいるところで、

「どうやった、その顔は」

 と、冷静な声が響いた。
 見ればアキさんが目を開けて、じっとユキを見据えていた。
 それは荒れ狂う波に人々が呑まれる狂乱の中、ひとり港でそれを眺め、タイミングを見極めようとしているような、そんな眼差しだった。手にした縄を、いつ投げるのか――その最良の機会を定めるのに、切実な――
 ユキは、こくりと喉を鳴らした。言葉を探して唇が何度か空を切ったが、やがて情けないような笑みを浮かべ、ぽつりぽつりとこぼした。
「…正直に言います。最初は、嬉しかったです。植川は勿論、道端で通り過ぎよるヤツらも、みんなチラチラうちのこと見てくる。そんなん、これまで一回やってなかった。植川なんて鼻の下伸ばして、やたらと優しさアピールしてくるんですよ? 途中からもう、笑い堪えるん大変やった――やけど」
 次第に、ガチガチと歯の根の鳴る音が混じり出す。
る、と、涙が頬を伝った。
「なんや薄々、変な感じがしとった――ああ、これ、うちに対してじゃないんや、って。それは、どんどん自分の中で膨らんで、とうとう最後――堪えられへんくなってもうた。この化粧剥ぎとったら、ああ、誰もうちのことなんか見向きもしてくれんのや――そう思って、もう、自分が――あ、あんまりに、惨めで……!!」
 言葉は続かず、泣き声がとって代わった。
 なずなはそれを邪魔すまいと、ぐっと口を一文字に結んだ。今こうしてありのままの思いを吐き出すことが、ユキには何より大事なのだ。それでもやはり、ともに涙を流さずにはいられなかった。せめて気持ちだけは寄り添いたくて、ユキの手を包む手のひらに一層力を込めた。
 それに少し慰められたのか、次第にユキの泣き声は小さくなっていった。
鼻をすする音が断続的に混じるようになり、店内が少しずつ静まってきた頃、
「化粧はな、やから怖い」
 アキさんが、そう言った。
「整形も、服も…ダイエットや、パーマかけるんもそうや。中でも化粧は、一番タチが悪い。ちょっとテクを身につけて高い化粧品使えば、誰でも簡単に自分以上のモノになれる。それが自分の手で、自分の顔に、直接やってるもんやから、段々みんな錯覚するんや――化粧の終わった鏡を見て、ああ、これが自分や、と」
 アキさんは、そこで自分の胸にそっと指を当てた。
 何か取り返しのつかない罪を確かめるように――そこから決して逃げはしないと決意を新たにするように、ぐっと指先に力を込める。


「でもどうあがいたって、それは自分の顔やない」


 それは今までのどんな彼女の毒舌より、容赦のない両断だった。
 なずなとユキはいつの間にか涙が止まっているのにも気づかず、アキさんに釘付けになっている。
 アキさんは、視線を落とし、淡々と続ける。
「どんなに錯覚しても、頭の奥底で、それを忘れることはできないんや。そしてどうしようもない歪が起こる――それを埋めようとしてみんな、高い化粧品やの服やの買い漁って、毎月のように美容室やサロンに通う」
 自嘲するように片眉を上げ、嘆息まじりに言う。
「うちは、それを全否定したいわけやない…こんな商売やっとるくらいやしな。綺麗になるんは楽しいし、嬉しい。せやけど――」
 アキさんは双眸を伏せた。
 そうして少しの間沈黙していたが、やがておもむろに口を開いた。
「度が過ぎれば、それは毒や。何にも解決せんと、ただひたすらに次を欲してしまう…麻薬みたいなもんや。でも、多くの人間はそれに気付かへん――いや、気づきたくないんや。皮を剥いだ自分の顔が、しょーもないものやって」
 そして正面に座すふたりの少女をまっすぐ見て、
「やからあんたらはな、自分の顔を――誰にも負けん自分だけの顔を、作っていかんとあかん」
 そう告げた。
 その眦が、少しばかり、やわらかくたわむ。
「自分のすきなことめいっぱいやりこんで、自分の大切な人をとことん大事にして、ムカつくことには真っ向から体当たりして、思いっきり泣いて、でも最後には、笑う――そうしていくうちに、勝手に出来るんや。他の誰でもない、自分だけの、めっちゃ輝いている顔が」
 胸に当てていた手を下ろし、ウインクして見せる。
「ほしたらな、強いで? そういう顔はな、バカどもの中傷なんかには絶対負けへんねん。ちょっと化粧したくらいじゃ、全然埋もれへんねん。そんでな、そんな顔を作れるのは――思いっきり、自分の人生楽しんだヤツだけや!」
「…!!」
 ユキは、もう何も言えず、大きく頷くだけだった。
 その目尻からまた一筋涙が流れた。
しかしその顔には――今やメイクがぐちゃぐちゃになって、元の顔が覗いてしまっているその顔には、他ならぬ彼女自身の笑顔が、灯されていた。
「よし、ふたりとも分かったみたいやな。ほんならさっさと座り」
「「へ?」」
 唐突な話しの転換に、なずなもユキも目をぱちくりとさせた。
 アキさんは親指でクイックイッと何かを指している。
 それは鏡面の前に据えられた、お客さん用の椅子で――
「まぁ、すっぴんで過ごせるうちはすっぴんで行け、がうちのモットーではあるんやが――今日だけ特別や。上っ面でしか美醜を判断できんボケナスに、きっちり復讐せなあかんからな」
「え、アキさん、うち、もうそれはええって――」
 慌てるユキにぴっと人差し指を向け、アキさんは邪悪な笑みを浮かべた。
「憶えとき。ええ女の真の復讐っちゅうんはな――逃した魚はごっついでぇ、って知らしめたることや」


   ◇◆◇


 植川が目覚めたときには、既に祭囃子が聞こえていた。
 まだぼんやりとした頭で裏手の茂みから社へと出ると、大勢の客でごった返している。夏の宵闇の空の下、屋台の裸電球と祭提灯の光に照らされ、誰もかれもが浮かれている。その溢れんばかりの現実味を伴った光景に、彼は目を瞬いた。
(…やっぱ夢やったんとちゃうか? 立花優理とお祭りデートとか…)
 どうにも、昼間の体験が空々しい白昼夢だったような気がして、彼はすっかり乱れてしまった髪に指を突っ込み、ワシャワシャと頭を掻く。どうにも、気を失う直前の記憶も曖昧であるし、釈然としない――いったい自分が何をしたというのか。
「ぶみゃっプー」
 被害者意識を昂ぶらせている植川の足もとで、ぶさいくな猫の鳴き声がした。
 見やると、でっぷりとした黒猫が植川を馬鹿にする
ように尾を揺らしている。確か、日なた窓と呼ばれ商
店街で愛されている猫だ。
 不愉快に感じた植川は、爪先を上げて、しっし、と追い払おうとしたそのとき――左方から、鋭い視線を感じた。
「…?!」
 思わず息を呑んだ。
 鳥居をくぐり、一人の少女がまっすぐと、自分に向かって歩いてくる。
 彼女は初夏を思わせる薄水色の生地に、鮮やかな向日葵をあしらった浴衣を着こなしていた。紺地に花火の刺繍がよく映える帯がアクセントになっている。短い髪の右に留められた大きな紐飾りは、萌黄や薄紅、紫紺など、色とりどりの紐が吉祥結びにされていて、黒い髪に大輪の花が咲いているようだ。
 その出で立ちも素晴らしかったが何より植川の眼を釘つけにしたのは、彼女の顔だ。
「お、おまえ…」
「……」
 少女は植川の前に立つと、その奥二重の眼差しで冷ややかに睨みつけた。
 ユキだった。
 植川も、その顔を忘れてはいなかった。だが終業式のあの日より、目の前の彼女は何千倍も凛然としてうつくしく、植川はその気迫に圧倒されていた。
 サルと嘲笑った、あのときの顔と大きく変わりはない――と、突然のことで動転している植川には思えた。が、それは間違いだ。
 地肌と変わらない色味の下地で整えられた素肌に、ほんのりと添えられた彩り――薄くはたかれた頬紅、目尻にほんの少しばかり深紅のアイシャドウを乗せて、唇には軽くグロスを引いただけ。眉はそのまま、彼女の気質がしっかり顕れたへの字型。
 絶妙なバランスと、細心の注意を以て施された化粧。それはひとつとして彼女の素顔を損なうことなく、生来の力強さを内から外へと引き出していた。
 彼女が自分自身の人生を思いっきり楽しんだあかつきに手に入れる、誰のものでもない彼女だけの顔――その完成形の片鱗が、八奈結びのオシャレ番長の魔法により、今このひととき、この場に現出しているのだ。
 たじろぐばかりの植川に、ユキはにっこりと微笑んだ。
「あんたみたいなしょーもないアホんだれに引っかかった自分が、情けなぁて敵わんわ」
「へ?」
 なにを言われているのか理解できなかったような彼に、ユキは大きく息を吸い込んで、


「こっちが願い下げや言うてんねん、カス!!!」


 と、あの甲高い声で突きつけた。
 わっ、と気圧された植川は無様にもその場に尻餅をついた。目をぱちくりさせるばかりの彼、その腹を、のしのしと踏みつけるモノがいる。
「ぶみゃっフー!!」
 日なた窓だ。重量感のあるこの黒猫は植川の腹から軽やかに着地すると、総毛立てて威嚇してからその場を去った。
その光景に少し笑ったものの、すぐそっぽ向いて、ユキは歩き出す。
 涙が零れそうになるのを、ぐっと堪えた。
 そう、今度こそ本当に終わったのだ。
(――あかんあかん! もう散々泣いたんやから…!)
 それでもままならないのが、乙女心である。
いたたまれない心持ちで雑踏を歩く彼女を、
「おぅい! …ちょお、待ってや!」
 と、どこか聞き覚えのある少年の声が引きとめた。
 ユキが顔を上げると、並んでいる屋台の中のひとつ、抹茶ソフトクリームを出している店の中に彼はいた。思わぬ偶然に、ユキは目を瞬く。
「南田センパイ?」
「びっくりしたわ、自分も来ててんな」
 南田は、ユキと美化委員で一緒の一学年上の先輩だ。眼鏡をかけた大人しそうな少年だが、委員の仕事に飛び込んでいくユキのフォローをよくしてくれる、そんなやさしさを持っている。そう言えば、彼はお茶屋の息子さんだと聞いたことがあるような…
 と、ユキがぼんやり考えていると、南田は抹茶ソフトクリームを差し出してきた。彼女がポーチ・バッグから財布を取り出そうとすると、慌てて首を振る。
「ええって、サービスや!」
「でもそんなん、悪いです」
 とてもユキが受け取れないでいると、南田は少しばかり躊躇していたが、やがて顔を真っ赤にしながら言った。
「ほんなら後で、一緒に出店周ったってや。俺もうちょいで休憩やし、その、ひとりで見て周るんアレやし、その…」
 そしてハッと気づき、
「…いや、彼氏と来てるんやんな…そんなかわいくバッチリ決めてるってことは…」
 と本気で落胆した。
 そんな先輩にユキは、なんだかおかしいような、嬉しいような、気恥ずかしい想いを抱いた。それは植川に感じた胸の弾みにも似て、だがそれ以上にもっと、あたたかく、やさしく心を充たしてくれる感覚だった。
 彼女は抹茶ソフトクリームを受け取って、
「いいですよ、これ食べながら待ってますね」
 別の手で目尻に浮かんだ雫をそっと払ってから、そう言った。


   ◇◆◇


(ユキ…よかった……)
 それを鳥居のかげから見守っていたなずなは、ほっと胸をなで下ろした。
 お祭りの日のひと騒動は、なんとか無事に終結を迎えた。もちろんユキは、自分のしでかそうとしたこと――現に、他人へのなりすましは行ってしまっているのだ――と、これから向き合っていかなくてはならない。その報いを、受けなければならないときも来るかもしれない。
だけどきっと、彼女はそこから逃げないだろう。
そのときは、なずなも友達としてともに向かい合いたい、と思う。
(…でももしかしたら、うちなんか必要ないかもな)
 嬉しげに、抹茶ソフトクリームを食べながら歩き出すユキを見て、なずなは微笑みをこぼした。と、その背後から、カランコロン、と下駄の音がして、
「大活躍だったそうじゃない、なっちゃん」
 耳馴染みの性悪な声がした。
 なずなが振り向くと、千十世がいつもと変わりない格好で、いつもと変わりないニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「ち、ちぃくん?! だ、大活躍って、なんのことかなっ…!!」
「またまたとぼけちゃって。アキさんから全部聞いたよ?」
「全部!!?」
 なずなは爆発せんばかりに顔を赤くして慌てた。今日の自分は一事が万事、空回って醜態をさらしていたようにしか思えないので、誰にも言わないようアキさんとタマばあには頼んでいたのだが――『おお、ええで』と請け負った傍からこれである。やはり大人は汚い。
(ハッ…! もしかしてシゲちゃんにも知られてるんかな…?!)
 顔から一気に血の気が引く。それだけは是が非でも阻止したい。が、千十世が知っているという以上すべては手遅れのように思われた。
 そんな凄まじい懊悩をして見せるなずなを、しばらく千十世は黙ってニヤニヤしながら鑑賞していたが、やがて気づいて訊ねる。
「あれ、なっちゃんは化粧してもらわなかったの?」
「へ?」
 千十世の指摘通り、なずなはアキさんに化粧をしてもらわなかった。ユキと同じように、タマばあに浴衣を着せてもらい、髪をそれに合わせて結ってもらっていたものの、化粧だけは断ったのだ。
 ユキの化粧は、復讐のために必要なものだった――だが自分はそれに便乗してしまっていいのか、となずなは思ったのだ。
 頼りなく笑いながら、でも他の誰でもない自分だけの顔に、ほのかな決意を滲ませて彼女は言う。
「うち、ちょっとズルかった。勇気が出んのを顔のせいにしとったらあかんやんなぁ…やから、ええねん」
「…ふぅん」
 千十世は、そこで目を眇めさせた。
 おや、となずなは思う――彼のその表情が、いつもの底意地の悪い笑いでなくて、なんだか――決して手の届かない光を対岸から眺めているような、そんな儚げなものに感じて――
「おーい! チトセー! 早よぃやー!!」
 と、祭囃子にも負けず騒がしい声が、人ごみの中からふたりに向かって投げかけられる。
 ハッピにねじり鉢巻き姿の和希と、手を引かれた美也だ。
「あれ? ナズナ? うわ、誰かおもた!」
 和希は近づいて初めて、千十世と共にいるのが馴染みのなずなだと気付いたらしい。大きなネコ目をキラキラと瞬かせる。美也は何も言わないが、なずなの浴衣姿を上から下まで何度も見返していた。興味津々らしい。
ふたりのこの様子に照れながら、なずなも挨拶する。
「こんばんは、かっちゃん、みっちゃん。ふたりともかっこええなぁ」
「ふふん、せやろ!」
和希は小さな胸を盛大に反らした。
「これからガッツリ太鼓叩くからな! なっ、ミヤ!」
「ミヤな、バシバシやねん」
 そう言われてなずなは気づく。ハッピを胴体に押えつける腰布に、バチが挟まれている。毎年八奈結び神社の夏祭りでは近隣のお子様たちによる和太鼓ショーが開催されていた。去年抽選に漏れた和希は今年こそ、と意気込んでいたのをなずなは思い出す。その甲斐あってか、栄えあるメンバーに選ばれたようだ。
 和希は千十世の手を引き、社の奥へと歩き出す。
「もうぼちぼち始まってまう! チトセ、カメラは?」
「ばっちり」
「よし!! ほな、ナズナ! アニキと一緒にうちらのかっこえー太鼓、見に来てや!」
「え?」
 なずなは、そこでようやく思い至る。そうだ、繁雄の姿はまだ見えてない。
 と、千十世がそこで振り返りながら、やっぱりあの人の悪い笑みを浮かべ、ウインクひとつ寄越しながら言った。
「というわけで、子守りは僕が請け負うから。心行くまでふたりでデートしてきてよ」
「へっ?! ちぃくん、それっ、どーいう…っ!!」
 なずなの問いには答えず、「朝笑っちゃったからね、おわびおわび」と軽く言いながら、千十世は和希と美也に連れられて、人ごみの向こうに消えていった。
(でーと…?! でーと、て、ゆうんは、つまり…)
 再び爆発しそうになる頭をぶんぶん振るなずなに、通行人が不審の目を向ける。その中の一人が立ち止まって、
「…なず?」
 と声を掛けた。
 無論、繁雄である。
「し、し、シゲちゃん!!」
「おお、なんやそんなカッコしてんからわからんかったで」
 繁雄はいつもと変わらず、黒のTシャツにジーンズというラフな出で立ちだった。店で頭に着用している手ぬぐいは、さすがにつけていない。
ニカっと笑って、まっすぐ言う。
「ええな、似合ってるやん」
「あ、あ、あ、ありがとう…!」
 シンプルなその言葉で、堪えられないほど充たされてしまったなずなであった。裾で顔を隠したくなる衝動を、ハッと気づき、何とか押えつける。
 今、ここだ。
勇気を出すときは。
 ぶるぶる震える手をぎゅっと握り、喉をゴクリと鳴らし、目を固く瞑って言う。
「あ、あんな! その…お祭り、一緒にまわろ!!」
 やや絶叫気味のお誘いに、思わず周囲の足も止まった。
 面と向かって言われた繁雄も目をぱちくりさせている。
(し、し、しまったーーー! こない大声出してどないすんのん、うちのアホ!!)
 スコップがあったら穴を掘って埋まりたい…いや、スコップで自らを殴打して死にたい…と、悶えるなずなの肩を、ちょいちょい、と叩く指。見遣れば繁雄が苦笑して、
「俺もそない言おう思ててん。千十世が、和希の面倒みるから羽伸ばせ、なんて珍しく気ィ遣いよってな。ひとりで周るんもつまらんし」
「ほ、ほんま…?」
 信じられないものを見るような調子で言うなずなを、理解できないように首を傾げる繁雄である。
「なんで嘘つく必要あんねん」
「そ、そっか…せやんな、へへ……」
 なずなは気が抜け、脱力しそうになった。この幼馴染の挙動にやはり繁雄は首を傾げていたが、遠くから聞こえてきた歓声に、首をめぐらす。

 どんどん、どどん、どんどどん――

 和太鼓の、力強い響きだ。
 繁雄は慌てて足を速める。
「あかん、始まってもうた! なず、急ぐで!」
「! う、うん!」
 広場では、和希が力任せに和太鼓を打ちまくっている。美也も負けじとバチを振るう。それを千十世が絶え間なく激写する。
 そのハレの場に向かうべく急ごうとして、
「きゃっ!」
なずなが道に足を引っ掛け転びそうになる――
「おいっ、大丈夫か?」
 のを、繁雄がなんとか抱き留める。

 無言で何度も頷く彼女の顔を、祭提灯が一層赤く照らし出す。
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中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

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