不思議屋マドゥカと常冬の女王

らん

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第2章

不実な商人のまっとうな商売

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 ヨールカの村は、一本の木の苗から始まった。
 
  十三歳の少女ドニカ・ウリンが、三人の旅人をもてなしたとき、その中の一人が、ふとこう言った。
『この川の向こうに宿があればなあ』
 たった三人の客、その人たちのためだけに、彼女は海の民しか住まなかったチェスイー川東のこの場所に宿を作った。お供に彼女の婚約者と、一本の光モミノキ(プレタポ)の苗を携えて。
 光属性のこの木は、その根元に建つ、たった一軒の宿を真昼の太陽のような明かりで照らし、数年ぶりに訪ねてきた彼らを温かく迎えたという。
 ドニカのその心にいたく感激した旅人は、スキターニエ建国の折に、この名を与えた。
 
 ヨールカ。即ち、『光』――と。
 
 そしていま、その村は商人たちの村としてにぎわい、この春市は国中で最も有名な祭りの一つとなっている。

「ここでいいよ。マドゥカ」
『あいよ』
 
 マドゥカは毎年の場所にゆっくりと腰を下ろす。
 ハーディは村で一番広くて一番賑わう場所を、とっくりとながめた。
 やはり、客は例年より少ない。
 ドアノブに『ただいま留守にしています』の札をかけたハーディは、さっそくお目当ての人を探し始めた。

「いらっしゃい、いらっしゃい!」
「寄ってらっしゃい! 見てらっしゃい!」
 
 呼び込みの声も、心なしか寂しい。が、それでも広場は人で溢れている。
(来てるかな)
 人ごみをかきわけながら進むハーディの耳に、
「ハーディ!」
 と元気な声が聞こえた。
 声のした方を見ると、アザラシの毛皮のコートを着た少年が、こちらに駆けて来るのが見えた。

「ワタリ」
 
 一風変わった名前を持つ、リンゴ色のほほをしたこの少年は、海の民の子だ。
 正確な年はわからないが、おそらくハーディより二つ、三つ下の、十三歳か四歳だと思われる。
 何年か前、クジラがあがったというので、父と一緒に見に行って、ついでに解体も手伝ったときに知り合った。ちなみに、そのとき食べさせてもらったクジラの表皮は、すごくおいしかった。
 ワタリは村の暮らしに興味があるらしく、ヨールカにもちょこちょこ来るので、ハーディとも、たまに顔を合わせる。
「君も来てたの?」
「……うん」
 ワタリの顔が曇った。きょろきょろと辺りを窺いながら、小声で彼は言う。

「まだ、獲れなくてさ」
 
 ワタリは深いため息をつく。
「さっき、兄ちゃんが宿屋のおっちゃんに、えらいどやされてさ。まだ獲れないのかって」
 春の市では、海の民が獲ったクジラ料理が名物として宿屋で出される。これを楽しみにやってくる者も多い。雪解けが遅れていることはみんな知っているだろうが、そのせいで名物料理が食べられないとは露ほどにも考えないらしい。
「この分じゃ、腹の中の赤ん坊たちがクジラ食えるのは、いつになるやら」
 漁を生業とする海の民が、春一番に獲ったクジラの肉。
 それをまず食べるのは、出産を控えた妊婦たちだ。
 ハーディは、ワタリの兄、ユタカの精悍な顔を思い浮かべる。
 ハーディの記憶違いでなければ、夏には彼の初めての子どもが産まれるはずだ。
 海の民一の漁師、そして父親になる身としては、今年初のクジラは何としても自分の手で仕留めたいに違いない。
「もうアザラシの肉も少ない。今日は食べ物を買いに来たんだ」
 ワタリのため息は深くなる一方だ。
 時代の波は海の民にも容赦なく押し寄せているのだと、ハーディは思った。

「ワタリ」
 
 ふいに低い声が聞こえた。ワタリがびくっと身を震わせる。
 おそるおそる振り向くと、そこには、きついまなざしの逞しい男が立っていた。
「買い物は済んだのか」
「う、うん。兄ちゃん」
 左の頬から首にかけて、潮を吹くクジラ。右の頬から首にかけては、船に乗り銛を打つ男。海の民は、体の左側に一族を表す入れ墨を彫り、右側に彼がどんな仕事をするかを彫る。ユタカに厳しいほどの威厳を与えるそれらの入れ墨は、彼が海の民一の漁師であることを如実に物語る。
 
 黒く鋭いまなざしが、ハーディに注がれた。
 
 彼の瞳に映る自分の姿を、ハーディはじっと見つめる。先に目を逸(そ)らしたのは彼だった。
「行くぞ」
 ユタカが踵を返した。
「う、うん。兄ちゃん。またな、ハーディ」
「うん。またね」
 兄弟が行ってしまった後も、ハーディはじっと二人が紛れた方向を見つめていた。
 
 ハーディの父、ジムノベティは、海の民から分かれた『氷の民』出身だ。
 
 父の左頬にはカラスが。そして、右には笛を吹く少年が彫られていた。
 父は十三歳で一族と決別したという。以来、父が一族のことを言うのも、一族が父のことを話すのもタブーらしい。
 海の民と氷の民は、断絶してすでに百年以上がたっているらしいが、それでも、父の昔を何か知っているなら聞いてみたい。
 ユタカの、ハーディに対する決して好意的と言えない態度も、そこに由来している気がする。

「よう、ハーディ!」
 
 はっと我に返る。振り向くとそこには、自分が探していた人物、フォルティ・フォルディがいた。砂色の髪と愛嬌ある緑の瞳の彼は、どういうわけか真っ黒に日焼けしている。
「どうしたの? それ」
 フォルティは真っ白な歯を見せて言った。
「ああ、ちょっと常夏の島にな」
「そう、ちょうどよかった」
「? 何だよ」
 ハーディはさっそく、用件を切り出す。

「フォルティ、レティア・モリガンのスクラップ・ブック、持ってない?」
 
 フォルティは意外そうな顔になる。
「なんだ、お前もかよ」
「お前もかよって?」
「さっき、バッカスの親父さんにも聞かれた」
「バッカスさんが?」
 マドゥカほどではないが『バッカスの店』も、業界ではそこそこ名の知れた店だ。
(あのお客さん、バッカスさんのところにも行ったのか)
 この調子だと、心当たりのある大手はみな回ったとみるべきだろう。
 ――だとすれば。
「じゃあ、もうバッカスさんに売っちゃった?」
「いや。おれは持ってないから」
「持ってる人に心当たりは?」
 肩をすくめて、フォルティは答えた。
「特に」
「そう」
 少しがっかりした。が、意外な言葉がフォルティから飛び出す。

「でもな、確かミンディが持ってるはずなんだよな」

「ミンディが?」
 驚いて、ハーディは言った。ミンディは、バッカスの一人娘だ。
「そ。だから、バッカスさんが欲しがるなんて妙だと思ってさ」
「ところで、なんでミンディがスクラップ・ブックを持ってるって知ってるの?」

「だって、おれが売ったもん」

「……君が?」
 ハーディの言葉には、ちょっと非難が込められている。
 悪びれもせずに、フォルティは言った。
「だってさ、あのミンディが急にいっぱしの商人気取りで『これは、正当な取引だからね』なんて言うじゃん? 面白くってさ」
「だから、二束三文にもならないような商品を売りつけたの?」
 フォルティは首をすくめて言う。
「だって、それが商売ってものだろ?」
 ハーディは黙った。確かにフォルティの言葉には一理ある。だが、納得できない。

「だからって、もと自分が勤めていた店の娘さんを騙すことないじゃん」
 
 フォルティは昔、バッカスの店で働いていたことがある。二年とたたない間に、店の金に手をつけて、追い出された。孤児のフォルティが店を辞めさせられるということは住む家も失うということだから、彼はその足でそのまま村を後にし、数年後、何をどううまくやったのか、いっぱしの旅商人気取りで、再び村に出入りするようになった。そういう、面の皮の厚い男なのだ。
 そして、その面の皮の厚い男は、さらに厚かましいセリフを吐く。

「言うなよ。おれは親切のつもりだったんだぜ」

「親切?」
 フォルティは困ったように、肩をすくめる。
「だってさ、あのミンディだぜ? 商売なんか無理だよ」
 ハーディもその点は同意する。
 確かに、ミンディは商売人には向いてない。
「確かに、おれは大した価値もない商品を結構な値で売ったよ。けど、価値のないものを売れるものに仕立てていくのが、本物の商売人ってものじゃないか?」
 理屈は立派だが、単にフォルティはミンディをいいカモにしただけだ。
 いずれにせよ、二年前に母親を亡くして以来『わたしがやらなくちゃ!』という気持ちで、一生懸命溜めてきた貴重な資金を、平気で巻き上げるその根性が気に入らない。
 老婆心ながら、ハーディは忠告しておく。

「そんなやり方してると、いつか自分が痛い目見るよ」
 
 これはちょっと、フォルティの癪に触ったらしい。彼はむっとした顔で言った。
「おあいにく様。おれはこれでも結構うまくやってるんだ。親の七光りで楽に商売できる誰かさんたちと違ってね」
 ダーティがこの場にいれば迷わず殴りかかっただろうが、ハーディはそうはしなかった。
「とにかく、ミンディがスクラップ・ブックを持ってるんだね」
「ああ。けど、売るとは思えないね」
 フォルティの機嫌を直して、情報を聞き出す必要があるなとハーディは思った。 そして幸運なことに、ハーディにはフォルティを釣るための絶好の餌がある。
「ねえ、フォルティ」
「何だよ」
「これ」
 例の客から買った、石を取り出す。
 フォルティの目が輝いた。
「それ、本物か?」
 さっきまでの不機嫌をすっかり忘れて、フォルティは食いついてくる。
「よく見てよ」
 フォルティは虫メガネを取り出し、宝石をじっくり確かめる。彼はすぐにはしゃいだ声をあげた。
「うわ、すげえ! 本物のアーガイルストーンだ! しかも赤!」
 人さし指を立てて、尋ねる。
「情報割引特別価格、一本でどう?」
 フォルティが眉を顰めた。
「高けえよ。五十」
 いきなり半額とはなめられたものだ。しっかりハーディは言い返した。
「八十」
 憮然として、彼は呟いた。
「七十五」
 ここまでだな、ハーディは思った。
「はい。商談成立」
「まいどあり」
 フォルティは懐から、札束を取り出す。
「で、どうしてミンディがスクラップ・ブックを売らないと思うの?」
「ああ」、思い出したように、フォルティは呟く。
「だってさ、ミンディが売る気なら、そもそもバッカスさんがおれにスクラップ・ブックはないか、なんて聞くはずないだろ?」
 
 フォルティはまだ何か知ってる。
 
 そう直感したハーディは、勝負に出た。
「フォルティ、君に売ったそれだけど」
「これ? いまさら売るのやめたいなんて言うなよ」
「そんなこと言わないよ。じつはさ、それ、スクラップ・ブックを欲しがっているお客さんから買ったものなんだ」
 フォルティは石をまじまじと見つめた。そして、口の中でぶつぶつ呟く。
「へー。変わった格好した客だとは言ってたが、やっぱり」
(やっぱり知ってるんじゃないか)
 やはり、この男食えない。素知らぬふりを装って、ハーディはさらに切り込む。
「他にも、もっといいもの身につけてた。うまくいけば、二束三文が金塊に化けるかも」
 フォルティの目がこずるく光る。商人の顔で、彼は尋ねた。
「うまく巻き上げられそうか?」
 にっこりとハーディは笑う。
「巻き上げるなんて人聞き悪いこと言わないでよ。二束三文に付加価値をつけて売るのが商売、でしょ?」
 フォルティは考えている。
 不安に思う必要はない。ハーディは、じっと待つ。
「――よし。いいだろう」
 フォルティはおもむろに、懐から一冊の冊子を取り出した。
「お望みの、レティア・モリガンのスクラップ・ブックだ」
「やっぱり持ってた」
 
 フォルティの魂胆はわかっている。
 彼はこの後、ミンディに声をかけ、こう言うつもりだったのだ。
 
 この間は悪かったな。これが本物のレティア・モリガンのスクラップ・ブックだ。反省して、お前のために手に入れて来たんだよ。
 
 二度もだまされるマヌケはいないと思うかもしれないが、ミンディは、そんな言い分を疑いながらも、ひっかかりそうな女の子なのだ。また、フォルティの演技もこれまた名演技なのだ。嘘をつかせたら、おそらく、このジマー一だと思う。
「たっぷり儲けさせてくれよ~」
「わかった。約束する」
 満面の笑顔をたたえるフォルティに、ハーディは素早く釘をさす。
「だから、これはタダでいいよね」
「ええ? まじか?」
 真顔で、ハーディは言いきった。
「本気」
 フォルディが頭を掻きむしる。彼は口の中で、何度も何度も「まじかよ……」と呟いた後、情けない顔で言った。
「ほんとに、倍にして返せよ」
「うん」
 答えたものの、そんな気はさらさらない。
 フォルティのことだ。さっき買った宝石を、少なくとも三倍の値で売りつけるだろう。それでとうに元は取れているはずなのに、したたかなこの男ときたら。

「ああ、今日はほんとに大損だ……」
 
 などと、まだほざいている。
 フォルティの商魂たくましさにあきれつつ、ハーディは、次のことを尋ねた。

「で、ミンディがスクラップ・ブックを売りたがらない理由は?」

「なんだ、まだその話続いてたのかよ」
「だって、気になるじゃん」
「あのなあ……」
 言いかけて、フォルティはふっと口をつぐんだ。
「なに? どうしたの?」
「ハーディ。お前、そんなに、ミンディのことが気になるのか?」
 ずいぶん意味ありげな聞き方だ。ハーディは慎重に答える。
「……ミンディじゃなくて、どうして売らないのかが気になるんだけど」
「それを気になるって言うんじゃないのか?」
「そうだけど。でも、ミンディ自身のことが気になるわけじゃないし」
「ふーん」
 いやに含みのある、『ふーん』だ。
「だから、なに?」
 にやにやしながら、フォルティは答える。
「そんなに気になるならさ、本人に訊いてみれば?」
「ミンディに? 答えてくれるかな」
「きっと大喜びで教えてくれるって! お前になら」
 
 ミンディの仏頂面を思い浮かべる。
 
 小さい頃は仲が良かったが、彼女が商売人として修業を始めたあたりから、どうも避けられている節がある。とても大喜びで教えてくれるとは思えないが。
「そうは思えないけど」
 やんわり反論したハーディの肩に、フォルティの手が回る。
「……なに?」
「まあまあ、お前ならいけるって!」
「いけるって……何が?」
「そりゃあ、お前。なんたって、ミンディは……」

「あたしがどうかした?」
 
 噂をすれば何とやら。本人の登場だ。
 お気に入りのアーガラックのピンクの毛皮にその身を包んでいるミンディは、幼なじみというひいき目を差し引いても、十分かわいい。  
 そして、そのかわいい少女は今日も仏頂面だ。

「で、あたしが、なに?」
 
 大股で近づいてきたミンディが、ハーディにぐっと顔を近づける。
 その剣幕にちょっとのけぞりながら、ハーディは思った。
(無理しなくても)
 ちらりと彼女の足元に目をやる。ブーツの足先がのしかかる体重に耐えかねて、ぶるぶると震えている。ハーディとミンディの身長差は約十センチ。自分を大きく見せても、その差が縮まるわけではないというのに。

「じゃ、おれはこれで」
「あ!」
 フォルティは手を振って行ってしまった。
 
 困った。
 
 ハーディはとりあえず、「元気?」と挨拶してみる。
 ミンディはむっつりした顔で、言った。
「まあね。あんたは?」
「おかげさまで」
(えーっと……)
 会話の糸口がなかなかつかめない。とりあえず、無難な線から入ってみることにする。
「そう言えば、最近ジョゼッペさんの看病によく行ってるんだって?」
「……まあね」
「具合はどう?」
 ミンディの顔が曇る。
「あんまり、良くないわ」
「そう」
 
 ジョゼッペはヨールカ村唯一の墓守だ。十数年ほど前に突然、この村にふらりとやってきて、そのまま住み着いた。大人たちは、多分、どこかで罪を犯して逃げてきたのだろうと噂しているが、ミンディはこの老人のことを何かと気にかけていて、彼が倒れた去年の暮れからは、毎日のように食事を差し入れているらしい。村から浮いている者同士、何か引き合うものを感じているのかもしれない。

「そう。早く元気になるといいね」
「うん」
 何となく、会話が途切れた。
 切り出しかねていると、ありがたいことに、ミンディが会話を続ける糸口をくれた。
「で、それがどうしたの?」
「え? ああ、ううん。別に」
 そのわりには、気の利いた返しができない。
 ミンディがますます、へその曲がった顔をする。
「なら、こそこそ人のことを陰で話したりしないでよ。ベナやリーレじゃあるまいし」
 ミンディは村の女の子とは、あまりうまくいってない。
 はっきり物を言う性格もそうだし、怪しげな身寄りのない墓守の世話をしていることもそうだが、何より、ミンディの町の女の子のように洗練された雰囲気が、どうしてもこの村にはそぐわないのだろう。二年前に凍死した、ミンディの母親もそうだった。
「別にこそこそ話してたわけじゃないよ。ただ、レティア・モリガンのスクラップ・ブックのことで」

「レティア・モリガンのスクラップ・ブック?」
 
 途端にミンディの顔色が変わった。
(やっぱ、持ってるんだ)
 わかりやすい反応に、つい、ハーディはこう言ってしまった。
「ねえ、ミンディ。お父さんのところにも、あのお客さん来たの?」

「相手にしない方がいいわよ! あんなやつ!」
 
 いきなり激昂したミンディに、ハーディはやや面食らう。
「すぐ追い出してやったわ! あんなやつに二度とうちの敷居はまたがせないんだから!」
「てことは、ミンディ。最初にお客さんの相手をしたのは、お父さんじゃなくて、君なの?」
「まあね」
 凹凸少ない胸を張って、ミンディは言う。
「あんたは知らないかもしれないけど、最近は店番にもよく出てるんだから」
 つまり、最近までは危なっかしくて、店番にも使えなかったということだ。
 ハーディの気持ちを知ってか知らずか、ミンディはちょっぴり自慢げに言う。
「大体、レティア・モリガンのスクラップ・ブックは、商品としてはまったく価値がないのよ。そんなもの欲しがるお客さんが、まともなわけないじゃない」
 
 一見正論だが、ハーディには異論がある。

「お客さんをそんな風に言うのはよくないよ。それに、お客さんがまともかどうかより、ぼくたちがお客さんの欲しがっているものを提供できるかの方が、ずっと問題だと思う」
 ミンディはちょっとたじろいで、しかし、最後まで強気の姿勢を崩さなかった。
「――とにかく、あいつの相手はしちゃだめよ! いいわね!」
 
 行ってしまった。
 
 黙ってミンディを見送るハーディ。その背中に、そっと声をかけたものがいる。
「ハーディ」
 がんばりすぎて空回りしている少女の、父親だ。
「バッカスおじさん、こんにちは」
 黒い口髭をたっぷり蓄えたバッカスは、口髭と同じくらいたっぷり脂肪を蓄えた見事な樽腹をゆさゆさ揺らしながら、ハーディに歩み寄る。
「ああ、こんにちは。お前さんが村に戻ってくるのは、久しぶりだな」
 ハーディの父親は、ハーディが“聴こえる”とわかってから、ヨールカ村から距離を置くことにした。理由は単純。この村には、魔獣を専門に扱っている店がいくつもあるから。
 父は“聴こえる”息子に、この環境は酷だと考えたのだ。
 もっとも、当のハーディ自身はあまりに気にしてないのだが。
「うん。今年は冬も長いしね。雪が溶けないうちは、マドゥカも移動が大変だし」
 ミンディが消えて行った方を見る。もう彼女の姿は見えない。
 ほっとしたように、バッカスは普通の声で話を始める。
「ミンディのやつに、何か言われたか?」
「はあ」
 あの客のことを話そうかどうしようか、一瞬考えあぐねたハーディの答えは、自然曖昧なものになる。バッカスは、ため息をついて言った。
「まったく、つくづくあれに似てやがる。おれの手にはあまる娘だよ」
「まあまあ」
 苦笑まじりにハーディは言った。ミンディの母親は、西の町の生まれで、バッカスにひと目ぼれして、押しかけ女房同然に嫁いできたのだ。
「この前もなに考えたのやら、客の顔見るなり、追い出しやがって」
「そのお客さんって、アザラシのコートを着たお客さん?」
「ああ」
(やっぱり)
 確信を得た後で、疑問が一つ。バッカスにさり気なく確認をとる。
「おじさん、そのお客さんて、おじさんも見た?」
「ああ。柱の陰から、こっそりとな」
(意外と過保護だな)
 内心、苦笑する。さらに、質問。
「初めて見るお客さんだった?」
「ああ」
 バッカスはあごに手をやる。見事な黒髭をなでながら、親父さんは言った。
「けどなあ、どっかで見たような気がするんだよな」
「おじさんも?」
 驚いたように、おじさんは言った。
「お? ハーディ、ひょっとしてお前さんの所にも行ったのか?」
「うん」
「ははん。あのお客さんがこの時期の宿に泊まれたのは、お前さんのおかげか」
 見抜かれてる。やはり、フォルティやミンディのようにはいかない。
「うん。まあ」
 苦笑いしたハーディに、バッカスは笑みを浮かべた。
「で、おじさん。あの人の正体はわかった?」
「いんや。それに、あのお客さんを見たのは、もう何十年も前のような……」
「え? そんな前?」
 ハーディは急に自信がなくなってきた。
(やっぱり、ぼくの勘違いなのかな)
 しかし、客に会ったことがあるかどうかはとにかく、いまはスクラップ・ブックだ。
「バッカスおじさん、ミンディはもうスクラップ・ブックは持ってないの?」
「いや、それがな」
「持ってるんだ」
 バッカスは再びため息をつく。
「まあ、カスとは言え、あいつが初めて買い取った商品だからな。飽きもせず、よくながめてるよ」
「よくながめてる?」
 意外だ。
 かわいい物好きのミンディが、あんな気のめいるような本に興味を持つなんて。
「おじさんが取り上げたら?」
 バッカスは首を横に振る。
「家中探したが見つからなかった。多分、どこかへ隠したんだろう。それに、あいつも志だけは立派な商人だ。なら、商売で起こったことは、自分で責任を取らねえとな」
「……ミンディが店を継ぐことは、反対じゃないの?」
「反対さ」
 バッカスは、きっぱりと言った。
「お前さんもわかるだろ。この商売、へらへら笑ってても、楽じゃあない」
「……まあ」
「フォルティのやり方に腹は立ったが、あれで懲りてくれりゃ良かったんだがな」
 さすが、この道二十年以上のベテランだ。
 小手先だけうまいことやって、いっぱしの商人になったつもりでいるフォルティに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
「お前さん、スクラップ・ブックは?」
「うん。この通り」
 バッカスは再びため息をつく。
「フォルティか」
「うん」
「まったく、あいつもどこで人生まちがえたんだか」
 ハーディは黙って苦笑するしかない。
 ほんとにこの人はいい人だな、と思った。
「けどまあ、こうなったのは、好都合かもしれねえな」
「え?」
 バッカスは真剣な顔で言った。

「ハーディ。お前さん、これをミンディから買い取ったことにしてくれねえか?」

「……」
「ミンディには、おれからよく言って聞かせる。まあ、あいつも今回は反対しないだろ」
(確かに、それが一番いいかも)
 思ったハーディはあっさり承諾した。
「わかった」
「恩に着るぜ」
 自分の手の中にある、灰色の本を見つめる。
 開けようとして、やめた。
 
 ハーディは本を脇に抱え、マドゥカへと向かった。
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