やさしい魔法と君のための物語。

雨色銀水

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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

1.書庫の記憶と古びた羅針盤

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「ヴィルヘルム」

 指先が冷え切っていた。寒々とした空気に吐き出した息は白く濁る。ぼんやりと開かれたまぶたの下で、薄青い瞳に薄い膜がかかっていた。透明なそれが溢れて落ちる前に、ヴィルヘルムは乱暴に袖で目を拭った。

 かじかんだ手をこすり合せ、息を吹きかける。すると少しずつ、今までのことを思い返すだけの余裕が生まれた。英雄である父の死、聖堂の葬儀の光景。涙を流す人々と踏み散らかした白い花びら。そして出会った灰色の人物。

 そこまで思い出して、ヴィルは慌てて立ち上がった。しかし、冷えた身体は思った以上に言うことを聞かず、ふらつきそのまま床に倒れこむ。鈍い音がして、したたかに両手を打ち付ける。痛みに顔をしかめた少年は、呻きながらも顔を上げた。

「……まったく、どうして子供というのは簡単に転ぶのだ。我が家の床が抜けてしまうだろう」

 紙が擦れ、パラパラとページをめくる音がする。ヴィルから少し離れた書棚の前で、誰かが本をめくっていた。一心不乱、と言うには適当すぎる様子で本を眺める人物は、倒れたヴィルに無感情な言葉を向ける。

 冷たい声音ではないが、優しいとも言い難い。どうにも状況が掴めず、ヴィルは床に腰を落としたまま灰色の人物を見上げた。

「あんたは誰だ」
「お前に記憶力というものはないのか。確かに俺、……私は名乗ったと思うのだが」
「覚えていないんだから仕方ないだろ。それは俺の記憶力とはなんの関係もない」
「む……可愛げのない子供だな。ギルベルトはまともな躾をしなかったのか」

 むっと唇をへの字に曲げた灰色は、本を閉じると書棚に戻す。身体だけではなく、その指先も折れそうなほど細い。どうでもいいことばかりが気になって、ヴィルはいらいらと後ろ頭をかき回す。

「あんたは本当にギルベルトの知り合いなのか」

 確認、というには少々遅すぎる気もした。ヴィルはこの灰色が『父の友人』と口にしたことを記憶している。しかし、騎士団長として武勇を誇った父の知り合いにしては、その肩も首筋も折れそうなほどに細い。少なくとも、これで騎士だと言われても信じられるわけもなかった。

 少年の疑念に気づいているのだろう。ため息混じりに灰色は、腰に両手を当てた。見下ろしてくる瞳は険しさと無縁だったものの、決して歓迎している風でもない。軽く睨み返した少年に向かい、灰色の人物は言い聞かせるようにゆっくりとそれを告げた。

「ああ、そうだ。私の名前は、イクス・フラメウ。カーディス王国に仕える宮廷魔法使いであり、お前の父ギルベルトの友人でもある。ちなみにここは、私のアトリエ兼自宅だ」
「ご説明どうも。……で、その宮廷魔法使いさまが、俺に何の用なんだ」

 当然の帰結とも言える問いかけだった。床に座り込んだヴィルは、それ以上語らず『魔法使い』を自称した男を見上げた。

 確かにこの国に、魔法使いと呼ばれる存在がいるのは知っている。だがそんな非常識な存在が、ふらふらと他人の葬儀に足を運ぶものだろうか。世間一般に浸透する魔法使いの姿は、世捨て人の老人の姿がほとんどで、こんな三十にも届かない若者がそうだと言われてもにわかには信じられない。

 またもやヴィルの疑問を感じ取ったのか。明らかに渋い顔をした自称魔法使いは、すっと指先を部屋の奥に向けた。

「疑うなら見るがいい。——燃え上がれ」

 告げたのはたった一言だけ。わずかな間を置いて、奥に存在する暖炉から炎が吹き上がる。ごうっと音を立て煙突を駆け上った赤い火柱に、少年だけでなく魔法使いも目を見開いた。

「あ、しまった。やり過ぎてしまった!」

 慌てた様子で指を打ち鳴らすと、瞬時に炎はかき消える。しかし舞い散った火の粉が、周囲の書物に降りかかり、メラメラと炎が——

「あ、あああ——! おおれ、私のほんがあぁあああ!」
「いや、叫んでないで早く消せば」


 ——しばらく経って。

「……これで、私が魔法使いであることは理解できただろう?」
「ああ、あんたが間抜けだってことはよくわかった」
「ぐぬぅ……言うに事欠いて可愛げのない……!」

 気を取り直して椅子に腰掛けた魔法使いは、目の前の少年の態度に地団駄を踏んだ。さすがのヴィルも、この男がいかに無害であるかは理解できた。だからといって、信用するかは別問題であるものの。

「で、あんたは、俺に何の用があるんだ。まさか、誘拐とか」
「誘拐? お前は私に誘拐されるほど間抜けなのか」
「そういう問答しているわけじゃないだろ。目的は何だ、って聞いてるんだ」

 そう、先程から引っかかっているのはまさにそこだった。百歩譲って、この男が父の友人であると認めるとしても目的が見えないのだ。一体何の理由があって、ヴィルをここに連れてきたのか。

 それら疑問を含めた問いを再び投げかけ、少年は沈黙する。魔法使いは神妙に頷いてから、ごそごそと外套の内側から何かを取り出す。それをヴィルの目の前に差し出しながら、イクスと名乗った魔法使いは静かに語りかけてくる。

「お前に渡すものがあってな。これを、ギルベルトから預かったのだ」

 差し出されたもの、それは古びた皮表紙の本と小さな羅針盤だった。見慣れぬそれに戸惑ってイクスを見れば、彼はどこか憂鬱そうに二つの品を見つめている。

「これは、なんなんだ」
「ギルベルトの遺品だ。今となっては、な。お前に渡すよう生前頼まれていたのだ。どんな意味があるのかは……まあ、受け取ってもらえればわかる」

 軽くはない口ぶりに、受け取ることを躊躇した。だが静かに向けられたイクスの視線は、受け取ることを望んでいるようにも見える。ヴィルは息を吸い込むと、そっと手を伸ばす。

 迷いながらも、ためらいながらも、伸ばした指先が皮表紙と羅針盤に触れた。空気と同じようにひんやりとした二つを手に収めた瞬間、は起こった。

「え、なに」

 羅針盤が音を立てて回転を始める。ゆるやかに軽やかに、回り続ける針が一つの方向を示し出す。気づけば皮表紙の本が開かれ、虚空に浮かび上がる。
 羅針盤の針が示し出すのは、その本のページ。紙に刻まれた文字が輝きながら浮かび上がり、素早く回転したかと思えば、勢いよく羅針盤に吸い込まれていく。

「どうやら、始まったようだな」

 イクスは驚くこともなく、椅子から音もなく立ち上がった。舞い上がった羅針盤は、文字を巻き込みながら回転を続け、そして最後に——その針先をヴィルに向けた。

「さあ、行こう。お前の父が、お前を待っている」

 書斎の光景が遠くへと消えていく。なにも見えない、なにも聞こえない。遠ざかる暗闇の時間を、羅針盤が導く。走り抜けていく流星を追うように、飛んでいく意識はいつしかそこにたどり着く。

 ——ヴィルは目を閉じ、そして開く。すると目の前に、忘れることのない姿が佇んでいた。

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