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気がつくと、布団をかぶってベッドで寝ていた。
電気がついてる。……夜?
なんで、電気つけっぱなしで寝てたんだろう?
やたらと身体が熱くて重い。
あれ、私、どうしたんだっけ?
だけど、思い出すより前に激しい空腹感に襲われた。
……お腹空いた。
食欲はない。けど、エネルギーの枯渇感が強すぎて、猛烈に何か食べたいという思いに駆られる。
食欲はないのに何か食べたい。こんなところに自分の生命力の強さを感じて笑える。
「目、覚めました?」
……ん?
一人暮らしのはずの部屋に、あるはずのない他人の声を聞いて思わず辺りを見回す。空耳?
だけど、人の動く気配がしたと思ったら、
「気分はどう?」
という言葉が降ってきて、目を向けるとそこにいたのは背の高い男の人。……今朝、駅前でぶつかった男性だった。
ああそうだ、と思い出す。夕方(夜?)に、自宅前で彼から何やら受け取ったような……。
そうだ。
「……お粥」
思わずそう口にすると、ぷっと吹き出したのは、そう、牧村さんとか言う……どっか大きな会社の社長さん(確か)。
なぜここに?
「お腹、空きましたか?」
「はい」
反射的に答えていた。
お腹空いた。多分。
正直、何かを食べたいという感覚は少ない。でも、胃が空っぽで身体に力が入らないから、何か食べてエネルギー補給しなきゃと思う。
車だってガソリンが切れたら走れない。ガス欠前に給油しなくては。何より、車はガソリンが切れても死なないけど、人間は食べなきゃ死んでしまうのだから。
「お腹が空きすぎて力が入らないです」
素直に答えると、牧村さんは笑って、
「準備しますね。と言ってもインスタントですが。卵粥で大丈夫ですか? 梅もありますが」
と小さな台所に向かう。1Kの部屋についてる辛うじてコンロが二つとささやかなシンクがあるだけの小さな台所。冷蔵庫も電子レンジも年季の入った小さなものだ。
料理なんてする暇もないから、これでも全く困らない。
「卵が良いです」
「はい。了解です」
嬉しそうに卵粥のパックを持ち上げて見せてくれた。
「あ、キッチン使わせてもらいます」
キッチンと言うのも恥ずかしい代物だが断る理由はない。
「はい」
……いや待て? そもそもなぜ彼がここに?
と一瞬思った。けど、次の瞬間そんなことどうでも良いだろうと思いなおす。
どうやら私の熱は結構高そうだ。頭痛は今もたまにその存在を主張してくる。お腹が空き過ぎて身体に全く力が入らない。寝不足だけは多少解消したかも知れないけど、このまま一人でいたら、最悪孤独死してたんじゃと思うくらいには、動ける気がしない。
何か食べさせてくれるなら、頼ってしまえと本能が言う。
そこで思い出した。
お粥(とか他色々入った袋)をもらった後、立ちくらみと熱と空腹で多分、意識を失ったことを。で、最後に聞いた言葉からすると、彼はそんな私を玄関先から運んでベッドに寝かせてくれた上、心配して起きるまで待っていてくれたのだろう。
……なんで、そんなに親切にしてくれるんだろう?
やっぱり知り合い?
でも、どう考えても記憶にない顔だった。
ぼんやり考えを巡らせる私に気づいているのか気づいていないのか、牧村さんは実に自然な様子でお粥のパッケージをチェックして、
「電子レンジ借りますね」
と言ったり、電子レンジが動いている間にスポーツドリンクを持ってきて身体を起こすのを手伝って飲ませてくれたり、やたらと甲斐甲斐しい。
実は社長ってのは冗談で介護職か看護師なんじゃ?と疑うくらい手厚く手際良く立ち働く。
「そちらのテーブルで食べますか? ……いや、多分、やめた方がいいですね。今日、何度も立ちくらみを起こしてますし。ベッドに運ぶので待っててください」
起きたからって小さな座卓で食べるだけだけど、確かにエネルギー補給前に動けるイメージがない。スポーツドリンクですら身体に染み渡る至福な感覚があったくらい、どうにも自分は飢えているらしい。
「お言葉に甘えさせてもらいます」
ここまで来たら、ありがたくお願いしよう。お礼は後からまとめてさせてもらえばいい。うん。そうしよう。
チンと甲高い音がしてレンチン終了。
「器、お借りしますね」
「そのままでも良いですよ」
どうせろくな器なんてない。
だけど、牧村さんは笑いながら、
「でも熱いので、一応移します。お腹空いてるんですよね? 食べやすい方が良いでしょう」
「……確かに」
そう答えると、また朗らかに笑われた。
ベッドの上で壁にもたれて待っていると、学生時代に誰かがくれたラーメン丼にお粥が盛り付けられてきた。違和感が半端ない。
「すみません。なんか変な感じですがカレー皿だとこぼしやすいかと思って」
牧村さんもそう思ったらしいけど、気にすることはない。
「いえ、十分です」
スプーンを渡され、フーフー息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。
味がしない。
でも美味しかった。
気持ちだけは美味しかった。エネルギーが身体に染み渡るようだった。
美味しかろうが不味かろうが、食べなきゃ回復しないんだからとにかく食べる。黙々と食べるうちに身体に少しずつ力が戻ってくる。
こんなに早く消化はしないはずだから、これは気持ちの問題だろう。でも、気持ちで元気になれるならありがたい話だ。
「お茶も飲んでください」
途中で器を取られてお茶の入ったコップを渡される。
「すみません」
ゴクゴク飲み干すと、丼を返してくれる。
こんな風に世話を焼かれるのは何年ぶりだろう? 親と住んでいたのは高校生までだから、少なくとも十二年以上前の話だ。滅多に風邪も引かない健康優良児だったから、もしかしたら二十年以上前かも知れない。
結局、私は出されたお粥を全て食べた。食べてから、
「そう言えば、牧村さん、夕飯は?」
と思い出して聞いた。
「すみません。若園先生が寝ている間におにぎり食べさせてもらっちゃいました」
「それなら良かったです」
そう答える私に牧村さんは笑顔を見せ、それから鎮痛解熱剤を手渡してくれた。
「飲んでください。幾つか買ってきたんですが、これがよさそうだったので」
ザッと成分を確認して箱を開けようとすると、箱ごとだったのはパッケージを見せるためだったようでスッと取り上げられる。開封して「どうぞ」と錠剤を手渡され、準備されていた水でゴクリと飲み込んだ。
壁の時計を見ると、もう二十三時を過ぎていた。
「お世話かけました。本当にありがとうございました」
「もう大丈夫そうですか? というか、誰かご家族とか」
二十歳の時に両親を亡くした私に家族はいない。ついでにパートナーもいない。同業者はお互い忙し過ぎてすれ違いがすぎるし、一般人とはそもそも時間帯が合わない。過去何度かお付き合いをしたこともあるけど、結局続かなかった。
「いません。見ての通り、侘しい一人暮らしです」
「そうですか。……じゃあ、泊まります」
「は?」
「いえ、お粥も食べられたし薬も飲めましたが、まだ熱も高いですし」
「寝てれば治りますよ」
「いえでも、想像でしかありませんが、朝、あのまま電車に乗ってたら、多分、ここまで辿り着けてなかっただろうし、夕刻に私が来なかったら、動けずに大変なことになっていたかも知れませんよ」
……反論できない。
確かに、朝、あのまま電車で帰ってたらどこかで倒れて救急搬送されていたかも知れない。行き先が勤務先の大学病院だったりしたら恥ずかしいったらない。
夕方も牧村さんが来てくれなかったら飢え死にしていたかも。というのは大袈裟かも知れないけど、明日は休みだから明後日出勤しない私を心配した誰かが見に来たら瀕死の重体……とか言うのはありそうで怖い。
「……お世話かけました」
「いえ、お役に立てたなら幸いです」
牧村さんは嬉しそうに笑った。
「まあ、一人暮らしの女性の部屋に泊まると言うのはさすがにナシかも知れないですね。明日、様子を見に来ます。それまでに何かあったら連絡ください」
そう言って、牧村さんは朝くれた名刺をまた出して、その名刺にプライベートの番号を書いた。
「何時でも飛んでくるので連絡くださいね」
「あの……」
「はい」
「なんで、そんなによくしてくれるんですか?」
「え?」
それまで落ち着いた様子だった牧村さんは急に慌てた様子になった。けど、それも一瞬のことで、スウッと真顔になると同時に私の目をじっと見つめてニコリと満面の笑みを浮かべた。
「一目惚れしました」
「……は?」
なんですと?
「若園先生に一目惚れしてしまったんです」
ヒトメボレ? って、果物だっけ?
「すみません。出会ったばかりなのに厚かましくて。」
「あ……いえ」
むしろ厚かましく遠慮なく面倒かけてるのは私の方な気がする。
「あ! 改めまして、牧村幹人、独身です。不倫とか浮気とかじゃないので安心してください。後、バツイチとかでもないです」
「……はあ」
「年は三十五歳。もうすぐ三十六歳です。牧村商事って会社の社長をやってます」
「……そういえば、朝も名刺頂きましたっけね」
こちらはN大学病院の脳外科医、二十九歳。専門医を取ったばかりの駆け出しだ。
って、私の自己紹介いる?
ああでも、こんなに世話になっておいて挨拶もしないのは人としてなしか。
「若園響子と言います。N大学病院で脳外科医として働いてます」
「やっぱりお医者さんでしたか」
……やっぱり? って、私そんな医者っぽい顔してたっけ?
「すみません。いえ、うちの父親も医者なんですよ。先生と同じような匂いがするんで」
「……ああ、匂い」
思わず、自分の腕をクンクン嗅いでみるが自分じゃ分からなかった。そんな私を見て、牧村さんはニコニコ笑っていた。
「後すみません。車に名刺入れが落ちてまして、中を改めさせて頂きました。そちらに若園先生のお名前があり表札も同じ名前でしたので、きっとご本人だろうなと」
その後、私が歯磨きして顔を洗って部屋着に着替えて後は寝るばかりというところまで見届けると、牧村さんは帰って行った。もちろん、着替えは風呂場の脱衣所で。
ここは狭い安アパートだけど風呂とトイレが別になっているのが気に入っている。と言うか、そうじゃなかったら多分、卒業後は住み替えていた。ちなみに家賃が安いのも良い。お金には困ってないけど、寝に帰るだけの部屋に無駄な大金をかける必要はないと思う。
しかし、一目惚れ……ねえ。
二十九歳にして、そんなこと初めて言われた。
顔立ちは割と整っている方らしい。美人と言ってもらうこともある。けど、なにせ面倒くさがりで、化粧も身なりも適当で……。
この年になると素が良いことより、いかにメイク技術に長けているかとか服装はもちろんのこと髪やネイルにまで気を遣っているかの方が見た目の印象を左右する。
マメに美容院に行くのが嫌で伸ばしっぱなしの髪は癖のないサラサラの直毛。洗いっぱなしでも傷まないし、朝もブラシで軽くとかすだけでそれっぽくなるから手間がかからなくて楽だ。そんなことを思っているようでは多分ダメ。百歩譲って髪はまだ良いとしよう。運良く手間いらずのラッキーヘアを生まれ持ったとも考えられる。
でも、服装にしたって仕事ではどうせ白衣を上に着るしと中は量販店で同じものを三枚ずつ買って着回すズボラさ。学会とかで必要なスーツは二着。中のブラウス三枚と組み合わせれば、この枚数でも何とかいける。
服の買い直しが面倒なので体型維持だけは気をつけている。運動不足だけど食べ物にもこだわらないし、なんなら食べることにもこだわらないので太ることはない。
……いや、女として終わってる?
でも、男ならこれくらいでも許されるよね。少なくとも清潔であること、人を不快にさせないこと、TPOを意識することだけはしているし。
で、話戻って、こんな私に一目惚れ?
冗談か?
だけど、そんな冗談言うタイプには見えなかった。
むしろ、恐ろしく育ちが良さそうな人だった。品が良くて穏やかで。優しげな整った顔をしていた。
ああ、気の迷い。もしくは物珍しさ?
蓼食う虫も好き好き。
……いや、さすがに自分を蓼というほどには自己評価は低くない。
だけど、考えてみると不思議だ。牧村商事の社長というのが本当だとして、あの顔とあの人柄、あのステイタスで、なぜ三十六……いや、三十五って言ってたっけ、その年まで結婚していない? 普通に考えて、引く手数多でしょうに。
布団にくるまってそんなことを考えている内に、いつの間にか眠っていた。
鎮痛解熱剤が効いていたのか、お粥でお腹が満たされたのが良かったのか、その頃には身体も幾分楽になっていた。
電気がついてる。……夜?
なんで、電気つけっぱなしで寝てたんだろう?
やたらと身体が熱くて重い。
あれ、私、どうしたんだっけ?
だけど、思い出すより前に激しい空腹感に襲われた。
……お腹空いた。
食欲はない。けど、エネルギーの枯渇感が強すぎて、猛烈に何か食べたいという思いに駆られる。
食欲はないのに何か食べたい。こんなところに自分の生命力の強さを感じて笑える。
「目、覚めました?」
……ん?
一人暮らしのはずの部屋に、あるはずのない他人の声を聞いて思わず辺りを見回す。空耳?
だけど、人の動く気配がしたと思ったら、
「気分はどう?」
という言葉が降ってきて、目を向けるとそこにいたのは背の高い男の人。……今朝、駅前でぶつかった男性だった。
ああそうだ、と思い出す。夕方(夜?)に、自宅前で彼から何やら受け取ったような……。
そうだ。
「……お粥」
思わずそう口にすると、ぷっと吹き出したのは、そう、牧村さんとか言う……どっか大きな会社の社長さん(確か)。
なぜここに?
「お腹、空きましたか?」
「はい」
反射的に答えていた。
お腹空いた。多分。
正直、何かを食べたいという感覚は少ない。でも、胃が空っぽで身体に力が入らないから、何か食べてエネルギー補給しなきゃと思う。
車だってガソリンが切れたら走れない。ガス欠前に給油しなくては。何より、車はガソリンが切れても死なないけど、人間は食べなきゃ死んでしまうのだから。
「お腹が空きすぎて力が入らないです」
素直に答えると、牧村さんは笑って、
「準備しますね。と言ってもインスタントですが。卵粥で大丈夫ですか? 梅もありますが」
と小さな台所に向かう。1Kの部屋についてる辛うじてコンロが二つとささやかなシンクがあるだけの小さな台所。冷蔵庫も電子レンジも年季の入った小さなものだ。
料理なんてする暇もないから、これでも全く困らない。
「卵が良いです」
「はい。了解です」
嬉しそうに卵粥のパックを持ち上げて見せてくれた。
「あ、キッチン使わせてもらいます」
キッチンと言うのも恥ずかしい代物だが断る理由はない。
「はい」
……いや待て? そもそもなぜ彼がここに?
と一瞬思った。けど、次の瞬間そんなことどうでも良いだろうと思いなおす。
どうやら私の熱は結構高そうだ。頭痛は今もたまにその存在を主張してくる。お腹が空き過ぎて身体に全く力が入らない。寝不足だけは多少解消したかも知れないけど、このまま一人でいたら、最悪孤独死してたんじゃと思うくらいには、動ける気がしない。
何か食べさせてくれるなら、頼ってしまえと本能が言う。
そこで思い出した。
お粥(とか他色々入った袋)をもらった後、立ちくらみと熱と空腹で多分、意識を失ったことを。で、最後に聞いた言葉からすると、彼はそんな私を玄関先から運んでベッドに寝かせてくれた上、心配して起きるまで待っていてくれたのだろう。
……なんで、そんなに親切にしてくれるんだろう?
やっぱり知り合い?
でも、どう考えても記憶にない顔だった。
ぼんやり考えを巡らせる私に気づいているのか気づいていないのか、牧村さんは実に自然な様子でお粥のパッケージをチェックして、
「電子レンジ借りますね」
と言ったり、電子レンジが動いている間にスポーツドリンクを持ってきて身体を起こすのを手伝って飲ませてくれたり、やたらと甲斐甲斐しい。
実は社長ってのは冗談で介護職か看護師なんじゃ?と疑うくらい手厚く手際良く立ち働く。
「そちらのテーブルで食べますか? ……いや、多分、やめた方がいいですね。今日、何度も立ちくらみを起こしてますし。ベッドに運ぶので待っててください」
起きたからって小さな座卓で食べるだけだけど、確かにエネルギー補給前に動けるイメージがない。スポーツドリンクですら身体に染み渡る至福な感覚があったくらい、どうにも自分は飢えているらしい。
「お言葉に甘えさせてもらいます」
ここまで来たら、ありがたくお願いしよう。お礼は後からまとめてさせてもらえばいい。うん。そうしよう。
チンと甲高い音がしてレンチン終了。
「器、お借りしますね」
「そのままでも良いですよ」
どうせろくな器なんてない。
だけど、牧村さんは笑いながら、
「でも熱いので、一応移します。お腹空いてるんですよね? 食べやすい方が良いでしょう」
「……確かに」
そう答えると、また朗らかに笑われた。
ベッドの上で壁にもたれて待っていると、学生時代に誰かがくれたラーメン丼にお粥が盛り付けられてきた。違和感が半端ない。
「すみません。なんか変な感じですがカレー皿だとこぼしやすいかと思って」
牧村さんもそう思ったらしいけど、気にすることはない。
「いえ、十分です」
スプーンを渡され、フーフー息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。
味がしない。
でも美味しかった。
気持ちだけは美味しかった。エネルギーが身体に染み渡るようだった。
美味しかろうが不味かろうが、食べなきゃ回復しないんだからとにかく食べる。黙々と食べるうちに身体に少しずつ力が戻ってくる。
こんなに早く消化はしないはずだから、これは気持ちの問題だろう。でも、気持ちで元気になれるならありがたい話だ。
「お茶も飲んでください」
途中で器を取られてお茶の入ったコップを渡される。
「すみません」
ゴクゴク飲み干すと、丼を返してくれる。
こんな風に世話を焼かれるのは何年ぶりだろう? 親と住んでいたのは高校生までだから、少なくとも十二年以上前の話だ。滅多に風邪も引かない健康優良児だったから、もしかしたら二十年以上前かも知れない。
結局、私は出されたお粥を全て食べた。食べてから、
「そう言えば、牧村さん、夕飯は?」
と思い出して聞いた。
「すみません。若園先生が寝ている間におにぎり食べさせてもらっちゃいました」
「それなら良かったです」
そう答える私に牧村さんは笑顔を見せ、それから鎮痛解熱剤を手渡してくれた。
「飲んでください。幾つか買ってきたんですが、これがよさそうだったので」
ザッと成分を確認して箱を開けようとすると、箱ごとだったのはパッケージを見せるためだったようでスッと取り上げられる。開封して「どうぞ」と錠剤を手渡され、準備されていた水でゴクリと飲み込んだ。
壁の時計を見ると、もう二十三時を過ぎていた。
「お世話かけました。本当にありがとうございました」
「もう大丈夫そうですか? というか、誰かご家族とか」
二十歳の時に両親を亡くした私に家族はいない。ついでにパートナーもいない。同業者はお互い忙し過ぎてすれ違いがすぎるし、一般人とはそもそも時間帯が合わない。過去何度かお付き合いをしたこともあるけど、結局続かなかった。
「いません。見ての通り、侘しい一人暮らしです」
「そうですか。……じゃあ、泊まります」
「は?」
「いえ、お粥も食べられたし薬も飲めましたが、まだ熱も高いですし」
「寝てれば治りますよ」
「いえでも、想像でしかありませんが、朝、あのまま電車に乗ってたら、多分、ここまで辿り着けてなかっただろうし、夕刻に私が来なかったら、動けずに大変なことになっていたかも知れませんよ」
……反論できない。
確かに、朝、あのまま電車で帰ってたらどこかで倒れて救急搬送されていたかも知れない。行き先が勤務先の大学病院だったりしたら恥ずかしいったらない。
夕方も牧村さんが来てくれなかったら飢え死にしていたかも。というのは大袈裟かも知れないけど、明日は休みだから明後日出勤しない私を心配した誰かが見に来たら瀕死の重体……とか言うのはありそうで怖い。
「……お世話かけました」
「いえ、お役に立てたなら幸いです」
牧村さんは嬉しそうに笑った。
「まあ、一人暮らしの女性の部屋に泊まると言うのはさすがにナシかも知れないですね。明日、様子を見に来ます。それまでに何かあったら連絡ください」
そう言って、牧村さんは朝くれた名刺をまた出して、その名刺にプライベートの番号を書いた。
「何時でも飛んでくるので連絡くださいね」
「あの……」
「はい」
「なんで、そんなによくしてくれるんですか?」
「え?」
それまで落ち着いた様子だった牧村さんは急に慌てた様子になった。けど、それも一瞬のことで、スウッと真顔になると同時に私の目をじっと見つめてニコリと満面の笑みを浮かべた。
「一目惚れしました」
「……は?」
なんですと?
「若園先生に一目惚れしてしまったんです」
ヒトメボレ? って、果物だっけ?
「すみません。出会ったばかりなのに厚かましくて。」
「あ……いえ」
むしろ厚かましく遠慮なく面倒かけてるのは私の方な気がする。
「あ! 改めまして、牧村幹人、独身です。不倫とか浮気とかじゃないので安心してください。後、バツイチとかでもないです」
「……はあ」
「年は三十五歳。もうすぐ三十六歳です。牧村商事って会社の社長をやってます」
「……そういえば、朝も名刺頂きましたっけね」
こちらはN大学病院の脳外科医、二十九歳。専門医を取ったばかりの駆け出しだ。
って、私の自己紹介いる?
ああでも、こんなに世話になっておいて挨拶もしないのは人としてなしか。
「若園響子と言います。N大学病院で脳外科医として働いてます」
「やっぱりお医者さんでしたか」
……やっぱり? って、私そんな医者っぽい顔してたっけ?
「すみません。いえ、うちの父親も医者なんですよ。先生と同じような匂いがするんで」
「……ああ、匂い」
思わず、自分の腕をクンクン嗅いでみるが自分じゃ分からなかった。そんな私を見て、牧村さんはニコニコ笑っていた。
「後すみません。車に名刺入れが落ちてまして、中を改めさせて頂きました。そちらに若園先生のお名前があり表札も同じ名前でしたので、きっとご本人だろうなと」
その後、私が歯磨きして顔を洗って部屋着に着替えて後は寝るばかりというところまで見届けると、牧村さんは帰って行った。もちろん、着替えは風呂場の脱衣所で。
ここは狭い安アパートだけど風呂とトイレが別になっているのが気に入っている。と言うか、そうじゃなかったら多分、卒業後は住み替えていた。ちなみに家賃が安いのも良い。お金には困ってないけど、寝に帰るだけの部屋に無駄な大金をかける必要はないと思う。
しかし、一目惚れ……ねえ。
二十九歳にして、そんなこと初めて言われた。
顔立ちは割と整っている方らしい。美人と言ってもらうこともある。けど、なにせ面倒くさがりで、化粧も身なりも適当で……。
この年になると素が良いことより、いかにメイク技術に長けているかとか服装はもちろんのこと髪やネイルにまで気を遣っているかの方が見た目の印象を左右する。
マメに美容院に行くのが嫌で伸ばしっぱなしの髪は癖のないサラサラの直毛。洗いっぱなしでも傷まないし、朝もブラシで軽くとかすだけでそれっぽくなるから手間がかからなくて楽だ。そんなことを思っているようでは多分ダメ。百歩譲って髪はまだ良いとしよう。運良く手間いらずのラッキーヘアを生まれ持ったとも考えられる。
でも、服装にしたって仕事ではどうせ白衣を上に着るしと中は量販店で同じものを三枚ずつ買って着回すズボラさ。学会とかで必要なスーツは二着。中のブラウス三枚と組み合わせれば、この枚数でも何とかいける。
服の買い直しが面倒なので体型維持だけは気をつけている。運動不足だけど食べ物にもこだわらないし、なんなら食べることにもこだわらないので太ることはない。
……いや、女として終わってる?
でも、男ならこれくらいでも許されるよね。少なくとも清潔であること、人を不快にさせないこと、TPOを意識することだけはしているし。
で、話戻って、こんな私に一目惚れ?
冗談か?
だけど、そんな冗談言うタイプには見えなかった。
むしろ、恐ろしく育ちが良さそうな人だった。品が良くて穏やかで。優しげな整った顔をしていた。
ああ、気の迷い。もしくは物珍しさ?
蓼食う虫も好き好き。
……いや、さすがに自分を蓼というほどには自己評価は低くない。
だけど、考えてみると不思議だ。牧村商事の社長というのが本当だとして、あの顔とあの人柄、あのステイタスで、なぜ三十六……いや、三十五って言ってたっけ、その年まで結婚していない? 普通に考えて、引く手数多でしょうに。
布団にくるまってそんなことを考えている内に、いつの間にか眠っていた。
鎮痛解熱剤が効いていたのか、お粥でお腹が満たされたのが良かったのか、その頃には身体も幾分楽になっていた。
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