12年目の恋物語

真矢すみれ

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季節外れのインフルエンザ

1.季節外れのインフルエンザ

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 コンコンッ。

「……ハル?」

 咳の音を聞いた気がして、夜中、オレは目を覚ました。
 なのに、隣のハルはとても気持ちよさそうに眠っている。

「……ん?」

 イヤな予感がする。
 オレは喉に手を当て、喉の奥の異変を感じ取るべくそこに気持ちを集中させた。
 ゴクリ。唾を飲み込んでみる。
 ……痛い。
 ってことは、さっきのはオレの咳か!?
 痛み自体は大したことはない。これくらい全く平気だ。だけど、問題はそこではない。

 隣に眠るハルに目をやる。
 うっすらとした非常灯の明かりに照らされたハルは、オレの動きに気付くこともなく、すやすやと眠っている。表情も至極穏やかで、じっくり観察しても、やはり呼吸が乱れている様子はない。
 ハルは大丈夫。風邪の兆候は見られない。
 ホッと一息つくとオレは慌てて、だけど、決してハルを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。

 洗面所に行き、普段はハルが使う体温計で自分の体温を計る。
 ……38度2分。
 最悪。マジで風邪かよ。
 喉の痛みから半ば予測はしていたけど、発熱までしているとは。完全に隔離コースだ。
 いや、喉が腫れてる段階で自主謹慎だけど。
 時刻は午前0時半。
 急いでマスクをして、スマホと実家の鍵、それから着替えを引っ掴むとオレは寝室を後にした。


   ◇   ◇   ◇


 翌日、実家からお袋に送ってもらってオレは病院を受診した。日曜日だから、行ったのは救急診療窓口。
 38度程度の熱くらい寝てれば直ると思う。だけど、少しでも早くハルの側に戻りたいと思えば、医者でも薬でも頼りたくなるのは当然だろ?
 結婚前なら、さすがに一日くらいは様子を見て、月曜日の通常診療の時間に受診したと思う。だけど、何というか、今はホント、一分一秒たりともハルと離れていたくないんだ。
 と思って、ただ風邪薬と解熱剤でももらって帰るはずが、念のためにと幾つも検査をされた。変なウィルスだったりしたら大変だからって。
 潜伏期間が長いものだったりしたらハルに万が一移っている可能性も考えなきゃいけないからと言われて、肝が冷える。
 今日受診して良かった!
 だけど、当然オレはただの風邪のはずで……。

「インフルエンザA型ですね」

「ウソだろ!?」

 反射的に声を上げると、研修医のバッチをつけた医者が苦笑を浮かべた。

「残念ながら陽性です」

「マジか~!」

 ようやく、大学での生活も軌道に乗りかけた5月頭、GWの最終日。入学して、一ヶ月と少し。
 初めての大学生活に身も心も疲れ気味のハルのため、GWは二人してゆっくり身体を休めた。だから、GW明けからはまた元気にお勉強、となるはずだったのに!
 GWの終わり、オレはなぜか季節を大幅に外したインフルエンザを発症したらしい。
 一体、どこで拾った!?
 周りでインフルエンザを発症した友人なんていない。ハルの通院には付き合うから病院には行くけど、今の時期に待合室にインフル患者が溢れているなんて考えられない。
 休み中にオレが一人で外に出たのは空手の練習くらい。帰りに淳と昼ご飯食べて……。

「叶太さん」

「あ、はい」

 目の前の研修医のお兄さんが、真顔で俺を見ていた。
 ごめん。忙しいよね。こんなところで考え事はダメだよな。

「看護師長から、生活における注意があるそうなので、奥の処置室に宜しいでしょうか?」

「はい」

 インフル感染で、いい年した大学生に直接生活の注意なんて、する必要があるはずない。しかも師長さんから。あっても注意点を書いた紙一枚渡せば十分だろう。
 となると当然、話はハルのことだろう。見覚えのあるお袋やお義母さんくらいの年の看護師さんに手招きされる。
 多分、4~5年前に小児科にいた看護師さんだ。

「お久しぶりです」

 俺から声をかけると、師長さん、若尾さんは少し驚いたように目を見開いた。

「お久しぶりです。覚えていらっしゃったんですね」

 若尾さんはにこりと笑顔を見せながら、オレに椅子を勧めてくれる。
 そこに座ると療養する上での注意の他、案の定、ハルに移さないように、治るまでは別居するようにとのお言葉。

「大丈夫。昨夜、発熱に気付いてすぐから、実家に帰ってます」

 そう言うと、若尾さんは

「釈迦に説法でしたね」

 と笑った。
 そして、『インフルエンザ出席停止期間について』という紙を渡される。

「念のため、この日程にそれぞれ2日プラスして、別居しておいて下さい」

「……えっと」

 発症した後7日を経過、かつ、解熱した後4日を経過、の両方を満たす期間って事?

「つまりですね」

 と若尾さんは渡された紙の数字を5から7、2から4に変えて、発症日に「日」、1日目に「月」と曜日を書き加えてくれる。

「発熱が始まった日が土曜日か日曜日かがちょっと微妙ですが、安心を買って、日曜日に熱が出たと考えましょう」

 オレが発熱に気が付いたのは、0時半。確かに、実に微妙な時間だ。1時間前に発熱に気が付いていれば、土曜日が発症日だろう。だけど、万が一を考えたら、ここで土曜日に発症したはずだと主張できるはずがなかった。

「……という訳で、水曜日までに熱が下がれば、月曜日には陽菜ちゃんと会っても大丈夫ですよ」

 それから、と若尾さんは続けた。

「陽菜ちゃんには会わない方がいいと思いますが、学校自体は発症後5日かつ解熱後2日経っていれば、行ってもらって大丈夫です。つまり、……あ、土曜日ですね。じゃあ、どっちにしろ、今週はお休みですね」

 若尾さんは

「まあ、ゆっくり休んでください」

 と笑って言ってくれたけど、今日から数えて、丸一週もハルに会えないなんて長過ぎだ。
 どうしようもないと分かっているけど、あまりの厳しい現実に思わず泣きたくなった。



 何はともあれ、ハルに報告だ。
 病院を出て家に戻ると、オレは速攻ハルに電話した。
 夜中、突然オレがいなくなって、ハルが心配するといけないから、実家に戻った直後にお義父さん、お義母さん、沙代さんの三人にメール連絡をした。
 だから、ハルももうオレが熱を出して実家に戻っていることは知っているはず。
 何度かの呼び出し音の後に聞こえたハルの声。

「はい、陽菜です」

 自分の携帯にかかってきているのに律儀に名乗るそんなところも大好きだ。

「ハル? おはよう」

「おはよう。カナ、大丈夫?」

 ハルの心配そうな声に申し訳なさが募る。

「うん。大丈夫。熱はあるけど元気だよ。なんだけど、……あのさ、なんか、オレ、インフルエンザにかかっちゃった」

「え? インフルエンザ?」

 ハルが驚いたような声で聞き返した。
 だよな。オレだってビックリしたし。

「うん。A型だって」

 一呼吸置いた後、ハルが言った。

「こんな時期でもインフルエンザって、あるんだね」

「……だよな?」

 ああ、ダメだ。なんで今、オレの横にはハルがいないんだろう?

「ハルに会いたい」

「ごめんね」

「ああ~! ハルを責めてるんじゃないよ!?」

「本当はわたしが看病したいのだけど」

「ダメダメダメダメ! ごめん! オレが悪かった! すぐ治すから、ハルは待ってて? ね?」

 オレの慌てっぷりがおかしかったのか、ハルはくすくす笑う。

「はい。大人しく待ってるから、早く治してね」

「ん」

「……でも、ごめんね」

「ハル、謝らないで」

「うん。……わたしも、早く会いたいな」

「すぐ! すぐ治すから!」

 ハルはまたくすくす楽しそうに笑った。

「首を長くして、待ってるね」


   ◇   ◇   ◇


 ピピピピ。
 発症に気付いてから二十時間ほど経った日曜日の夜八時。
 ベッドに寝転がったまま、脇の下から体温計を取り出す。
 39度ちょうど。
 まだ熱は下がらない。それどころか上がってるし!
 ため息を吐くオレの表情を見て、お袋が手を伸ばす。

「熱が下がってから5日だったかしら? ……それとも、発症から5日?」

 オレから体温計を受け取ったお袋は、小首を傾げた。

「そこに紙置いてあるよ」

 とテーブルの上を指さしつつ、

「今日、最短で月曜日って言われた」

「あら、長いわね」

「念のため、普通より2日長くハルには会わないでって。登校ってだけなら最短で土曜復帰だったんだけど、土曜日は休みだから」

 ただ、平日に解禁になったとしても、ハルが登校するならオレは休まなきゃいけなかったから、多分、同じことだ。
 昨日の夜から間もなく一日。丸一日ハルの顔を見られていない、ハルの温もりを感じていないなんてあり得ない!
 けど、万が一ハルに移したらと思ったら、こっそり物陰から顔を見ることすら恐ろしくてできない。
 ハルは小学校の低学年の頃、何度かインフルエンザにかかって死にかけている。本当に危険だったみたいで、それ以来、インフルエンザが流行し始めると、毎年、学校を休んでいるくらいだ。

「インフルエンザなんて、何年振りかしらね? ……っていうか、もしかしてあなた始めてじゃない?」

「そうかも。覚えてる限り、かかったことないから」

「まあ、インフルエンザで熱があるにしては元気だし薬も使ったし、ご飯もしっかり食べられているしね。じき良くなるわよ」

 お袋は脳天気に笑う。

「迷惑かけてごめんね」

 と言ったら、

「嫁に出した息子が帰ってきたようで楽しいわ」

 なんて、突っ込みどころ満載のコメントすらくれた。
 明日には熱が下がってくれたら良いんだけど、ホント。解熱のタイムリミットが水曜日だからって、ずっと熱出して心配かけるのはごめんだよな。


   ◇   ◇   ◇


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 TO:ハル
 件名:体調どう?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ハル、こんばんは!

 元気?
 喉が痛かったりしない?
 熱は出てない?
 少しでもおかしなところがあったら、
 すぐに病院行くか、お母さんかじいちゃんに
 言って診てもらってね?
 絶対我慢しちゃダメだよ?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 39度の熱にがっくりしつつ、オレがこんなメールを送ると、ハルは珍しくすぐに返事をくれた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 TO:カナ
 件名:RE:体調どう?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 わたしは大丈夫だよ。
 カナこそ、大丈夫?
 まだ熱が下がらないって聞いたけど。
 無理しないで、ゆっくり休んでね?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 特にハルは不調もないらしく、ホッとする。
 て言うか、オレの熱が下がらないなんて、誰に聞いたんだ。お袋? もしかして兄貴とか? まあ、どっちでもいっか。
 オレが熱を出したって、大した問題はない。多少だるいくらいで、寝れば直る。
 今だって、熱はあるけど、関節痛みたいなものはない。食欲もあれば、動けないほどシンドいなんてこともない。
 昨夜出ていた咳すら、その後はまったく出ない。あの一瞬の咳のおかげで、発熱に気付けたのだから本当に助かった。
 気付くのが遅れて、もしハルにインフルエンザを移したら大変なことになっていた。

 間もなく夜9時。
 いつもなら、お風呂を終えてハルとお揃いのパジャマを着て、一緒にベッドに入る時間。
 なのに、何故オレは一人寂しく実家のベッドにいるんだ!?
 寂しさを紛らわそうと、スマホに入ったハルの写真を眺めていると、不意にドアがノックされた。
 トントントン。

「はい」

「叶太、大丈夫?」

 と言う声と共にドアがカチャリと音を立てて開けられ……

「ちょっと待った!! 開けないで!!」

 パタン。
 ギリギリセーフ。ドアはすぐにまた音を立てて閉められた。

「えーっと、叶太?」

 ドアの向こうから戸惑ったような兄貴の声が聞こえる。

「メール! メール送るから、ちょっと部屋に戻ってて!」

「……あー、うん、了解。じゃあ、待ってるね?」

 基本穏やかな兄貴は訳が分からないといった様子のまま、何も追求せずに引き上げていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 TO:兄貴
 件名:一生のお願い!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 オレ、インフルエンザにかかったらしくて、
 最低でも一週間は学校に行けなさそう。(涙)

 ハルが一人じゃ危ないから、兄貴、大学でできる
 限りハルの側にいてくれる?
 て言うか、いてください!

 でもって、兄貴はオレの部屋は立ち入り禁止!
 家にいる時はマスクしてください。

 それから、オレの側にも来ないで。絶対!
 後、お袋をハルに会わせないで!

 て言うか、それは明日オレが言えばいっか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 オレが兄貴宛にメールを送って数分後、兄貴から電話がかかってきた。

「えーっとさ、登下校くらいは付き合うけど、院生の俺がハルちゃんの授業にくっついて出るわけにはいかないってのは、叶太、分かってるよね?」

 兄貴の声からは戸惑いがにじみ出ていた。

「え!? 助手になって潜り込んどいてよ!」

「ムチャ言うなよ」

 電話機の向こうから、兄貴の苦笑いが聞こえてくる。

「じゃあ、教室までの送り迎えと、昼休み!」

「送り迎え?」

「九十分授業って、結構きついんだよ。ハル、今のところ頑張ってるけど、それでも終わった後はかなり疲れてて、四月にも何度か、途中で授業を抜けて医務室に行ってるし」

「ああ、確かに高校よりはきついかもな」

「高校みたいにクラス毎に授業を受ける訳じゃないし、安心してハルを任せられるヤツもいなくて」

「うーん、どうしようかなぁ」

「だから、授業が終わる頃に迎えに行って、次の授業の部屋まで送ってってよ。荷物はハルに持たせたらダメだよ? 遠慮すると思うけど、ちゃんと持ってあげてね? で、長く歩かせないでね。どうしても移動が長い場合は途中で休憩ね? あ、後、一階上がるだけでもエレベーター使わなきゃダメだよ? それから顔色が悪かったり、呼吸が苦しそうだったりしたら、絶対に授業には行かせないで。家に帰すか、最低でも医務室に連れて行ってね? ハル、すぐ無理するから、先回りして止めてよ? それから、家に帰ってからは……」

「……叶太」

「ん? 何?」

「えーっとさ、お前が過保護だって知ってたけど、ほんっとーに過保護だな」

 しみじみとした声で兄貴が言う。

「え、いや、これくらい普通でしょ?」

「……普通の定義が間違ってるな」

「えー」

「あのさ、要望を全部聞くのは、基本無理」

「そんな~」

「まあ、できるだけはしてやるよ」

「兄貴! このお礼はいつか必ずするから!」

「まあ、可愛い妹のために一肌脱ぐさ」

 兄貴は半分笑いながら、そう言ってくれた。


   ◇   ◇   ◇


「兄貴、ハルのこと、本当に頼むよ?」

 翌朝、ハルを迎えに行って一緒に大学に行ってくれるという兄貴に、電話口でくどくどと注意事項を述べて、昨晩同様に今日も苦笑される。

「ハルを一人にしないでね? 絶対だよ、兄貴。本当に頼むよ?」

「分かった、分かった」

「沙代さん情報では、ハル、体調は悪くないみたいだけど。……あ! 弁当! そう、昼休み、一緒に弁当食べてね? 薬飲み忘れないように気を付けてね?」

「えーっと叶太、それは俺が言わなくてもハルちゃん忘れないと思うよ」

「ああ、まあそうか。いやだから昼休みだって! ちゃんとご飯食べられてるか、食欲はあるかを確認しなきゃだし」

「はいはい。朝、約束しておくよ。それよりお前、大丈夫? 熱、まだ下がらないんだろ」

「大丈夫。ハルに会えないのが寂しいだけで、元気だよ」

「あーそれはお気の毒さま」

 兄貴は苦笑するが、笑いごとじゃない。

「まあゆっくり寝て、早く治せよ」

「うん、ありがと。とにかく、ハルをよろしくね? あ、兄貴、なんかハルのことで分からないこととか困ったことがあったら、いつでも電話ちょうだいね?」

「はいはい。ホント、相変わらずハルちゃん愛されてるね~」

「うん、心の底から愛してる」

 力強く答えると、兄貴はプッと吹き出した。

「まあ、お前はそれが通常運転だよな」
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