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外伝「君と見上げた空は眩しくて」――ヴィルヘルム編
4:『あなた』が訪れる日を待ちながら
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とある日の昼下がり。王城の庭園を散策していたマリアベルは、ある異変に気付いた。
非の打ち所もないほどに、整えられた木々と草花。その先にある青々とした芝生の真ん中に——何故か、大きな穴が一つ、ぽっかりと空いていたのである。
いつもならば、そんな怪しいものは素通りするのだが。淑女の自負を持つマリアベルであっても、子供らしい好奇心は隠しきれない。様子を伺いながら、穴へと歩み寄った子供が見たもの。それは。
「……なに見てるんだよ」
深い穴の中に座り込む、目つきの悪い少年だった。泥だらけの黒髪に、砂まみれの服。薄青い瞳だけが、暗い穴の中でも爛々《らんらん》と輝いている。
予想外の光景に、幼いマリアベルはぽかんと口を開けてしまった。どういう状況か理解できない。何故この少年は、王城の庭園の穴の中で座り込んでいるのか——?
「あ、あなた。ここでなにをしているの……?」
問いかけてみたものの、その声は小さく震えていた。どう見ても不審者でしかない年上の少年を見下ろして、マリアベルはぎゅっと服の裾を握る。
そんな少女を見上げながら、少年は面白くなさそうに鼻を鳴らす。妙な話だが、それでも振る舞いは粗暴には映らない。そんな彼は薄青い瞳を細め、不機嫌さを隠すことなく言葉を返した。
「……この穴、実は落とし穴でな」
「え。そ、そうなの……?」
「そう。……俺が掘ったんだけど」
「え?」
まさか、自分で掘った穴から出られなくなっているのか?
当然の疑問が、マリアベルの頭をかすめる。だがそれを口に出すより早く、少年の口からため息が漏れる。重く響いたそれは何と言うべきか。とにかく面倒そうな感じしかしなかった。
「出られなくなったわけじゃないぞ。一回外に出たんだ」
「……う、うん?」
「けど、丸見えじゃ落とし穴の意味ないだろ。だから上に色々被せたんだ。それで上手く隠れたから、安心してちょっと横で寝てたら——」
「……おちたの? じぶんでつくった『おとしあな』に」
そしてさらに踏み込むなら、少年はやはり出られないのだ。自分で掘った穴なのに。
さすがに呆れ果てて、マリアベルは穴の縁から遠ざかろうとした。しかしその瞬間、『何か』が足を掴み——
「っ! きゃあああぁあ⁉︎」
少女は踏ん張ることもできずに穴へと落下した。そのまま底に激突するかと思いきや、落下の衝撃は大して感じられない。瞬きながら起き上がったマリアベルは、下敷きになっている『それ』に目を向ける。
「う……ぐえ……重い……」
「おもいって、『しゅくじょ』にむかってなんてこというのよ」
「淑女だからって体が軽いなんて大きな間違いだ。それにお前なんて『淑女』どころか、まだガキじゃないか」
「……あなた、サイテーね。『しんし』はそんなこといわないわよ」
「俺はそもそも紳士じゃない。騎士だし。そんなこともわかんないのバッカじゃないか?」
「……ば、バカじゃないもん!」
足元の少年を蹴り飛ばし、マリアベルは穴から出ようと手を伸ばす。けれど悲しいかな、子供の身長では少しだけ手が届かない。
呆然とするマリアベルの背後で、少年が軽く吹き出す。明らかにバカにされている。そう気づいた少女の顔から、一気に血の気が引いていく。
「はは、やっぱりバカだ。俺でも届かないのに、お前が届くわけないだろ?」
「……う……うるさいうるさいうるさいぃいい——‼︎」
マリアベルは叫ぶなり、少年に飛びかかった。無茶苦茶に腕を振り回し、大声で喚き続ける。
「お……おい! ちょ、落ち着けよ!」
「知らない知らない……もうバカバカうわああぁああん——!」
喚き声は最後には泣き声に変わり、マリアベルは顔を覆いうずくまった。
さすがに少年も言葉を失い、オロオロと視線を彷徨わせる。手の伸ばそうとして、結局引っ込めて。頭をかきながらため息をついた彼は、唇を噛み締めると少女の肩に手を置いた。
「おい」
「う……うるさ……あなたなんてキライ……!」
「わかったから。悪かったって……嫌いでもなんでもいいから。とりあえず泣き止め、な?」
「じ……じらない……うう!」
「あー……仕方ないな」
マリアベルがさらに深く顔をうつむかせた時だった。パンっ、と。耳元で軽い音が響く。思わず顔を上げた少女は——目の前で光輝く花の姿に息を止めた。
「きれいだろ。これさ、魔法使いに頼んで作ってもらった魔法の花なんだ」
光を集めて形作ったような、自ら発光する不思議な花。それを両手いっぱいに抱えて、少年は笑っていた。その笑顔は少し前とはうって変わって、ひどく温かくとても優しい。
花の向こうで微笑む少年。その姿に目を奪われたマリアベルは、いつしか泣き止んでいた。
「……きれい」
「そうか。じゃあ……これはお前にやるよ」
「え……」
何気ない調子で花を手渡された少女は、涙に濡れたままの目を瞬かせる。どうして、そう呟けば、少年はバツの悪そうな顔で髪をかき回した。
「俺が悪かった。ちょっと心細かったから、ついつい余計な意地悪をしてしまった。……ごめん」
頭を下げる少年を前にして、今度はマリアベルが慌て始める。いくらなんでも、年上の少年に頭を下げられるのは落ち着かない。花を胸に抱き寄せて、必死に言葉を紡ぐ。
「べ……べつにもうないてないわ。だから、そんなふうにあやまらないで」
「だけど」
「もう! おとこのくせにうじうじしないの! おんなのこのいうことはぜったいなんだから、もうそういうことしないの! わかった⁉︎」
「え、あ……はい」
指を突きつけられた少年は、気圧されたように身を仰け反らせる。その様子をじっと見つめたマリアベルは——堪え切れなくなって笑い声を立て始めた。
「な、なんだよ。なんで笑うんだよそこで⁉︎」
「だ……だっておかしいんだもん……あなた、わたしよりおおきいのに!」
「……う、うるさいなぁ……なんで謝っただけでこうなるんだよ」
不貞腐れる少年を、少女は笑顔で見つめていた。それは確かに存在する温かな光景で、気づけば二人は笑い合っていた。楽し気な笑い声が空に向かうように、優しく響いていく。
「……あのね、わたしは……マリアベル。あなたのなまえ……おしえてくれる?」
「ん? ああ、俺はヴィルヘルムだ」
「……ヴィルヘルム……いいなまえね」
大切な何かを抱きしめるように、マリアベルは手にした花を胸に引き寄せた。心が穏やかになるような、爽やかな香りが広がり——その瞬間、彼女は確かに見つけた気がした。
「……おい……! ヴィル⁉︎ まさかと思うが、そこに落ちてるんじゃないだろうな⁉︎」
「あ、イクスだ。おーい! 遅いぞ早く助けろー!」
その笑顔はあまりにも眩しくて。
いつしか、マリアベルはその笑顔だけを求めるようになっていた——
——————
————
——
「……済まない……マリアベル」
その言葉を耳にしたマリアベルは、自分の婚約者が何を決めたのか——何を定めてしまったのか理解した。
彼は——ヴィルヘルムは、本当に魔法使いを大切に思っていた。かつて絆は、幼かった彼をギリギリのところで繋ぎ止めていた。それは成長した今も変わらず、その想いは美しいものとして彼の中に存在している。
だからこそヴィルヘルムは、魔法使いを殺した自分を許すことができないのだ。罪を背負うというなら、まだ救いはあった。けれど彼が望んだのは——思い出ごと自らを墓に埋めて、永遠に未来から遠ざかることだった。
そう理解していても、マリアベルは何も言うことができなかった。自分が側にいるからと、そう告げることは容易い。しかしそう告げた上で拒絶されてしまったら、彼女は本当にヴィルヘルムを失うしかないのだ。
マリアベルが恐れているのは、ヴィルヘルムが真の意味で消えてしまうこと。
表面上は穏やかに見えたとしても、彼の心は今——些細な一言で砕け散るほどにボロボロだった。
「よしてくださいな。あなたが決めたのなら、わたくしは何も言いません。あなたにそんな風に言われてしまったら、私は一生負け続けているようなものではないですか」
口から出た言葉は、決まり切ったように行儀のいいものでしかない。それでも、ヴィルヘルムは笑ってくれた。いつかとは似ても似つかない、消え入りそうなほど儚い笑顔で。
「……マリアベル……ありがとう」
その笑顔を目にしたマリアベルは、意味もなく叫び出したくなった。
わかっていた。思いとは裏腹に、マリアベルは静か笑顔を浮かべる。敵わなかったのは結局、肝心なところで踏み込めなかった自分の手落ちなのだと。
「ええ……でも、覚えていて。わたしはいつまでも」
言葉は、それでも指先ほども伝わらない。だが伝えることに意味があると言うのなら、何度でも叫ぶだろう。
——いつまでだって、あなたの心が戻ってきてくれることを願っています。
わたしにとってあなたは、『やさしい時間』そのものなのだから。
非の打ち所もないほどに、整えられた木々と草花。その先にある青々とした芝生の真ん中に——何故か、大きな穴が一つ、ぽっかりと空いていたのである。
いつもならば、そんな怪しいものは素通りするのだが。淑女の自負を持つマリアベルであっても、子供らしい好奇心は隠しきれない。様子を伺いながら、穴へと歩み寄った子供が見たもの。それは。
「……なに見てるんだよ」
深い穴の中に座り込む、目つきの悪い少年だった。泥だらけの黒髪に、砂まみれの服。薄青い瞳だけが、暗い穴の中でも爛々《らんらん》と輝いている。
予想外の光景に、幼いマリアベルはぽかんと口を開けてしまった。どういう状況か理解できない。何故この少年は、王城の庭園の穴の中で座り込んでいるのか——?
「あ、あなた。ここでなにをしているの……?」
問いかけてみたものの、その声は小さく震えていた。どう見ても不審者でしかない年上の少年を見下ろして、マリアベルはぎゅっと服の裾を握る。
そんな少女を見上げながら、少年は面白くなさそうに鼻を鳴らす。妙な話だが、それでも振る舞いは粗暴には映らない。そんな彼は薄青い瞳を細め、不機嫌さを隠すことなく言葉を返した。
「……この穴、実は落とし穴でな」
「え。そ、そうなの……?」
「そう。……俺が掘ったんだけど」
「え?」
まさか、自分で掘った穴から出られなくなっているのか?
当然の疑問が、マリアベルの頭をかすめる。だがそれを口に出すより早く、少年の口からため息が漏れる。重く響いたそれは何と言うべきか。とにかく面倒そうな感じしかしなかった。
「出られなくなったわけじゃないぞ。一回外に出たんだ」
「……う、うん?」
「けど、丸見えじゃ落とし穴の意味ないだろ。だから上に色々被せたんだ。それで上手く隠れたから、安心してちょっと横で寝てたら——」
「……おちたの? じぶんでつくった『おとしあな』に」
そしてさらに踏み込むなら、少年はやはり出られないのだ。自分で掘った穴なのに。
さすがに呆れ果てて、マリアベルは穴の縁から遠ざかろうとした。しかしその瞬間、『何か』が足を掴み——
「っ! きゃあああぁあ⁉︎」
少女は踏ん張ることもできずに穴へと落下した。そのまま底に激突するかと思いきや、落下の衝撃は大して感じられない。瞬きながら起き上がったマリアベルは、下敷きになっている『それ』に目を向ける。
「う……ぐえ……重い……」
「おもいって、『しゅくじょ』にむかってなんてこというのよ」
「淑女だからって体が軽いなんて大きな間違いだ。それにお前なんて『淑女』どころか、まだガキじゃないか」
「……あなた、サイテーね。『しんし』はそんなこといわないわよ」
「俺はそもそも紳士じゃない。騎士だし。そんなこともわかんないのバッカじゃないか?」
「……ば、バカじゃないもん!」
足元の少年を蹴り飛ばし、マリアベルは穴から出ようと手を伸ばす。けれど悲しいかな、子供の身長では少しだけ手が届かない。
呆然とするマリアベルの背後で、少年が軽く吹き出す。明らかにバカにされている。そう気づいた少女の顔から、一気に血の気が引いていく。
「はは、やっぱりバカだ。俺でも届かないのに、お前が届くわけないだろ?」
「……う……うるさいうるさいうるさいぃいい——‼︎」
マリアベルは叫ぶなり、少年に飛びかかった。無茶苦茶に腕を振り回し、大声で喚き続ける。
「お……おい! ちょ、落ち着けよ!」
「知らない知らない……もうバカバカうわああぁああん——!」
喚き声は最後には泣き声に変わり、マリアベルは顔を覆いうずくまった。
さすがに少年も言葉を失い、オロオロと視線を彷徨わせる。手の伸ばそうとして、結局引っ込めて。頭をかきながらため息をついた彼は、唇を噛み締めると少女の肩に手を置いた。
「おい」
「う……うるさ……あなたなんてキライ……!」
「わかったから。悪かったって……嫌いでもなんでもいいから。とりあえず泣き止め、な?」
「じ……じらない……うう!」
「あー……仕方ないな」
マリアベルがさらに深く顔をうつむかせた時だった。パンっ、と。耳元で軽い音が響く。思わず顔を上げた少女は——目の前で光輝く花の姿に息を止めた。
「きれいだろ。これさ、魔法使いに頼んで作ってもらった魔法の花なんだ」
光を集めて形作ったような、自ら発光する不思議な花。それを両手いっぱいに抱えて、少年は笑っていた。その笑顔は少し前とはうって変わって、ひどく温かくとても優しい。
花の向こうで微笑む少年。その姿に目を奪われたマリアベルは、いつしか泣き止んでいた。
「……きれい」
「そうか。じゃあ……これはお前にやるよ」
「え……」
何気ない調子で花を手渡された少女は、涙に濡れたままの目を瞬かせる。どうして、そう呟けば、少年はバツの悪そうな顔で髪をかき回した。
「俺が悪かった。ちょっと心細かったから、ついつい余計な意地悪をしてしまった。……ごめん」
頭を下げる少年を前にして、今度はマリアベルが慌て始める。いくらなんでも、年上の少年に頭を下げられるのは落ち着かない。花を胸に抱き寄せて、必死に言葉を紡ぐ。
「べ……べつにもうないてないわ。だから、そんなふうにあやまらないで」
「だけど」
「もう! おとこのくせにうじうじしないの! おんなのこのいうことはぜったいなんだから、もうそういうことしないの! わかった⁉︎」
「え、あ……はい」
指を突きつけられた少年は、気圧されたように身を仰け反らせる。その様子をじっと見つめたマリアベルは——堪え切れなくなって笑い声を立て始めた。
「な、なんだよ。なんで笑うんだよそこで⁉︎」
「だ……だっておかしいんだもん……あなた、わたしよりおおきいのに!」
「……う、うるさいなぁ……なんで謝っただけでこうなるんだよ」
不貞腐れる少年を、少女は笑顔で見つめていた。それは確かに存在する温かな光景で、気づけば二人は笑い合っていた。楽し気な笑い声が空に向かうように、優しく響いていく。
「……あのね、わたしは……マリアベル。あなたのなまえ……おしえてくれる?」
「ん? ああ、俺はヴィルヘルムだ」
「……ヴィルヘルム……いいなまえね」
大切な何かを抱きしめるように、マリアベルは手にした花を胸に引き寄せた。心が穏やかになるような、爽やかな香りが広がり——その瞬間、彼女は確かに見つけた気がした。
「……おい……! ヴィル⁉︎ まさかと思うが、そこに落ちてるんじゃないだろうな⁉︎」
「あ、イクスだ。おーい! 遅いぞ早く助けろー!」
その笑顔はあまりにも眩しくて。
いつしか、マリアベルはその笑顔だけを求めるようになっていた——
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「……済まない……マリアベル」
その言葉を耳にしたマリアベルは、自分の婚約者が何を決めたのか——何を定めてしまったのか理解した。
彼は——ヴィルヘルムは、本当に魔法使いを大切に思っていた。かつて絆は、幼かった彼をギリギリのところで繋ぎ止めていた。それは成長した今も変わらず、その想いは美しいものとして彼の中に存在している。
だからこそヴィルヘルムは、魔法使いを殺した自分を許すことができないのだ。罪を背負うというなら、まだ救いはあった。けれど彼が望んだのは——思い出ごと自らを墓に埋めて、永遠に未来から遠ざかることだった。
そう理解していても、マリアベルは何も言うことができなかった。自分が側にいるからと、そう告げることは容易い。しかしそう告げた上で拒絶されてしまったら、彼女は本当にヴィルヘルムを失うしかないのだ。
マリアベルが恐れているのは、ヴィルヘルムが真の意味で消えてしまうこと。
表面上は穏やかに見えたとしても、彼の心は今——些細な一言で砕け散るほどにボロボロだった。
「よしてくださいな。あなたが決めたのなら、わたくしは何も言いません。あなたにそんな風に言われてしまったら、私は一生負け続けているようなものではないですか」
口から出た言葉は、決まり切ったように行儀のいいものでしかない。それでも、ヴィルヘルムは笑ってくれた。いつかとは似ても似つかない、消え入りそうなほど儚い笑顔で。
「……マリアベル……ありがとう」
その笑顔を目にしたマリアベルは、意味もなく叫び出したくなった。
わかっていた。思いとは裏腹に、マリアベルは静か笑顔を浮かべる。敵わなかったのは結局、肝心なところで踏み込めなかった自分の手落ちなのだと。
「ええ……でも、覚えていて。わたしはいつまでも」
言葉は、それでも指先ほども伝わらない。だが伝えることに意味があると言うのなら、何度でも叫ぶだろう。
——いつまでだって、あなたの心が戻ってきてくれることを願っています。
わたしにとってあなたは、『やさしい時間』そのものなのだから。
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