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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

6.君が為に彼は逝く

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 いつだったか。思い出せないほど幼い頃の話だ。ヴィルは家から出て行く父を追いかけたことがあった。小さな足を懸命に動かし、遠ざかって行く後ろ姿を追って走った。けれど、走っても走っても、父には追いつけない。最後には地面につまずき、無様に倒れこんだ。

 待って、と呼びかけても父の足は止まらない。ヴィルの存在に気づかないのか、気づこうとしていないのか。どちらにせよ、泣き声もらす幼子を騎士が振り返ることはなかった。

 泣きながら立ち上がって、子供は父の姿がもないことに気づく。オロオロと見回したところで、父の姿を見つけるどころか帰り道もおぼつかない。泣きじゃくりながら幼いヴィルは、道を歩き出した。しかし行けども行けども、家は見えてこない。

 そこでやっと、子供は自分が迷ったらしいことに思い至った。不安が心を満たし、ふらふらと更に道を彷徨い歩く。通り過ぎる人もおらず、見覚えのある場所も存在しない。あまりの状況に、ヴィルはわっと叫ん駆け出していた。

 見るもの全てが、恐ろしいものにしか思えない。混乱の果てに、ヴィルはどこか暗い場所に迷い込んだ。泣き疲れ、うずくまった子供を助けてくれる誰かはいない。「たすけて」と小さな声で呼んでも、父の声が返ることもない。

 目を閉じ、耳を塞いだ。何も見たくないと心を閉ざした。それっきりヴィルの意識は途絶えた。あの後どうやって帰ることが出来たのか。それだけが思い出せない。けれどそれ以来、ヴィルの心の中には深い闇が残り続けていた。

「滑稽《こっけい》だな」

 闇を進みながら、ギルベルトはそんな言葉を漏らした。拙い瞳で子供は大人を見上げる。黒い髪の下の瞳は、ヴィルを見ることもない。暗いばかりの闇を宿し、父であるはずの男は語る。

「お前は、私がどうして戦いに赴いていたのか知っているのか?」
「しらない……戦いが、好きだったから。じゃないの」
「戦いが好き、か。それも一つの真実ではあるがな。好きであったから、お前たちを顧みることもなかった。そう言えば納得するのか?」
「さいてい、だよ。そんなの理由にもなってない」
「最低、な。最低な父親なんだよ。私はな。金と名誉と戦いが全てで、家族を振り返ることもない。戦いに明け暮れ、そして気づけば病に倒れ——結局、何を残せたと言うのだろうな」

 虚しい瞳で闇をすくい上げ、男は両手を見つめる。その手の中には何も残っていない。金も名誉も、戦いさえも、死んでしまえば手のひら分の意味合いも残さない。

 それを虚しいと笑って、ギルベルトはやっとヴィルを見下ろした。英雄であったはずの男は、疲れ果てた顔をしている。駆け抜けるように過ぎていった人生を悼むように、その目は遠くを見つめていた。

「とうさんは、後悔しているの。俺たちのほうを見なかったこと」
「どうだろうな……後悔はしていない。そう言い切れるほどのものも残せなかった。そのことは後悔している。ヴィルヘルム、お前には憎しみしか残してやれなかったようだしな」

 どうしてそんな風に言うのか。幼い訴えに耳を貸さず、父であったはずの男は遠い闇を見つめ微笑んだ。かつて存在した何かを懐かしむような笑顔は、あまりにも空虚だった。

「いつか変われると思っていたんだ。家族のために戦い続け、家を潤していれば誰も苦しまない。そう信じていた頃は楽だったよ。目の前の任務だけに集中していればよかった。だが時が過ぎるに従って、私の考えは間違っていただろうかと……お前に憎しみの目を向けられるようになって、特にそう思うようになった」

 夢に見る光景のような儚い光を瞳に宿し、彼は前を向いた。何かを犠牲にするとしても、何故それが家族だったのか。わからない。首を横に振る子供に向かって、大人は寂しいため息を漏らす。


「何故、家族と距離を置いたか。そんな理由なんて大したものじゃなかった。私自身、家族というものに縁が薄い人間だったから。父は若くして死に、母も既に亡く。没落して行くだけの家を守ることでしか、自分を守れない。そんな人間だったから」

 そんな人間が、家族を持っていいはずがなかった。悔恨の呟きを闇に落とし、男は届かないものを求めるように手を伸ばす。けれどその手には相変わらず何もなく、掴めるだけの余分も存在しない。

「傷つくのが怖かった。そんな程度の想いでしか、人に関われない人間だった。だから家族を持っても、どう接して行けばいいのかわからなかった。ただ金を稼ぐだけしか出来ない。そんな父親になりたかったわけではないのだけど」

 だが、気づけばそんな風な父親になっていた。子供を抱き上げることも、頭を撫でてやることさえできない。理屈では理解していたのだと、父になりきれなかった男は語る。そんな男を、子供は何も言わずに見上げることしかできない。

「だから、せめて少しはマシな父親になろうと思ったんだ。けれど、これも代償なのかな。そう思った矢先に病が見つかり、私の命は終わった」

 ゆらゆらと白い花びらが舞い散る。葬儀の祭壇に供えられた花の分だけ、流された涙の分だけ。彼の人生は報われたのだろうか。家族に向き合えず、向き合う時間も奪われて、英雄は結局、幸せになれたのだろうか。

「英雄になれば、お前にも少しは認めてもらえると思ったのだけどな」

 見込み違いも甚だしかった。乾いた笑いで軽く流し、嘆きの白い花びらを踏みにじるのは、他ならぬ英雄自身だった。彼は今度こそヴィルを振り返ると、そっと手を差し出した。

「これが、お前が追いかけようとした父親だ。何も残せず、何も得られなかった男の末路だ。お前は、どうかお前だけはこんなものになってくれるな。闇を遠ざけたければ、目を開くだけでいい」
「とうさん」

 幼い手が、大きな手に触れようとした。だがその手は触れた瞬間、何事もなかったかのように空を切る。もう存在しないのだと、そう知らしめる手の空白にギルベルトは笑う。

「英雄である私はここまでだ。私がお前に与えてやれなかったものを、父である私がお前に返そう。その想いをどう扱おうとお前の自由だ。ヴィルヘルム、お前にはそれを踏みにじる権利があるのだから」

 ゆっくり、一歩ずつ。男は闇の向こうへと遠ざかって行く。ヴィルは手を伸ばし、いつかと同じように袖を掴もうとした。だが手はいつかと同じくすり抜けてしまう。涙をこぼし唇を噛む子供に、英雄である男は最後に笑いかける。

「私がお前に与えてやれるものは、そんなものだけだ。お前の後悔は私が一緒に持って行ってやる。だからせめて——お前はお前の望むように生きろ」

 ——目を開くと、光が見える。それだけのことなのに、何故かひどくまぶたが熱い。いつしか闇は遠ざかり、目の前には見覚えのある村の光景が広がっていた。

「おい、少年。生きているか」
「え、あ……」

 目の前で手を振られ、ヴィルは緩慢に顔を上げた。そこには心配顔の魔法使い。そして——

「急に動かなくなったっていうから、驚いたよ。気分はどうだい。気持ち悪かったりとかは?」
「……っ」

 そこにはこちらを見つめるギルベルトがいた。そのことに安堵するよりも先に、感情が溢れ出す。両手で顔を覆い、ヴィルは嗚咽をかみ殺す。

 理由なんてどうでもよかった。ただ、ここにいて話すことができれば、いつかは変わったはずだったのに。それだけのことさえもう、手の届かない場所になってしまった。

「とうさん」

 やっぱりあなたが嫌いだ。愛しているなんて言葉は欲しくない。ただ生きてそばにいてくれる。それだけが一番大切だったのに。

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