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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編
1-5.傲慢な神さまは笑わない
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恐慌、そして混乱。その場を満たしている感情を言い表すとしたらそれだった。
ベッドの上の布団はあらかた放り投げられ、あるいは切り裂かれている。舞い上がる羽を払いのけ、キールは変わり果てた寝室に足を踏み入れた。そして息を呑む。自分の迂闊さと、見込みの甘さに歯噛みする。
「ううううう——ッ‼︎」
部屋の隅、タンスの影にうずくまる小さな姿は、手負いの獣のようだった。事実、そうだったのかもしれない。大きく見開かれた人ならざる瞳には、恐怖と拒絶だけが満ちている。
どうしたものか。思案と引き換えに得たのは、深い諦念だった。これは、そもそも自分《キール》の手に負えるものではない。呼吸する音だけでびくりと震える獣の耳に、その想いは一層強くなった。
「……きみ、は」
「うううう……! ガウぅううッ!」
言葉も、通じていないように見える。なまじ人の姿に近いだけに、獣でしかないそれは衝撃しかもたらさない。害意がないことを理解してもらう。たったそれだけのことすらも困難なのだろうか。
——いや、諦めるな、と。萎えそうになる気力を奮い立たせ、キールは半ば強引に足を動かす。
するとうずくまっていた少女は、歯をむき出し威嚇を始めた。ベッドを回り込み、タンスの方にゆっくりと進む。そのわずかな間に威嚇は激しさを増していく。キール自身、表情が強ばっていくのを隠すこともできなかった。暑くもないのに汗が一筋、顎を伝って落ちる。
「大丈夫、だ……」
少女から少し離れた場所に、キールは静かに腰を下ろす。その時にはすでに威嚇はやんでいたのものの、少女から見て取れる感情は——所詮、怯える獣のそれでしかなかった。
「ほら……大丈夫。怖くない、こわくない……」
「うーッ……!」
「……、何もしないから……さ、こっちに」
「グルルるる……っ‼︎」
手を差し伸べれば、鋭く払いのけられた。爪が掠めたのか、指先に血が滲む。痛みに顔をしかめながらも、キールはなんとか少女に近づこうとした。目をそらさず、少しずつ。だが、それでも——
「——フゥウウ……っゃああああああぁ——っ‼︎」
小さな身体が、野生の獣そのものの動きで突進した。キールは目を見開くことしかできず、勢いのまま後方へと吹き飛ばされる。ベッドに背中を打ち付け、弾みで後頭部を強打した。一瞬だけ意識が飛び、それも再び身体に感じた衝撃に引き戻される。そして——ぐらつく視界の中で、キールは『それ』を見た。
「——……、……」
そこにいたのは、一匹の猛獣だった。爛々と瞳を輝かせる『ソレ』を、あえて呼称するとしたなら——キールは浮かんだ考えを必死に打ち消す。しかし現実は冷徹に時間を進めていくだけだった。人に似たその猛獣が、今まさにキールの喉を食い破ろうとしているのは事実でしかなく——ふ、と、諦めが笑みを形作る。
「ああ、もう。僕はどうしていつも」
無意識だった。一度交わった瞳が、キールの中に残った『願い』を呼び覚ます。手の中で咲き始めたソフィラが、幻視の中で大きく枝葉を伸ばし始める。時が止まったように、彼も少女も動きを止めていた。その間も白い花びらは周囲を覆い尽くし、キールを、そして少女を包み込み——そして。
『僕は、心の檻を破壊する』
ただ、それだけの言の葉。キールの意識は、ソフィラの花とともに少女に同化する。
心を閉ざす檻を越え、深層心理にくさびを打ち込む。その行為こそ、キールの魔法である『精神操作』だった。精神に作用する魔法の中で上位に位置するものの、その危険性から禁忌とされた魔法の一つ。けれどそれが、出来損ないの魔法使いである彼《キール》が唯一行使できる魔法だった。
他人の精神に干渉し、心のあり方を歪める——身もふたもない言い方をすれば、意のままに操ることもできる。かつてキールはこの魔法を用いて、とある事件を起こした。結果、彼はたった一つの居場所を失い——その魔法は呪いと成り果てた。
にもかかわらず、何故今この時に。疑問を感じたのはキールの表層だけで、残りの意識は少女の心に溶け込んでいく。何もない、暗がりの海のように果てのない世界を漂う。むき出しの心を苛む冷たい温度に、キールはこの場にいながらにして全てを識る。
この少女には、何もない。心も感情も、そしてそれを満たすだけの思い出も。あまりにも空っぽな、虚ろな器だった。この少女は獣に成り果てたのではない。そもそも始めから、ケモノだったのだ。
『ならば、せめて僕にできること』
幻視の手で少女の心を握りこむ。キールはそれが罪だとは思わなかった。何もないなら、せめて苦しまない終わりを。それが唯一の救いだと信じ、彼は少女の心を握りつぶそうとした。
『ヤ、めて……』
声が聞こえた。聞き逃してしまいそうなくらい小さな、幼い声だった。思わず、キールは動きを止める。するとその声は、拙い言葉で一つの願いを描き始めた。
『こわ、い』
『きえたく、ナイ』
『いたい、よ』
『くるしいよ』
『やめ、テ』
『オネがい』
『——たす、けて……っ‼︎』
瞬間、キールの意識は少女と分離した。我に返ったキールが見たのは、泣きじゃくる少女と消えていくソフィラの花。のろのろと手を伸ばし、彼は泣き続ける少女の髪に触れた。そっと、出来る限り優しく頭を撫でれば、涙に濡れた瞳と目があった。
「……う……うう」
「……そうか」
ぽたりと、涙が雨のように落ちた。そうか、そうだよ。この少女は寂しかっただけなんだ。ただ、それを表す方法を知らなかった。それなのに——
「……ごめんな、怖い思いさせて。ちゃんと……助けてあげるから」
誓いのように告げて、もう一度頭を撫でる。
すると少女は今度こそ、大声を上げて泣き始めた。溜め込んだ全ての悲しみを、押し流すように。
ベッドの上の布団はあらかた放り投げられ、あるいは切り裂かれている。舞い上がる羽を払いのけ、キールは変わり果てた寝室に足を踏み入れた。そして息を呑む。自分の迂闊さと、見込みの甘さに歯噛みする。
「ううううう——ッ‼︎」
部屋の隅、タンスの影にうずくまる小さな姿は、手負いの獣のようだった。事実、そうだったのかもしれない。大きく見開かれた人ならざる瞳には、恐怖と拒絶だけが満ちている。
どうしたものか。思案と引き換えに得たのは、深い諦念だった。これは、そもそも自分《キール》の手に負えるものではない。呼吸する音だけでびくりと震える獣の耳に、その想いは一層強くなった。
「……きみ、は」
「うううう……! ガウぅううッ!」
言葉も、通じていないように見える。なまじ人の姿に近いだけに、獣でしかないそれは衝撃しかもたらさない。害意がないことを理解してもらう。たったそれだけのことすらも困難なのだろうか。
——いや、諦めるな、と。萎えそうになる気力を奮い立たせ、キールは半ば強引に足を動かす。
するとうずくまっていた少女は、歯をむき出し威嚇を始めた。ベッドを回り込み、タンスの方にゆっくりと進む。そのわずかな間に威嚇は激しさを増していく。キール自身、表情が強ばっていくのを隠すこともできなかった。暑くもないのに汗が一筋、顎を伝って落ちる。
「大丈夫、だ……」
少女から少し離れた場所に、キールは静かに腰を下ろす。その時にはすでに威嚇はやんでいたのものの、少女から見て取れる感情は——所詮、怯える獣のそれでしかなかった。
「ほら……大丈夫。怖くない、こわくない……」
「うーッ……!」
「……、何もしないから……さ、こっちに」
「グルルるる……っ‼︎」
手を差し伸べれば、鋭く払いのけられた。爪が掠めたのか、指先に血が滲む。痛みに顔をしかめながらも、キールはなんとか少女に近づこうとした。目をそらさず、少しずつ。だが、それでも——
「——フゥウウ……っゃああああああぁ——っ‼︎」
小さな身体が、野生の獣そのものの動きで突進した。キールは目を見開くことしかできず、勢いのまま後方へと吹き飛ばされる。ベッドに背中を打ち付け、弾みで後頭部を強打した。一瞬だけ意識が飛び、それも再び身体に感じた衝撃に引き戻される。そして——ぐらつく視界の中で、キールは『それ』を見た。
「——……、……」
そこにいたのは、一匹の猛獣だった。爛々と瞳を輝かせる『ソレ』を、あえて呼称するとしたなら——キールは浮かんだ考えを必死に打ち消す。しかし現実は冷徹に時間を進めていくだけだった。人に似たその猛獣が、今まさにキールの喉を食い破ろうとしているのは事実でしかなく——ふ、と、諦めが笑みを形作る。
「ああ、もう。僕はどうしていつも」
無意識だった。一度交わった瞳が、キールの中に残った『願い』を呼び覚ます。手の中で咲き始めたソフィラが、幻視の中で大きく枝葉を伸ばし始める。時が止まったように、彼も少女も動きを止めていた。その間も白い花びらは周囲を覆い尽くし、キールを、そして少女を包み込み——そして。
『僕は、心の檻を破壊する』
ただ、それだけの言の葉。キールの意識は、ソフィラの花とともに少女に同化する。
心を閉ざす檻を越え、深層心理にくさびを打ち込む。その行為こそ、キールの魔法である『精神操作』だった。精神に作用する魔法の中で上位に位置するものの、その危険性から禁忌とされた魔法の一つ。けれどそれが、出来損ないの魔法使いである彼《キール》が唯一行使できる魔法だった。
他人の精神に干渉し、心のあり方を歪める——身もふたもない言い方をすれば、意のままに操ることもできる。かつてキールはこの魔法を用いて、とある事件を起こした。結果、彼はたった一つの居場所を失い——その魔法は呪いと成り果てた。
にもかかわらず、何故今この時に。疑問を感じたのはキールの表層だけで、残りの意識は少女の心に溶け込んでいく。何もない、暗がりの海のように果てのない世界を漂う。むき出しの心を苛む冷たい温度に、キールはこの場にいながらにして全てを識る。
この少女には、何もない。心も感情も、そしてそれを満たすだけの思い出も。あまりにも空っぽな、虚ろな器だった。この少女は獣に成り果てたのではない。そもそも始めから、ケモノだったのだ。
『ならば、せめて僕にできること』
幻視の手で少女の心を握りこむ。キールはそれが罪だとは思わなかった。何もないなら、せめて苦しまない終わりを。それが唯一の救いだと信じ、彼は少女の心を握りつぶそうとした。
『ヤ、めて……』
声が聞こえた。聞き逃してしまいそうなくらい小さな、幼い声だった。思わず、キールは動きを止める。するとその声は、拙い言葉で一つの願いを描き始めた。
『こわ、い』
『きえたく、ナイ』
『いたい、よ』
『くるしいよ』
『やめ、テ』
『オネがい』
『——たす、けて……っ‼︎』
瞬間、キールの意識は少女と分離した。我に返ったキールが見たのは、泣きじゃくる少女と消えていくソフィラの花。のろのろと手を伸ばし、彼は泣き続ける少女の髪に触れた。そっと、出来る限り優しく頭を撫でれば、涙に濡れた瞳と目があった。
「……う……うう」
「……そうか」
ぽたりと、涙が雨のように落ちた。そうか、そうだよ。この少女は寂しかっただけなんだ。ただ、それを表す方法を知らなかった。それなのに——
「……ごめんな、怖い思いさせて。ちゃんと……助けてあげるから」
誓いのように告げて、もう一度頭を撫でる。
すると少女は今度こそ、大声を上げて泣き始めた。溜め込んだ全ての悲しみを、押し流すように。
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