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第二幕「災厄の魔法装丁は街の影に潜む」

幕間「装丁師クライドの怠惰な夜」

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 水の烙印を封印したその夜――。

 魔法図書館の自室にたどり着いたクライドが最初にしたことは、ベッドの上に倒れ込むことだった。ふかふかとは言い難い布団に顔をうずめ、大きく息を吐く。それだけで眠りに落ちられそうだったが、背後で響いた咳払いに仕方なく身を起こした。

「主さま、せめてお着換えしてくださいにゃ」
「わかってるよ。わかってるんだよ。猫、この面倒くさい気持ちはお前にはわかるまい」
「わからないにゃ。魔法を継ぐ装丁師の子が、まさかこんな汚部屋に住んで平気なんて、おいらにはわからないにゃ!」

 汚部屋。失礼すぎる言い草に、クライドはやっとベッドから起き上がった。部屋を見渡したところで、そこまで汚いとは思わない。

 たとえ、部屋の端にうずたかく装丁用の材料が積まれていようが、テーブルの上に飲みかけのココアや食べかけのパンが置かれていようが、床に脱ぎ散らかした服が転がっていようが、部屋中にほこりが舞っていようが――。

「そんなに汚くないぞ。普通だ」
「にゃ! 主さまの普通はおかしいにゃ! あの小公女がこれ見たら、ひっくり返っちゃうにゃ!」
「あいつはどうでもいいだろ! というか、こんなに疲れ果てている俺に片づけをしろというのか!」
「別に今しろって言ってないにゃ! だから、せめて着替えてから寝ろって言ってるだけにゃ!」

 猫の言葉はすべてそこに帰結するらしい。さすがに延々と小言を食らう気にもなれず、クライドは渋々着替えを開始した。

「……ん? シャツとズボンはどこだ」
「にゃあっ! あ、あれほど洗濯した服は別にしておけと……! こ、こら! 汚れた服を拾うなにゃ!」

 脱いだ黒いジャケットを片手に、クライドは部屋を徘徊する。本棚からはみ出ている布を引っ張ると、綺麗そうなシャツが出てきた。とりあえず上はこれでいいだろう。

「な、何で本棚にシャツを入れたにゃ……?」
「知らん。寝ぼけていたんだろ」
「寝ぼけると本棚にシャツを入れる人とか意味わかんないにゃ」

 それは確かにそうだろう。クライドも記憶にないだけで、寝ぼけていたわけではない。シャツとジャケットを手に部屋を横断する。クローゼットを開けてみたが、中は見事に本しか入っていない。

「ないな。仕方ない」
「諦めるなにゃ! たぶんその辺に……ほ、ほら、あったにゃ!」

 猫はテーブルの下に潜り込むと、おそらく洗ってあるであろうズボンを引っ張り出す。さすがは猫。クライドの行動パターンをよくわかっている。思わず感心して眺めていると、猫は冷たいまなざしを主に向けてきた。

「なんだよ」
「うにゃあ。別に……。ほら、さっさと着替えるにゃ」
「わかったわかった。まったく、お前は俺の親よりも口うるさいな」

 ため息交じりにクライドは着替えを始める。はっきり言って脱ぐだけでも億劫だが、そんなことを言えば猫に蹴りを入れられかねない。のろのろと服を脱いでは、ふと思い出したように猫に声をかける。

「そういえばお前、あの小公女と和解したのか」
「にゃ? 和解ってどういうことにゃ? 別にそもそも争ってもいなかったにゃ」
「そうだったか? ずいぶん嫌ってただろ。なのに今回、態度が軟化したのは」
「……主さま、言わぬが花って言葉、知ってるにゃ?」

 猫は爪を出し入れしてみせる。それ以上言ったら引っかくぞという意思表示に、クライドは黙って服を着る。

 小公女に殴られたり蹴られてもそこまでの痛手は感じないが、猫からの攻撃は少し痛い。ぼんやりとリボンタイを結んでいると、猫がひげを揺らしながら問いかけてくる。

「そういえば主さま。最後、小公女となに話してたにゃ?」
「な、ななな、何って? 別に日常会話だぞ、特に不審なことは何もいだろ!」
「どうしてそんなに挙動不審になるにゃ? そ、そんなおいらに言えないことを……!?」
「違うって! なんでだよ! た、ただ俺はあいつに礼を……おおぅ、言ったら吐き気が」
「なんでにゃ。主さまも大概恥ずかしい人にゃ」
「お前に言われたくはなーい!」

 再びジャケットを手にすると、猫が目の前にバスケットを差し出してくる。何だこれは。疑問と共に中をあらためると、そこにはキッシュが入っていた。

「なんだっけ、これ」
「にゃ。小公女からの差し入れにゃ。まだ食べられると思うにゃ」
「……俺、まともに食事もとってないと思われてんのかな……。まあいい、頂くとしよう」

 気を取り直し、バスケットからキッシュを取り出す。皿とフォークは猫が用意しておいてくれた。腹も減ったところでありがたくいただくことにする。

「ところで猫。お前は何も知らないのか。魔法装丁たちが俺を避ける理由」

 キッシュを口に運びながら、クライドは首をかしげる。『風の烙印』だけなら、まだ偶然によるものだと思えた。しかし、『水の烙印』も同じ行動をとるとなると、何かしら理由があるとしか思えない。

「にゃあ。おいらは何も……と言いたいのですが、ちょっと気になることはあるにゃ」
「気になること? なんだ、それは」
「気を悪くしないでもらいたいのですが……主さま、最近くさいにゃ」
「ぶっ!」

 クライドは思わずキッシュを吐き出しかけ、必死にこらえた結果、無理やり飲み込みむせた。げほげほとせき込みながら、クライドは涙目で猫を見る。

「ぐ、ふ。はぁ……な、なんだって? お、俺がくさいってどういう!?」
「あーいやあの。別に悪臭がするわけじゃないにゃ。そこは大丈夫にゃ」
「だったら何!?」
「なんて言ったらいいか、変な魔法のにおいがするにゃ」
「変な魔法のにおい?」

 まったく心当たりのない言葉に、クライドは困惑するしかない。魔法を扱う関係上、クライドには猫たちにしかわからない『におい』があってもおかしくはない。しかし、それは常日頃から存在しているものであって、突然そんな風になることは考えにくかった。

「ちなみにその……においって、いつからしてるんだ?」
「にゃ。具体的には覚えていないのにゃ。ただ、魔法装丁の封印が解かれた時には、すでになんかにおいがしてた気がするにゃ」
「そのころ変わったことっていうと……やっぱり、あの小公女が何か……?」

 フォークをくわえながら、クライドは思案する。この事態は小公女が現れたことからすべて始まっている。だとしたら彼女が何かしらの意図をもってクライドに魔法を仕掛けたのか?

 そこまで考えてから、思考を打ち消す。あの小公女が意図的に魔法をというのは考えにくい。なぜなら彼女は魔力を無効化する体質だからだ。そもそも魔法を扱うこと自体困難のはず。小公女が何もしていないとしたら、他にどういった要因が考えられる?

「そういえば」

 クライドは記憶を辿る。小公女が魔法図書館に現れた理由は、猫が装丁本を盗んだからだった。その時、猫はこう言っていたではないか。――この本から魔法のにおいがする、と。

「猫、覚えているか。小公女からお前が盗んだ本のこと」
「にゃ? 覚えているにゃ。そうだ、あの時……本からも魔法のにおいがしてたにゃ」
「だけど、俺が確認した時には何もなかった。それはどうしてだ?」
「わ、わからないにゃ。だけど、魔法のにおいは確かにしてたのにゃ」

 自分の言葉に自信が持てないのか、猫は耳を伏せる。だが、クライドはさらに思考を深く掘り下げていく。仮定として猫の言葉に偽りがなく、クライドの認識にも間違いがない場合、どういった状況が考えられる?

「なんだったか……状況を思い出せ」

 小公女が魔法図書館に現れたとき、クライドは目の前にいた。しかし彼女は目もくれずに装丁本に突撃。そこで引き戻したが、彼女からは特に何も感じなかった。
 直後、猫が現れた。小公女が叫び、猫は慌てて本を落とした。

「ん?」

 そういえば、本と一緒に何かが落ちた気がする。何だったか。記憶を辿っていくと、何となく小さな紙っぽいものだったような気が――。

「――まさか」

 クライドは自分の胸に手を当てる。この魔法図書館は、クライドが持つ魔法の力と密接に関わりあっている。それが何かに浸食されているのだとしたら?

「…………っ」

 クライドは自身の中を満たしている魔力を走査する。大部分はいつも通りの魔力の流れだ。しかし、ただ一点だけ。淀みのように暗く光る場所がある。クライドは意識をその一点に集中し、魔力の源を引き抜いた。

「く……これか」
「主さま? それは?」

 猫が戸惑うように尻尾を揺らす。クライドが手にしていたのは、何の変哲もない……はずの一枚のしおりだった。無数の花びらで埋められたそれは、一見無害そうに見える。しかし顔を近づけるだけで、クライドやそれに関連した魔法に対する害意が漂ってきた。

「それにゃ、魔法のにおい!」
「このしおり。本に挟まってたってことは、やっぱり小公女か? いや、だが何か違和感があるな。ふむ……」

 小公女がこのしおりを持っていたとしても、彼女が魔法を仕掛けたとは言い切れない。けれど、このしおりの出所を探る必要はあるだろう。クライドに影響を与える魔法を込めた『誰か』は、この魔法図書館や魔法装丁に悪意を持っている可能性が高い。

「一度、小公女と話す必要があるな」

 しおりを軽く弾くと、少しだけ花のにおいがした。この花、一体どういう名前なのだろう――。

 何気なく考えながらも、クライドの心は暗く沈んでいた。
 まだ、夜明けには程遠い。今日の眠りはひどく浅いものになりそうだった。
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