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木曜日の朝一。牧村さんにもらった柿の葉寿司を食べていると高橋先生がやって来た。
「おはよう、響子先生。何食べてるんですか?」
「ん? 柿の葉寿司です」
「柿の葉寿司? 奈良土産?」
「へえ~。柿の葉寿司って奈良名物なんですか?」
「確か」
そう言えば、ずっと昔に食べた時には父がお土産に買ってきてくれたんだっけ?
よく覚えていないけど、多分出張に行ったとかそんな感じだったのだと思う。あれは奈良土産だったんだ。なんて考えていると、
「そっか、じゃあ昼か夜食にでもどうぞ」
とデスクにビニール袋が置かれた。
「あ、カップスープは今でも良いかも」
「良いんですか? なんか、最近もらってばっかで、すみません」
そう言いながら中を覗くと、日持ちのする菓子パンが三つとカップのお味噌汁が入っていた。パンと味噌汁の組み合わせが微妙で、そんなところが高橋先生っぽくて妙に笑える。
パンに味噌汁より、柿の葉寿司に味噌汁の方が合うだろう。
今日は午前に外来。多分、昼を食べられるのは二時か三時だし落ち着いて食べる時間はきっと取れない。けど、今なら時間がある。
「じゃあ、お味噌汁は今頂こうかな。ありがとうございます」
「どういたしまして」
高橋先生は満面の笑みを浮かべた。
なんで差し入れをもらった私より、高橋先生の方が嬉しそうなのだろう? なんか良いことあったのかな?
しかも、
「じゃ、お湯沸かして入れてくるね」
と機嫌良く袋からカップの味噌汁を取り出す辺りで、更に疑問が深まる。
「それくらい自分でやりますよ」
先輩にそこまでさせられないと慌てて立ち上がろうとすると、
「いいからいいから」
と肩を押さえられてしまった。
「自分の分も買ってきたんだ。一緒に入れるから大丈夫」
だったら、むしろ「一緒に入れてきて」と言われてもいい場面じゃないかな?
そう思ったけど、声をかける間もなく高橋先生は行ってしまった。
それにしても、この柿の葉寿司ホント美味しい。柿の葉に包まれたサバの乗った小さなお寿司。
一箱十個入りが二箱。一つずつは小さいけど逆に食べやいサイズ。
……てか、牧村さん、多過ぎじゃないかな、これ。
いくらでも入る美味しさだけど、残念ながら私の胃袋はそんなに大きくない。朝ご飯なら、多分三、四個でお腹いっぱいだ。
ああ、そうか。今日は夜も仕事だから、明日の朝食までの四食分?
「お待たせ。はい、どうぞ」
三つ目の柿の葉寿司を食べていると、目の前にトンとカップの味噌汁が置かれた。具は豆腐とほうれん草。
「ありがとうございます」
「それ、美味しい?」
「ムチャクチャ美味しいです」
思わず笑顔を向けると、高橋先生は目を見張った。そして、ニコリと笑う。
「そんなに美味しいなら、一つもらってもいい?」
「え? あ、はいどうぞ」
名残惜しそうな顔をしていたのだろうか、高橋先生はクスッと笑うと柿の葉寿司に手を伸ばし、
「それじゃ、一つだけ」
とつまみ上げた。
そのまま隣の席に座り、自分用に買って来たらしいパンじゃなくて柿の葉寿司を口にする。
「……本当に美味しいな、これ」
「えーと、もう一個食べます?」
そう差し出したのに、
「響子先生、本当はあげたくないなって思ってるでしょ」
と笑われた。
そんな顔をしているつもりはないのだけど。
「どこのだろう?」
「え? どこ?」
昨日の居酒屋(?)なのか、その前のどこかで買ったのか。
奈良土産ならそう教えてくれそうなものだし、きっとどこか近くで買ったと思うんだけど。
「今度聞いときます」
「……ところで、これ誰にもらったんですか?」
「え?」
なんと言えばいいのだろう?
え、彼氏? まだお試し期間だけど。いや、普通に知り合いにって言えば良いのか?
「もしかして、この前迎えに来てた……」
悩んでいる間に高橋先生が核心をついてきた。
「ああ、そう。その人です」
嘘もつけずに正直に言う。
「昨日の夜?」
「はい。ご飯食べに行って」
昨日の店、美味しかったな。また行きたいなぁ。
ファミレス代わりに一人で入るには敷居が高いし、道中寝てたせいで店の場所が分からないから行けないけど。
「そう、ですか」
話は終わったとばかりカップの味噌汁を手に取る。袋に入っていたお箸を取り出してクルクル混ぜる。良い感じに混ざりカップを手に取ったところで、
「あの!」
と高橋先生に突然大きな声で話しかけられ、さあ飲もうとカップを持った手が空中で止まる。
「今日、夜食べに行きません?」
「今日、当直ですよ、私」
今日は少しでも寝られると良いな。
「……あ。じゃあ、明日!」
「休みなんで来ないです」
「じゃあ、明後日は?」
高橋先生、今日はやけに食いついて来る。
明後日って、土曜日?
「響子先生、外来入りますよね」
「確か」
「土曜日だし、多分、早く上がれるだろうから夕飯どうですか?」
「えー」
てか、お味噌汁飲んでいいかな? 冷めちゃう。
早めに出てきて、せっかくゆっくりできると思ったのに気がつくと偉い先生方が出て来る時間が目前だ。
「響子先生の好きなものをご馳走しますよ」
「考えときます」
最近色々もらっているし、そもそもお世話になってる先輩だし、一刀両断には断りにくくてそう言うと、高橋先生は嬉しそうに笑った。
本当は人付き合いは苦手だし、そもそも面倒だけどたまには付き合わなきゃダメかなぁ。
ようやくお味噌汁を飲めると口をつけると、少し冷めて良い感じの温度になっていた。
◇ ◇ ◇
夜間救急外来の診療を手伝って、午前0時を回る頃にようやく仮眠。と思ったら三十分で救急車が来ると起こされて、緊急オペ。気が付いたら夜が明けていた。もう寝る時間でもないしと病棟の患者さんの様子を見て回っていると勤務終了時間になった。
結局、今日も眠れなかった。まあ、こんなもんだよね。
「先生、お疲れ様で~す」
「お疲れ様。お先に」
若い看護師さんの笑顔に見送られて病棟を後にする。
疲れた。でも、今日はいつもに比べて身体が軽い。きっと、柿の葉寿司のおかげだろう。
牧村さんにもらった柿の葉寿司は残すところ五つで、残りはちゃんと昨日の昼と夜に食べたのだ。小さくて頑張れば一口で食べられるサイズというのが良かった。午前の外来終了後と救急外来に入る前、それから仮眠前。ゆっくり味わう時間はなかったけど、お腹に何か入れるとやっぱり元気が出る気がする。
ご飯って大事なんだなぁとしみじみ思う。ふと振り返ると、最近、牧村さんのおかげでホントしっかり食べるようになっている。少し前まで勤務終了後にいつも感じていた全身にはびこる抗いがたいだるさが減っている。多分、ここ最近食生活が改善されているおかげだと思う。
ああそう言えば、次の約束をしてなかった。
一昨日は疲れ切っていて、何を話したかもろくに覚えていない。何を食べたかは覚えているところが笑えるけど。牡蠣フライが絶品だったしだし巻き卵もムチャクチャ美味しかった。ああそれから、あの日、手土産に柿の葉寿司をもらったんだ。
牧村さんを思い浮かべると、何故か食べ物ばかりに結びつく。餌付け……されてるよな、ホント。
そう言えば、一週間前の今日だったっけ。
思い起こせば、ちょうど先週の今くらいの時間に牧村さんと出会ったのだ。
先週も当直ならぬ夜勤明けで、今日とは雲泥の差のひどい体調で頭痛を抱えて疲れた身体を引きずるようにして歩いていた。
……次、あんな状態になったら無理せずタクシーで帰ろう。いや、内科の先生に診てもらって帰ろう、かな。今思い出しても、あれはまずかった。牧村さんがいなかったら、ホント大恥かいてた気がする。
そんなことをツラツラ考えながら歩いていたから、幻を見たのかと思った。
「……え、牧村さん?」
病院を出て駅へと向かう道に出ようと歩いていると、正面に満面の笑顔の、牧村さんがいた。
「おはよう、響子さん」
小さく手を振る牧村さんは今朝も変わらず爽やかだった。
「あ、おはようございます」
牧村さんはいつも通りにスーツ着用。こんな時間にここにいたら仕事に間に合わないんじゃないかな?
仕事……結婚詐欺師? そうか。普通のサラリーマンじゃないんだっけ。でも、本当に? だって、私、まだ一度もお金を払わせてもらっていない。
何かおかしいと思いつつ、結婚詐欺師というのは親しくなって心を許してから、「母が急病で」とか「会社で大きなミスをして」とか言ってお金を引き出すのだったなと思い出して、自分を納得させる。
「なんでここに?」
「お迎えに。出勤を少し遅らせました」
笑顔のままに牧村さんは私の荷物に手を伸ばす。うっかり反射的に渡してしまい、慌てて「あ、いえ自分で」と取り返そうとするけど、牧村さんはニコリと笑って「持つので大丈夫ですよ」と制された。
駐車場で案内されたのは今日はいつもと違う車で、その傍らに制服姿の運転手さんが待っていた。何となく見覚えのある初老の運転手さん。
「あ! 先週はお世話になりました」
ちょうど一週間前、駅の近くの路上で牧村さんに助けられた後、家まで送ってくれた人だと気付いてお礼を口にすると、優しげな包み込むような笑顔で応えてくれた。
「いえいえ、お元気そうで良かったです」
「あ、はい。すっかり元気になりました」
運転手さんは笑顔を浮かべたまま、慣れた手つきで
「どうぞお乗り下さい」
とドアを開けてくれた。これ、乗ってもいいのかと思わず牧村さんに目を向けると、微笑んで頷いてくれた。
「家までで良いですよね?」
「はい」
いかにも高級車という車の座席に身を沈めると、気持ちよさにうっかり目をつむりそうになる。
先週は気付かなかったけど、この車座り心地が抜群に良い。
「真鍋さん、響子さんの家までお願いします」
反対側の後部座席に乗り込みながら、牧村さんが運転手さん……真鍋さんに言う。
「では、近道で行きますね」
「調べてくれたんですか?」
「はい。裏道だと大分早く着きますよ。この時間、大通りは混んでますしね。……社長ももちろんご存じですよね?」
「当然です」
得意げな牧村さんの声を聞き、真鍋さんがクスクス笑う。
仲良いな。仕事のパートナー?
この二人が一緒に仕事(?)をしているとして、こんな高級車どこから調達してくるんだろう?
だけど睡眠不足がたたって、車が病院の駐車場を出る頃には早くも私の意識は途切れがちになり、公道に出て程なく眠り込んでしまった。
「……子さん、響子さん。着きましたよ」
優しい声で起こされて目を開けると、もう自宅アパートの前だった。
「部屋に入りましょう?」
「……はい」
頭にもやがかかったみたいで、目がしっかり開かない。気を抜くと、そのまま二度寝しそうなくらいで……。
半ば抱きかかえられるように車から下ろされて、地面に降り立っても頭は働かない。
「響子さん、可愛いので寝ぼけてても良いんですけど、階段は危ないので気を付けてくださいね?」
牧村さんに手を引かれて歩き、ぼんやりした頭のままに階段を上る。
外階段の金属の踏み板が鳴るカーンカーンという音が頭に響く。
「鍵、開けられますか?」
「あ……はい」
牧村さんが持ってくれていた鞄を差し出してくれた。
鞄は受け取らないままに外ポケットに手を突っ込み鍵を出す。
「あ」
力が入らず取り落とした鍵が床に落ちてカシャンと音を立てた。
「開けますね?」
ぼーっとしている間に牧村さんが拾って、そのままドアを開けてくれた。
ありがとうございます。と思っているのだけど、言葉にならない。
「んー。……響子さん、少しだけ入りますよ?」
ドアを大きく開いて私を中に入れ、牧村さんも一緒に入ってきた。
「お邪魔します」
どうぞ。と心の中だけで答えて、二人一緒に家に入る。
習慣的に手だけ洗って、後は何もせずにベッドに倒れ込もうとしたところを牧村さんに止められた。
「ちょっと待って」
そして、牧村さんは上着を脱がせてくれて、布団をめくってくれた後、
「はい、どうぞ」
と私の背中を押して寝かせてくれ、布団をかけてくれた。
そこで、牧村さんは
「しまった!」
と慌てたような声を上げた。
「響子さん、ごめん。玄関の鍵、閉めなきゃ!」
「……え、なに?」
「本当はここにこのままいたいんだけど、仕事に行かなきゃ」
「……仕事?」
「鍵閉めないと不用心だから。ごめんね、せっかく寝たところ申し訳ないけど、玄関の鍵閉めに来てくれる?」
「……鍵」
いや、もう無理。
頭はまだかろうじて少しは動いている。けど、身体は完全に眠っていて、まぶたすら開かない。既に意識が落ちるまで後十秒、みたいにカウントダウン状態。
「うわ、しまったなー」
ああそうか。先週、家に帰った後、私、布団もかぶらず爆睡して熱出してたんだっけ。
だから、牧村さん、心配してここまで来てくれたんだ。
「……鍵、持ってって」
「は?」
「閉めてって」
途切れそうになる意識の中、必死に言葉を紡ぐ。
「え、響子さん?」
「貸して……あげる」
あ、なんか上から目線だった?
ダメだ、眠い。もう無理。
「響子さん、えっと、僕が鍵を借りてって、それで鍵閉めて行けば良いってこと?」
……鍵はもう一個あるから。
そう思ったのを最後に、私の意識はぷつりと途切れた。
「おはよう、響子先生。何食べてるんですか?」
「ん? 柿の葉寿司です」
「柿の葉寿司? 奈良土産?」
「へえ~。柿の葉寿司って奈良名物なんですか?」
「確か」
そう言えば、ずっと昔に食べた時には父がお土産に買ってきてくれたんだっけ?
よく覚えていないけど、多分出張に行ったとかそんな感じだったのだと思う。あれは奈良土産だったんだ。なんて考えていると、
「そっか、じゃあ昼か夜食にでもどうぞ」
とデスクにビニール袋が置かれた。
「あ、カップスープは今でも良いかも」
「良いんですか? なんか、最近もらってばっかで、すみません」
そう言いながら中を覗くと、日持ちのする菓子パンが三つとカップのお味噌汁が入っていた。パンと味噌汁の組み合わせが微妙で、そんなところが高橋先生っぽくて妙に笑える。
パンに味噌汁より、柿の葉寿司に味噌汁の方が合うだろう。
今日は午前に外来。多分、昼を食べられるのは二時か三時だし落ち着いて食べる時間はきっと取れない。けど、今なら時間がある。
「じゃあ、お味噌汁は今頂こうかな。ありがとうございます」
「どういたしまして」
高橋先生は満面の笑みを浮かべた。
なんで差し入れをもらった私より、高橋先生の方が嬉しそうなのだろう? なんか良いことあったのかな?
しかも、
「じゃ、お湯沸かして入れてくるね」
と機嫌良く袋からカップの味噌汁を取り出す辺りで、更に疑問が深まる。
「それくらい自分でやりますよ」
先輩にそこまでさせられないと慌てて立ち上がろうとすると、
「いいからいいから」
と肩を押さえられてしまった。
「自分の分も買ってきたんだ。一緒に入れるから大丈夫」
だったら、むしろ「一緒に入れてきて」と言われてもいい場面じゃないかな?
そう思ったけど、声をかける間もなく高橋先生は行ってしまった。
それにしても、この柿の葉寿司ホント美味しい。柿の葉に包まれたサバの乗った小さなお寿司。
一箱十個入りが二箱。一つずつは小さいけど逆に食べやいサイズ。
……てか、牧村さん、多過ぎじゃないかな、これ。
いくらでも入る美味しさだけど、残念ながら私の胃袋はそんなに大きくない。朝ご飯なら、多分三、四個でお腹いっぱいだ。
ああ、そうか。今日は夜も仕事だから、明日の朝食までの四食分?
「お待たせ。はい、どうぞ」
三つ目の柿の葉寿司を食べていると、目の前にトンとカップの味噌汁が置かれた。具は豆腐とほうれん草。
「ありがとうございます」
「それ、美味しい?」
「ムチャクチャ美味しいです」
思わず笑顔を向けると、高橋先生は目を見張った。そして、ニコリと笑う。
「そんなに美味しいなら、一つもらってもいい?」
「え? あ、はいどうぞ」
名残惜しそうな顔をしていたのだろうか、高橋先生はクスッと笑うと柿の葉寿司に手を伸ばし、
「それじゃ、一つだけ」
とつまみ上げた。
そのまま隣の席に座り、自分用に買って来たらしいパンじゃなくて柿の葉寿司を口にする。
「……本当に美味しいな、これ」
「えーと、もう一個食べます?」
そう差し出したのに、
「響子先生、本当はあげたくないなって思ってるでしょ」
と笑われた。
そんな顔をしているつもりはないのだけど。
「どこのだろう?」
「え? どこ?」
昨日の居酒屋(?)なのか、その前のどこかで買ったのか。
奈良土産ならそう教えてくれそうなものだし、きっとどこか近くで買ったと思うんだけど。
「今度聞いときます」
「……ところで、これ誰にもらったんですか?」
「え?」
なんと言えばいいのだろう?
え、彼氏? まだお試し期間だけど。いや、普通に知り合いにって言えば良いのか?
「もしかして、この前迎えに来てた……」
悩んでいる間に高橋先生が核心をついてきた。
「ああ、そう。その人です」
嘘もつけずに正直に言う。
「昨日の夜?」
「はい。ご飯食べに行って」
昨日の店、美味しかったな。また行きたいなぁ。
ファミレス代わりに一人で入るには敷居が高いし、道中寝てたせいで店の場所が分からないから行けないけど。
「そう、ですか」
話は終わったとばかりカップの味噌汁を手に取る。袋に入っていたお箸を取り出してクルクル混ぜる。良い感じに混ざりカップを手に取ったところで、
「あの!」
と高橋先生に突然大きな声で話しかけられ、さあ飲もうとカップを持った手が空中で止まる。
「今日、夜食べに行きません?」
「今日、当直ですよ、私」
今日は少しでも寝られると良いな。
「……あ。じゃあ、明日!」
「休みなんで来ないです」
「じゃあ、明後日は?」
高橋先生、今日はやけに食いついて来る。
明後日って、土曜日?
「響子先生、外来入りますよね」
「確か」
「土曜日だし、多分、早く上がれるだろうから夕飯どうですか?」
「えー」
てか、お味噌汁飲んでいいかな? 冷めちゃう。
早めに出てきて、せっかくゆっくりできると思ったのに気がつくと偉い先生方が出て来る時間が目前だ。
「響子先生の好きなものをご馳走しますよ」
「考えときます」
最近色々もらっているし、そもそもお世話になってる先輩だし、一刀両断には断りにくくてそう言うと、高橋先生は嬉しそうに笑った。
本当は人付き合いは苦手だし、そもそも面倒だけどたまには付き合わなきゃダメかなぁ。
ようやくお味噌汁を飲めると口をつけると、少し冷めて良い感じの温度になっていた。
◇ ◇ ◇
夜間救急外来の診療を手伝って、午前0時を回る頃にようやく仮眠。と思ったら三十分で救急車が来ると起こされて、緊急オペ。気が付いたら夜が明けていた。もう寝る時間でもないしと病棟の患者さんの様子を見て回っていると勤務終了時間になった。
結局、今日も眠れなかった。まあ、こんなもんだよね。
「先生、お疲れ様で~す」
「お疲れ様。お先に」
若い看護師さんの笑顔に見送られて病棟を後にする。
疲れた。でも、今日はいつもに比べて身体が軽い。きっと、柿の葉寿司のおかげだろう。
牧村さんにもらった柿の葉寿司は残すところ五つで、残りはちゃんと昨日の昼と夜に食べたのだ。小さくて頑張れば一口で食べられるサイズというのが良かった。午前の外来終了後と救急外来に入る前、それから仮眠前。ゆっくり味わう時間はなかったけど、お腹に何か入れるとやっぱり元気が出る気がする。
ご飯って大事なんだなぁとしみじみ思う。ふと振り返ると、最近、牧村さんのおかげでホントしっかり食べるようになっている。少し前まで勤務終了後にいつも感じていた全身にはびこる抗いがたいだるさが減っている。多分、ここ最近食生活が改善されているおかげだと思う。
ああそう言えば、次の約束をしてなかった。
一昨日は疲れ切っていて、何を話したかもろくに覚えていない。何を食べたかは覚えているところが笑えるけど。牡蠣フライが絶品だったしだし巻き卵もムチャクチャ美味しかった。ああそれから、あの日、手土産に柿の葉寿司をもらったんだ。
牧村さんを思い浮かべると、何故か食べ物ばかりに結びつく。餌付け……されてるよな、ホント。
そう言えば、一週間前の今日だったっけ。
思い起こせば、ちょうど先週の今くらいの時間に牧村さんと出会ったのだ。
先週も当直ならぬ夜勤明けで、今日とは雲泥の差のひどい体調で頭痛を抱えて疲れた身体を引きずるようにして歩いていた。
……次、あんな状態になったら無理せずタクシーで帰ろう。いや、内科の先生に診てもらって帰ろう、かな。今思い出しても、あれはまずかった。牧村さんがいなかったら、ホント大恥かいてた気がする。
そんなことをツラツラ考えながら歩いていたから、幻を見たのかと思った。
「……え、牧村さん?」
病院を出て駅へと向かう道に出ようと歩いていると、正面に満面の笑顔の、牧村さんがいた。
「おはよう、響子さん」
小さく手を振る牧村さんは今朝も変わらず爽やかだった。
「あ、おはようございます」
牧村さんはいつも通りにスーツ着用。こんな時間にここにいたら仕事に間に合わないんじゃないかな?
仕事……結婚詐欺師? そうか。普通のサラリーマンじゃないんだっけ。でも、本当に? だって、私、まだ一度もお金を払わせてもらっていない。
何かおかしいと思いつつ、結婚詐欺師というのは親しくなって心を許してから、「母が急病で」とか「会社で大きなミスをして」とか言ってお金を引き出すのだったなと思い出して、自分を納得させる。
「なんでここに?」
「お迎えに。出勤を少し遅らせました」
笑顔のままに牧村さんは私の荷物に手を伸ばす。うっかり反射的に渡してしまい、慌てて「あ、いえ自分で」と取り返そうとするけど、牧村さんはニコリと笑って「持つので大丈夫ですよ」と制された。
駐車場で案内されたのは今日はいつもと違う車で、その傍らに制服姿の運転手さんが待っていた。何となく見覚えのある初老の運転手さん。
「あ! 先週はお世話になりました」
ちょうど一週間前、駅の近くの路上で牧村さんに助けられた後、家まで送ってくれた人だと気付いてお礼を口にすると、優しげな包み込むような笑顔で応えてくれた。
「いえいえ、お元気そうで良かったです」
「あ、はい。すっかり元気になりました」
運転手さんは笑顔を浮かべたまま、慣れた手つきで
「どうぞお乗り下さい」
とドアを開けてくれた。これ、乗ってもいいのかと思わず牧村さんに目を向けると、微笑んで頷いてくれた。
「家までで良いですよね?」
「はい」
いかにも高級車という車の座席に身を沈めると、気持ちよさにうっかり目をつむりそうになる。
先週は気付かなかったけど、この車座り心地が抜群に良い。
「真鍋さん、響子さんの家までお願いします」
反対側の後部座席に乗り込みながら、牧村さんが運転手さん……真鍋さんに言う。
「では、近道で行きますね」
「調べてくれたんですか?」
「はい。裏道だと大分早く着きますよ。この時間、大通りは混んでますしね。……社長ももちろんご存じですよね?」
「当然です」
得意げな牧村さんの声を聞き、真鍋さんがクスクス笑う。
仲良いな。仕事のパートナー?
この二人が一緒に仕事(?)をしているとして、こんな高級車どこから調達してくるんだろう?
だけど睡眠不足がたたって、車が病院の駐車場を出る頃には早くも私の意識は途切れがちになり、公道に出て程なく眠り込んでしまった。
「……子さん、響子さん。着きましたよ」
優しい声で起こされて目を開けると、もう自宅アパートの前だった。
「部屋に入りましょう?」
「……はい」
頭にもやがかかったみたいで、目がしっかり開かない。気を抜くと、そのまま二度寝しそうなくらいで……。
半ば抱きかかえられるように車から下ろされて、地面に降り立っても頭は働かない。
「響子さん、可愛いので寝ぼけてても良いんですけど、階段は危ないので気を付けてくださいね?」
牧村さんに手を引かれて歩き、ぼんやりした頭のままに階段を上る。
外階段の金属の踏み板が鳴るカーンカーンという音が頭に響く。
「鍵、開けられますか?」
「あ……はい」
牧村さんが持ってくれていた鞄を差し出してくれた。
鞄は受け取らないままに外ポケットに手を突っ込み鍵を出す。
「あ」
力が入らず取り落とした鍵が床に落ちてカシャンと音を立てた。
「開けますね?」
ぼーっとしている間に牧村さんが拾って、そのままドアを開けてくれた。
ありがとうございます。と思っているのだけど、言葉にならない。
「んー。……響子さん、少しだけ入りますよ?」
ドアを大きく開いて私を中に入れ、牧村さんも一緒に入ってきた。
「お邪魔します」
どうぞ。と心の中だけで答えて、二人一緒に家に入る。
習慣的に手だけ洗って、後は何もせずにベッドに倒れ込もうとしたところを牧村さんに止められた。
「ちょっと待って」
そして、牧村さんは上着を脱がせてくれて、布団をめくってくれた後、
「はい、どうぞ」
と私の背中を押して寝かせてくれ、布団をかけてくれた。
そこで、牧村さんは
「しまった!」
と慌てたような声を上げた。
「響子さん、ごめん。玄関の鍵、閉めなきゃ!」
「……え、なに?」
「本当はここにこのままいたいんだけど、仕事に行かなきゃ」
「……仕事?」
「鍵閉めないと不用心だから。ごめんね、せっかく寝たところ申し訳ないけど、玄関の鍵閉めに来てくれる?」
「……鍵」
いや、もう無理。
頭はまだかろうじて少しは動いている。けど、身体は完全に眠っていて、まぶたすら開かない。既に意識が落ちるまで後十秒、みたいにカウントダウン状態。
「うわ、しまったなー」
ああそうか。先週、家に帰った後、私、布団もかぶらず爆睡して熱出してたんだっけ。
だから、牧村さん、心配してここまで来てくれたんだ。
「……鍵、持ってって」
「は?」
「閉めてって」
途切れそうになる意識の中、必死に言葉を紡ぐ。
「え、響子さん?」
「貸して……あげる」
あ、なんか上から目線だった?
ダメだ、眠い。もう無理。
「響子さん、えっと、僕が鍵を借りてって、それで鍵閉めて行けば良いってこと?」
……鍵はもう一個あるから。
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