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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

3.強がりばかりも言えなくて

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 どこをどう走ったのか、帰り道などそもそも記憶していない。こんな風にかき乱されてしまった自分が悔しくて、ヴィルは乱暴に目を拭った。立ち止まり、息を吐き出したところで、心にある鈍い痛みは消えてくれない。

 ——父に会えて嬉しくないのか。

 無神経に放たれた言葉が、ここまで勘に触るのだと初めて知った。そう、普通の親子であったなら、死んだはずの親に会えて嬉しくないはずはないのだ。その程度のことなど、深く考えるまでもなく理解できた。魔法使いを責めるのも筋違いだということも、わかっている。

 だが、ヴィルにとってその『普通』は、あまりにも遠いものだった。溢れそうになる嗚咽をこらえ、あてもなく木々の間を歩き出す。父の死を悲しいとさえ言えない。たったそれだけのことが、ヴィルにはどうしてもできなかった。

 記憶している父は、いつも後ろ姿だった。呼んでも振り返ってくれることもない。ただ「行ってくる」と短く告げ、戦いへと赴くだけ。たまに帰ってきても、ヴィルたちに目を向けることもなかった。

 そんな父だったから、ヴィルは彼に愛されていたという記憶がない。頭を撫でてくれたことも、抱き上げてくれたことも。確かにそれがあったという記憶さえ、少年の中には存在していなかった。

 だからといって、父の死を悲しまない理由にはならない。常識的な話だけではなく、悲しむ妹の姿を見ていれば、ヴィルの態度が異常であるのは確かだった。どうしてこうなってしまったのか。訳もわからず悲しくなって、ヴィルが再び走り出そうとした時だった。

「——え」

 ずるり、と。足場がかき消える。気づかないうちに断崖にたどり着いていた。そんな状況確認などなんの意味もない。ヴィルは、なす術なく断崖から滑り落ちていく。

 わあ、とか叫んだかもしれない。実際はそんな気楽なものではなかったのだが。落ちると理解した瞬間、必死に手を伸ばしていた。しかしもちろん、落ちていくだけのわずかな時間で、何か掴めるわけでもなく。悲鳴とともに落ちていく少年は、ぎゅっと目を瞑り——

「手を掴め!」

 大きな叫びが上から降り注ぐ。同時に手首を強く捕まれ、そのまま勢いよく引っ張り上げられる。訳もわからずその腕にしがみつくと、ほっとしたような声が後ろ頭を撫でた。

「ああ、びっくりしたぁ。まさか落ちるなんて。あと少し遅かったら危なかったよ」
「それは……それは、私を責めているのか? わた、俺が悪いのか?」
「誰もそんなこと言ってないだろー。相変わらずの自虐だね、イクストル。そんなだからペラペラなんだよ」
「誰が薄っぺらの紙っぺらだ。うるさいぞ、この最弱の戦闘狂が!」

 あはは、と柔和に笑って、彼はそっとヴィルを地面に下ろす。目を白黒させている少年は、突然の展開に言葉を失うしかない。なぜ、とも、どうして、とも言えないこの状況で、目の前の青年だけはやたらに朗らかだった。

「いやあ、そんなにけなされると嬉しくなっちゃうなぁ」
「この、へんた……ううぅん。いや、この特殊な趣味趣向野郎が。目の前の子供が固まっているではないか」
「あ、そうだった。ねえ、君。大丈夫かい?」

 眉尻を下げる顔は温厚そのもので、戦闘強打の特殊な趣味趣向とは無縁そうだった。いや、そもそも、目の前の男が父であるなら、そんな性格であるはずがない。だが、父にしか見えないその男は、ニコニコ笑いながらヴィルの頭を撫でてくる。

「お、怪我はなさそうだね。ちょっとびっくりしちゃったかい。でもダメじゃないか、こんな場所で遊んでたら親御さんが心配するよ」

 親はお前だ。と叫びそうになるのをぐっとこらえる。どういう魔法かは知らないが、どうもこの父は本当にヴィルを認識していないらしい。過去、そして記憶。そんな言葉が頭の中を乱舞し、少年は耐えきれずにうずくまる。

「え、な。ど、どうしたの君。腹痛? 激痛⁈ あわわどうしよう、こういう時は胃薬……!」
「落ち着け胃薬を私に投げるな。やめろギルギル! とりあえず、馬のところに戻るぞ。話はそれからだ」

 あわあわと動揺しているギルベルトを一喝し、イクスは素早く腕を横に薙ぐ。すると空間が歪んだように反転し、瞬く間に元いた道へと戻ってくる。少し先では、黒馬きょとんとした目で現れた一同を眺めていた。

「わーすごーい。さすが魔法使い。一瞬でアンヌのところに戻って来られるとはまさに奇跡!」
「お前とりあえずその軽い口を閉じろ。話がさらに混乱する。そして魔法は奇跡ではない」

 不毛なやりとりの下で、ヴィルはなんとか立ち上がる。その間も大人たちは、奇妙に緩い会話を続けていた。訳がわからない。そう言ったところで状況自体意味不明なのだから、理解できるものがあるはずもなく。

「ほんとうに……なんなんだよこれ……真面目に意味がわかんない……」

 力なく項垂れた少年に、黒馬だけが気遣わしげな目を向けてくる。そんなこんなで、ヴィルにとっては受難でもある、意味不明な数日が幕をあげたのだった。

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