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十八時過ぎ。N大学病院前。
あ、響子さん。
視界に約十時間ぶりの響子さんを見つけて喜びに心が一杯になろうかという直前、その隣に男の姿を見つけて、目が釘付けになった。
……誰だ、あの男は。
親しげに響子さんと会話しながら歩いてくるのは、響子さんと同年代の男性だった。
いかにも気の置けない仲だというのがよく分かる。同じ時間に勤務が終わって出てくるということは、おそらく同僚。
響子さんは相手をなんとも思っていない。それは良かった。でも、相手の視線が響子さんの一挙手一投足を気にかけているのが分かってしまった。あれは恋する男の目だ。
何故分かるかって? そりゃ、僕自身が響子さんに恋い焦がれているからだ。きっと、僕もあんな目をして響子さんを見ているのだろうと思う。いや、あんな生ぬるい視線じゃないかも知れないけど。
僕は心を落ち着かせるべく大きく深呼吸をし、表情を整えると、できるだけゆったりとした足取りで響子さんの元に向かった。
「お疲れ様」
響子さんとの距離約2メートル。
声をかけると、響子さんは、
「え? なんで?」
と僕の姿を見つけて驚いたように目を見開いた。隣の男性も
「え? ……誰?」
と声を上げる。
「まだ体調が万全じゃないでしょう? お迎えに来ました」
にっこり笑ってそう言うと、
「え、いや、元気ですよ?」
と響子さんは小首を傾げた。
うん。確かに顔色は悪くないし、元気に見える。良かった。
今朝の様子からして大丈夫だろうとは思っていたけど、一昨日は高熱を出していたし、昨日は食べる時間以外はほぼ寝込んでいた。心配しない訳がない。
手を差し出すと、響子さんはお弁当の入ったトートバッグを渡してくれた。うん。軽くなってる。ちゃんと食べてくれたみたいだ。と言うことが分かったにもかかわらず、敢えて、
「食べられました?」
と聞いてみる。
何のために? もちろん、牽制のためだ。響子さんと僕は手作り弁当を渡す仲なのだと、響子さんの隣の男に知らしめなくてはならないのだ。
「はい。ものすごく美味しかったです!」
お弁当を思い出したのか、響子さんの表情が急に明るくなった。
ああ、なんて可愛いんだ。
そして、僕の思惑通り、隣の男はショックを受けたような表情を隠すこともできず、響子さんを横目に見ていた。良かった。ちゃんと牽制になっている。
しかも、響子さんはそこで隣を見上げたと思うと、
「じゃ、また明日」
と軽く手を上げ、男性に別れを告げる。
よしっ。僕は密かにグッと右手を握りしめた。
響子さんは僕と並んで歩き出す。
そう。あなたのいる場所はあの男の隣じゃなく、僕の隣ですよ。
響子さんがそのまま駅に向かう敷地外への道を歩いて行こうとするので、そっと腕に触れて駐車場の方向を指さした。
「車、第一駐車場に置いてきたんで」
「あれ? 車なんですか?」
「はい。今日は自分の車ですけど、安全運転しますね」
笑いかけると、響子さんも笑い返してくれた。なんて可愛いんだろう。
二人で並んで歩いていると、タッタッタッと足音がして、ついさっき別れたばかりの男性が駆け寄ってきた。
「響子先生!」
「はい」
「えっと! 来週の予定は!?」
「は?」
「今日は無理って言ってましたが来週ならどうかなと!」
ちょっと待て! この男、片想い中なだけじゃなく、既にアプローチ中か!
しかも、今日の夜も響子さんに声をかけていたと!?
いや、仕方ない。何しろ響子さんはとてつもなく魅力的なんだ。美人なのに気取らず、スラリとした長身でスタイルだって良い。その上、大学病院勤務のお医者さんだ。……モテないわけがない。
「すみません。先約があるので」
反射的に会話に割って入っていた。
にっこり極上の笑みを浮かべて、自分を指さす。
響子さんとはまだお付き合いOKの返事はもらっていない。来週の予約ももちろんしていない。
だけど、ごめん、響子さん。逃がしてあげるつもりは欠片もないんだ。
今現在、響子さんに彼氏がいたとしても円満にお別れしてもらう策略で頭がいっぱいになるくらいには、あなたに夢中なんだ。もうあなたしか見えないんだ。もし結婚していても、やっぱり円満離婚からの再婚しか頭に浮かばない。もし子どもがいたら……考えたくもないし考える必要もない。だって、響子さんは今現在フリーなのだから。でも仮に響子さんに子どもがいたとしても、我が子として愛せる自信はある。
響子さんの選択肢を勝手に狭めてしまい、申し訳ないことをしているかも知れない、と心の片隅でほんの少しだけ思っていた僕は、次の瞬間、その場で踊り出したいくらいの喜びに包まれた。
「そんな訳なんで、高橋先生、またの機会に。お疲れ様でした」
「お疲れ様、でした」
響子さんの言葉に、高橋先生とやらはものすごくショックを受けた顔をしていた。
先生……医者か。間一髪だ。響子さんに出会うのがあと少し遅れていたら、響子さんのパートナーの座をこの男に奪われていたかも知れない。
本当に良かった。
響子さんが同僚の先生を差し置いて、僕の言葉を肯定してくれたのが本当に嬉しかった。
もしかしてお弁当のお礼かも知れないし、その前の看病のお礼かも知れない。でも何でも良いんだ。とにかく、来週も僕と過ごすことを選んでくれたのだから。
響子さんに喜びと感謝の笑顔を向けた後、
「では失礼します」
と、高橋先生に笑顔で会釈する。
高橋先生の心をたたきのめすために、響子さんの肩を抱いて立ち去りたい。そんな思いに駆られたけど、やめておいた。今は、響子さんに警戒されずに彼氏の座に納まるのが僕の一番のミッションだ。
もちろん、彼氏だけで終わらせる予定はまったくないし、早々に籍を入れて名実ともに生涯のパートナーとなってもらう予定でいる。
◇ ◇ ◇
その後、食料品スーパーに寄り、一緒に買い物をすることになった。
他の何で押すより、響子さんは手料理で押すのが良い気がして、せっせと餌付けに走る。
過去付き合った相手やアプローチしてきた相手の、どこやらのカフェメニューが美味しいらしいとか、なんとかホテルに新しく入った割烹料理を食べてみたいだの、そういうのとの違いが際立つ。
だけど、流行の何かとか僕の出自とか財力とかには興味すら示そうとしない響子さんが愛しかった。なんだかんだ言っても、僕の料理はプロにはまったく適わない。だけど、響子さんは手料理にこそ笑顔を見せてくれる。であれば、料理の腕を磨かない手はないだろう。
だけど、その後、響子さんが手料理に喜ぶ理由を知り、僕はなんて浅はかだったのだと肝が冷えた。
車の中で響子さんに好き嫌いがないのを聞き、スーパー到着後、じゃあ今日は何が食べたいかをヒアリングしている時、家庭料理が食べたいと言った響子さんの口から続けて思いもかけない言葉が飛び出したのだ。
「私が二十歳の時に両親ともに事故で亡くなりまして、それ以来、家庭料理ってほぼ食べたことないんで。お味噌汁とご飯とおかずとか、そういう感じが良いです」
一瞬言葉を失う。
「ご両親が二十歳の時に……それは大変でしたね」
まるで大学生が住むような小さなアパートに一人で住む響子さん。そこに響子さん以外の人の気配はまったくなかった。普通、就職の時など、親があれこれ世話を焼いてくれるものだろう。そんなサポートが一切なければ、忙しい毎日の中で引っ越しなど考えもしないのかも知れない。
身体を壊して倒れるまで医者という激務をこなしながらも、誰かに頼ろうとせず、偶然居合わせた僕のような得体の知れない人間に頼ってくれた。それは、ただ、本当に響子さんの側に誰もいなかったということか?
「そうですね。大変でしたよ。でももう九年も前の話です」
そう。今も大変だろうけど、ご両親が亡くなった頃の響子さんはようやく成人したばかりの大学生。本当に大変だったのだろう。
両親を亡くされた後、家庭料理を食べたことがないというのだから、頼れる祖父母や親戚などもいなかったということか?
響子さん、ごめん。もっと早く響子さんを見つけなきゃダメだった。こんなに近くに住んでいたのに。車でたった三十分の距離だったのに。
九年前なら僕はもう二十六歳の大人だった。ああでもダメだ。その頃は海外駐在中だった。無力感に脱力しそうになる。けど、そうじゃない。大切なのは今この瞬間だ。
「分かりました。じゃあ、今日は家庭料理を作りますね」
ずっと食べられなかったという家庭料理、精一杯作らせてもらいます。
スーパーに入り、一緒に食材を見ながらカートに乗せたかごに入れていく。
面倒くさがり屋の響子さんでも、鍋を温めるくらいはできるだろうと、具だくさんの豚汁を多めに作っておくことにする。根菜は身体を温めてくれるし豚肉も身体に良い食材だ。
「魚とお肉ならどっちが良いですか?」
「えーっと、普段なかなか食べられないので魚がいいです」
「了解です」
野菜コーナーを抜けて一緒にお魚コーナーに行くと、響子さんは、
「あ、ブリだ」
と、たくさんある魚の中からブリの切り身を見つけて嬉しそうに手に取った。
「ブリと言えば照り焼きですか?」
「はい。小さい頃、好きだったんですよね~。あの頃は魚より肉でしたが、ブリ照りは別っていうか」
「分かります分かります。美味しいですよね。じゃあ、メインはブリ照りにしましょうか?」
「はい! ぜひ!」
手に持ったブリの切り身をうっとり見つめる響子さんは本当に可愛かった。
レジに向かいながら、
「今後の参考に。他にも好きなものってありますか?」
そう聞くと、
「あー、牡蠣フライとか好きです。レモンとタルタルソースかけると最高ですよねー」
とうっとり答えてくれる。
「牡蠣フライ、美味しいですよね」
「後ですねー、アジのフライとかも良いですねー。それから、エビフライでしょう? あ、なんかフライばっかですね。でも、私、天ぷらも好きです。かき揚げとか、タマネギが甘くてすごく美味しくって」
響子さんは本当に夢見るような表情で楽しそうに語ってくれた。
うん、響子さん。待っててください。それ全部、作りますからね?
「揚げ物ばっかですね。でも、コンビニとかファミレスの揚げ物、あんまり美味しくないんですよね……」
なるほど。普段はコンビニかファミレスなんですね。
同じ外食でも、本格的な料理を食べさせてくれる店なら気に入ったのかも知れないけど、どうやら響子さんは食べるものにもこだわらない質のようだ。もしかしたら、ただ忙しさくて食べに行く気にならないだけかも知れないけど。
大丈夫です。揚げ物でも何でも作ります。響子さんが食べたいものは、全部。ぜひ作らせてください。
とはいえ、一人暮らしで揚げ物をするほど料理好きではなかった。家に帰ったら早速、揚げ物のコツを調べなくては。
最初は何にするか? 食材にこだわらず、牡蠣フライ、アジのフライ、エビフライを練習しておこう。ああ、ウズラ卵のフライなんかも良いかも。
次に、天ぷら。かき揚げ必須で、それ以外のものも作れるようになっておくと良いだろう。肉も魚も好きと言いつつ、響子さんの言葉に上がってくるのが魚中心だから、キスの天ぷらとか、イカの天ぷら、そうそうエビ天も良いかも。
楽しみにしていてください、響子さん。
でも、その前に、まずはブリの照り焼きで合格点をもらうべく頑張らなくては。
僕は買い物かごの食材を覗き込み、買い忘れがないことを確認した。
あ、響子さん。
視界に約十時間ぶりの響子さんを見つけて喜びに心が一杯になろうかという直前、その隣に男の姿を見つけて、目が釘付けになった。
……誰だ、あの男は。
親しげに響子さんと会話しながら歩いてくるのは、響子さんと同年代の男性だった。
いかにも気の置けない仲だというのがよく分かる。同じ時間に勤務が終わって出てくるということは、おそらく同僚。
響子さんは相手をなんとも思っていない。それは良かった。でも、相手の視線が響子さんの一挙手一投足を気にかけているのが分かってしまった。あれは恋する男の目だ。
何故分かるかって? そりゃ、僕自身が響子さんに恋い焦がれているからだ。きっと、僕もあんな目をして響子さんを見ているのだろうと思う。いや、あんな生ぬるい視線じゃないかも知れないけど。
僕は心を落ち着かせるべく大きく深呼吸をし、表情を整えると、できるだけゆったりとした足取りで響子さんの元に向かった。
「お疲れ様」
響子さんとの距離約2メートル。
声をかけると、響子さんは、
「え? なんで?」
と僕の姿を見つけて驚いたように目を見開いた。隣の男性も
「え? ……誰?」
と声を上げる。
「まだ体調が万全じゃないでしょう? お迎えに来ました」
にっこり笑ってそう言うと、
「え、いや、元気ですよ?」
と響子さんは小首を傾げた。
うん。確かに顔色は悪くないし、元気に見える。良かった。
今朝の様子からして大丈夫だろうとは思っていたけど、一昨日は高熱を出していたし、昨日は食べる時間以外はほぼ寝込んでいた。心配しない訳がない。
手を差し出すと、響子さんはお弁当の入ったトートバッグを渡してくれた。うん。軽くなってる。ちゃんと食べてくれたみたいだ。と言うことが分かったにもかかわらず、敢えて、
「食べられました?」
と聞いてみる。
何のために? もちろん、牽制のためだ。響子さんと僕は手作り弁当を渡す仲なのだと、響子さんの隣の男に知らしめなくてはならないのだ。
「はい。ものすごく美味しかったです!」
お弁当を思い出したのか、響子さんの表情が急に明るくなった。
ああ、なんて可愛いんだ。
そして、僕の思惑通り、隣の男はショックを受けたような表情を隠すこともできず、響子さんを横目に見ていた。良かった。ちゃんと牽制になっている。
しかも、響子さんはそこで隣を見上げたと思うと、
「じゃ、また明日」
と軽く手を上げ、男性に別れを告げる。
よしっ。僕は密かにグッと右手を握りしめた。
響子さんは僕と並んで歩き出す。
そう。あなたのいる場所はあの男の隣じゃなく、僕の隣ですよ。
響子さんがそのまま駅に向かう敷地外への道を歩いて行こうとするので、そっと腕に触れて駐車場の方向を指さした。
「車、第一駐車場に置いてきたんで」
「あれ? 車なんですか?」
「はい。今日は自分の車ですけど、安全運転しますね」
笑いかけると、響子さんも笑い返してくれた。なんて可愛いんだろう。
二人で並んで歩いていると、タッタッタッと足音がして、ついさっき別れたばかりの男性が駆け寄ってきた。
「響子先生!」
「はい」
「えっと! 来週の予定は!?」
「は?」
「今日は無理って言ってましたが来週ならどうかなと!」
ちょっと待て! この男、片想い中なだけじゃなく、既にアプローチ中か!
しかも、今日の夜も響子さんに声をかけていたと!?
いや、仕方ない。何しろ響子さんはとてつもなく魅力的なんだ。美人なのに気取らず、スラリとした長身でスタイルだって良い。その上、大学病院勤務のお医者さんだ。……モテないわけがない。
「すみません。先約があるので」
反射的に会話に割って入っていた。
にっこり極上の笑みを浮かべて、自分を指さす。
響子さんとはまだお付き合いOKの返事はもらっていない。来週の予約ももちろんしていない。
だけど、ごめん、響子さん。逃がしてあげるつもりは欠片もないんだ。
今現在、響子さんに彼氏がいたとしても円満にお別れしてもらう策略で頭がいっぱいになるくらいには、あなたに夢中なんだ。もうあなたしか見えないんだ。もし結婚していても、やっぱり円満離婚からの再婚しか頭に浮かばない。もし子どもがいたら……考えたくもないし考える必要もない。だって、響子さんは今現在フリーなのだから。でも仮に響子さんに子どもがいたとしても、我が子として愛せる自信はある。
響子さんの選択肢を勝手に狭めてしまい、申し訳ないことをしているかも知れない、と心の片隅でほんの少しだけ思っていた僕は、次の瞬間、その場で踊り出したいくらいの喜びに包まれた。
「そんな訳なんで、高橋先生、またの機会に。お疲れ様でした」
「お疲れ様、でした」
響子さんの言葉に、高橋先生とやらはものすごくショックを受けた顔をしていた。
先生……医者か。間一髪だ。響子さんに出会うのがあと少し遅れていたら、響子さんのパートナーの座をこの男に奪われていたかも知れない。
本当に良かった。
響子さんが同僚の先生を差し置いて、僕の言葉を肯定してくれたのが本当に嬉しかった。
もしかしてお弁当のお礼かも知れないし、その前の看病のお礼かも知れない。でも何でも良いんだ。とにかく、来週も僕と過ごすことを選んでくれたのだから。
響子さんに喜びと感謝の笑顔を向けた後、
「では失礼します」
と、高橋先生に笑顔で会釈する。
高橋先生の心をたたきのめすために、響子さんの肩を抱いて立ち去りたい。そんな思いに駆られたけど、やめておいた。今は、響子さんに警戒されずに彼氏の座に納まるのが僕の一番のミッションだ。
もちろん、彼氏だけで終わらせる予定はまったくないし、早々に籍を入れて名実ともに生涯のパートナーとなってもらう予定でいる。
◇ ◇ ◇
その後、食料品スーパーに寄り、一緒に買い物をすることになった。
他の何で押すより、響子さんは手料理で押すのが良い気がして、せっせと餌付けに走る。
過去付き合った相手やアプローチしてきた相手の、どこやらのカフェメニューが美味しいらしいとか、なんとかホテルに新しく入った割烹料理を食べてみたいだの、そういうのとの違いが際立つ。
だけど、流行の何かとか僕の出自とか財力とかには興味すら示そうとしない響子さんが愛しかった。なんだかんだ言っても、僕の料理はプロにはまったく適わない。だけど、響子さんは手料理にこそ笑顔を見せてくれる。であれば、料理の腕を磨かない手はないだろう。
だけど、その後、響子さんが手料理に喜ぶ理由を知り、僕はなんて浅はかだったのだと肝が冷えた。
車の中で響子さんに好き嫌いがないのを聞き、スーパー到着後、じゃあ今日は何が食べたいかをヒアリングしている時、家庭料理が食べたいと言った響子さんの口から続けて思いもかけない言葉が飛び出したのだ。
「私が二十歳の時に両親ともに事故で亡くなりまして、それ以来、家庭料理ってほぼ食べたことないんで。お味噌汁とご飯とおかずとか、そういう感じが良いです」
一瞬言葉を失う。
「ご両親が二十歳の時に……それは大変でしたね」
まるで大学生が住むような小さなアパートに一人で住む響子さん。そこに響子さん以外の人の気配はまったくなかった。普通、就職の時など、親があれこれ世話を焼いてくれるものだろう。そんなサポートが一切なければ、忙しい毎日の中で引っ越しなど考えもしないのかも知れない。
身体を壊して倒れるまで医者という激務をこなしながらも、誰かに頼ろうとせず、偶然居合わせた僕のような得体の知れない人間に頼ってくれた。それは、ただ、本当に響子さんの側に誰もいなかったということか?
「そうですね。大変でしたよ。でももう九年も前の話です」
そう。今も大変だろうけど、ご両親が亡くなった頃の響子さんはようやく成人したばかりの大学生。本当に大変だったのだろう。
両親を亡くされた後、家庭料理を食べたことがないというのだから、頼れる祖父母や親戚などもいなかったということか?
響子さん、ごめん。もっと早く響子さんを見つけなきゃダメだった。こんなに近くに住んでいたのに。車でたった三十分の距離だったのに。
九年前なら僕はもう二十六歳の大人だった。ああでもダメだ。その頃は海外駐在中だった。無力感に脱力しそうになる。けど、そうじゃない。大切なのは今この瞬間だ。
「分かりました。じゃあ、今日は家庭料理を作りますね」
ずっと食べられなかったという家庭料理、精一杯作らせてもらいます。
スーパーに入り、一緒に食材を見ながらカートに乗せたかごに入れていく。
面倒くさがり屋の響子さんでも、鍋を温めるくらいはできるだろうと、具だくさんの豚汁を多めに作っておくことにする。根菜は身体を温めてくれるし豚肉も身体に良い食材だ。
「魚とお肉ならどっちが良いですか?」
「えーっと、普段なかなか食べられないので魚がいいです」
「了解です」
野菜コーナーを抜けて一緒にお魚コーナーに行くと、響子さんは、
「あ、ブリだ」
と、たくさんある魚の中からブリの切り身を見つけて嬉しそうに手に取った。
「ブリと言えば照り焼きですか?」
「はい。小さい頃、好きだったんですよね~。あの頃は魚より肉でしたが、ブリ照りは別っていうか」
「分かります分かります。美味しいですよね。じゃあ、メインはブリ照りにしましょうか?」
「はい! ぜひ!」
手に持ったブリの切り身をうっとり見つめる響子さんは本当に可愛かった。
レジに向かいながら、
「今後の参考に。他にも好きなものってありますか?」
そう聞くと、
「あー、牡蠣フライとか好きです。レモンとタルタルソースかけると最高ですよねー」
とうっとり答えてくれる。
「牡蠣フライ、美味しいですよね」
「後ですねー、アジのフライとかも良いですねー。それから、エビフライでしょう? あ、なんかフライばっかですね。でも、私、天ぷらも好きです。かき揚げとか、タマネギが甘くてすごく美味しくって」
響子さんは本当に夢見るような表情で楽しそうに語ってくれた。
うん、響子さん。待っててください。それ全部、作りますからね?
「揚げ物ばっかですね。でも、コンビニとかファミレスの揚げ物、あんまり美味しくないんですよね……」
なるほど。普段はコンビニかファミレスなんですね。
同じ外食でも、本格的な料理を食べさせてくれる店なら気に入ったのかも知れないけど、どうやら響子さんは食べるものにもこだわらない質のようだ。もしかしたら、ただ忙しさくて食べに行く気にならないだけかも知れないけど。
大丈夫です。揚げ物でも何でも作ります。響子さんが食べたいものは、全部。ぜひ作らせてください。
とはいえ、一人暮らしで揚げ物をするほど料理好きではなかった。家に帰ったら早速、揚げ物のコツを調べなくては。
最初は何にするか? 食材にこだわらず、牡蠣フライ、アジのフライ、エビフライを練習しておこう。ああ、ウズラ卵のフライなんかも良いかも。
次に、天ぷら。かき揚げ必須で、それ以外のものも作れるようになっておくと良いだろう。肉も魚も好きと言いつつ、響子さんの言葉に上がってくるのが魚中心だから、キスの天ぷらとか、イカの天ぷら、そうそうエビ天も良いかも。
楽しみにしていてください、響子さん。
でも、その前に、まずはブリの照り焼きで合格点をもらうべく頑張らなくては。
僕は買い物かごの食材を覗き込み、買い忘れがないことを確認した。
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