八奈結び商店街を歩いてみれば

世津路 章

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夏やで!

第2話 千十世とチャリと壊れたカメラ・中

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「おかえりー」
 うどん屋に帰ってきた繁雄を、カウンターに座った千十世が顔も向けずに出迎えた。その視線は自前のノートパソコンに釘付けになっている。
「…ただいま」
「何人いた?」
「六人おった。今北村さんとなずが向こうの店で詳しい話しよるとこやわ」
 繁雄の言葉を受けてキーボードで短く記録を打ち込む。少しばかり首を伸ばして、繁雄はその画面を覗き込んだ。
「もう何件くらいになるんや?」
「四件だね。始めてから一週間だから、大体二日に一遍のペースになるよ。ただ、開始直後より頻度は減ってきている。いい傾向だ」
「さよか、それならええんやが―改めて数字で聞くと、ひどい話やな…」
「面白がってくる連中が、予想以上に多いみたいだね。うん、すごい迷惑」
 そう言いながらもどこかつややかですらある笑顔を浮かべる千十世とは対照的に、げっそりしながら繁雄はピッチャーを手に取り、コップに水を注いだ。乾いた喉によく冷えた水を流し込む。
いいことを思いついた―千十世のその発言の実態が、この『万引き撲滅☆FESTIVAL IN八奈結び』(命名・千十世)だった。
 ふざけた名前に反して計画内容は自体は至ってシンプルで、商店街組合内で対万引きネットワークを敷き、共同して事態にあたる、というものだった。商店街全体を幾つかのグループに分け隣組を結成し、どこかで問題が起これば同じ組の面々が即座に対処する。要するに、万引きに特化した防犯意識を共有し、共同戦線を張るというものだった。
 連絡を迅速化・徹底化するために、メンバーが各自でTMITTERの非公開アカウントを作成した。お年寄りのみのお店やネットに不慣れなメンバーの場合は、うどん屋に最低ワンコールすれば千十世がその情報を瞬時に発信することで対応した。また、商店街が一丸となって万引きを許さないことを示すため、ローテーション見回りも併せて実施する。
 千十世はようやくパソコンから目を放し、腕を上げて軽く伸びをした。その隣で立ったまま浮かない顔をしている繁雄を見て、あの意地の悪い笑いを浮かべる。
「またナマハゲ扱いされたの?」
「うっさいボケぁっとれ!」
 即座に顔を真っ赤にして噛みつく繁雄だったが、まさに図星だった。今回の実動メンバーの中で最も若く体格もいい繁雄は、両隣のグループに入ることを自ら買って出ており、既に一昨日初めての出動を済ませていた。もともと卑劣な万引きに対する憤りが強く、今もその気持ちは消えてはいないのだが―それが全身から発散されていたためだろうか、駆けつけた彼を見て子どもたちは口々に「ナマハゲー!」と絶叫、現場は一転して阿鼻叫喚の様相を呈した。
 つい今しがたも、子ども達が泣き喚くばかりで仕方がないので、北村さんとピンチヒッターのなずなに任せて退散してきたのだった。
「いやいや、いいことなんだよ? 悪いことしたらおっかないのが出てくる、って思わせるのがこの作戦のポイントなんだから。あ、いっそホントにナマハゲのお面つけてかぶっちゃう?」
「お前なぁ…」
 これ以上何を言ったところで混ぜっ返されるのを悟った繁雄は、ハァ、とため息をついてからカウンター席に座った。ナマハゲのお面をかぶるというアイデアが気に入ったのか、まだクツクツと笑っている千十世を見ていると、逆に一週周って気持ちが落ち着いてしまった。
だから、それまで聞こう聞こうと思って後回しにしていた質問が、この時自然と繁雄の口からこぼれた。
「……お前、なんで自分が作った案やって言わんかったん?」
 今回の計画の立案・プランニングと、細かな諸雑務などは、実のところ千十世が全て行っていた。人材が偏らないように配慮されたグループ分けに、ローテーションでの見回りのスケジュール管理、オンライン上連絡網の整備など、繁雄には思いもつかない様々な実務を千十世は瞬く間にこなした。
 だが、商店街の臨時組合会議でこの計画を発案する時、千十世はそれを繁雄に発案させた。そのため、繁雄が万引き問題解決のために動き出した発起人としてみなされ、商店街中から期待を寄せられている。それが、繁雄には心苦しかった。
 だが千十世は、やっぱり飄々と笑っている。
「人望がない僕が提案するより、実直なシゲが言った方がみんな盛り上がるし、乗ってくれるでしょ? それだけだよ」
 そんなようなことを言うだろうことも、繁雄はなんとなく察していた。が、いざ言われてしまうとやるせなくなってしまう。
「だからお前、チャンスなんやないか。おーなんや千十世やるなーって、みんなにわかってもらうのに、ごっつええ機会やろ。商店街全体で団結するための仕組みとか、俺には作られへんかったし…ってか、考えつきもせんかった。こうせぇへんかったら、北村さんみたいに泣き寝入りする人かて…絶対多かったやんか」
 話をしながら、繁雄は自分が千十世の手柄を横取りしてしまったようで嫌だったのだと気付いた。
まだ始めてから間もない取り組みだが、行動するだけでも大分心持が楽になった、という声が実際に上がってきている。
 小さな靴屋を一人で守り続ける柳瀬ばあちゃんは、一度子どもがスパイクを盗んでいくのを目の前で見たが、足が悪くて追いかけられなかった。それがあまりにも悲しく、また恐ろしく、最近は不安でたまらなかったという。それだけに、近隣と繋がって万引きに対抗するこの計画のおかげで、随分気持ちが軽くなったのだそうだ。「シゲちゃん、ほんまおおきに、おおきにな」と涙目で頭を下げてくるばあちゃんに対して、繁雄はちゃうねん、と言いたくなる衝動を抑えた。ちゃうねん、ばあちゃん。これは千十世が考えたことなんや、礼は千十世に言うたってぇや―だけどそう言ったところで、隣に座っていることの幼馴染の喜ぶ顔が、繁雄はどうしても想像できなかった。
 今だって、
「僕はいいよ、そーいうの」
 …そう言って、全く興味がない―ともすれば、疎ましいとすら思っていかねない―そぶりを見せるのだから。
 何ともしがたいジレンマに、ついうーんと唸っている繁雄を見て、千十世はくすっと笑う。
「シゲはお人よしだねぇ」
「…いきなり何の話やねん」
「だって、僕に責任押し付けられてるとか、全く考えてないわけでしょ?」
 千十世はちょい、と片眉を上げる。
「今の調子だと、なんかあったら全部シゲのせいになるんだよ? 僕がそういうのシゲに全部投げてる、とか思わないの?」
「は?」
 ポカン、と繁雄は口を開いた。ああ、なるほど、そういう見方もあるんか―とは思ったものの、すぐにクシャっと顔を崩して笑った。
「何言うてんねん。お前そんなんと―」
 ちゃうやろが。
 その最後の一言と同時に勢いよく店の戸が開き、
「アニキ、ただいまーーーー!」
 と、けたたましい声が店内に響いた。
「和希、せやからもっと静かに入ってこい言(ゆ)うとるや
ろ!」
「チトセ、よっ!」
「よっ」
「シカトすな!」
 繁雄の怒号を潜り抜けて、和希が店内に入ってくる。その後ろに、千十世の妹、美也の小さな姿も続こうとする。
「しげにぃ、こんにちは」
「おー、美也。こんに…」
「ぶにゃー」
「ちわ…」
 礼儀正しい挨拶につい見逃しそうになってしまった繁雄だが、美也の腕に抱きかかえられているそれを見て慌てて制止する。
「美也。うち一応食いもん屋やからな? 猫はあかんで?」
「…ともだちやのに?」
「ぶにゃフーッ」
 普段感情が乏しく人形のような表情を浮かべている美也の顔に、ほんのりと哀愁が漂う。美也に抱きかかえられているでっぷりとしたノラの黒猫は、ふてぶてしく繁雄を見上げ、尻尾をバタバタさせて抗議した。
この猫は繁雄や千十世、なずなが小さい頃にはもう
八奈結び商店街に住みついていて、誰がつけたか
〝日なた窓〟という名で親しまれている。
「美也、日なた窓にバイバイして」
 千十世がそう言うと美也は小さく頷いて、店から一・二歩出たところでしゃがみ、日なた窓を下した。美也が頭を撫でながら「ばいばい」と言うと、日なた窓は可愛くない泣き声を上げて、のたりのたりと去って行った。それを見届けてから、美也は店に入り、戸を静かに閉めようとした―その時、それを誰かが止めた。
「あ…みんな、いたんやね」
 閉じかかった戸を改めて開いて入ってきたのは、なずなだった。店内の面々を見てどこかほっとした顔を見せる。
「おうなず、お疲れさん。話し合いは終わったんか?」
「シゲちゃん…えっと、それが…」
 なずなは自分の隣りを見やった。そこにはなずなに手を繋がれた少年がひとり、顔を俯かせて立っている。
「あれ、そいつもしかして…」
 繁雄がそう言うと、なずなが頷いて続ける。
「うん、北村さんのお店に万引きに入った子の、ひとり」
 その言葉に反応して、千十世も体ごと向きなおった。店内に流れる緊迫した空気の所以を全く理解していない和希と美也は、呑気にピッチャーから水を注いで飲んでいる。
 頭を下げていても繁雄と千十世の視線が宛てられたのがわかったのか、少年は沈痛な面持ちを一層強張らせた。だが、優しくなずなに手を引かれ、止むをえずともに足を進め、促されるままにテーブルの席に着いた。少しの間、店内に気まずい沈黙が流れ、和希が三杯目の水を飲み干す音が響くばかりだった。
「他の奴らはどないしたんや?」
 訝しげに繁雄が尋ねると、少年の向かいに座ったなずなはおずおずと話し始めた。
「シゲちゃんが来てくれた後、少し落ち着いてから北村さんとうちとで、話をしようとしたんよ。そしたら…その、みんな『自分はやってない』って、言い始めて…」
「はぁ?!」
 予想しなかったなずなの言葉に、繁雄は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「んなアホな…北村さん、ちゃんと見たんやろ?」
「うん、前にも見覚えあるって言うてたし、間違いは
ないみたい。何人かがお店側の注意をひきつけて、残りが万引きしてってパターンも、商店街の寄り合いで言われてたんと同じやったし。ただ確かに今回は誰も品物盗ってなかったんよ…この子以外は」
 なずながそう言うと、再び繁雄と千十世の視線が、一層鋭く少年に突き刺さった。少年は顔を更に俯かせて、今にも消え入りそうなほど体を小さくしている。
「他の子は、この子に万引きするの手伝えって脅されたって口を揃えて言うんよ…実際、他の子らの持ち物からは万引きの品物は出てこんかってん。せやけど…」
「せやけど…なんやねん?」
 言葉を濁らすなずなにそう訊ねた繁雄だったが、少年を労しく見つめるなずなのまなざしを見て、言われずとも察した。
 確かにどうにも、おかしい。
 他の子たちから一様に『こいつに脅された』と言われた当の少年は、よく見れば小さく震えていた。俯いているためはっきりとは見えないものの、酷く青ざめている。万引きがバレて怯える子ども…という風にも勿論見える。だが、それ以上に少年の表情は逼迫していて、無慈悲に突き出されて死を待つばかりの生贄―そんな悲壮感すら、漂わせている。
(こんなヤツにそんな大それたこと出来るか…ちゅうことか)
 一連の万引き騒動に腹を立てている繁雄ですら、冷静になってしまうほど少年は縮こまっていた。お人よしな北村さんやなずななら、言わずもがな、である。
「事情を聞こうにも、喋ってくれへんし…場所替えたら、ちょっとは落ち着くやろう、って」
「なるほどなぁ」
 申し訳なさ気に言うなずなに、気にするなと繁雄は手を振った。だが少年のこの有様だと、場所を替えたくらいで話をする気になるだろうか、とも思った。事実、なずなと繁雄の間で会話が途切れると、またすぐ重たい沈黙が流れそうになる。
 が、
「あれ? 自分――」
 空気を読まない和希の高い声が、ぴょんと跳ねる。和希はカウンターに空のコップを置くと、軽いステップで少年のすぐ傍にやってきた。そして遠慮なく少年の顔を覗き込む。
「やっぱそうや。コイツ隣町の米図(よねず)小のヤツやで」
 和希がそう言うと、少年はビクリと大きく肩を震わせた。どうも本当らしい。
「なんや和希、知り合いか?」
 思わぬ展開に繁雄が面食らってると、和希は頷いた。
「この前うち、米図小にバスケの練習試合に行ったやろ? そん時帰ろうとしたら五・六人で体育館の裏に行くのが見えてん。何やろーって思って行ってみたら、コイツがリンチされとった」
「り、リンチ…?」
 気の弱いなずなは、その言葉を聞いただけで頭から血の気が引いた。ケロッと語られる妹の体験談に、繁雄も目を白黒させている。
「お、お前…それでどないしたんや?」
「どないするもなんも、大声でみんな呼ぶ振りしたら、アホみたいに走って逃げてったで。残されたソイツが心配になって寄ってったったのに、ありがとうの一言もないままヨロヨロ帰りよるし…あ、なんか思い出したらムカついてきた」
 和希は普段と何ら変わらないノリで、一度会っただけのはずである少年の肩を馴れ馴れしく抱き、あくどい顔を作りながら揺さぶった。
「おうおうニイちゃん、助けてもらったらなんてゆうかオカンに習わんかったんけ? んん?」
「…和希、頼むからちょっとは空気を…」
 読んでくれ、とため息交じりに繁雄が言い終えるその前に、
「う、う、わああああああああ!」
 少年が、堰を切ったように泣き出した。
「な、なんや?!」
 驚いて、和希は少年から離れる。少年はそれまで抱え込んでいた全てのものを吐き出すように、頭を激しく振りながら泣き喚いた。
「ぼ、僕かて……僕かて、やりたくて、やったんやない……! ひっく…ぐずっ………ぎゃ、逆や……脅されてたんは、僕のほうや……やのに、あいつら…!」
 泣きじゃくる少年の言葉に、繁雄となずなは目を合わせた。怪しい、という直感は、間違っていなかったのだ。
「もしかして、君…いじめられてるん…?」
 ゆっくりと、出来る限り優しく、なずなが尋ねた。少年はまだ大粒の涙が流れる両目を手でこすり、鼻を鳴らしながら頷いた。それまでは貝のごとく閉ざされていた口は、一度開いてしまえば誰かに聞いてほしくてたまらなかったというように、言葉を次々と吐き出していく。
「クラス替えしてからずっと……夏休みになっても家までやってきて、連れ出されて……八奈結び商店街の怖いじいちゃんがおらへんくなったから、今やりたい放題やって言うから、何をやって聞いたら……万引きやって、言われて……」
「…なんちゅうこっちゃ……」
 少年の悲壮な告白に、繁雄は奥歯をきつく噛み締めた。千十世の推測通り、磯浪さんが亡くなったことで流れた俗悪な噂に対してと、この少年が受けた卑劣な仕打ちに対して、血が加速的に暑くなるのを感じた。
 店内はシンと静まり返った。状況をおぼろに呑み込み始めた和希も、ふざけた眼差しを取り下げてバツが悪そうに少年から離れる。扇風機が首を振る音ばかりが機械的に響いた。
 それを何とかしようと、青ざめた顔をしたなずなが必死で言葉を探して口を開いては閉じてを繰り返してはいた。だが重苦しい沈黙を破ったのは、ガタ、という音だった。
 千十世がカウンター席から立ち上がり、一歩、少年へと歩み寄る。
 少年は泣きじゃくって震えていた肩をびくりとさせ、恐る恐る顔を上げた。
 その視線が、まともにぶつかった。
 無表情の中にも侮蔑の色を明確に浮かび上がらせた、千十世の眼差しと。
「君はそれ、誰かに言ったの?」
「え…?」
「助けてくれって、誰かに言ったの?」
「おい、千十世…?」
 場がおかしな方向に流れそうになるのを察知した繁雄が、千十世を制止しようとした。
だがそれより先に、
「言えるわけないやんか!」
ヒステリックな少年の声が店内にビリビリと響いた。
「言えるわけないやんか、そんなん…バレたらもっと殴られる! ……それに…」
「それに?」
「母ちゃんに…僕がこんなになってるやなんて、知られたない……」
 そう言う少年の声は針を刺された風船のように急に萎んだ。そして、再び嗚咽が漏れ始める。あまりにもいたたまれない少年の姿に、繁雄も、なずなも、和希や美也も、どう声をかけていいかわからずやりきれなくなった。
 ただ千十世だけがやはり冷然とした面持ちのまま、


「じゃあ君は、一生そのままだね」


 そう言った。
 ごく自然に吐き出されたその言葉に、一同は唖然とした。しゃくりあげていた少年も、息を止めたように動きを止める。
 千十世はそれ以上何も言うことなく、カラン、とゲタを鳴らして―そのまま店を出た。
 ピシャン、と静かに閉じられた戸の音で、ようやく繁雄が思考の回転を取り戻す。そこからは、早かった。停まっていた脳内の遅れを取り戻すかのように、全身の熱が急激に昂ぶった。再び少年が泣きじゃくり出すのと同時に、繁雄は店を飛び出した。
「千十世ぇっ! 待たんかいゴラァ!!」
 日の傾いてきた八奈結び商店街の大通りには、夕飯の買い物に来たお客さんがちらほら見かけられた。その中で、五軒隣にある北村さんの文房具屋を、軒先から覗き込むようにしていた千十世をすぐさま見つけ、叫ぶやいなや繁雄は猛虎のように駆け寄った。そして力任せにその肩を掴み、無理やり自分の方に向かせる。往来の人々の視線が一気に集まるのにも気づかず、繁雄は感情のまま千十世に怒鳴りつける。
「お前…あの子に謝れ、今すぐや!」
「なんで?」
「あの場で…あんな傷ついとる子に向かって、言うこととちゃうやろ――!」
 千十世の肩に、より強く繁雄の爪が食い込んだ。背丈こそ同程度だが、棒切れのような体躯の千十世に対し、中学で野球をやって鍛えていた繁雄の体格では、力の差が歴然としている。繁雄に力任せに掴まれてはとても堪えられそうにない千十世だが、その苦痛がまるで表情に出ない。普段浮かべているあの人を食った笑いすらどこかにやってしまって、その眼にガラス玉のような冷たい光を灯すだけだった。薄い唇がやはり平然と開かれて、繁雄に反論する。
「じゃあ僕が謝れば、あの子は救われるの? いじめっ子も反省して、あの子のこといじめなくなって、万引きもついでになくなるってわけ?」
「…ッ!」
「彼は言った、おかーさんにバレるのが恥ずかしから助けてほしいって言えないって。なら、仕方がないじゃない」
 淡々と紡がれる千十世の言葉に、繁雄はどんどんと体が熱くなるのを感じた。
耳元で、血の勢いよく猛る音がする―
「それが彼の選択で、望みだもの。それならそのままで居続けるしかないし、僕らがどんな言葉をかけたところで――」

バキッ!

 成り行きを見守っていた周囲に、どよめきが走り、小さな悲鳴もあがる。
 感情が沸点に達し、勢いで放たれた繁雄の右ストレートが、千十世の左頬を打ち、その口端から血が一筋流れ落ちた。
 ただ、繁雄の動きを見切った千十世はミートする直前でほんの半歩のけぞり、その威力を殺いではいた。だが完全にダメージを打ち消せはしない。殴られると同時に肩も解放されてはいたものの、千十世は体勢を崩して、そのまま俯いていた。
「……ハァッ…ハァ…ッ…そうと、ちゃうやろ…そういうことや、ないやろ…!」
「……」
 怒りを爆発させてなお、繁雄は荒ぶる思考を鎮めることが出来なかった。それをなんとか、言葉にして外に吐き出さずにはいられなかった。
「いじめられてんのが恥ずかしいから助けてほしいって言えんとかな…そんな状況自体、あったらあかんことやろうが…! そんな状況に無理やり放り出されて、辛い思いして、どないもできん―声も上げられへん弱い奴のこと、そうやって突き放すんが正しいって、お前は言うんか――?!」
「……」
 千十世はなおも俯いて、何も言わない。その様子がまた、繁雄の血を沸騰させる。
「なんとか言えや、千十世ぇッ!」
「ちょ、ちょお、落ち着けや繁雄!」
 再び千十世に掴みかかろうとした繁雄を、騒ぎを聞きつけ駆けつけた豆腐屋の角井さんが後ろから取り押さえた。
「離してぇや、角井さんっ!」
「アホぬかせ! お客さんビビっとるやないかこのタコ! お前らなんでいきなりケンカなんか――」
「――どれだけ正論並べたところで、〝そんな状況〟はなくならない」
 がっちりと羽交い絞めしてくる角井さんから逃れようともがく繁雄の耳朶を、千十世の声が冷や水のごとく打った。
 肩越しに角井さんを見ていた繁雄は、その視線を正面に戻して、はっとした。
 千十世も顔を上げて、また彼を見ていた。
 その顔にあったのは、先程までの無表情でも、繁雄の良く知る薄ら笑いでもなかった。
 散々に使い倒され、明日には自分が廃棄されるのを知ったボロ雑巾のような、底のしれない陰ばかりが差している――。
 繁雄が初めて見るその表情に絶句していると、空洞を通るかのような昏い響きのする声で千十世は続けた。
「理不尽で、目も当てられない、世間一般からフタをされてしまうような臭いしかしない、どうしようもない状況――そんな中にいる奴は、それでも足掻き続けなきゃいけない。フタをするなって、引っ張り上げてくれって、声を上げ続けなきゃいけない。それが…どんなに惨めで、望みがないとしても」
 そして繁雄に背を向け、
「その闘いを放棄する奴に、僕は謝りたくない」
 そう言って、カラ、コロ、とゲタを引きずり、すぐそこの角を曲がって千十世は去った。
「…何やったんや、一体…」
 緊急参戦のため事態をさっぱり呑み込めない角井さんは、そう呟いて繁雄から体を離した。繁雄が脱力しきっていて、これ以上騒ぎを起こさないだろうと判断したのだ。
 角井さんの呟きにも、周囲のどよめきにも、繁雄は全く気が向かなかった。
 平行線だ、と思った。
 今でもやっぱり、千十世があの少年に向けて放った一言を許すことはできない。
 だが――千十世は千十世で、何か譲れないものがあるのもわかってしまった。
(あいつ…何ちゅう顔しよるんや……)
 最後に見せた千十世のあの表情を、繁雄は反芻した。幽霊の方がまだマシかもしれないと思うほど、得体のしれない不気味さがあった。普段へらへら笑っているのは、ともすればあんな一面を隠すためなのかもしれない――。
 そうした考えに沈んでいると、その背後でザッと足音がした。
「…おい、シゲ坊。これは――体何の騒ぎや?」


   ◇◆◇


「…どう? 落ち着いた、かな?」
 なずなはようやく泣き終わり、鼻をスンスン鳴らしている少年にそっと声をかけた。
 少年―名を高橋というのだと、辛うじて口にした―は目を乱暴にこすりながら、小さくひとつ頷いた。
 千十世を追いかけて嵐のように繁雄が飛び出して行った後、高橋少年はひたすら泣きじゃくった。それは今まで誰にも言えないで溜め込んでいたフラストレーションの爆発でもあった。なずなは泣き声と共に発散される彼の思いのたけをぶつけた言葉を、否定せず、手を握って優しく頷きながら耳を傾けた。
「…辛かったやんね。よう、今まで我慢してきたね」
 柔らかな毛布で包むようにかけられたなずなのその言葉に、高橋少年の瞳はまた潤んだ。
 カウンター席で話を聞いていた和希は、それまで何
とかこらえていたが遂に耐え切れず、「あ゛ーーー!!」
と奇声を発し、両手で頭をわちゃわちゃとかき乱した。
「あーもうなんなん?! 教科書にガムとか落書きとか机ないとか、先生もグルになっていじめしとぉとか…ありえへんし米図小!! 許されへん!!」
「ちょちょちょ、ちょっとかっちゃん、どこ行くん?」
 ずんずんと戸に向かって歩いて行く和希を、慌ててなずなが止める。怒りで血が頭に上っているらしく、大きくクリクリした瞳が今は兄のようにキツく吊り上っていた。
「今からそいつら殴りに行く!」
「ダメーーーーーーーーーーー!」
 叫んだ勢いでバランスを失い、なずなは椅子からものの見事に滑って落ちた。その見事な間合いに、カウンター席に座っている美也が拍手を投げかける。
「あいてて…かっちゃん!」盛大に打ち付けた腰をさすりながら、なずなは精一杯厳格な顔をする。「女の子がそんな危ないコトしたらあきません! それに今夏休みやから! 行ったところで誰もおらんから!」
「あ、そっか…ちぇっ」
 それを受けて、しぶしぶと席に戻る和希だった。何とかこの爆弾娘を押し留めることに成功し、床に正座してほっと一息吐いているなずなの耳に、クスクスという笑いが響く。
 彼女がはっと高橋少年の方を見ると、彼は恥ずかしげに俯いた。だけどやっぱり一連の出来事が面白かったらしく、顔を綻ばせる。
「おねえちゃんら、おもろいな。……僕、こんなん、ひさしぶりや」
 こんな些細のことで心から喜ぶ高橋少年を見て、なずなは自分まで泣き出しそうになってしまった。それを必死で堪えていると視界の端で、美也がカウンター席から、ぴょん、と飛び降りるのが見えた。
 美也は小さな足でてくてくと歩いて行くと、高橋少年の隣のテーブル席に座った。そして精一杯その手を伸ばして、彼の髪を一生懸命撫でた。
「あんな、ミヤがこわいゆめ見ると、おにいちゃんこうしてくれんねん。そしたらな、こわいゆめどっかいくねん。やからな、だいじょぶ」
 幼く、たどたどしい美也の言葉には、それでも真心が詰まっていた。受け取った高橋少年の鼻が、また赤く、グズグズと鳴り出す。なずなは微笑みながらその光景をしばらく見守っていたが、立ち上がってテーブル席に座りなおすと真正面から少年を見つめた。
「なあ、よかったら…また八奈結びにぉへん?」
「え…?」
 突然の申し出に、高橋少年は目をぱちくりさせた。柔らかく笑いながら、なずなは続ける。
「米図小の子やったら、ちょっと遠いかもしらへんけど…なんかあったときにはな、話くらい聞くことはできるで?」
「せやで! なんやったら一緒にやり返したるし!」
「かっちゃん!」
 和希の横やり(本人はいたって真面目)を一喝し、なずなは咳払いして話を戻す。
「…うちもな、わかるで。誰にも…それがお父さんとかお母さんとかやったら余計に……その、知られたないっていうの。でも、嫌な気持ちは吐き出さんとあかん。うちでよかったら、いつでも話聞くから。せやから、おいで」
 気弱ななずなには、いじめられていることを誰にも打ち明けられない少年の気持ちが理解できた。少年ほど深刻ではないにしろ、ドジな彼女は小・中学生の時にはよくからかわれて嫌な思いをした経験も多々あった。
だけどその時は、繁雄が彼女の代わりに怒鳴り、千十世が悪態を吐いてくれた。今よりうんと幼かった和希と美也も、明るく励ましてくれた。今少年に必要なのは、そういう拠り所なのだ、となずなは直感していた。
 高橋少年の目頭が熱く潤み、こらえていた涙が幾筋にもなって頬を滴った。だが今度は泣き喚くことはせず、思い切り頭を下げた。


   ◇◆◇


 夕暮れの茜色に、八奈結び中が染まっている。
 とりあえず今日のところは高橋少年年を帰すことにしたなずなは、再び北村さんの店を一緒に訪れた。盗った消しゴムは既に返していたが、もう一度きちんと謝りたいと彼が言ったのだった。だが訪ねた時には北村さんは留守にしていて、店には鍵がかかっていた。
「ほしたら、僕、また明日来ます。今日はとりあえず…帰ります」
「…ひとりで、大丈夫?」
「平気です。チャリで来てますから」
 心配そうに尋ねるなずなに、高橋少年ははにかむように笑って答えた。そこにはまだやはりぎこちなさがこびりついていたが、それでも最初黙秘を決め込んでいた時よりは大分心がほぐれているようだった。
「何かあったら、すぐ電話してな? 夜中でも大丈夫やからね」
 見送りはここまででいいと言うので、最後になずながそう念押しして、ふたりはそこで別れた。
 高橋少年はいつまでも自分を見送り続けてくれているなずなに手を振りながら、おぼろな記憶を辿って公園に通じる角を曲がった。
 着いたときにも増して、その通りは閑散とし、夕日を赤黒く映しだしていた。なずなと別れた時には周囲に取り巻いていた買い物客のざわめきも、通りを進むにつれて背の向こうに小さくなっていく。足元から這い登ってくる不気味な焦燥感にぞくりとして、高橋少年はすぐ先に見える公園へと走って行った。
 遊具の殆どないさびれた公園だったが、そこに自分の自転車がきちんと停まっているのを見て、高橋少年は内心安堵した。そして、中に入ったところで気づく。
「え――」
 目の前の光景の意味に気づくより先に、彼は両腕を突然何かに絡め取られた。
「な、なんや?!」
 慌てて左右を確認すると、それは彼と共に文房具屋へ万引きに入ったいじめっ子の二人が、高橋少年のそれぞれの腕をがっちり押さえている。
 突然の事態に、彼はただただ従わなければならなかった。左右の二人に引きずられるまま、小さな公園の奥にどんどん連れて行かれる。
「おー…遅かったやんけぇ」
 ドーム状滑り台の影から姿を現したのは、野球帽だった。他の仲間たちもそれに合わせてぞろぞろと出てくる。
「なん、で…?」
 文房具屋に誰もいなかったのを見て、彼はすっかりいじめっ子たちは既に帰ったものと思い込んでいた。その甘い見通しを嘲笑うように、野球帽は少年の正面に立つと、軽くその頬をはたいた。
「った…!」
「いやぁ、待ちくたびれたでぇ? あの後わりとすぐにオッサンから解放されたんはよかったけど…ほら、お前どっかに連れていかれたやん? いやーもー心配で心配で…」
 野球帽ははたいてそのままにしていた右手で、乱暴に少年の顎をがっちりと掴んだ。夕日の中逆光になっているその顔をずい、と高橋少年の前に突き出して、野球帽は続ける。
「お前…何も余計なこと言わんかったよなぁ…?」
「……!」
 今日一日、この商店街で出会った人々が満たしてくれた温かい安らぎが、その一言で高橋少年の中から消え失せた。野球帽は全てお見通しといった調子で、左の拳を高橋少年の鳩尾に突き付けると、微妙な力加減で、ぐりぐり、とねじる。左右から動きを封じられている高橋少年は、逃れる術がない。
「おい、早よ何とか言えや…」
「う、うう…僕は……」
 何も言ってない――その言葉が、のど元までせり上がった。
 それを言えば、とりあえずこの場はしのげる。二・三発は食らうかもしれないが、それ以上酷い目には合わないだろう。少なくとも、野球帽がにじりにじりと押し上げてくるこの威圧的な恐怖から、取り囲む他の連中の圧迫感から、逃れることはできる――


『じゃあ君は――』


 その時、鋭い痛みと共にその言葉は彼の脳裏に蘇った。
 それを聞いたのはつい先ほどの事だった。
 それは無慈悲な宣告で―事実だった。
 あの人は、こう言った。



『一生そのままだね』


 ――おぞましい寒気が、脊髄を駆け上った。
 目の前のこいつらに、こうして、付き纏われ続ける―暴力を振るうためのサンドバックにされ、暇つぶしのために嘲弄の的にされ、犯罪の片棒を担がされ、挙句の果てに全てをなすりつけられる――。それでもどうにか耐え抜いて行けば、いつか終わりがくるだろうと思っていた。それよりもこんな情けない自分を、誰かに――父と別れ、仕事ばかりで疲れている母親には、見せたくなかった。
 だけど――本当に?
 本当に、終わりなんかあるのか?
 卒業しても、奴らと縁が切れなかったとしたら?
 いや、仮に切れたとして―同じような奴らが、現れてしまったとしたら?
(――嫌だ…)
 その考えに、高橋少年は到底堪えることが出来なかった。そして気づいた時には、小さく開いたその口から、ぽつりと呟いていた。
「……て」
「あ?」
 訝しげに聞き返す野球帽に構わず、高橋少年は思い切り空を仰いだ。涙も、鼻水も盛大に垂れ流しながら大声で、
「助けてええええええ! 誰かああああああああ!」
喚いた。
 長い間腹の奥底に押し込んでいたその言葉を解き放った以上、もう歯止めなどは利かなかった。彼は声の続く限り絶叫し、必死に助けを求めた。無理な声の出し方をしたせいでどんどん喉が荒れてしゃがれていくのも、厭わない。
 高橋少年を取り囲むいじめっ子たちは最初こそ呆気にとられていたが、その様を見て囃し立てた。野球帽は後退して、わざとらしく腹を抱えて大笑いする。
「あっははははは! お前…バカとちゃうか! なっさけねー!」
「そんなんで誰も助けに来るはずないし! みっともなー!」
「だよねぇ?」
 嘲笑の中に混じる異質な相槌に気づいたのは、野球帽だけだった。他がまだ少年を笑い続ける中で野球帽が振り返ると同時にパシャ、というシャッター音が響いた。
「そうだよ、みっともない。情けないし、バカみたいだ」
 そのときになって、他の連中もようやく気づいた。
 公園には入り口が二つあって、少年達が出入りしたように商店街側に接続している。もう片方はその反対側に位置していて、通りの少ない車道に面している。
そいつは、そっちから歩いてきた。
カラン、とゲタを鳴らしながら。
「正直、どうしてって思うよ? 何で自分ばっかこんな目に遭わなきゃいけないんだ、理不尽じゃないかって。だってほら、他の奴らはさ、揃いも揃ってのほほんとアホみたいに幸せそうにつつがなく毎日を謳歌してるじゃない? ホント不公平にも程があるよね。だけど――」
 そいつはわざとらしく顔の前にかざしたカメラで、もう一度パシャリと写真を撮ってから、手を下げた。
「それでも、足掻き続けなきゃいけない。それがどんなに惨めで、望みがなくても」
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