やさしい魔法と君のための物語。

雨色銀水

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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

8.蒼星月舞《アオイホシハツキトオドル》

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 憎んでいたのは結局、誰のためだったのだろう。無理解を取るくらいなら、無神経なくらいにしがみつけばよかったのか。いつしか空を彩った月を見上げても、そこから答えは降ってこない。

 手を伸ばす。月を見たはずが、自然と指先を見てしまう。青白い光に照らされ、爪の先が白く染まっている。闇に沈むだけの夜空は、月と星が踊る静かな舞台に取って代わられた。

 光と闇は交わらない。影を通して手を差し伸べ合うだけだ。指をどんなに伸ばしたって、月も星もこの手に掴めはしない。それが父との関係性の果てのようで、ヴィルは自然と空から目をそらした。

 夢であり現実でもあるこの世界は、ギルベルトの記憶が形作っている。ならばこの月や星も、いつか父が見上げていたものと同じなのだろう。美しくも儚い光が形作った夜も、誰もいない暗い道行きすらも。

 ならば、答えはずっとそばにあった。これが父の記憶であるなら、この世界が父自身の想いで形作られているのなら。いつだって手を伸ばせば、届く位置に——

「あなたはいたんだろ。ずっと、俺のそばに」

 少年が見つめる先、蒼い月の光の下に彼はいた。照れ隠しにも似た笑顔を浮かべ、父であるギルベルトはゆっくりと我が子の元へと歩んでいく。

「忘れたふり、というのも悪くないと思ったんだけどね。そうすれば、お前だって気兼ねなく話せると思ったんだ。でも、見込みが甘かったかな……なあ、ヴィルヘルム」

 衣擦れの音すらも明瞭な、静けさの中をギルベルトは歩む。地面を踏みしめる音は、不思議と響かなかった。立ち止まったまま、ヴィルは近づいてくる父の姿に力なくまぶたを伏せる。

「今更だ、なんて。本当に今更なんだな」
「ああ、今更だよ。結局、おれは最後までお前たちの前で、虚勢を張り続けることしか出来なかった。民衆にとっての英雄であることと、家族にとっての父であることは、そもそも同じではなかったのに。だから、この結果はギルベルトが負うべき責なんだ」

 後悔することも二度と出来ないのだけど。あとほんの数歩。ギリギリ手が届かない位置に立って、ギルベルトは苦笑いを浮かべる。影の差さない地面には、薄明かりの星も落ちることもない。ゆっくりと瞬きを繰り返し、ヴィルは目の前の父の顔をじっと見つめた。

「死んでも、憎まれたままで良かったのか」
「仕方ない。そう思っていたよ。だっておれは、本当にお前たちに何もしてこなかったから。家族に残せるものが家や金だけしかないというのも、情けない限りだとは思う。だけど……お前に憎しみだけを残すのは……」

 目を細めて笑い、ギルベルトは曖昧に首を横に振る。さわさわと揺れる梢から、ゆっくりと枯葉が降り注ぐ。風に乗ったその一葉が少年の髪をかすめ、わずかに外れた視線の端で父は告げた。

「お前に憎まれるのは、いやだなあ。そんなのは、やっぱり悲しいなぁ……」

 ざっ、と地面を蹴る音が響いた。ひと時、少年は父の顔を真正面から見る。伸ばされた手ひら分の想いだけが、親子の間に存在した隔絶を埋めた。抱きしめられた。そう理解しても、今度はヴィルも拒まなかった。

「ごめんな。こんな父親でさ。どうせ、もういなくなるから。だからせめて最後まで我がままでいさせてくれ。本当に、どうしようもなくてさ……どうすることもできなかったんだ」
「無様だ」
「ああ、本当に。無様だよ……こんな格好つけが英雄だなんて、笑ってくれ」
「ひどい面」
「っ、ああ、そうだね。なんだかぐちゃぐちゃだよもう」
「馬鹿」
「うん、馬鹿だよ」
「バカ」
「うん」
「あんたなんか、嫌いだ」
「うん……」
「大嫌いだ」
「……うん」
「許さない」
「……ん」
「でも」



「大嫌いだから、絶対に忘れないよ」


 温かさだけが、記憶の中に刻まれていく。揺らめきながら静かに落ちる月の光が、同じ色の髪を照らし出す。泣くこともなく、ただ互いの存在だけを確かなものとして、二人は夜の中に佇む。

 愛しているとか。大好きだよ、なんて。軽々しく口にできるものではない。だからこそ、月はこんなにも綺麗なのだと、夜の星は語りかけるように瞬き続ける。

 初めて触れた背中は、思った以上に大きかった。少年の手はまだ小さくて、父に届くほどのものは持ち合わせていない。けれどいつか、触れた分以上の何かを返せる存在になれたなら。

「忘れる、わけないじゃないか」

 父の背に憧れていた。歪んでいても確かに、それは憧れだった。触れることができなかったからこそ、強く追い求めた。永遠に失われても、目を閉じればこの背中が見えるのだろう。

 不器用な親子を、月と星だけが見ていた。一言では言い表せない想いは、夜の中に溶けて消えていく。愛も憎悪も、悲しみも喜びも。夜の闇は溶かして、優しいものに変えてくれるだろうか。

 さよならもありがとうも、満足に伝えられない。
 結局、二人は似た者同士なのだと——優しい闇は笑う。
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