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 響子さんの部屋に来たのが十八時過ぎ。
 響子さんをベッドに寝かせて父に電話をして、足りないものがないかを確認し終わった十九時前にはもうやることはなくなってしまった。
 それでも、響子さんの寝顔をチラチラ見ながら、持ち帰ってきた仕事を片付けていれば時間はあっという間に過ぎる。
 途中で、失礼して買ってきたおにぎりを食べさせてもらった。この様子ではおにぎりよりお粥の方が良さそうだし、おにぎりの消費期限は早いから。

 気がつくと二十二時を過ぎてしまった。このまま、ここにいて大丈夫だろうかと心配になってくる。
 一人暮らしの若い女性の部屋だ。見ず知らずのいい年した男が勝手に上がり込むのはどうかと思う。本当は病院に連れて行くとか、医者(父)がいる我が家に連れて帰るとか、そっちの方が良いのかもとも思った。けど、過労から来る風邪なのはほぼ間違いないのに、最寄りの救急病院(響子さんの勤務先)に担ぎ込んで大事にするのは申し訳ない。それ以上に自宅で寝込んでいたはずが、目が覚めたら知らない家にいるとか言うのもどうかと思う。
 かといって、この状態の響子さんを置いては帰れない。

 そんなことを考えていると、響子さんの長いまつげがかすかに震え、パッと目を開けた。ぼんやりと天井を眺める様子を見ると、気分が悪くて目が覚めたとかではなさそうでホッとした。

「目、覚めました?」

 どう話しかけようと思っていたのに、気がついたらそんな予行練習は全部すっ飛んでしまい、ベッドに近寄り声をかけていた。
 響子さんは不思議そうに視線をさまよわせた。

「気分はどう?」

 もう一度声をかけると、こちらを見て何度か瞬きする。
 良かった。不審者認識はされていなさそう。
 それから、響子さんは

「……お粥」

 と弱々しくつぶやいた。
 お粥?
 なんともひもじそうなその様子があまりに可愛くて、思わず吹き出してしまう。
 しまった。ごめん。体調悪い人相手に笑うとかダメだよね。

「お腹、空きましたか?」

「はい」

 なんて素直な反応。
 ダメだ。また心臓がバクバク鼓動を打ち始め、全身に多幸感があふれ出す。

「お腹が空きすぎて力が入らないです」

 響子さんは困ったようにそう言った。
 可愛すぎだろ!?
 いやそうじゃない。早く何か食べさせてあげなきゃ。何かって、お粥か。 

「準備しますね。と言ってもインスタントですが。卵粥で大丈夫ですか? 梅もありますが」

「卵が良いです」

 良かった。卵は好きみたい。タンパク質も摂れるし、食べられるならそっちの方が良い。

「はい。了解です」

 卵粥のパックを取り出し、

「あ、キッチン使わせてもらいます」

 と念のために声をかける。

「はい」

 体調悪いだろうに、いちいちちゃんと返事をくれる響子さんが愛しくて仕方ない。
 ……出会ってまだたったの半日でこの反応。他ならぬ自分じゃなきゃ危ないヤツだと思っただろう。
 ダメだもう少し押さえなきゃ。品方向性、品方向性。理性、理性。

「電子レンジ借りますね」

 お粥をレンジで温めている間にスポーツドリンクで水分補給してもらおう。
 気だるげに身体を起こした響子さんは寝起きだからか熱のせいか力が入らなさそうだったので、グラスを持つ手をそっと支える。コップを傾けると響子さんはほぼ一気に飲み干し、フーッと肩で大きく息をした。その至福といった表情がたまらない。
 ああそうか。
 多分、響子さんは朝の出会いから今この時まで何も食べていないし何も飲んでいない。
 熱も高いし、やっぱり病院に運んで点滴とか打ってもらった方が良かった? ……いや、自分でこれだけ飲めてれば良いのか? こんな時間にお粥食べるって言うくらいだし大丈夫だろう。

「そちらのテーブルで食べますか?」

 と口にしてから思い直す。

「……いや、多分、やめた方がいいですね。今日、何度も立ちくらみを起こしてますし。ベッドに運ぶので待っててください」

「お言葉に甘えさせてもらいます」

 ベッドの上に座り、響子さんは気だるげに壁にもたれかかっていた。
 チン
 あたため終了。うん。良い感じに湯気も出てる。

「器、お借りしますね」

 コンロの上の小さな食器置き場から丼を出す。自炊している形跡がほぼなかったので、器も使っていないだろうと軽く洗って水を切りキッチンペーパーを拝借して軽く拭う。

「そのままでも良いですよ」

 と響子さん。
 言われてみると、袋の口を切ってそのまま食べることもできる作りだった。
 そんなこだわらない、飾らない性格も可愛い。

「でも熱いので、一応移します。お腹空いてるんですよね? 食べやすい方が良いでしょう」

「……確かに」

 素直な反応がまた可愛かった。
 多分、響子さんが何を言っても可愛いと思うのだろうなというくらいには、響子さんは特別だった。
 丼に移して響子さんの元へ急いで運ぶ。

「すみません。なんか変な感じですがカレー皿だとこぼしやすいかと思って」

「いえ、十分です」

 スプーンを渡すと、響子さんは早速、お粥をスプーンにすくいフーフー息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。
 一瞬変な顔をした響子さんは、そのまま文句も言わずにせっせとスプーンを口に運ぶ。
 口が不味いんだろうなと思う。でも、文句一つ言わずに実に満足そうな顔をしてお粥を食べる響子さん。

「お茶も飲んでください」

 途中で一度声をかけ器を受け取り、麦茶の入ったコップを手渡す。

「すみません」

 スポーツドリンクと同じようにこちらもゴクゴク飲み干してくれる。空のコップを受け取り、お粥を渡すと引き続き黙々と食べる。
 無心に食べる姿がなんとも可愛くてならない。
 十分ほどで全部食べ終わると、響子さんは不意に顔を上げて、

「そう言えば、牧村さん、夕飯は?」

 と聞いてきた。

「すみません。若園先生が寝ている間におにぎり食べさせてもらっちゃいました」

「それなら良かったです」

 ああそうだ。薬飲んでもらわなきゃ。
 まだ熱が高そうだから、鎮痛解熱剤かな。

「飲んでください。幾つか買ってきたんですが、これがよさそうだったので」

 薬効とか確認したいかなとパッケージごと渡すと、やはりしっかりチェックしている。この薬で問題なかったようで、響子さんが開けようとするのを見てそっと取り返して箱を開けて、

「はい」

 と規定量の錠剤を渡し、更に反対の手に水も渡す。

「ありがとうございます」

 響子さんはゴクリと言われるままに薬を飲み込んだ。
 グラスを受け取ると、

「お世話かけました。本当にありがとうございました」

 と丁寧にお礼を言われる。

「もう大丈夫そうですか? というか、誰かご家族とか」

 一人暮らしなのは見て分かる。食器なども一人分しかなかったし、この物の少ない部屋に誰か……そう彼氏のような存在がしょっちゅう出入りしているようなこともなさそうだ。それは嬉しい。正直、ものすごく嬉しい。
 けど、この体調で一人というのはやはり心配だ。

「いません。見ての通り、侘しい一人暮らしです」

 侘しい一人暮らしはともかく、近所にも頼れる家族はいないということ? そうか、ならきっと自分の出番で問題ない。

「そうですか。……じゃあ、泊まります」

 気がついたら言っていた。
 いや、さすがにそれはどうだ? 自分で言っておいて、脳内で突っ込みを入れる。

「は?」

 やっぱり、響子さんも驚いている。

「いえ、お粥も食べられたし薬も飲めましたが、まだ熱も高いですし」

 そう言って、おでこに手を当てる。軽く38度はありそうだ。もしかしたら、もっとあるかもしれない。

「寝てれば治りますよ」

 ……いや、寝てるだけじゃ治らないと思います。
 泊まらせろと言いたいわけじゃない。だけど、自分の状態は分かって欲しい。これはちょっと風邪引いたとか寝てれば治るとかそういう感じじゃないと思う。

「いえでも、想像でしかありませんが、朝、あのまま電車に乗ってたら、多分、ここまで辿り着けてなかっただろうし、夕刻に私が来なかったら、動けずに大変なことになっていたかも知れませんよ」

 そう言うと、響子さんはうっと言葉に詰まった。
 そうして、

「……お世話かけました」

 と深々と頭を下げた。

「いえ、お役に立てたなら幸いです」

 素直な響子さんが可愛くて、また笑みがこぼれてしまう。いや、そうじゃないだろ?

「まあ、一人暮らしの女性の部屋に泊まると言うのはさすがにナシかも知れないですね。明日、様子を見に来ます。それまでに何かあったら連絡ください」

 人格が崩壊しそうな気がして、一旦引き上げることにした。
 名刺を出して、プライベートの番号を書き込む。携帯と自宅、メールアドレスも。

「何時でも飛んでくるので連絡くださいね」

 そう言って手渡す。
 できるなら、今ここで響子さんの携帯に番号を登録させて欲しい。そして、響子さんの番号も教えて欲しい。
 下心アリと思われたくないから、言わないけど。

「あの……」

「はい」

「なんで、そんなによくしてくれるんですか?」

「え?」

 それ、今聞くの!?
 どうしよう。ただの親切な人に徹した方が良い?
 いやダメだ。嘘をついたりごまかしたりする場面じゃない。
 運命の人だと思った……いや、それはさすがに重そうだ。こう言うのって、なんて言うんだっけ?
 そう!

「一目惚れしました」

 響子さんの目をじっと見つめながら伝えた。

「……は?」

「若園先生に一目惚れしてしまったんです」

 そう。一般的に言うと、これは一目惚れだ、多分。
 これまで出会って来た多くの女性に感じた『この人じゃない』感。そして今日、響子さんに会ったあの瞬間に感じた『この人だ!』という強い想い。
 こんなことは響子さんが初めてだから、これが一般的な一目惚れなのかは分からないけど。

「すみません。出会ったばかりなのに厚かましくて」

「あ……いえ」

 戸惑った空気は感じるけど、ドン引きという感じではない。
 良かった! ここは、もう少し押しても大丈夫?

「改めまして、牧村幹人、独身です。不倫とか浮気とかじゃないので安心してください。後、バツイチとかでもないです」

「……はあ」

 今、この情報いらなかった?
 だけど、もう引けない。あと少しだけ。

「年は三十五歳。もうすぐ三十六歳です。牧村商事って会社の社長をやってます」

「……そういえば、名刺頂きましたっけね」

 そう言うと、響子さんは視線を宙にしばしさまよわせた後、

「若園響子と言います。N大学病院で脳外科医として働いてます」

 と自己紹介してくれた。

「やっぱりお医者さんでしたか」

 既に『若園先生』呼びしているのに、本人の口から聞いたらポロッと口に出てしまった。
 響子さん、不思議そうな顔で小首を傾げた。やばい、この仕草可愛い! じゃなくて……。

「すみません。いえ、うちの父親も医者なんですよ。先生と同じような匂いがするんで」

「……ああ、匂い」

 そう言うと、またしても不思議そうな顔をして、響子さんは自分の腕を引き寄せてクンクン匂いを嗅ぎ始めた。
 ああダメだ。可愛すぎるだろう!
 違う違う。ここは不審者疑惑をしっかり払拭する場面だ。

「後すみません。車に名刺入れが落ちてまして、中を改めさせて頂きました。そちらに若園先生のお名前があり表札も同じ名前でしたので、きっとご本人だろうなと」



 その後、響子さんが歯磨きをして顔を洗って部屋着に着替えるところまで見届けてから、響子さんの部屋を後にした。ベッドに寝かしつけてから出たかったけど、さすがにそれは口にしなかった。それでは施錠できないから。
 玄関まで見送りに来てくれた響子さんのおでこには、「これ気持ちいいから好き」と言って貼ってくれた冷却用のジェルシート。ラフな服装にそんな姿も可愛かった。

「また明日」

 と言うと、

「もう大丈夫ですよ?」

 と言われたけど、ニコッと笑ってごまかしておいた。
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