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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編

4-4.身勝手でも幸せは幸せで。

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 朝が来ても、目を開かなければ永遠に眠っていられる。無意味なくらいの現実逃避をしていると気付いていた。しかし、今のキールにとって眠りは幸いだった。目を閉じている限り、心は現実を見ずにいられる。

 幼い子供のように身体を丸めて、キールはベッドで眠りに沈んでいた。今は、せめて今だけは何も見ずにいたかった。たとえ、時間の経過が状況を悪化させるのだとしても。あるいは、明確な意味で全てが終わってしまうのだとしても。

 身勝手なのは、理解していた。フラメウと再会した夜。ノヴァを振り切るように家へ戻ると、キールはベッドに潜り込んだ。まるで子供みたいだ。意識の表層はそう断罪していた。けれど無意識の部分は、来るべき終焉に怯え続けるだけだった。

「キール、ちゃん。朝だよ。起きて」

 名前を呼んで、身体を揺さぶられる。わかっていた。無視したとしても現実が消えるはずもないことは。それでもキールは眠りにしがみついていた。困難な現実の解決法なんて、魔法を使っても考えつかない。

「起きて。じゃないと、全部ダメになっちゃうよ」

 わかっている。わかっているから、もう放っておいてくれないか。全部と言えるほどのものなど、キールは持っていない。ここに至るまでの道筋で、多くのものを手から溢れさせてしまった。どれほど望んでも二度と手に入らないものを、失くしてしまったのに。

「そうなの。だけど、キールちゃんはここにいるじゃない」

 ここは、確かに最後の居場所だった。どうすることも出来ない苦しみを抱え、魔法によって狂ったキールを受け入れてくれた人たち。けれど、それだけだ。失ったものに比べれば——そこまで考えたキールの頰を、小さな手が叩く。

「そんなの、比べるものじゃないよ。失くしちゃったものが、きれいに見えるのは。もう手に入らないからなんだって。でも、キールちゃんは、ここにいて。ここでいろんなものをもらったんじゃない。それは、意味のないことなの?」

 わからないんだ。目を閉ざしたまま答える。フラメウはきっと、自分《キール》だけでなく、それに連なる様々なものをも壊そうとするだろう。だが、それはフラメウにとっては当然の復讐なのではないか。

 キールは、フラメウから命を奪おうとした。それは変え難い事実で、変わることのない真実だった。何故、今になってフラメウが現れたのかはわからない。けれど、彼の抱く怒りに正当性がないとはいえないのだ。

「だったら、キールちゃんは。このままフラメウに殺されてもいいの」

 それで終わりでも、いいかも知れない。投げやりな感情を辿りながら、キールは眠りの中で笑った。他を巻き込まないやり方は、たぶんそれだけだ。フラメウの望みを叶えるために、今度はキール自身の命を捧げる。

「そんなの、ちがうよ……だって、キールちゃん。今、泣いてるじゃない」

 頰に、温かい雫が伝っていた。小さな手がそれを拭うのを、キールは虚ろな瞳で見つめる。気づけば、とっくの昔に目は覚めていた。理解していなかったのは、眠りたいと願った魔法のなせる技か。

 それでも一度《ひとたび》目覚めた心は、ここから遠ざかることはなかった。

「わからないんだ。たぶん、いやきっと、このままでいたら色んなものを巻き込んでしまう。僕はどうしたらいい? フラメウと戦うなんて、僕には出来ない。以前だって、彼の不意をつけたから出来たことで。僕の力じゃないんだ……だって、僕は出来損ないだから」
「ねえ、キールちゃん。出来損ないって、そんなにわるいことなのかな」

 ベッドの端に腰掛けて、ノヴァはキールを見下ろした。幼い瞳は変わらぬ無邪気さを保ったまま、どこか大人びた気配も漂わせる。瞬いた青年に少しだけ笑って、少女は一つの物語を語り始める。

「むかし、昔のことです。あるところに一人の魔法使いがいました。彼女は、とても力の強い魔法使いで……願ったことはなんでも叶えることができました。どんな病気を治すことも、壊れてしまった大事なものを治すことだって出来た。だからみんな、彼女のことをとても大切にしてくれました。本当に、大切にしてくれたんです」

「それでも、彼女は満たされませんでした。色んな人から感謝されても、様々な人から崇拝されても……彼女は孤独でした。どんなに望んでも、彼女が本当に欲しいものだけは手に入らなかったんです。彼女はただ、ずっとそばにいてくれる誰かが欲しかった」

「そう、魔法使いというものは、孤独なものなのです。幼いうちに親から引き離され、孤独というものを魂に刻み込む。それが魔法使いとなるための儀式でした。だからなのでしょうか。魔法使いはどこまで行っても孤独と無縁ではいられませんでした。どんなに望んでも求めても、人は彼女を置いて去ってしまう」

「魔法使いとなった者には、一つの祝福が授けられます。それが、永遠に近い命です。だから、どんなに心を通わせたとしても、いずれ人は去ってしまう。彼女はそれに絶望しました。だからこそ、を生み出そうとしたのです」

「しかしそれは、魔法使いの掟に反すること。世界の理に逆らえば、彼女だけでなく生み出した存在も消されることでしょう。だから彼女は一つの賭けをしました。それは子をわざとということでした。そうやって世界を騙し、彼女は——一度目の賭けに勝ちました」

「そして、彼女はただ一つの存在を得ました。生み出した小さな命に『アステリアノーヴァ』の名を与え、短くない時間を共に過ごしたのです。しかし、時間が経つに従い、彼女は思い始めたのです」

「——この子に、こんな理不尽を強いるのは、間違いではないか?」

「幼い子も、いつしか成長をしていきました。自分と他者の違いに気づき、戸惑い……そして悲しみ。そんな子供の姿に胸を痛めた彼女は、再び賭けに出たのです。それは子供を本当の意味で人間に創り変える……だけど」

「結果だけを言えば、その試みは失敗しました。彼女は理によって消され、残された子も不完全なまま放逐されたのです。そして子は一人彷徨い続け——」

 長い語りを終え、ノヴァは静かに微笑んだ。不安定に揺れる尻尾だけが、その心の内を語っているようだった。キールは何も言えずに息を吐き出した。どんな慰めも、無意味だろう。そしてきっと、ノヴァはそれを望まない。

「ノヴァは……出来損ないでした。それでも、おしさまはノヴァを確かに想ってくれていたんです。だから、わたしは。それを理由にして自分を殺してしまいたいとは思わないのです」
「君は、オーリオールに愛されていたんだな」
「そう、なんでしょうか。たぶん、普通の愛し方ではなかったけれど。それでも、おしさまの手は温かかった」

 誰かの手が温かいと知ることは、誰かに想いを傾けられたことがあるからだ。キールにも、戻ることのできる温かな記憶はあった。だがそれは決して二度と手に入らないと、諦めてしまえた場所でもあった。

「フラメウは、僕を憎んでいる」

 あの遠い日、黒い外套に降り積もる雪は白かった。血塗られることもなく、ただそばにいられた最後の記憶。それが温かだと認めてしまえば、二度と戻れなくなる。何故、壊したのかと。キールは己を責めるしかなくなるのだ。

「もし、何かを変えたいなら……キールちゃんは、フラメウともう一度会わなくちゃいけない」

 じっと見下ろし、ノヴァはそんな言葉を呟いた。キールが意味を理解するより前に、彼女はベッドから飛び降り歩き出す。振り返ることのない背中は、幼さ以上に決然としている。あまりにも強く、あまりにも脆いその姿。キールは身を起こすと、掠れた声で問いかけた。

「……フラメウは、僕の話を聞くと思うか」
「それは、キールちゃん次第だよ。もし、キールちゃんが誰かを信じられるなら……何か、は変わるかもしれないね」

 まるで預言者のように告げて、ノヴァはそっと扉を閉ざす。
 ひとり残されたキールは、自分の両手を見つめ、そこに咲く花ごと強く握りしめた。
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