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16.

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 火曜日。朝六時半に起きて、いつもの通りに家を出る準備をしながら、保温になった炊飯器を見て思い出す。

「……そうだ。豚汁とご飯を食べるんだった」

 どうやってガスコンロの火をつけるのか迷った上、あまりに久しぶりすぎて火をつけたまま鍋から目を離すのが何となく怖くなり鍋をじーっと見つめて温まるのを待つ羽目になる。それでも、一人分ちょうどの豚汁はあっという間にぐらぐら沸騰した。
 ……あれ? お味噌汁って沸騰させちゃダメなんだっけ? 子どもの頃、母がそんなことを言っていた気がする。まあいいや。今更言っても仕方ない。

「いただきます」

 手を合わせて、一人で食事。
 美味しい。だけど、ご飯も豚汁も昨日の方がずっと美味しかった。きっと、隣に牧村さんがいたからだ。

 ふと、十年前のことを思い出す。
 そこの小さな台所に母が立っていた日のことを。

「響子、お味噌汁とご飯明日の朝の分まであるから。おかずも冷蔵庫に入れておいたわよ。ちゃんと食べてね」

 この部屋だって、最初の二年間は何度か母がやって来て、ご飯を作ってくれたんだ。そんな時は何日分か作り置いてくれたりもした。泊まるのはホテルだったけど、それでも昼間、ここでご飯を作ってくれた。
 とても料理上手な母だった。私が家を出る時は、少しでも自炊ができるようにと料理を教えてくれようとしたけど、悲しいことにまったく身につかなかった。今思えば、もっと真面目に教えてもらえば良かった……。

 牧村さんの料理は美味しい。……だけど、一人で食べたくなかった。
 鼻の奥がツーンと痛む。泣きたくなってきた。
 朝からこんな気持ちになるなんて最低だ。仕事前はできるだけ気持ちを落ち着けておきたいのに。

 ……いや、そうじゃない。
 マイナスに傾きそうな思考をどうにか引き戻す。
 そうじゃない。問題はそこじゃない。
 牧村さんはまた明日の夜来てくれるんだ。母は二度とこの部屋に来ることはできないけど、牧村さんはまた来る。
 今日は一人だけど、明日の夜にはまた一緒に食べられるのだから。お試しとはいえ、お付き合いすることになったのだから、明日だけじゃなく別の日にも来るはずだ。
 彼に文句を言うのは違うだろ、私。

 昨日の夕飯も今日のこれも、それから昨日の手作り弁当も。どう考えても、金曜日に倒れた私の身体を気遣ってのものだ。
 感謝するならともかく、文句を言うのは絶対におかしい。
 何度か深呼吸を繰り返すと、次第に心は落ち着いてきた。

 もう一度、豚汁をゴクリと飲む。さっきより美味しいと感じられてホッとする。
 ……でも、もし次があるのなら、今度は病院に持って行って、向こうで食べられるようなものがいいな。そんなリクエストをしても大丈夫だろうか?


   ◇   ◇   ◇


「響子先生、おはようございます」

 出勤すると高橋先生が駆け寄ってきた。

「おはようございます。どうしました? 何かありましたか?」

「あ、いえ、何もないです」

 それは良かった。
 電話も呼び出しもなかったから大丈夫だとは思っていたけど、受け持ち患者に何かあったかとも思うとドキッとする。
 
「朝ご飯は?」

 高橋先生は私の手を見て、そこに何も持っていないのを見て聞いてくる。いつもなら持ってるコンビニおにぎりとかサンドイッチが今日はない。

「え? ……ああ、今日は家で食べてきました」

「珍しい、ですね」

 高橋先生は何故かすごく驚いた顔をする。
 いや、私だってたまには家で食べるぞ。本当にたまだにだけど。

「えーと、あの、昨日の男の人は……」

「ん? 男の人?」

 昨日は急患もなかったし、男の人と言うキーワードで思い浮かぶ患者がいない。

「あの、帰り際に……響子先生をお迎えに来ていた」

「ああ! 牧村さん!」

 思わずぽんと手を打った。
 そのまま、鞄を自席に置きに行く。で、牧村さんがなんだって?

「あの人、響子先生の彼氏ですか?」

 私の席までくっついてきた高橋先生から思いもかけない言葉が飛び出す。
 朝から恋バナ?  高橋先生ってこんなキャラだっけ。

「昨日のお弁当も、もしかして……」

「はい。お弁当、牧村さんが作ってくれたんです」

「え、本当に? でも、男の人でしたよ?」

「牧村さん、ムチャクチャ料理上手ですよ。料理ができる男の人って良いですよね~」

 そう言うと、また高橋先生は呆然自失というような表情になる。
 え? そんなに驚くこと?

「響子先生、もしかして、料理ができる人とか、好きでしたか?」

「はい。だって、私、自分で料理とかしないですし。作ってもらえるなら、ムチャクチャありがたいですよね?」

 高橋先生だって、看護師さんからお弁当もらったって言ってたじゃない。料理が好きで作って食べさせてくれる人を嫌う人なんていないんじゃないかな?
 
 ああ、高橋先生は牧村さんが男性ってところが引っかかってるのか。
 そっか。そうだよね。これが普通の反応だよね。
 元カレの、料理も後片付けも女がやれ的な態度を思い出す。あーやだやだ。男とか女とか関係ないじゃん。
 でも、やっぱ、牧村さんが普通じゃないんだろうなと思い直す。

 ……普通じゃないのも道理だった。牧村さんは結婚詐欺師だったっけ。
 なんで私、お付き合いするのOKしちゃったんだ!? いや、手料理だ。手料理に胃袋を捕まれてしまったんだ。仕方ないじゃないか。
 それに、取りあえずのお試しだし。無理だと思ったら、ごめんなさいすれば良い。

 だけど、どうしても牧村さんの根っこが変な人とは思えなかった。
 だから、きっと、本当は何か事情があるんだろうな、と思えて仕方なかった。

「牧村先生、ちょっと良いですか?」

「はい。どうしました?」

 その後、看護師さんがやってきて高橋先生との会話は終了。
 休み明けで外来患者も多い上に、昨日の落ち着きようが嘘のように急を要する患者が何人も運び込まれてきた。
 緊急手術まで入り、気がつくと夜勤の時間に突入していた。


   ◇   ◇   ◇


 ……お腹空いた。
 朝ご飯を家で食べたので昼ご飯を買って来るのを忘れてしまった。そして、手元にあるなら五分でかき込むけど買いに行くまでの時間はないまま、既に二十二時。売店はもう閉まってしまった。
 忙しくしている間は忘れている空腹に、手が空いた瞬間襲われた。
 
 チョコか飴、持ってなかったっけ?
 鞄を漁ってみると、手に当たる冷たい感触。
 ……あれ? 瓶?
 取り出すとビタミンカラーのパッケージに彩られた栄養ドリンク。
 何でこんなものが鞄に?
 K製薬の新製品。よく見ると「試供品」と書かれている。
 試供品、試供品。最近、どっかで聞いた気がする。……あ。牧村さんだ。
 出会ったその日、半ばムリヤリ車に乗せられた後、手渡された気がする。あの時はホント微妙な体調で頭がまったく回ってなかった。よく分からないままに受け取ってしまい、鞄に放り込んだのだろう。
 ……栄養満点で空腹でも飲めるとか何とか言ってたっけ?
 これ飲んでみよっかな。
 蓋を開けてまずは一口。
 美味しい!
 何というか、ビタミンとエネルギーが身体に行き渡るかのようなサッパリした味わいで、後味も良く飲みやすい。そのままゴクゴク一気に飲み干した。
 飲み終わった後で改めてパッケージを見ると、牧村さんが言っていた通り色んな栄養素が詰め込まれていた。カロリーが結構入っているのも良い。エネルギー源にしたいのだから。
 
 牧村さん、ありがとう。
 心の中でお礼を言いながら、仮眠室に移動しがてら空き瓶をゴミ箱に入れた。
 数時間ほど寝た後、急変があり飛び起きて対応したりでバタバタしたし、救急車も何台かやって来たけど、何とか無事、丸一日の長い勤務時間を終えることができた。

 朝の引き継ぎ前、出勤した高橋先生がコンビニの袋片手に近寄って来た。

「おはようございます」

「おはようございます。昨日はどうでした?」

「まあ、いつも通りですかね。高橋先生の担当患者さんは皆さん変わりなしです」

「それは良かった」

 それから、高橋先生は私に白いビニール袋を差し出した。

「お疲れ様です。朝食にどうぞ」

「え?」

「おにぎりとカップスープです。すみません。コンビニのですが」

「いいんですか?」

 そんなものを差し入れてもらうのは初めてで驚いて高橋先生の顔を見上げる。

「はい。こんなもので申し訳ないんですが」

「いえいえ。お腹空いてたんで嬉しいです。帰る前にここで食べてきますね」

 早速覗き込むと、私がよく食べてる昆布としぐれのおにぎり二つ。それから、卵とわかめのスープ。
 引き継ぎが終わった後、自席でコソッと食べていると、診察室移動前の高橋先生がまたやって来て、今度は小袋に入ったチョコ菓子をバラバラッと五個デスクに置いた。

「こっちは非常食です。引き出しにでも入れとておいてください」

「あ、はい。ごちそうさまです!」

 満面の笑顔でお礼を言うと、高橋先生は嬉しそうに笑い返してくれた。

「響子先生は食べ物だったんですね」

「は?」

「いえ、私は料理はできませんが、こんなもので良ければまた持ってきますね」

「あ、いや、大丈夫ですよ?」

 そう言ったのに、高橋先生はポンポンと私の頭を撫でるように軽く叩くと、そのまま診察に行ってしまった。
 そう言えば、入局してすぐの頃、ミスをしでかしてど叱られた時もこんな風に慰めてもらったっけと思い出す。今でこそ同僚として働いているけど、キャリアは向こうのが上だし先輩づらしたり偉そうにしたりは決してしないのに、面倒見は良い優しい人だ。
 自分もああ言う医者になりたいな。ふとそんなことを思った。

 もらったおにぎりとあったかいカップスープを飲み終わると眠くなってきた。
 大きなあくびをしながら、鞄を肩にかける。
 誰もいなくなった医局を出て、

「失礼します」

 とナースステーションに一声かけて病棟を後にする。

「お疲れ様でした。お気をつけて」

 となじみの看護師さんが顔を出してくれた。
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